限定しりとり

 1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。


 2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。

 3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。

 4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。

 5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。

 6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。

 7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。

 8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。

 9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。

 10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?


 11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?




 12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?

 13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。

 14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?

 15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか? 

 16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?

 17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?



 (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。

 片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

A 回答 (28件中21~28件)

ごめんやけど、主の文章は読みにくくて仕方ないなぁ。

疲れるわ。いや、悪気があってゆうてるんとちゃうのよ?
ちなみに質問をした倫理の先生からは回答を得られなかったね。
あと、俺の友達にもクリスチャンいるけど、みんな満足してるよ。ちゃんと信仰もあるし。なにがなんでもblageronneの信仰の定義にしたがわなあかんというのは、主のわがままやで。なにをそんなにこだわっとるんかのう。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 卑近な事例を挙げます。

 ひとつ前のローマ法王であったラッツィンガーという人の態度について 二点 触れます。

 ▲ (ヰキぺ:ベネディクト16世 (ローマ教皇)) ~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D% …

 本名:ヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー

 § 2.8 他宗教との関係
 § 2.8.3 プロテスタントと東方正教会

 2007年7月10日、教皇庁は「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」との記述内容を含む文書を公表した。これには教皇ベネディクト16世が承認を与えている。

 同文書はプロテスタント教会についても言及し、「使徒ペテロに始まる使徒的伝承をプロテスタント教会が壊し、叙階の秘跡を損なったために、『教会』と呼ぶことはできない」とした。

 正教会については、使徒的伝承を守っていると評価する一方、教皇に対する認識の面で「まったき教会としては欠点がある」とした。
 
 このように正教会、プロテスタントのいずれとも真っ向から対立する見解を明らかにする一方で、2007年10月22日にはイタリアのナポリで開催された異宗教間サミットに出席してもおり、他教派・他宗教との対話を完全に拒絶してはいない姿勢も示している。


 § 4 批判
 § 4.1 性的虐待事件への対応

 2009年になってアイルランド、ドイツ、アメリカ合衆国におけるカトリック聖職者による児童性的虐待事件が報道されるようになった。このスキャンダルに関してカトリック教会およびベネディクト16世への批判が高まり教会への不信は戦後最悪ともされる状態にまで陥っており、教皇の辞任を求めるデモも発生している。

 アイルランドにおける事例については2009年末にアイルランド政府が公表した報告書が騒動のきっかけとなった。この中では1930年から80年代にかけて、教会の運営する施設において数百人の聖職者が少なくとも2500人の少年少女に性的虐待を加えたと述べられており、さらに組織的な隠ぺいがあったと結論している。

 ベネディクト16世は事件のもみ消しを図ったショーン・ブレイディー枢機卿の処罰を行っていないことが批判された。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ よくある思想の狭隘さとそして不祥事 このふたつのことですが これが 《信仰》を大前提とする組織において起こるとすれば 問題です。
 まづ断わりますが そのような不祥事ないしうたがわしい思想の問題そのものをなじるものではありません。(わるいと言えば わるいです)。

 問題は そのような《プロテスタントの信仰はまちがいである》という表明や 神父の不祥事をもみ消す別の神父を咎めないことやが 信仰にもとづいていると――少なくとも 一般信徒のあいだには うわべだけとしても―― 受け留められるなら そのことにあると考えます。
 消極的なかたちで 信徒一般は そのほかの自由な考えを持ち得ないとしたら 問題です。

 つまり ヒエラルキアなる組織における問題発生のあとの処理の仕方にかんする問題です。それは 組織があるかぎり 自由で民主的な処理の仕方はのぞめないのではないいか。これです。

 信仰があれば まちがいをきちんと正すのが ふつうだと思われますが それが成されない。成されがたい。そして 成されずとも そこに信仰は 《正統》なる系譜として受け継がれて来ているとうそぶくことになっています。
 これが 信仰をめぐる組織の持つ根本的な矛盾であり 一たん組織をつくったならすでにもう避けられない問題を孕むのだと見ます。



 
 信仰は――タテマエとしてでも掲げられている信仰は―― 言わばすべてのことの土台ですので 一事が万事と見なされます。あるいはつまり そう見なされようがどうなろうが 法王がくだした判断だとすれば それがとおってゆくことにもなります。

