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 1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。


 2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。

 3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。

 4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。

 5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。

 6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。

 7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。

 8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。

 9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。

 10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?


 11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?




 12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?

 13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。

 14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?

 15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか? 

 16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?

 17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?



 (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。

 片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

A 回答 (28件中11~20件)

誰もに、信じる、ということが起こりえるし、起こっている、というのは理解できるが、我に返る、白紙に戻るということが、神を抱くことに何故なるのかが分からない。

それを努力なしに成し得たとしても、それが自信に備わる自然本性のはたらきということはできるだろう。
bragelonneは、難しいこと、個性的な事を言っているようで、実は当たり前のことを言っているのではないだろうか。

また、bragelonneには、はからいというものがないだろうか、ないことをどうやって証明するのだろうか。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ 我に返る、白紙に戻るということが、神を抱くことに何故なるのかが分からない。
 ☆ ですから そのときに《考えると感じる》の経験世界の出来事であるかどうかをまづ考えます。そしてもしそうではなさそうだとすれば それとは区別されるべき場があるかも知れない。

  すなわち《我れに還る》そのことは経験事象であるが それがなぜ・どうして起きたかについては 《考えるや感じる》を超えているとすれば(これは 主観としてです) その部分は《非思考 つまり 信じる》の問題となる。

 《信じる》という言葉で捉えなければならないと主観が判断したことは けっきょく《神》の問題だとなります。
 これは ただの定義の問題です。信じるは 何を? と問うたとき それは《神を》だという簡単な説明としてです。



 ★ それを努力なしに成し得たとしても、それが自信に備わる自然本性のはたらきということはできるだろう。
 ☆ 自然本性の中に 《信じる》部門と《考える・感じる》部門とがあるという見方です。

 ○ 自然本性における《信じる》と《考える・感じる》との区別 ~~~~

   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   _______________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   _______________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 この区別――経験事象とそしてそれを超えた非経験の場との区別――のみが 《当たり前》でありつつなかなか人は気づかないでいることだと思われます。つまり
 ★ bragelonneは、難しいこと、個性的な事を言っているようで、実は当たり前のことを言っているのではないだろうか。
 ☆ と言うときにです。




 ★ また、bragelonneには、はからいというものがないだろうか、ないことをどうやって証明するのだろうか。
 ☆ 証明できません。
 経験じょうそのような状態に成るよりほかにないと考えます。

 たとえば《ハカラヒなき状態》を目指すというとき ハカラヒを無くそうとするのはハカラヒです。したがってそのハカラヒをまた無くす―→ いやそれはハカラヒだ・それを無くそう―→・・・といったハカラヒは 延々とつづくことになります。
 
 これは 白紙状態を俟つよりほかにありません。

 わたしは いつのまにか このように説明することができるようになりました。自分のチカラを超えたところで起きたと捉えますから このように神の話や信じるの問題なのだということを 主観の真実のかぎりで 自己表現しています。

お礼日時:2013/10/11 11:40

もし、誰もが絶対の神の威力、威信を笠に着て論争しているなら、それは不毛になるだろう。

決着がつくからには、それぞれの神に優劣があることになる。主は本当に全戦全勝なのだろうか。死しても神の息吹で蘇るゾンビシステムを構築しているだけではないのか。
また、神に頼らず、自分自身を頼って生きている人もいるだろう。そのような人が不毛な議論に参加するか分からないが、皆が自身の神を拠り所にして論戦を繰り広げるとは思えない。どうだろうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ もし、誰もが絶対の神の威力、威信を笠に着て論争しているなら、それは不毛になるだろう。決着がつくからには、それぞれの神に優劣があることになる。
 ☆ そうですよ。ただし そのつど本人にとってはその神が《絶対の威力を持った神》であったわけです。

 つまりむろん 神は 主観の内における《信じる つまりは 思考に非ずなのに受け容れた》としての何ものかであるわけですが もしそこに《人間としてのワタシのハカラヒ》が混じっていたとすればそれはつまり マチガイであったということもあるわけです。


