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江戸時代の人(世間一般に)って日本神話の内容や天皇のことを知っていたんですか?

A 回答 (10件)

寛政年間ということですから、幕末より少し前の江戸後期、解体新書とかその頃の時代に高山彦九郎という大変変わった人がおりました。

どのくらい変わっているかというと、京都の三条京阪に土下座姿の変なおっさんの銅像が残ってるくらいです。なんでも三条大橋を渡ると必ず皇居に一礼していたそうで、そのお姿が銅像になってしまいました。
彼はいわゆる勤皇家ってやつだったのですが、天皇という存在が京都の人々にも充分に知られていないことを嘆き、毛が生えた亀が天皇に献上されてめでたいね、という出来事があったので「緑毛亀運動」といって、それを名目に「世間には天皇って人がいるんですよお。毛が生えた珍しい亀が見つかって献上されたんです。これは吉兆ですね」という活動を九州を中心に行いました。まあそういう現状があったのでしょう。

ちなみにこの緑毛亀運動、かなり各地で成功したらしいのですが、成功したことがかえって幕府に目をつけられることになり(なにせ、徳川将軍万歳という活動ではないですからね)、たまたま幕府と朝廷の間で尊号問題というトラブルが発生し、公家側が高山彦九郎の活動を利用しようとしたものですから、幕府に危険人物と厳しい監視を受け、とうとう久留米で自刃してしまいました。
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 こんな事例もあります。

上田秋成の『雨月物語』に収められている「白峯」。諸国行脚していた西行が讃岐路にある墓廟を訪ね、怨霊となって祟る崇徳上皇と西行が論争するとの話です。
 この時、西行が崇徳を諫める拠り所としたのは『日本書紀』の「仁徳紀」にある譲位の話です。西行が日本書紀のエピソードを知っていたことを、更に上田秋成が素材として選び、庶民が手にする読本の形で世間に弘めたとも理解する事はできます。
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>日本神話の内容や天皇のことを知っていたんですか?


何をどう知っていたかが問題でしょう
上方(京、大阪)の人達にとっては御所に天皇がいることは常識中の常識でした。

日本神話については、大黒様のお話(因幡の白兎)などにみられるように、昔話の一環としては知っていました。
有名神社の祭神やその由来として知っていました。
江戸名所絵図などのような一種の観光案内書にも日本武尊が登場します。
伊勢参りでもお判りの通り、天照大御神と天皇との関係はお話としては知っていました。
ただし、現在のように古事記がどうの風土記がどうのということに関しては、知識人と呼ばれるような人達の間でのみ知られていました。

天皇についても、太平記や源平盛衰記、平家物語、太閤記などの、講談や講釈、歌舞伎、絵草子、合本などからお話としてはよく知っていましたから、後醍醐天皇などの名前は知ってはいました。
その社会的な地位がどうの、歴史がどうのということになると、いささか怪しく、ことに江戸っ子の場合には、公方様のおひざ元というのが一つのステイタスでしたから、天皇は京都にいて時々江戸へ出て来るお公家さんの親玉程度の認識でした。
ただし、水戸光圀が大日本史を編纂していたことからも判るように、歴史的なことに関しては、知識人と呼ばれる人達の間では広く知られていました。
経済的に余裕があり学問好きの商家の御隠居さんと付き合いのあるような出入りの連中であれば、いろいろ聞かされてはいたでしょう。

現代人の知識と同等の内容で全国の庶民が知っていたか?ということになるといささか怪しいということになります。
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 読まずに語るべからず ~ 聞きかじりから読みかじりへ ~
 
 杉浦 日向子によれば、当時の江戸庶民は、日本古代史を《日本書紀》
のとおりだと信じていたそうです。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050722 江戸学でござる
 
 ただし、いかに識字率が高いとしても、原文そのママ読まれたはずは
ないので、ひとにぎりの知識人の門弟たちが、てんでばらばらに解釈し、
ほとんどは耳学問として伝えられたのでしょう。
 
