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コトバンクから引用します。
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[形動]具体的事実に基づかずに頭の中で組み立てられただけで、現実に即していないさま。

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こう書かれています。 
この説明からして、「ドラえもん」というアニメは、観念的だ、と言えると思います。

なぜなら、「ドラえもん」は、未来に行ったり、変な道具を使ったりで、現実に即していない話だからです。これは作者の頭の中で組み立てられただけです。

しかし、いろんな人に、「ドラえもん」は観念的であるか?と質問したところ、ドラえもんは観念的ではないだろう、という回答をもらいました。

私の言ってることは、おかしいでしょうか? 私の解釈のどこが間違っているのですか?

A 回答 (5件)

 今までの質問にお応えする中で、「観念的」の対義語を敢えて封印してきましたが、No.1の方が示されていますので、ここからは使っていきます。


 先ず「観念論」の対極にあるのは「唯物論」です。この唯物論の立場を端的に示す言葉として「哲学者は世界を解釈したにすぎない、大切なことは世界を変革することだ」との『ドイツイデオロギー』に綴られたマルクスの言葉があります。マルクスに対する是非はさておくとして、マルクスがこの言葉で使っている「解釈する」なり「理解する」との言葉を「観念」と呼ぶことができます。

 「ドラえもん」の事例でいえば、『ドラえもん』という架空の存在を設定して一つの物語りを綴ろうとするならば、それは作者の世界観を反映した作品と呼ぶことにもなり、ガチガチの定義付けを根拠とするならば「観念的」との判断になりますが、僕はそうした考え方に少し疑問を持ちもします。ドラえもんが登場する世界は極日常的な世界であり、その中でのび太やジャイアンが「こんなものがあったらいいな!」と様々なリクエストをし、それを使ったらどうなったかが物語の主軸です。そうした光景をドラえもんのない世界でも私達は経験もし、自らがドラえもんの道具を作ろうとして様々なアイデアや工夫もします。そうした形を観念の世界と断ずることができるでしょうか?
 「物語」が全て創作であるとするならば、対極に位置するもの全てを創作物ではないとすることにもなります。けれども夏目漱石が書いた様々な作品は「漱石が登場人物の目を通して綴った物事や社会に対する一つの見方」を反映した結果であって、それを単に空想と呼ぶことにはならないと考えるからでもあります。
 『ドラえもん』の原作者、藤子・F・不二雄さんが子どもの頃に出会った実体験や話そして様々なメディアから得た知見を素に描かれた世界ですから、そこには子どもの夢もあれば、現実と直面した子ども達がそこから様々な知恵を得ていく材料ともいえましょう。そうした「仮託する姿」こそが、創作物にとっては最も大切な部分であって、それを一概に思念の中で生まれたものだからとしてしまうならば、創造するとの行為そのものを否定してしまうような気もします。
 創作の世界とガチガチな概念規定を求められる科学の世界では、言葉の使い方も異なりますから、何れが正しいなどとは一概に断言できない問題であると存じます。僕は「言葉には自由になる翼が求められる」と考えております。「自由になる、自由にする」とは言葉を辞書的な解釈だけでなく、自身で一つ一つ意味を与えていくとの創造的な営みでもあります。

この回答への補足

いつも回答ありがとうございます。

よければ、「観念的な文章」とはどのような文章なのか教えてください。

補足日時:2014/02/08 09:42
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過去から未来へ伸びる直線は、法則に則って予測された未来予想図。

未来から過去へと伸びる線は、来歴を失った未来からの空想線。交わって手を握り、お互いを脇から支え合う二つの空想。この比喩がいかに例え話の中であるにせよ、どれほど確率的にありえない出来事であるのかは、時間が二次元平面上をのたくるものではないことから明らかだ。だから多分ここには、その実現が起こりうる理屈を付け加える必要がある。
起こりうることは全て起こりうる。等しく起こるわけではないにしても、いつかは起こる。それは全くその通りだが、程度の問題ということはある。人が壁に衝突してそのまま通り抜けてしまう確率は零よりほんの少しだけ大きいように出来ている。そんな宇宙を想像することができるからにはそういうことになっている。しかし人一人が壁を抜ける確率よりは、人が瞬時に移動をしたり、見る間に崩壊したりする確率の方が余程高いことは言うまでもない。だから偶然にせよ壁抜けが起こるとするのは、それ以上に発生しそうな無数の事象が一切起こらないことまでも含意している。周囲をとりまく、余程起こりそうなことが起こらないのに、それより更に奇妙な事象だけが発生する。そんな実現の確率は当然、奇妙な事態単体の発生確率よりも更に気が遠くなるほどに小さくなる。
だからここには何かの法則か奇蹟を付け加えておくべきであるということになる。
そこに登場するはずの法則がどんなものかは知られることが期待できない。既に存在している法則の網目をすり抜けて、そんな種類の法則が存在しうることまでは実証済みの事柄である。その法則は、とある物質に作用する。ところでそんな物質はどの宇宙においても未だ発見されたことがなく、故にその法則の性質は知られていない。
法則は長年、その物質の運動を支配してくれようと手ぐすね引いて待ち構えていたのだが、存在していない物質の方はそもそも存在していなかったのだから、待ち人が来る理由もまたなかった。これではいかに無体な法則とても手を出せない。その法則は思案の果てに、そんな物質を産み出す法則を探す旅に出ることになる。
勿論その探索は失敗に終わるわけであり、故にその法則を知るすべはない。法則が知られていなくとも物質を手に取ることはできるのに、逆は不可だとは不公平だという見方はある。法則の方でも最大限に非を鳴らしてはみたのだが、周囲で急ぎ動く法則たちは、そんな声には耳をかさなかった。法則には耳がないと広く言われる由縁である。
作用するものを欠いた法則。奇蹟とかいうものの性質には非存在が含まれており、これ以上なく性質が悪い。

