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今では結果論になりますが、
日独伊三国軍事同盟の締結は、
大日本帝国にとって間違った判断でしたか?
また当時の帝国陸軍は海軍とは正反対に、
ドイツに執心だったのはなぜでしょうか?

A 回答 (4件)

大日本帝国にとって間違った判断でしたか?




これは結果論でしか言えないからなぁ。

ドイツに執心だったのはなぜでしょうか?

日本軍(特に陸軍)の存在理由の大きな部分が、対露・対ソ対策。ずっと仮想敵国をロシアおよびその後継であるソ連においていたから、挟撃という考えからすると、ドイツと組むというのは、理解しやすい枠組みだったのではないかと。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E6%83%B3% …
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kura322rさん、こんにちわ。





日本は軍事戦略において仮想敵国は陸軍はソ連、海軍は米国を想定していて全く統一していませんでした。
陸軍が満州国を建国したのもその一環です。ドイツは陸軍の模範であるだけでなく、同じくソ連を仮想敵国にしていたので、挟み撃ちにするのに都合がよかったのでしょう。ヒトラーがソ連と不可侵条約を結んだことでいったん同盟締結がとん挫してしまったことからもそれがうかがえます。
ただし、イタリアを含めてこういう自己都合ばかり考えている理解不能な最高指導者を抱える国と同盟を結ぶということがどんなに困難であるかということが日本の政府、外務省、軍部には理解できなかったはずです。まだ、英国や米国の方が終始一貫していて、理解できやすいはずです。
それをバスに乗り遅れるなという言葉を合図に外務省の松岡や白鳥といった人たちは強引に三国同盟を推進して戦争に突き進んでしまったのです。


詳細は下記のURLを参照してください。


日独伊三国軍事同盟
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC% …
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結果からいえば大日本帝国が文字通りに崩壊したわけですから、間違いであったといえるでしょう。

ただし、それはまあ典型的な歴史の後知恵ってやつになります。

当時の日本にとっての最大の脅威はどこの国だったのかというと、それは間違いなくソ連だったのです。私らは今のパッとしないロシアしか知りませんが、当時のソ連というのは日本よりはるかに優れた重工業国だったんです。鉄の質とか、エンジンの性能なんてのはソ連の方が優れていたのです。
特に1930年代になるとソ連が頭角を現してきていて、極東ソ連軍はその質においても量においても日本を圧倒しつつあったのです。凌駕どころかノモンハン事件が起きた1939年頃には日ソ全面戦争になったらもうほぼ日本に勝てる見込みはなくなっていました。それでも、極東ソ連軍はヨーロッパに展開していた一級師団に比べると質も量も劣っていたのです。もしソ連が後顧の憂いなく日本に一級師団をシベリア鉄道で輸送して満州国に攻めてきたら割とどうしようもなかったと思います。

だから当時の日本としてはなんとかスターリンのソ連を挟み撃ちできる体制にしたかったんですね。で、ヒトラーは反共主義者でしたから、ソ連に対するけん制としては理想の相手ではあったのです。
海軍がドイツとの同盟に冷淡だったのは、別に先を見越していたのでもなんでもなく、政府が陸軍重視(陸軍の意向に沿った)の政策をするのは面白くなかったというそんだけの理由です。とにかく当時の陸海軍ときた日にゃ奴が右なら俺は左だというくらいの仲の悪さで、これは今でいうと霞が関の役人がともすれば国益より省益を優先したがるのと同じことです。
対ソ戦になれば、戦場は満州ですから、海軍の出番はありません。ソ連にはかつてのバルチック艦隊のような遠路はるばるやってこれるだけの大艦隊もありませんしね。出番がないなら、面白くないじゃないですか。そっち優先となったら自ずと海軍予算が削られてしまうことになるので、そこは何が何でも譲れません。

陸軍も世間で思われているほど親独路線で一致していたわけではありません。元々陸軍はドイツ軍を模範にしていましたからそういう意味でシンパシーはあったでしょうが、特に直接の交流は昭和の頃にはありませんでしたし、むしろドイツ軍は蒋介石軍に軍事顧問団なんかを派遣していましたし(上海周辺にはドイツ軍指導の元で建設された要塞線、ゼークトラインがあり、そこにはドイツ製兵器が置かれていましたし、ドイツ軍装備と指導による国民党軍エリート部隊もありました)、むしろ陸軍内は皇道派と統制派による権力抗争のほうが激しかったくらいです。このへん、突っ込んでゆくと相当話はややっこしいです。
特に独ソ不可侵条約が締結されると、それは日本からすると「ドイツの裏切り行為」でしたから、そのショックで当時の平沼内閣は「欧州の情勢は複雑怪奇」という言葉を残して倒れてしまったほどです。