 ★ 死しても神の息吹で蘇るゾンビシステムを構築しているだけではないのか。
 ☆ たぶん《神の息吹きで》ということはないでしょうね。言いかえると 先ほどの例にように自分自身のハカラヒによっていて その神はマチガイであったという場合だと考えられます。

 つまりゾンビというのはむしろ自分自身のチカラで そういう状態になるのではないですか? それこそ人間が人間として持つチカラによって――と言っても 非常なへそ曲がりの状態に発してそこからそのまま発展してしまったかたちですが そのような状態に――成ってしまったということだと見ます。
 
 生きていながら死んでいるという状態です。意志はなく ただ死にむかう意志のみがある状態。



 

 ★ 神に頼らず、自分自身を頼って生きている人もいるだろう。・・・皆が自身の神を拠り所にして論戦を繰り広げるとは思えない。どうだろうか。
 ☆ 《信じる》は 自然本性にそなわっている。ということは 心の白紙状態でもあります。つまりは 自覚していなくても みながそれぞれ何らかのかたちで けっきょく《信じる》というハタラキを持っているし はたらかせていると見るわけです。

 何度も出しますが つぎのように誰もにあてはまると見ています。:

 ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~

   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 つまりは
 ★ 皆が自身の神を拠り所にして論戦を繰り広げ
 ☆ ていると見ています。自覚の有る無しを問わないとすればです。そしてその神が マチガイだったという場合もある。

 
 或る日或る時 ふとわれに還るというときがあると思います。そのときには――白紙状態(タブラ・ラサ)に戻ったのでもあって―― 普遍的な神をいだいた(受け容れた・信じた)のだと思われます。それ以外の場合では 自分がそれだと思った神であっても それは一般に人間の思考や想像によってつくりあげた神である。つまり まがい物の神である。つまり 間違っていたと気づくことになるそれであると捉えられます。
 

 そしていづれの場合でも――つまり間違っていたとあとで気づく神をいだく場合であっても―― 《皆が自身の神を拠り所にして論戦を繰り広げ》ているはずです。気づくことはない場合が多いでしょうし いちいちそのように分析して指摘することもないのでしょうが。

 つまりもっと露骨に言えば――これは 神の側からはむしろ当てはまらないことでしょうが 人間の側から見て言うとすれば―― あなたはあなたの神を拠り所として論戦を繰り広げているし わたしはわたしもそのようにしている。さらに露骨に言えば あなたの神とわたしの神と どちらがほんとうの普遍的な神であるかというたたかいに成っている。

 これを神は どのように見ているでしょうね。つまり どちらに軍配を挙げるかの問題ではなく そうではなくたとえば何故いちいちそんなことをあらそうのか。といった見方ではないかと思われますから。
 

 アッラーフと言おうがブラフマンと言おうが ヤハヱーだろうがキリストであろうが 神はひとつ――全体としてひとつ――であるに決まっている。《無い神》と言っていても 同じく全体としてひとつの神に入る。なのに・・・。ということではないでしょうか。

お礼日時:2013/10/11 06:27

絶対化はしていない、では絶対視も同じくそんなことはしていないと言うだろう。

しかし、その信仰は無限なる何者かを拠り所としているのであり、その威力を頼って他の信仰に立ち向かうというのは、一種、神に依拠した戦いであり、やはり自身の信仰する神の絶対性を笠に着ていると言えないだろうか。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ では絶対視も同じくそんなことはしていないと言うだろう。
 ☆ いや 《非経験の場》として神を想定するということは 相対性の世界を超えていることになるからには 神は《絶対》ですよ。そういう定義です。


 ★ その信仰は無限なる何者かを拠り所としているのであり、
 ☆ ということになりますが そのとき《無限なる何ものか》は 《拠り所》として 無根拠ですよ。これこれこういう根拠や内実があるといったことは ついぞ人間には分かりませんから。