 信仰にもとづく組織でなければ つまりふつうの会社や生活共同組合のような集まりであったなら 問題は 違って来るはずです。会社の目的は 一定のことに限られているからです。《信仰》となると 人格の全体にまでおよびます。それゆえ 問題が生じます。

 法王のくだした決断とその表明は つねに信仰にもとづくものということになって 自分たち内部の者のあいだでも 外部の人びとに対しても けっきょく――問題が生じているのですから それをめぐる――自己欺瞞を延々と堂々とつづけて行くということになります。
 
 ですから 信仰という看板を外すか それとも自己解体するかしかないと考えます。





 ★ ちなみに質問をした倫理の先生からは回答を得られなかったね。
 ☆ でしたらこの《群れる》体質というのは 《お上志向》と言いますか 長い者には巻かれろの問題のようで 一たん保留します。組織じたいの問題であるよりも そこに入って行く人びとの側の問題であるかも知れません。(カン違いでした)。これは アマテラ予備軍症候群とも アマアガリ・シンドロームとも名づけています。

お礼日時:2013/10/09 17:26

B様、こんにちは。




>「組織としての宗教は違憲ではないか」

そうとも言い切れないでしょう。


>「信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか?」

んー、、「「信教の自由」を逸脱した行為」をもって、憲法違反、でしょうか。
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この回答へのお礼

 そうですか。

 そうですよ。


 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/10/09 14:53

bragelonne さん。


面白い観点だね。
昔から“あが(わが)仏可愛い”というように、一つの信仰は得てして他の信仰の価値性を認めなかったり否定したしがちですね。
“それはいけないのであって、・・・云々・・”というのはどうしても建前(たてまえ)だけに成りがちですね。
それが信仰であり信仰の選択でしょうね。
私は40年Self-Realization Fellowshipというヨーガの勉強と精進をしておりますが、一番最高だと思っています。
でもここの団体では他の信仰も同じ根源存在の信仰なんだと教えています。
両方とも私には両立しています。
だから公権力が何かの信仰を否定や上下の判断をするとしたら、それは憲法違反ですね。
ローマ教会の破門はこの社会的に大きな権力が行うのですから、近代法の立場からは問題が内在しますね。

神道や日本の民俗(族ではない)としての仏教は破門の制度もないでしょうし、寛容ですからね。
でもご信仰の皆さんは一番いいのだと熱心ですよ。
私はこういう態度を評価しています。
彼らはみな宗教っていう普遍の愛と平和と善を大事にしていますかね。
60年安保を境に労組の書記長7年やった折は、○価学○の方のご人格もあって相当軋轢がありましたが、最近ご近所の学○の方と懇意になり、ご信仰もある程度わかってくると、宗教って共通だなぁと思えてきます。とても楽しい。
結論は、どんなに自分の信仰が最高と思ってもその最高の信仰って、どの信仰も素晴らしいと思うのですから、憲法違反にはならないと思います。
無信仰の人、この人も信仰者から見るとやはり最高の存在だとなるのです。
だから信仰は決して独裁や弾圧はしないのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ だから信仰は決して独裁や弾圧はしないのです。
 ☆ なぜなら 信仰は 主観の内面にしかないからです。オモテに出れば それは抜け殻です。外郭だけのものです。
 
 信仰は 主観の内にあって 生きることとつれだって動態として生きています。
 それをオモテに出そうだなんて 出来っこありません。信仰の内容については 仮りの言葉で説明するのみです。それで 信仰の世界は 限界です。

 独裁や弾圧をするのは その信仰がオモテに出てしまって その外郭だけとなったときです。そのとき抜け殻としての信仰の度合いによって 組織の階層が決まるからです。権限関係が ヒエラルキアなる階層組織として決められて行き あとは その階層にしたがって 人間の値打ちも決められてしまう。――このとき 独裁が始まり 弾圧も連れだって起こります。







 ところが 一般に宗教組織においては 信仰のよわさやあやまちを地位の上の者から指摘される。そうすると その指摘じたいが 信仰についてではなく信仰が抜け殻となってオモテに出た文章や行動に対してであるに過ぎないのですが それでもけっきょく《信仰》が裁かれた恰好となり それを受けた人は 有無を言い得ずに従うことになる。のが しばしばです。