 本居 宣長が、官僚の太 安万侶・編《古事記》を推奨しているのは、
天武天皇の正統性を裏付けるための、皇族の舎人 親王・編《日本書紀》
よりも、文学的叙情性にあふれる点を評価したとみられます。
 
…… 《英雄伝・春秋左氏伝・日本書紀》を本棚に飾る。
http://q.hatena.ne.jp/1197285422#a785642(No.3 20071210 21:26:38)
 大学生諸君! ~ 来た、観た、読んだ ~
 
…… 侍従長が(無表情のまま)取りあげたので、愚論噴出した。
http://q.hatena.ne.jp/1383217225#a1217352(No.1 20131101 15:20:12)
 皇室オンチ ~ 学ばず、覚えず、考えず ~
 
 こんにちの現代人は、いともたやすく原典を読むことができます。
 記述された真偽はともかく、聖書やコーランのような、国家の遺産です。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/02000308 女帝女皇伝 ~ 生没 [在位] 記紀異説 ~
 
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 神話を題材にした江戸川柳が多く伝わっています。

神話を元にした冗談が成立するということはそれなりに元ネタが知られていなければならないはず。

http://members3.jcom.home.ne.jp/shinoy/sinwa.html
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 追記


これは室町後期・戦国時代から近世初頭にかけての話ですが、ルイス・フロイスの『日本史』には禁裏の中庭に庶民が出入りしていたとの記事もみられ、イメージするほど閉鎖的な空間でもなかったこともわかります。
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 実際に江戸時代の「庶民の識字率」は殊の外に高かったともいえます。

たとえば「いろはカルタ」などは諺の言葉を読み札とし、取り札にはその言葉を絵として記す形式となっていたり、「百人一首」は上の句を読んで下の句を取るなどの形で、文字を読めねば楽しむことができないことを前提ともします。
 「百人一首」には天皇の御製も数多く含まれ、あるいは絵双紙や黄表紙などの読本にも天皇の物語はしばしば登場もします。
 歌舞伎にある『仮名手本忠臣蔵』も『太平記』をその一部分に含ませる形で、当時の幕政に対する手厳しい批評ともいえます。『太平記』は南北朝期の政治抗争を基軸とする作品ですが、これにも天皇は登場します。
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神話や天皇について、庶民(農民含む)は、細かいこと、難しいこと、体系的なこと、などなどは知らなくとも、その存在自体は知っていたようです。



その事例は多いですが、例えば、京都と、江戸の幕府や日光東照宮の間を、天皇・朝廷の勅使行列が、毎年、行き来していましたし、宿屋にも泊まっていたわけですから、道すがらの庶民が知らないことは考えられません。京都のお公家さんが入った風呂の湯を、天皇に近い尊さを感じて、庶民がもらいにくるということもあったそうです。

それに、軍記物や、芝居、歌舞伎、浄瑠璃などの庶民の娯楽には、「天皇」が多く登場します。

また、伊勢参りが、現世利益を求めて、庶民の間で広く行われていました。直接、天照大神がどうこうではありませんが、皇室の祖先や神話の神が、そこに祀られていることぐらいは知っていたでしょう。
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端午の節句(5月5日)などの節句の行事を庶民が行うようになったのは江戸時代からですが、節句の元は宮中行事の節会がもとになっており、ある程度は知っていたと思います。



学者、作家を庶民とするによりますが
江戸の国学者の本居宣長が「古事記伝」を執筆してます、

ちょっと違うが
「源氏物語」江戸時代に版本として刊行されたので、庶民の間でも読まれるようになりました。

庶民も昔のことや宮中の出来事などに興味をもっていたのでしょう。
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お伊勢参りが流行った時期があるそうなので、アマテラス神話やスサノオ神話あたりは常識的だったのではないでしょうか。


識字率はかなりあったとも聞いていますので、「京都には天皇や公家など、武士とは違う偉い人がいる」ぐらいは知ってたと思いますよ。(確証は持ってませんが)
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