 ★ その威力を頼って他の信仰に立ち向かうというのは、
 ☆ ここは 表現の問題で揚げ足取りをします。

  ○ 信仰を得て 非思考の庭がわが心に成ったなら そういう動態として過程します。その過程で 神の《威力に頼る》ことがおおいにある。こういう話です。

 ★ 他の信仰に立ち向かう
 ☆ というのは じっさいにはそのようなほかの人の信仰が文章にして説明されたその内容 これに立ち向かうということです。つまりは ふつうの論文や発言を取り上げて批評したり批判したりするのと変わらない。


 ★ 一種、神に依拠した戦いであり、
 ☆ 文章ないし発言を批評の対象としていることは 神ないし信仰は 直接に前に・オモテに出て来ません。
 ぎゃくに言うならば すべての思考は 根源としては信仰から出て来ていると見るからには それは 実質的に《神に依拠した戦い》になるということかも知れません。そしてそれは 誰もに共通であり 例外はありません。


 ★ やはり自身の信仰する神の絶対性を笠に着ていると言えないだろうか。
 ☆ それは あなたから見てそう見えるということでしょう。
 というのも わたしの《たたかい》は ほとんど全戦全勝であるようだからです。

 もしぎゃくに言うなら 誰もが自分の神に依拠したたたかいをおこなっており その神の絶対性をかさに着ている。と言えます。

お礼日時:2013/10/11 00:11

見込み違いというが、本当に見込み違いだろうか。

自身の信仰する、謎の何者か、を、自己の中で絶対化し、その威力を頼ってはいないだろうか。確認したい。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 謎の何者か、を、自己の中で絶対化し、その威力を頼ってはいないだろうか
 ☆ 信仰は 《非思考の庭》である。考えるにあらず。どうして《絶対化》をするのか?

 《威力》には《頼って》います。

 汲めども尽きない水が湧き出て来る。そのチカラの出ることを願っています。
 だから 頼っています。
 そうなると イエスが サマリアの女と話をしていたとき 言った。

お礼日時:2013/10/10 23:47

bragelonneは、何か自分が他者より優れた偉い人物だとでも思っているのだろうか。

平然と他人をこき下ろす傲慢さと、自己の見解に固執する狭小。
主には砂上の楼閣さえ存在しない、空っぽだ。だから雲をつかもうとあがいているのだろう。
別にそれを俺は否定せん。救いを求めるのは弱い人間の性やからな。
悲惨なのは、主が自分のドグマにしがみついて、それでも自分は何がしの一端の人間で、哲学(ここでは知性と言っておこうか)ある人物だと思い込んでいる点にある。
俺は君の隣人じゃない。ただの回答者に過ぎない。既存の宗教の信者たちを哀れとも思わない。何かの宗教を信じているというそれだけで、憐憫をかけたりはしない。
幾つかの主の見解を聞いたが、俺と主とはかけ離れているよ。主は空想を神と称し、その権威をカサにきているに過ぎない。いくら言葉を弄しても、内容は僅か。自分は苦悩してるのだという心の叫びがこだましてるだけ。
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この回答へのお礼

 あ_ほなさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ bragelonneは、何か自分が他者より優れた偉い人物だとでも思っているのだろうか。平然と他人をこき下ろす傲慢さと、自己の見解に固執する狭小。
 ☆ たぶん 寄せて来られる回答の内容よりは 或る程度において よく分かっている。でしょうね。大雑把なただの事実〔として見たところ〕ですが。
 (部分的に知らない情報が得られますし するどい視点を何気なく見つけることもあります。そして自然科学は からっきしだめです)。