 会社で おまえ成っとらんぞと叱られてもそれは 仕事のことであり そのものが見えており 上司と自分ともその内容が分かっていることがらです。つまり 或る程度は 共通の土俵に立って互いに 言い合いをすることが出来ます。

 宗教組織にあっては けんかをしてはいけないというのでもないのでしょうが 問題は マチガイの指摘ともなれば 《信仰》にかかわっているからには ほとんど人格のすべてに影響を受けがちになりますし またその指摘されたマチガイというのが 必ずしも共通の土俵に立って互いに自由に批評し批判をもし合えるかたちにはならない。けっきょく 地位の上の者に従わざるを得なくなるのが 落ちです。

 ここに 良心および信教の自由という人権を侵害されてはいないかというおそれとうたがいが生じます。そして このウタガイが生じるのは 何も そのようなアヤマチの指摘があったからでは必ずしもなく もともと信仰を中心として組織をつくったその時点ですでに 起きていた。つまり 信仰を盾にして ひとの自由を侵害するおそれは 組織の成立の時点で起きていた。

 つまりは 信仰が 組織宗教と成ったなら その成ったということ自体が 信仰の自殺行為なのであり 人権侵害の種を蒔いた。こういうことにならないか? と問うています。

お礼日時:2013/10/09 13:55

質問が長過ぎて全部読めんかったんやけど、とりあえず。


俺も高校生の時に、何故信者は群れるのか?という旨の感想を、倫理の教師にぶつけて見たことがある。

まぁそれはさておき。
内面からの信仰が、外面的に言葉や規範などとして顕現したからと言って、内面の信仰が空っぽになるとは思われへん。
それに、bragelonneはキリスト教徒のようだが、キリスト教徒に伝わる聖書も宗教組織が何千年も受け継いで守ってきたもの。それを元にして信仰を成り立たせているのに、組織化は許せないというのは矛盾してるんとちゃうかな。
まぁ、悪い宗教団体も沢山あるからねぇ、せやけど一概に、全ての宗教組織を断ずるのは無理があると思うねえ。色んな組織があるんやから。
だから、宗教組織の功罪を問うた方が、質問としてはスッキリするんとちゃうかな。
質問は7番くらいまでしかまともに読めなかったけど、こんな感じの回答になるなあ。
あ、あと、お返事も簡潔なものでよいですよ。長文は大変でしょうし。
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この回答へのお礼

 あ_ほなさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 質問が長過ぎて全部読めんかったんやけど、とりあえず。
 ☆ それは 褒められません。

 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 俺も高校生の時に、何故信者は群れるのか?という旨の感想を、倫理の教師にぶつけて見たことがある。

 まぁそれはさておき。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 措かんといて。どうなった? つまりこの質問は そういう問題です。



 ★ 内面からの信仰が、外面的に言葉や規範などとして顕現したからと言って、内面の信仰が空っぽになるとは思われへん。
 ☆ そうですよ。言っているのは 《外化した信仰内容はすでに文章化されていて 心の動態としての信仰内容とは別だ》ということです。どう別かと言えば すでに蝉の抜け殻と同じようなものではないかと言って 問うています。

 《オシエ》というものが じつは《内面の信仰〔その動態としての中身〕が空っぽになった》その外郭のようなものではないかと。

 このオシエを組織の行動基準にするなら それは《信仰》とは似ても似つかないコトが起きていることになる。(つまり 主観内面の信仰を人びとに共通の行動基準にすることはそもそも出来ない)。しかもそのとき権限関係は 上位の者の主観的な解釈や判断によることが あとで批判的な分析を成し得ない(受けつけることのない)かたちで おこなわれ これが常態となる。

 一般の組織におけるようには フィードバックが出来なくなる。しかもその過程で ひとの《良心・信教の自由》を侵害することがあり得る。つねにあり得る状態になっている。これは 犯罪行為に近い違法行為であると。


