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 たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。



 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。

 なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。



 《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。
 
 《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。






 信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。
 (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。

 受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。

 何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。




 このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。

 つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。
 (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。




 神および信仰は 人間の経験世界を超えている。

 この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか?
  
 内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。

 神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。


 これが 神である。これが 良心・信教の自由である。



 無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。

 まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。

A 回答 (24件中1~10件)

この言は、一種、空性を帯びているのかなと感じました。

汚れないのはその空性によると。
その空性が、信仰の動態にあるのか、神にあるのかは測りかねるのですが、おそらくは神の方でしょう。少しの感想を述べて見ました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ううーん。そうですね。


 そうですね。イメージとして通じた・・・のでしょうか?


 たぶん今回は 神を少し突き放したところに置いた恰好で捉えようとしているのではないかと思います。

 それが
 ★ 一種、空性を帯びているのかなと感じました。
 ☆ につながったのかなとです。

 ちがっているかも。


 ★ 汚れないのはその空性によると。
 ☆ たぶんわたしの言葉では 《ナゾゆえに》になると思います。同じ内容を言っているとしたら よかったと思います。




 ★ その空性が、信仰の動態にあるのか
 ☆ たしかに信仰は すでに動態として経験事象ですから ナゾそのものではないでしょうね。ワタシという存在がいます。その対象は 《汚し得ない》ナゾである。といった事情でしょうね。

 よって
 ★ おそらくは神の方でしょう。



 回答No.2に なにやらむつかしいことが書いてあるようです。(ちらっと見ただけですが)。

お礼日時:2014/03/04 22:00

相変わらずですねえ・・・



まるで言葉や持論の牢獄に囚われている様にも
見えます。

さて、思考、というものは必ずしも言葉で行われて
いるわけではありません。

それから、常にあなたの言葉には隠された
「想い」が色濃く感じられます。
人としてのあなたの「書かざるを得ない理由」というか。

でも、それ自体は語られているのを見たことが
ありません。

宗教的なニュアンスの問いかけ、のようにも
見えるような見えないような、目的を明確に
表現できないまま、煩悶をひたすら書いておられる
ように見えます。

以前も書きましたが、私の人生に全く無関係な方が
どんな神様を信じ、どんな思考をなさっているかは
殆ど私の関心の埒外です。

だから、批判したい気持ちも否定したい気持ちも
無いまま、書いています。

ある、問いかけをしたいがために。

死ぬまで理解されない、そして誰にも(僅かな例外を除き)
思考や着想の価値を認めてもらえないまま消え去り、忘れ
去られていく孤独について、あなたはどう、納得されて
いるのですか?

という問いです。

それこそが、膨大なあなたの言葉の泉の中で、ついぞ
語られることのない、目的であり、着地点であり、理由でも
有るはずなのにな、と私は思っているのです。

重ねて申し上げますが、これは批判ではなくて、極めて
哲学的な問いかけです。

僅かばかりの平凡な生を終えて、忘れ去られ、消えゆく
自分の人生について、どう揺るぎなく、納得していらっしゃるのか。

たった一人でも、誰にも理解されず、記憶にさえ留められず、
それでも、そんなことはどうでもいいと本心から感じ、満ち足りて
生きていく心の姿勢について、簡潔にお答え願えれば、と
思うのです。

それが、ここに私がお返事を書かせて頂いた理由です。

自分の消滅を考える事こそ、多分ですが、神の存在を知覚する
最短のルートだと、私は考えているからです。

神、というものを論じることは、自分と言う存在の無意味さを
避けては語れないものである筈ですから。

無い神、と書かれたことを反映したイメージでした。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 すなわち より精確に言えば
 ★ 極めて哲学的な問いかけ
 ☆ をありがとうございます。


 全体を問いとして受け留めて もう復唱せずにお応えしてまいりますが:

 答えは

  真理はきみたちを自由にする。(ヨハネ福音8:32 )

 にあると思っています。すなわちその問いを確認するなら 次です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 僅かばかりの平凡な生を終えて、忘れ去られ、消えゆく
 自分の人生について、どう揺るぎなく、納得していらっしゃるのか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 自分の消滅を考える事こそ、多分ですが、神の存在を知覚する
 最短のルートだと、私は考えているからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 すなわち 先ほどのお応えの中身を言いかえるなら:

  神――真理――の中にわが存在を自覚するという道

 のことです。《道・ルート》ですから 切れていないというところがミソだと思っています。
 ★ 僅かばかりの平凡な生
 ☆ が です。すなわち延長線――延長戦?――すらもあるという道です。通じますでしょうか?


 すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~
 神、というものを論じることは、自分と言う存在の無意味さを
 避けては語れないものである筈ですから。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というときの《わが存在の無意味さ》が 神ないし真理の知るところとなった(その道)という意味です。どうでしょう? お応え出来たと思っています。

 この応答内容は 《無い神》の場合でもまったく同じだと理解しています。

お礼日時:2014/03/04 22:17

 ブラジュロンヌさんに問う!



 「神に甘える」

 これの“真意”をここで表現してみてほしい

 まさか、子供が親にするような“甘え”とは違うよね。

 それに、回答ナンバー2への返事もあいまいだし。

 “ゆだねる?”“在りのまま?”

 たぶん、三大宗教、いや二大宗教への不信感、嫌悪感が『ブラジュロンヌ』を誕生させたんだろうと思います。

 そして、要するに「思考に非ず」というのは

 ☆ 既存の言葉に置き換えれば「親子の関係」の事である、はず、だよね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ まさか、子供が親にするような“甘え”とは違うよね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  そして、要するに「思考に非ず」というのは

  ☆ 既存の言葉に置き換えれば「親子の関係」の事である、はず、だよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ◇ 一応の比喩としては 《親にたいする子のあまえ。殊に母親に対する赤子のあまえ》を挙げようとしています。

 ただし 違いもあるはずです。というのは 赤子や子どもは やがて大人になるはずですから。

 つまりは 大人として神にあまえるというのは どういう事態か? として答えなければならないはずです。

 その再応のこたえとは?