 むろん 見落としがないか。別の角度からのこたえはないか。つまりあるいは 自分のたたき台よりすぐれたこたえが寄せられて来ないかと俟っています。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 主には砂上の楼閣さえ存在しない、空っぽだ。だから雲をつかもうとあがいているのだろう。
 別にそれを俺は否定せん。救いを求めるのは弱い人間の性やからな。
 悲惨なのは、主が自分のドグマにしがみついて、それでも自分は何がしの一端の人間で、哲学(ここでは知性と言っておこうか)ある人物だと思い込んでいる点にある。
 俺は君の隣人じゃない。ただの回答者に過ぎない。既存の宗教の信者たちを哀れとも思わない。何かの宗教を信じているというそれだけで、憐憫をかけたりはしない。
 幾つかの主の見解を聞いたが、俺と主とはかけ離れているよ。主は空想を神と称し、その権威をカサにきているに過ぎない。いくら言葉を弄しても、内容は僅か。自分は苦悩してるのだという心の叫びがこだましてるだけ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 みんな合っているよ。次のひとつを除いて。
 ★ 空想を神と称し、その権威をカサにきているに過ぎない。
 ☆ つまり
 ★ その〔神の〕権威をカサにきている
 ☆ とは違う。神は想定であり その神学は ドグマであるとし 信仰は雲をつかむようなものだと言っており たとえば

 【Q:イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7725897.html

 【Q:キリスト者は 猿回しの猿か?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8181274.html

 などなどの命題を出して問うている。決して《権威をかさに着て》などいない。むしろ 権威をボロクソにけなしている。
 この一点のみ 見込み違いである。

お礼日時:2013/10/10 21:19

 ★ 憲法に縛られているこの問いは、縛られる自由を理解してしかるべきではないか?


 ☆ 意味が分かりません。憲法を持つということは 主権の存するわれわれ市民の一人ひとりが同意しています。どうして《縛られる》ということになりましょう。

市民の一人一人が同意しているという事実はどこにもない。
あなたはいつ同意したのか?私は同意した記憶がない。

特に日本は、GHQがまとめた憲法であるし、アメリカの占領下で施行された憲法である。
日本国民の同意など必要とされていない状態で成立している。

そもそも憲法は、市民の代表だと名乗っている人たちが、これを守りましょうと言ったことに過ぎない。その内容自体をしっかり理解できている市民とはどのくらいいるのか?
憲法は、弱者を率いたエリートが、伝統と権威権力を持った既成支配者層に取って代わるべく、圧力団体を形成するために用意した方便にすぎない。
王権神授説を人権と変えただけ。

法とは規制であるから、縛ること以外の何物でもない。
法の下の平等であるし、日本国憲法であれば、公共の福祉に反しない限りという自由である。
どうして縛られてないと言えるのだろうか?
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この回答へのお礼

 こいぷりんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 市民の一人一人が同意しているという事実はどこにもない。
 ☆ もっともですが それでも結局 同意して憲法として持っていることになっています。
 それが証拠に 憲法は改正するのであって あらたにつくるのではないわけです。

 おしつけ憲法であっても すでにわれらが国の憲法です。事後承諾ということになります。




 ★ どうして〔日本国憲法によって人びとは〕縛られてないと言えるのだろうか?
 ☆ でしたら それでよいとしますから 憲法を持ち出すにせよ・それとは別に考えるにせよ 《組織宗教は 信仰を看板にかかげているかぎりは それが――その権威者ないし権力者の意向をつうじて――何ごとについても基準となる。とき 人びとのその人格の全体にかかわるようなウゴキを その基準に合わせてしなければならなくなる。これは 良心・信教の自由の侵害となるおそれがある》という問いについて こたえをどうぞ。
 そういう質問です。

お礼日時:2013/10/10 21:06

なるほどねぇ、主の見解はよく分かった。

しかし、何億という人々が信仰を事実共有している以上、主の戦は何というか、焼け石に水より酷い話になるなあ。
それとも、防衛戦だったのかな。
主の言う弱い人々に、主は勝てないよ。だってその人たちこそ堅固に信仰を共有して、自分の居場所を形作っている人々やから。
主の姿勢はどちらかというと小乗仏教のそれみたいに映るね。一人黙々と、みたいなね。悪い話ではないが、分の悪すぎる戦いではあるね。
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この回答へのお礼