 ★ それに、bragelonneはキリスト教徒のようだが、
 ☆ わたしの個人としての信仰は 聖書のしるすところのイエス・キリストの指し示した神を受け容れて来ています。それをつうじて キリスト・イエスは 《神》に――名前の違いはあっても――差はないという信仰をやはり指し示していると受け取っています。やがてキリストのキの字も言わなくて済むような一般のコミュニケーションがおこなわれて行くことでしょう。
 つまりですから《キリスト教》などというのは オシエとその宗教の問題であって 信仰とはかかわりがありません。


 ★ キリスト教徒に伝わる聖書も宗教組織が何千年も受け継いで守ってきたもの。それを元にして信仰を成り立たせているのに、組織化は許せないというのは矛盾してるんとちゃうかな。
 ☆ 必要だったことは パウロの言うように《宣教というおろかな手段》です。それ以外は 信仰とは何のかかわりもありません。《おろかな手段》は 目的をすでにじゅうぶん果たしました。



 ★ せやけど一概に、全ての宗教組織を断ずるのは無理があると思うねえ。色んな組織があるんやから。
 ☆ 推論をあきらかにし 例証したまえ。


 ★ だから、宗教組織の功罪を問うた方が、質問としてはスッキリするんとちゃうかな。
 ☆ ダメ。良心・信教の自由なる人権を侵害しているなら ダメ。

お礼日時:2013/10/09 08:39

こんばんはです。



独り言です。呟き。。。


前文には
────────────
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
─────────
とあります。
ここに書かれている「われら」は、日本国民のこと。
そして、日本国民は、この憲法を遵守し、この理念実現のための責務を負っている。
日本国民は、そう誓っている。
わたしの理解では、そうなのですが。。。


─────────
第十八条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
─────────
このようなことをしてはいけないのは、単に国家のみならず、
個人、団体においても同様に当てはまるのではなかろうか。

刑法や民法などは、こうした憲法の理念に基づき作成された具体的な法にすぎないのでは。
通常、個人、団体などは、肉付けされた、この具体的な法に違反しているかどうかで裁かれるのでは。
そして、具体的な法は、憲法やその理念に違反してるかどうかが問われるのでは。。。

憲法に違反しているから個人や組織を罰せよといっているわけではないのだから、これはこれでありなのでは。
現行法が憲法に違反しているかどうか、考えていいのでは。。。
さらに遡って、憲法が人権などに反しているかどうか、議論してもいいと思うですがね~。


独り言です、《問わず語り》です、はい。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ◇(あ) 現行法が憲法に違反しているかどうか、考えていいのでは。。。
 ◇(い) さらに遡って、憲法が人権などに反しているかどうか、議論してもいいと思うですがね~。
 ☆ そういうことだと思うんですけれど。・・・

 (あ―1) 憲法の規定をひとつの法源として 法律条文についてその是非を問うてよいと思うんですけれど。

 (い―1) あるいはつまり 憲法の規定についても 人間と社会の理論から考えて その是非を問うてもかまわないのだと。

 そういう再考は どれだけでも・つねにありうると考えます。




 ◇(あ-2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   第十八条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。

 このようなことをしてはいけないのは、単に国家のみならず、
 個人、団体においても同様に当てはまるのではなかろうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そういうことだと思います。

 一般の会社において 《奴隷のごとく》はたらかされるという場合 それは――宗教法人の場合とちがって―― 労働基準が共通の理解が得られるように定められています。ですから その妥当性をめぐって 互いにあらそうことができます。

 しかるに宗教法人という組織の中にあっては 明確ではない。じっさいには信仰そのものではなく信仰の教義化した規範であるものを 内面における自由な信仰内容だとあやまって見做した上で その《信仰の度合い》を――けっきょくヒエラルキアの上の地位にある者が判断して――何ごとをやるにも基準として採用する。ときには 押しつける。

 これでは 《奴隷のごとく》はたらくことになったとしても その妥当性をめぐって是非を問えなくなってしまっていると考えられます。
 
 ヒエラルキアにおける権限関係が けっきょく《信仰の度合い》なる基準に代わって ものを言うことになる。組織の中にいれば もちろんのこと 組織を脱退したあとにも その《地位の上の者》の《指導》は 執拗におよんで来るかと考えられます。

 これは 宗教を組織化したその時点からすでに始まっている人間関係のあり方ではないかと考えられます。《良心・信教の自由》という人権が侵害されるおそれが つねにある。こう考えます。

