プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

浄土宗の葬儀に出て真言宗と共通点が多くある事に気が付きました。
それは以下の点でした。

1、浄土宗では子供がなくなった場合なぜお地蔵さんを建てるのですか?
2、亡くなった人には阿弥陀さんが迎えに来るのになぜ追善供養を必要とするのですか?
3、葬儀の時、導師は引導を渡す必要があるのでしょうか?
4、お念仏と阿弥陀経の他に阿弥陀如来根本陀羅尼を読んだりするのは何故ですか?

新義真言宗では亡くなった方は阿弥陀さんがお迎えに来て蓮華座に乗せて西方極楽浄土に旅立つと和尚さんは御法話されました。そして地域によっては阿弥陀経を読んだりお念仏もします。阿弥陀講もあります。まるで浄土宗のようでした。
新義真言宗は浄土宗の影響を受けているのでしょうか?それならば両者ともなぜ塔婆を立てて追善供養したり白装束を着せて三途の川の渡し賃の六文銭を持たせたりするのでしょう?法要ごとに十三仏による裁判とは何でしょう?

さらに浄土宗は浄土真宗と大きく阿弥陀さんの本願についての解釈がことなるようです。
阿弥陀さんの本願に「全ての人を往生させる」と言っているのになぜ癖になるくらい常に口称念仏をしなければならないと法然さんは仰ったのですか?そこまでしなくても臨終には御来迎されるでしょうに。法然さんと親鸞さんでなぜここまで解釈がことなるのでしょう。
この宗派は現世で生きる希望を失った人がせめて来世で救われたいと願う人の為にあるような気がします。元気一杯希望一杯の人には向かない気がしました。

どなたか分かる方宜しくお願いします。

A 回答 (3件)

本当はかなり難しい問題ですが、素人にとって分かり易いのは、浄土宗は他力本願、真言宗は自力で悟りを得る、点が基本的に違います。



儀式その他は似たところはあるでしょうから、あまり気にすることはありません。
お経はそうでもない。
たとえば般若経は浄土宗では読みません。般若経は自力の御経だからです。
浄土宗、浄土真宗では阿弥陀様のい救っていただくことによりはじめて成仏できる、と教えますので、自力の御経を大切にするなど、とんでもない。ことです。
とはいえ、浄土宗でも般若経を読む例もあるとか最近聞きましたが、何か読めるような屁理屈を作っているのでしょう。
    • good
    • 1

宗派は多々ありますがご本尊を確認されてはいかがでしょうか。

空海は中国から大日如来をご本尊とする真言宗を日本に伝えました、京都の東寺講堂を拝観すれば分かるかと思いますが、阿弥陀如来等多くの仏様は大日如来のお膝下に有ります。日蓮宗とか浄土真宗は新興宗教なのです、その証拠に利権争いで分裂しているのが現実です。さらに念仏などで布教することが宗旨ですので手が付けられません、これを機会に見直してみたらいかがでしょうか。
    • good
    • 1

一から、全て答えようと思いましたが、面倒なのと、多分個々に答えても、


全体像がはっきりしてないと、伝わらないと思いましたので、一からは答えません。

まず、浄土宗にしろ、密教にしろ、同じ仏教です。
仏教の本質はサトリを開くことです。

でもサトリを開くには、長い年月がかかります。密教みたいに即身成仏ってことも
言われてますが、それは修行僧でも難しいです。

葬儀は本来、仏教とは関わりありません。

親鸞も道元も法然も、檀家とかかわり合うことを極端に嫌ってます。
なぜかと言うと、仏教はサトリを開いて仏になることが、目的ですから、、、

しかしながら、檀家を抱えなければ、食べていけません。
なので、仕方なく嘘も方便です。
亡くなった人に、成仏されました。っておかしいでしょ。
だって、お坊さんは、日々努力して成仏を目指してるのに、檀家の一般人が死んだだけで、
成仏できるんでしょうか?
そんなわけありません。嘘も方便です。

なので、同じ仏教だし、檀家への扱いは同じようになるのは、致し方ないのです。
サービス業と同じですから、、、

浄土宗の歴史は奥が深いです。

まず、浄土宗という概念は昔からありましたが、盛んになったのが、末法思想からでした。
平安時代末期です。「釈迦の教えにも限りがある。」という論点からです。
それが、ちょうど平安末期でした。

そこで、人気が出たのが浄土宗です。阿弥陀様が、まだ菩薩(人間と仏の間)のときに、私が仏となったら、皆が悟りを開きやすい極楽浄土を作り、そこへ、三遍私の名前を呼べば,誰でも行けるようにする。もし、できなかったら、仏にはならない。
実際阿弥陀様は仏になったので、三遍名前を唱えれば、極楽浄土に行けるということ。

そこは、全てが真実を語っており、この世界のように真実がオブラートに包まれていない。
しかも、末法思想で、正確に仏道を教われないなら、極楽浄土へ行きたいと願う者が増えた。

しかしながら、金持ちは人より優れたい。なので浄土宗の寺をどんどん建造した。だから誰よりも優位に
極楽浄土に行けると豪語していた。

それに反対したのが、法然。

阿弥陀様は、三回唱えたら、誰でも連れて行ってくれると約束した。なので、善行は敢えて行わず、毎日阿弥陀様に感謝して、三回唱えればいい。庶民も善行をせずとも、救ってくれる。それだけ寛大な仏様なんだということを伝えた。

しかしながら、法然の弟子に過激な輩がいた。何もせずとも救ってくれるんなら、悪行をしても救ってくれるはず。っていうので、放火したり、盗人したり、天皇の御所へ夜這い、女御を手篭めにしたり、散々やった。師の教えを証明するためだとは言え、やりすぎ。。
で、法然は連帯責任をとって、島流し。当時法然に師事していた親鸞もとばっちりを受けて島流し。

親鸞は、数年後罪を許される。で、経典を読み漁って、ひとつの真理を解く。
それが、浄土真宗の他力本願。
毎日三回唱えることができない人もいるだろう。でも毎日唱えてる人は、唱えていない人を卑下する。
ってことは、裏返すと毎日唱えてるから、偉いってことになる。
でも、実際すばらしいのは阿弥陀さまである。毎日唱えなくても、救ってくれるのだから、別にそれを
自慢すべきでない。っていう解釈に変わります。

悪人正機説。悪人こそ、本来救われるべき人である。衆人は仏に比べて善悪の判断が出来ないのに、自分を善人だと思いこんでることこそが、罪だ。

っていう論点です。なので、善行をしたことで、自分は善人だと勘違いするくらいなら、何もしないほうが良いってことです。ただただ、心の中で阿弥陀様に感謝すべきだと言ってます。

そノ後、また進化します。

一遍上人の踊り念仏です。

もう既に阿弥陀様によって、救われてるのだから,踊りを踊ってお祝いしよう!6万人全て救われた!
ッて行って、行脚します。

まあ、浄土宗はそういったところです。慎んで、全ての物に感謝しましょう。謙遜する気持ちを持ちましょうってことです。

わたしは、無神経論者ですwなので、解釈は、、、すべて他所で確認してから参考にしてくださいw
    • good
    • 2

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!