 ★ 主の姿勢はどちらかというと小乗仏教のそれみたいに映るね。一人黙々と、みたいなね。
 ☆ ぎゃくである。わたしが つねに社会の中に人びとと共にあって 互いの考えを伝え合おうという民主的なコミュニケーションの場にあり なければそれをつくろうとしており じっさいにそうつとめつづけている。
 
 宗教に群れる人びとこそが ヒナヤーナ・ブディストである。おのが孤独地獄にひーひーと言って 群れたがる。
 ★ 何億という人々が信仰を事実共有している
 ☆ という幻想を共同しているに過ぎない。



 あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。




 ★ 主の言う弱い人々に、主は勝てないよ。だってその人たちこそ堅固に信仰を共有して、自分の居場所を形作っている人々やから。
 ☆ この砂でつくったと知っていつつそれにすがるような・もろくてつねにこぼたれゆくまぼろしなる城に《居場所を形作って 堅固に信仰を共有している》人たちを それでも(分が悪く勝てないとしても) あわれに あ_ほな氏よあなたは 思わないのか。隣り人ではないのか。

 ★ 焼け石に水
 ☆ をかけつづけるなら やがて冷めて覚めるはずです。




 ★ それとも、防衛戦だったのかな。
 ☆ 防衛線にすらならなかった。その頃は いまのように理論武装していなかったが 同じ内容で振る舞っていた。そうすると 相手がわたしを相手にしない――単純に 相手にしない――ということが起こった。それだけである。深追いはしないのだから。かたちは わたしが去ったのだけれど 実質は 相手たちがわたしから去って行ったことだと思う。







 昨夜ふと思ったことがある。しるす。
 
 ラッツィンガーの事例を出したことに関連して それではもし組織宗教において権威を持つ指導者や権限をもって運営する者たちが ラッツィンガーのようなワルではなく おおむね良い人たちであったなら 宗教組織も 結社の自由にもとづき社会の中でみとめられるのではないか。という問い返しを受けたとした場合のこたえである。

 もしそうなら それこそが まさに良心・信教の自由が侵されている事態であるというのが こたえである。

 なぜなら そういう場合というのは 信仰の教義上の問題やら人生をめぐる問題全般やらのことについてその結論としてのこたえが けっきょくその権威者や権力者の意向によって初めて決まるということを露呈しているからである。

 つまり 信徒一般は それぞれ自分では何も――大事なことについては――決められない。主体性も自由意志もみな 《教祖様やその代理のお方》に預けられてしまっている。人間の・自由の萎縮が起こっている。

 これこそが 信仰を旗印にかかげる組織宗教の――その設立の時点においてすでに持つことになった根本的・致命的な――欠陥である。
 わるいことをしたという事例は まだなまやさしい。むしろ反面教師として 人びとをして自由なるわれに還らせてくれるかも知れない。

 要するに 信仰を看板とする組織は 信仰の自殺行為であり 狂気の踊りである。信仰が死ねば 人格を脱いだことになる。精神錯乱になるのは 自由だが ひとに迷惑をかけることは 自由ではない。



 このあたらしい思想のゆくえにかんしては 塵も積もれば山となる。

お礼日時:2013/10/10 09:06

とりすがりによって救いがもたらされるという意味で宗教は私も疑わしいと感じますが、何かに熱中している彼らは幸せそうですよ。

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この回答へのお礼

 ★ とりすがり
 ☆ これは その組織に・つまりは誰か先輩のような人に支えとなって欲しいというよほど弱い人間のすることでしょうね。

 一般に宗教人は そんなか弱い人間ではないでしょうね。
 他人を蹴落としてでも地位を上にあがり どうにかして一人でも多くの人間を自分の思うようにあやつりたいとでも思っていることでしょう。支配欲を満たしたい。これが 多くの宗教人の動機です。