これはある小説を書き写したものです。ある種「観念的」と言えるでしょう。
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>具体的事実に基づかずに頭の中で組み立てられただけで、現実に即していないさま。



これを、ちょっと書き換えて

   頭の中で(言葉によって)組み立てられただけで、目に見えるかたちになっていないこと。

こうすれば、漫画の中で具体的な形にして提供される「どらえもん」は一応観念的なものとはいえないということがわかります。


かたちが実際にはない未来の話すべてが観念的だということではありません。観念というのは思い(心の中で思い浮かべる、まだ言葉の域をでていないもの)という意味がありますが、言葉だけで具体的なものを例えて示すことも十分可能ですし、そうなれば言葉の域を出たということがいえます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/08 11:36

言葉というものは辞書に書かれている意味だけで用途が決まるものではありません。


例えば「コップ」という言葉を辞書で調べたら「ガラスやプラスチックで作った、飲み物を入れる(おもに円筒形の)容器」と書かれていましたが、だからといってバケツをコップとは言えないでしょう。「うちでは飲み物をバケツに入れているよ」という人でもです。なぜならほとんどの人がバケツをコップとは呼ばないからです。
言葉の意味は、その言葉がどのようにその社会の中で用いられているかによって決まるのです。辞書はそれを後追いして、大まかな意味を説明しているにすぎません。子供が言葉を身につけるときも「この言葉の意味はこうですよ」とおとなに説明してもらうより、どういう場面でその言葉が使われるかを聞いて意味を理解していくことの方が多いでしょうし、外国語を学ぶ時もただ辞書の意味を覚えただけではなかなか正しい使い方は身につきません。

「観念的」という言葉も同じです。あなたは本や雑誌などを読んだり人と会話をしたりしている中で「観念的」という言葉に触れたことがありますか。哲学の本はともかく、日常生活レベルで「観念的」という言葉が用いられるとき、それは「具体的な事物を思い描けないような抽象的な意味を持つ言葉をたくさん使った、ちょっとわかりにくい表現」というような意味で用いられることが多いでしょう。「あの人の言うことは非常に観念的で、聞いててもなかなかイメージしにくくて困るんだよな」というように用いられたりします。また、映画というのは具体的な事物を撮影して作るものですから「観念的」にはならないように思われますが、具体的なストーリー展開がなく(またはあるのかもしれないけれど非常にわかりににく)、映像と音で作り手の抽象的な考えを伝えようとしているような作品は「観念的な映画」と称されたりもします。

だから、『ドラえもん』が「観念的な作品」だと言われるとしたら、『ドラえもん』を観た人の多くが「ストーリーがほとんどなくて、何を言いたいのかちょっとわからない作品だけど、作った人の深い考えがにじみ出ているような作品だったよ」というような感想を持つものになるはずです。例えばドラえもんが目をつぶって空中に浮かんでいるシーンが3分も続いたり、のび太が黙々と空き地に穴を掘り続けていたり、パパとママがじっと向かいあって「いい天気ですね」「そうですね」という会話を何度も繰り返していたり、そんな場面ばかりが並んでいたら、これは『観念的』と言えるかもしれません(「何の意味もない作品だ」「ふざけてる」などという人も多そうですが)。でも『ドラえもん』はそういう作品ではありませんね。だから、現実にはあり得ない道具があれこれ出てきたとしても、作り手が頭の中で組み立てたものであっても、『ドラえもん』を「観念的」とは言わないのです。

繰り返しになりますが、言葉の意味というのはその社会の中でどのように用いられるかによって決まります。いわば「多数決」で決まるのです。いつの日か「どこでもドア」や「暗記パン」など現実にはないものが出てくる作品を「観念的」と呼ぶ人が多くなる時代が来るかもしれませんが、今はそうではないので『ドラえもん』は「観念的」とは言えないのです。だから、あなたの質問、「私の言っていることは、おかしいでしょうか?」に対する答えは「はい」、「私の解釈のどこが間違っているのですか?」の答えは「言葉が実際にどのように用いられているかを考慮に入れていないところ」ということになります。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

よければ、「観念的な文章」とはどのようなものか、教えてください。

補足日時:2014/02/08 09:51
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このようの事柄に「観念的」とか「唯物的」とか云うこと自体ややそぐわないものを感じますが、空想科学小説やそれの派生は「空想」ですから、実際の事物が存在せない事になります。

その意味では「観念的」と云う辞も的外れではありません。「夢想的」と云う用語の方がしっくり来るのですが。

ただ、答えた方は「ドラえもん」は二次元世界だろうと、目に見え形も色もある声も発するのであるから、単に頭の中だけに留まっていないから観念的ではないと判断したと思われます。


このような事項は、関連する用語なり対する用語なりと合わせて理会すると良いでしょう。関連するではどこが違って居るのか、対するではどこどことが対立するのかと云うようにです。
又、このようの概念は必ずしも全ての場合に当て嵌まるものではなく、ある条件下で使うとか云う事があります。

記者からの宿題として、「観念的」と「唯物的」との違い(対する概念)、「抽象的」と「具象的」との違い(関連する対立概念)、「抽象する」と「捨象する」との違い(主体的か、被体的か)を整理して置かれる事をお勧めします。



「観念的」と云う用語は、独逸哲学(ヘイゲル哲学やリッカアトの哲学など)の用語の訳語で広まったものですが、今日では、それらの厳重の用語から独り歩きしてやや一般的の使われ方をしています。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

教えてください。観念的な文章とはどのような文章でしょうか?

補足日時:2014/02/08 09:39
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