集合写真、どこに映る?

1936年の、2.26事件当時の世論の反応についてこの場を借りてお尋ねさせていただきます。
世間は、どのように感じたのでしょう?
そして、事件が一般人に知られたのはいつなのですか?
世論、特に女性などは、どのように思ったのでしょうか?
教えてください。
よろしくお願いしますm(__)m

A 回答 (3件)

>世間は、どのように感じたのでしょう?


どのように感じたのかを知るのは歴史の専門家でも難しいようです。
報道管制がしかれ、実態はふせられたまま、青年将校の高官に対する暴力行為だけが報じられていたようです。
この為に関係者の家族は相当に肩身が狭かったようです。
全国的には、新聞報道から翌日、遅くとも翌々日には知られていたようです。
東京市内はさすがに、軍隊が移動したりアドバルーンが上がったりで、相当騒然とはしていたようです。
情報源は何分にも新聞とラジオだけで、これに規制がかけられたのですから、庶民には縁遠いものだったでしょう。

尚昭和11年というのは、まだまだ大正時代の雰囲気が残っていた時代です。
2・26事件の主要人物であった眞崎甚三郎が残した記録によると、当時の陸軍士官学校の雰囲気は軍国主義とは縁遠いものです。
当時の士官学校生は、軍事と文化は相いれないものと考えていました
当然、雨天の演習などは野蛮人がやることだと考えていました。
人の道徳的行為の価値は自立である、他より強制されて行った事は道徳上価値なし、と考えていました。
いわゆる旧制高等学校と変わらない雰囲気だったようです。
校長となった眞崎もさすがに驚いたようです。

堀辰雄「風立ぬ」太宰治「晩年」石川淳「普賢」は昭和11年に出版されました
横光利一「旅愁」永井荷風「墨東奇譚」志賀直哉「暗夜行路」岡本かの子「金魚繚乱」川端康成「雪国」は昭和12年に出版されました。
漫画では「ふくちゃん」の連載が昭和11年に始まっています。
流行歌では「忘れちゃいやよ」「ああそれなのに」「東京ラプソディー」が昭和11年にヒットしています。
浅草国際劇場は昭和12年に開場しています。
米国映画「オーケストラの少女」が大ヒットとなっています。

国民感情と軍の上層部とでは相当に時代認識が違っていたようです。

昭和12年の日支事変(日中戦争)勃発後、戦局が不利になるに従い軍部が強権を発動して急激な引き締めをやった挙句が敗戦でした。
ネトウヨと呼ばれる人々がいかに偏った情報で物事を考えているのか御理解願います。

この回答への補足

他の方も有り難い情報を寄せてくださいましたが、ichikawaseijiさんがその中でも大変に参考なりましたので、ベストアンサーとさせていただきます。
ありがとうございましたm(__)m
他の方もご協力ありがとうございました。m(__)m

補足日時:2014/01/11 23:38
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この回答へのお礼

お礼遅くなりすみません。
丁寧にありがとうございます。
大変参考になりました。m(__)m
私の当時のイメージは、戦争に向かいもっと暗くてつらい時代だと思っておりました。
庶民はそんなことなかったのですね。Σ( ̄ロ ̄lll)
本当にありがとうございましたm(__)mm(__)m

お礼日時:2014/01/11 23:29

帝都で軍部隊を実働させたクーデター未遂だったので、宮中の反応以外は当時すぐに報道されました。



反乱軍に殺害された重臣の肉親、奥様が雑誌・新聞のインタビューで

「行動将校(反乱軍将校のこと)は卑怯です」

と断言しています。
つまり、将校は国民の税金で整えた武器・兵士を私物化して重臣を実弾で攻撃してきたが、こちらは演説と仕事でしか戦うことができない。故に、反乱軍将校は一方的で卑劣である、というわけです。

作家の中にも面白がっていやがる友人をつれだし「反乱軍」を見に行った人がいました。その人は山王ホテルの前までいったところ、

「義軍の演説はすみましたか? 私はそれが聞きたくて商売を休んで銚子からでてきたのです!」

と興奮している人にあい、『これが本当の“お調子者”』とおもったそうです。
結局数時間かけてやっと聞いた演説は、二十歳なりたて位の少尉が叫んでいただけというオチだったそうです。

まあ、今と同じで、いろいろといたようですよ。
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この回答へのお礼

お礼、遅れてしまいすみません。

そうなのですか。
私の勝手なイメージは、当時の人はもっと色々考えていて、現代の若者より遥かに真面目で国や政治や物事を考えているものだと思っていました。
今も昔も、案外変わらないのかもしれないですね( ̄□ ̄;)

お礼日時:2014/01/11 23:35

作家・吉川英治は彼らにシンパシーを感じ、差し入れを持って行っております。

また一句残しています
斉藤茂吉も一句残しています
その他著名人がシンパシーを感じた句を数多く残しています

水木しげるの母は、死刑になった西田税と幼馴染だったそうで、裁判の経過を新聞で食い入るように読んでいたと漫画語っています。西田税は地元では神童と言われる出来た子だったんだそうで、銃殺になった時、ボロボロ泣いていたそうです。
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この回答へのお礼

お礼、遅くなりすみません。

そんなことがあったのですかΣ( ̄□ ̄;)
びっくりです。
西田氏は、それくらいに地元の英雄というか、誇りだったのでしょうね(;_;)

お礼日時:2014/01/11 23:31

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