お礼日時:2013/10/08 22:42

憲法というものは、公権力を抑制して


個人の人権を護ろうとするものです。

従って、憲法の規制の対象となるものは、
公権力です。

公権力が宗教を組織した場合であれば
それは憲法問題になりますが、
私人がやるぶんには、憲法問題は
発生しません。

故に、違憲にはなりません。

強いて言えば、公序良俗に違反しないか
ということです。
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この回答へのお礼

 へきゆさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 従って、憲法の規制の対象となるものは、 / 公権力です。
 ☆ 結社の自由をうたうのは 憲法ですかね。つまり 憲法の中で 自己矛盾があるのではないかと言おうとしています。

 つまり 宗教組織の場合についてのみは 結社の自由が保証されないという見方を 推し出すべきだという物言いです。

 どうでしょう。
 つまり 宗教法人の認可は 憲法違反ではないかというものです。

お礼日時:2013/10/08 18:55

こんばんはです。



この問題は、おそらく、最も強固な組織的教義宗教の代表格であるローマ・カトリックを念頭に置かれたものであろう、と推測し、その点に絞って考えてみます。

ローマ・カトリックにおける《破門》の持つ響きは、非常に重く、そして、恐ろしい。
何しろ、《破門》=《キリストによる救済の対象にならない》ことを意味しますので。
魂、良心だけの問題ですまず、友人などの社会的関係が失われ、最悪、家族さえ失ってしまう。
こういう恐ろしさが《破門》という言葉にはある。
これらの恐ろしさを目の前にしては、個人の《信教の自由》などは、何の力を持たない。
ひれ伏すしかない。
それほど、社会の隅々にまで根を下ろしているローマ・カトリックという組織は、怖い、恐ろしい。。。
さらに、カトリックには、これよりも恐ろしい《異端》があります。《異端》の烙印を押されると、《日炙り》にされる可能性まで出てきます。カトリックという組織全体が、この《異端》の撲滅に乗り出します。

ユダヤ教の《破門》も恐ろしいですよね。これは事実上、ユダヤ社会での社会生命の死を意味しますので。スピノザは、《破門》宣告を受けるとき、呪いの言葉までかけれていますしね。

サークル、仲好しの会程度の、宗教ならばいざしらず、
程度の差はあれ、
組織宗教には、これと同じようなところがあります。
事実上、
『第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。』
を犯しているような気もします。
そもそも、個人の思想及び良心の自由や、信教の自由を保障するために、結社の自由があり、そして宗教組織は法的な保護を受けるわけで、
宗教やその組織のために、信教の自由などがあるわけではありません。
主客が顛倒している!!
せめて、
「破門だ」、「地獄に落ちるぞ」、「断善根だ、一闡提だ!!」などと声高に叫び、脅すような行為くらいは、お控えになってほしい、と考えます。
心あるプロテスタントの牧師さんのように、
「それは残念です」
「いつでもお待ちしています」
の言葉をかけるべきなのであろう、と考えます。
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この回答へのお礼

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そもそも、個人の思想及び良心の自由や、信教の自由を保障するために、結社の自由があり、そして宗教組織は法的な保護を受けるわけで、
 宗教やその組織のために、信教の自由などがあるわけではありません。
 主客が顛倒している!!
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このあたり いいですね。

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 せめて、
 「破門だ」、「地獄に落ちるぞ」、「断善根だ、一闡提だ!!」などと声高に叫び、脅すような行為くらいは、お控えになってほしい、と考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 人情とか人間の心性のよわさに関するかぎり 切実な問題であり 宗教者に良心のかけらでもあれば 耳をかたむけて何とかしようと考えても バチはあたらないでしょうよ。


 こころを閉じてはいけない。《心の明け》をこことがけよと。

 ただしこの心の伸びは けっきょく《考えて どうにかできるもの》ではない。人間の努力によって成就するたぐいのものではない。

 彗星が地球にぶつかるかのような恰好で・または泥棒が夜中におそって来るかのような恰好で 或る日或る時 わが心の窓をノックする音がする。このノックを聞き逃さない。そういうときに 心は解き放たれる。
 