当時の日本は、決断できなくかつ目先の利益に飛びつく政治家、感情的になる日中関係、省益に走る陸海軍と、その陸軍は皇道派と統制派による内部抗争、そして陸海軍は予算獲得のために予算をけちる政権が誕生しようとすると陸軍大臣や海軍大臣を出さないという嫌がらせをして国会が空転する、という、え?わたしゃ今の政治の話しなんか全然してないですよ、昭和初期の日本の話しをしてるんですぜ。
もうね、日中間の感情のもつれなんてのは今とそっくり。昭和初期の新聞の論調と、今のネット右翼の論調はまったく一緒ですよ。「隠忍自重をしておれば全く調子に乗りやがって、シナの奴らめ。かくなるうえは一撃膺懲してくれん。さすればシナの連中も反省するであろう」って感じでね。

そのへん、一番判断が冷静で正しかったのは昭和天皇だったんですよ。二二六事件のときは「朕自ら兵を率いて逆賊を討たん」とまで激怒したし、日独伊三国同盟のときは「日米、日英関係が悪くなるだろ。海軍はアメリカ海軍に勝てないって悩んでたぞ」って警告したし、日米開戦を避けるためにあえて最も陸軍内で強硬派かつ忠誠心が高かった東条英機を起用したし、日米開戦には最後まで反対していました。開戦を決定する御前会議で「発言する」と言い出して侍従長以下首脳を慌てさせたほどです(御前会議で天皇が発言したという前例がなかったため「御前会議で決定しない」という事態が発生するのではないかと慌てた)。
最後にちょっと余計なことを書けば、だから終戦のときに内閣や軍の誰もが「国体の護持」に異常なまでにこだわったのです。昭和天皇の反対を押し切って開戦した手前、終戦にあたって天皇の首を差し出すってことはできっこなかったんですよ。そんなことになったら全員腹を切らないと収まりませんからね。
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>大日本帝国にとって間違った判断でしたか?



「間違った判断」というよりも,「判断するのに時間が掛かり過ぎて,判断した時には効果は半減してた」と言ったほうが良いかもしれません。
まずは,背景について纏めてみます。

当時は,日中戦争(シナ事変)が長期化し泥沼化していた時期でもあります。
その結果,米国との関係は日増しに悪化していき戦争に発展する可能性まで出てきていました。
一方で,欧州側ではドイツ軍が破竹の勢いで進撃していました。
これを受けて,ドイツと同盟をという(主に陸軍)という声が高まりました。
しかし,米国との関係改善が見込まれない状況に当時の 米内首相はドイツとの同盟を躊躇します。
その結果,陸相・畑俊六が辞任します。
当時の陸相は内閣の一員ですから,後任が決まるまで内閣は機能停止に陥ります。
これを利用して,陸軍側は後任人事を渋り,結果として米内内閣は倒れました。
その後,第二次近衛文麿内閣が誕生し,一気に日独伊三国同盟の話が現実味を帯びてきました。

近衛文麿の狙いは次の通りでした。
対米関係はもはや話し合いでは決着が付かない。
そこで,独伊と組みゆくゆくはソ連と組むことで大国と化した米国を牽制・反省させるのだと。
ソ連の危険は日独が東西よりソ連をけん制することで融和しうることが可能だ。
概ね以上のような目的を手記で語っています。

そしてこれを実現すべく,必死に同盟締結反対派である海軍説得を続けます。
しかし,この時間が命取りとなりました。
ヨーロッパ戦線でのドイツ軍の勢いが削がれてきたのです。
ヨーロッパ大陸を席巻したドイツ軍も,イギリス本土攻撃に手を焼いていました。
その為か,ヒトラーは背後にあるソ連が気になりだし,対ソ戦を計画し始めました。
日本ではそんな事は知らず,近衛の構想どおりソ連とも日ソ中立条約が締結されました。
ところが,その二ヶ月後にはドイツがソ連に宣戦布告,独ソ戦が開始されました。
その結果,日独伊にソ連を加えた四カ国連携による米国の膨張を抑えるという構想はあえなく潰えたわけです。
そして,海軍の対米強硬路線を抑えることが出来ず真珠湾攻撃へと繋がります。


>ドイツに執心だったのはなぜでしょうか?

明治維新後,日本は軍備の近代化を図りますが,その時に師事したのがそれぞれ「陸軍=プロイセン(ドイツ)」「海軍=英国」であったのが始まりだと思われます。
まぁ,設立当初から何かと対立しあってましたが,その要因もここかなと・・・
つまりは「伝統」ってことでしょうかね
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