 ★ 何かに熱中している彼らは幸せそうですよ。
 ☆ これは ですから 何かおしゃぶりでもしゃぶらせておけば おとなしいという人たちのことでしょう。
 問題が違いましょうよ この質問では。

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2013/10/09 23:18

なるほど。

信仰の独立性を主張するのは一理あると思う。
しかし、信仰が共有可能なものであるかどうか、という点についてはどう考えてるのかな?
言葉にできない深い信仰というものが、他者にもある場合、定義不能な謎としての神という存在についての信仰は共有できるのか、否か。
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この回答へのお礼

 ★ しかし、信仰が共有可能なものであるかどうか、という点についてはどう考えてるのかな?
 ☆ それは 無理です。

 言いかえると 神や霊や信仰といった言葉が あくまで仮りの表現であって 言わば神という本体を分かりやすく指し示すような補助線である。ですから このような補助線としての言葉を手掛かりにして 互いにおのが内面のことについても対話を持つことはあり得るでしょうね。

 ★ 信仰が共有可能なものであるかどうか
 ☆ 第一に 信仰はおのが主観の内面にとどまるコトである。
 第二に それでも 仮りの代理表現を用いて互いにその内面のことを伝え合うことは出来るかも知れない。

 これは 信仰の共有ではなく 互いにその説明を そうとすれば共有するようになるといったところでしょうか。



 ★ 言葉にできない深い信仰というものが、他者にもある場合、定義不能な謎としての神という存在についての信仰は共有できるのか、否か。
 ☆ いま上に述べたとおりのことで 済むと考えます。

 あとは むしろ経験思想の次元で――ということは 信仰から離れて しかも信仰を生かすようにしてそこから得られたヒラメキなどを経験思想として表現し直し――互いに社会の共同自治や身の周りの生活のことについて 助け合いよくしていく。こうすれば よいでしょう。

 これが もし言うとすれば〔そういうことは出来ない相談ですが それでも言うとすれば〕神の共有となりましょう。信仰の次元では 無理です。
 (聖書などの研究は 共同してすることも出来ますが)。


 こういった事柄だったでしょうか。

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2013/10/09 23:13

宗教は規律を強いるというのは間違いない。

十戒とか。
信教の自由とは、「何にしばれられるのも自由」ということ。
人間規範がないと弱いもの。マズローが社会的欲求と呼んだ3段階目の欲求を満たすためのもの。

だから、
>他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?
は成り立たない。縛られたい自由はどうするのか?

そして現在はその教義が嫌であれば、改宗するということになる。
改宗する際に、暴力的な行為で改宗させない行為は、自由を侵すことになるかもしれないが、その一連の流れさえも求めている人がいるかも知れない。

そもそも自由は不自由がなければ成り立たない概念であるので、不自由な組織がなくなれば、信教の自由もなくなってしまう。という自己矛盾が生じる。

根本的なところでは、憲法は人が造った矛盾の塊であるし、特に改憲がなされていない日本であれば、その当時のままなので、今とは食い違うのも当然である。

憲法に縛られているこの問いは、縛られる自由を理解してしかるべきではないか?
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この回答へのお礼

 ★ 縛られたい自由はどうするのか?
 ☆ それは 趣味嗜好の問題です。

 ★ 不自由な組織がなくなれば
 ☆ なくなってからの話です。その前に人権の侵害をゆるしてはなりません。


 ★ その当時のままなので、今とは食い違うのも当然である。
 ☆ 具体性に欠けた議論だと思います。


 ★ 憲法に縛られているこの問いは、縛られる自由を理解してしかるべきではないか?
 ☆ 意味が分かりません。憲法を持つということは 主権の存するわれわれ市民の一人ひとりが同意しています。どうして《縛られる》ということになりましょう。


 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/10/09 22:57

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