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 何しろ、《破門》=《キリストによる救済の対象にならない》ことを意味しますので。
 魂、良心だけの問題ですまず、友人などの社会的関係が失われ、最悪、家族さえ失ってしまう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 一般に脱退者に対して宗教人は 社会的生命を断ってやろうと言って手ぐすねを引いていますから 始末に負えません。

 ただし いまではここで 《破門や異端》は もはや――エレミヤ書31:31にしたがって 神は人びとのあやまちについて覚えることがないという事態が成就したとするなら―― 屁の河童です。フランシスよ 何を血迷ったかと言ってやってよいでしょう。

お礼日時:2013/10/08 17:02

入信後に組織に統制管理されるのが嫌になったら脱退すりゃいいだけの話。



因みに、オームみたいに「脱退は許されない」とか「脱退したら殺される」は、宗教組織ではない。
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この回答へのお礼

 ちえ65535さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 統制管理
 ☆ ではないのです。

 問題は――少々誇大表示しているきらいは 自分ながら ありますが―― 自由という人権の侵害にかかわることです。
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 一般に上司が 部下に――組織の権限関係やつねなる人間関係の構築による信頼関係にもとづき――命令をくだすことは ふつうのことです。その基本線にもとづき 少々荒く行き過ぎたところがあるかも知れないかたちで 《統制管理》をもおこなうこと これも ありうるかも知れません。

 問題は その下命や管理が どのような根拠にもとづきおこなわれているかです。一般の――宗教以外の――組織であれば 会社なら定款にもとづくことから始めて その規則にのっとっているはずです。そしてその規則等は あくまで経験的なものごとを問題としており経験合理性で理解しうる説明があるはずです。


 ところが 信仰は まづ基本的に言って 言葉に表わすことは出来ません。つまり あくまで仮りにこういうことではないかというふうに神については補助線を引いて明らかにしたり 信仰内容については 隔たりがあることを承知の上で 経験事物にかかわる言葉で表現しているものです。

 言いかえると 信仰の度合いなどといったことは 本人しか分かりません。主観内面につねにとどまる事柄です。
 しかも 宗教組織にあっては この《信仰の度合い》が何はさておいてもすべてのことの判断の基準になります。ということは 組織の権限関係にしたがってその最高の地位にある人間の――けっきょくは主観的な――判断によることになってしまいます。

 一般の組織のようには 経験合理性によって理解できるかたちでは 組織の運営のあり方について分かるようにはなっていません。

 ですから 命令の付与や執行にしろさらには統制管理にしろ そのあり方は けっきょくウヤムヤの内におこなわれることがあり得るということ。ここに 違法行為のうたがいがかかります。

 これは 組織をつくったその時点で すでに疑われなければならない問題です。
 そして その前には 主観内面の信仰が そこから得られて来た何らかの思想内容を 言葉にして(外化して)表現したその教義化の時点で その信仰は 蝉の抜け殻となっています。
 それゆえ 《信仰の度合い》という言葉は じっさいには 《オシエとその解釈》というにひとしくなり その解釈は あくまで人間(組織の長)による判断によっており そこから下される命令が けっきょく――標語としては《信仰の度合い》というのであるからには―― 人びとに共通の意味内容としては定まらないかたちで おこなわれる。

 つまり 組織への参加者は けっきょくのところ 組織の長の腹積もりひとつで どんな命令でも受けなければならないという位置関係におかれていることになります。


 もしここで おっしゃるように
 ★ 入信後に組織に統制管理されるのが嫌になったら脱退すりゃいいだけの話。
 ☆ だとしますと こんどは その脱退後にときに繰り広げられる準違法行為が問題となります。

 要するに 社会生命をなくさせるという手段に出るということです。その前には 組織はそういう脅しをおこなっているということも付け加えておかねばなりません。

 ★ 因みに、オームみたいに「脱退は許されない」とか「脱退したら殺される」は、宗教組織ではない。
 ☆ たぶん ペーペーの参加者が脱退するのは やさしいことかも知れません。けれども そうでない場合が 多すぎます。多すぎるというよりは そもそも組織をつくった時点で こういった違法行為が始まっていると見なければならないでしょう。

 こういう問題を問うています。

お礼日時:2013/10/08 12:49

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