  ○ 無条件・無制約のもとに=まったく自由に
  ○ 聖なるあまえ
  ○ 何でも自由に願えばよい。それが 神である。

 《聖なるあまえ》は 答えにならないでしょうが それでも《理屈抜きに》というような意味として 《無条件にうんぬん》と呼応しています。



 ★ “ゆだねる?”“在りのまま?”
 ◇ これでは 不満です。何故なら 《自由に願いを言う》ときに いちいち心を《在りのまま》にして身と心とを《ゆだねる》といった準備作業は要らないし しないからです。


 ★ それに、回答ナンバー2への返事もあいまいだし。
 ◇ という声を聞くと このままではまだ答えたことにならないようなのですが どうしますかねぇ。

 つまり《あまえる》という言葉を聞いて 受け取ったままに(その受け取った意味のままに) そうする。という答えではどうですかねぇ。ダメですか?

お礼日時:2014/03/05 00:07

いや。


反対意見がある。
非思考の庭を共有した状態がありうる。

個人的な事を言えば、それは共同作業中のコミュニケーションでね、
私は私の兄とかつてこんな共感作用を共有していた。

兄の言葉>ちょっとこれ持ってきて。
私の言葉>コレ?
兄のビジョン>>コレ。
ここで兄のビジョンを共有し私にその品の映像が見える。
私の言葉>どこ?
兄のビジョン>ココ。
ここで兄のビジョンを共有し、棚の映像が見える。
私はなにせ理解できたので>わかった。
そして行動として、言われた品を兄の元に届ける。

これらはテレパシーの仲介したコミュニケーションだが、共有しているのはあなたの言う非思考の庭ではないかい?
私は宗教を必要としないが、宗教の場の共有は、こうした非思考の共有を目指しているんでないかい?
あなたの批判は聞きあきたよ。
理解しようとする努力について聞かせてくれ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 理解しようとする努力について聞かせてくれ。
 ☆ 理解するって 何を?

 努力って たとえばここに書いたたたき台である。

 ★ あなたの批判は聞きあきたよ。
 ☆ 批判って あなたの考えへのか それとも たとえばここに展開している宗教への批判のことか?

 聞き飽きたなら その中身を了解しているのではないか?

 と言っても
 ★ 宗教の場の共有は、こうした非思考の共有を目指しているんでないかい?
 ☆ 宗教とは 《オシエを信じる》という現実にあり得ないことを考えてそのオシエなる神に近いところから 聖なるつとめとしての組織内の最高の地位を決め そのもとに権限の階層をつくり組織内の人間の関係を取り決めその外の人びとをも従わせようとするウゴキである。百害あって一利なしと言っています。

 聞き飽きていないぢゃん。ひと言も聞いていないぢゃん。





 ★ 非思考の庭を共有した状態がありうる。
 ☆ それは このように述べた考えなる内容を共有することではあっても おのおの存在の奥底なる《非思考の庭》そのものを共有するということは おかしい。

 思考に非ずを共有するというのは 漠然としすぎている。
 あるいはぎゃくに
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~
  受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。

  何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というとき このナゾを共有しているということは あり得ます。ただし理性による思考において共有することは それがあるとしても あくまで仮りのことです。

 つまり言いたいことは 人間が神を共有するというのではなく 必ずしもそうではなく 神によってわれわれにんげんは 知るところとなったなら そのことが 誰にとっても共通であるといった想定事項のことです。

お礼日時:2014/03/05 06:42

その通りで、謎ゆえに、というところに空性を垣間見た気がします。


対象が非知である時、それは空性を帯び得ると、いや空性を帯びるので僅かに当事者との接点が生まれ、信仰の対象となり得るのではないかと考えました。非知の何某にむかって信仰の矢を放つ時、空を認識するのではないかと思います。
些か難しいことを言いましたが伝わるでしょうか。
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この回答へのお礼

 ★ 空性
 ☆ と言うと ややこしいという感じがしていて そちらのほうへ持って行きたくない思いがあります。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 たとえば 例のミケランジェロの《アダムの創造》を描いた部分。

 ▲ (ヰキぺ:アダムの創造)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80% …
 ☆ つまりその中の《神とアダムとが向き合っていて 互いに指先が触れなんとする状態にある》部分です。

 むろん思考に非ずを どうしてもと言うので イメージとして・或る表象として描いたに過ぎないのですが これが
 ★ いや空性を帯びるので僅かに当事者との接点が生まれ
 ☆ といったその接点の感じを伝えているかも知れない。――そうでないかも知れない。のですが。




 ただし 次の命題における認識は 違っているように思います。
 ★ 非知の何某にむかって信仰の矢を放つ時、空を認識するのではないかと思います。
 ☆ 非知の何某から 或る日或る時 そのナゾの風が吹いて来てナゾのおとづれがある。のです。雲をつかむようなナゾをナゾとして受け取り 神として受け容れる。これです。信仰の成立は。
 (あとで考え直しています。つまり 違ったかたちであるけれど それは 《有る神》と《無い神》との違いであって それらは互いに 同じひとつの神であると)。



 いま《神として》と言いました。
 そうすると すでに《かみ》という言葉〔の使用〕じたいに 何かわれわれの心の内に反応する自然本性のハタラキがあるのか。それとも そういう《かみ》という言葉を持ったときからの言葉づかいの習慣がただ単に人びとのあたまの中に 或る種の《かみ反応》をつくってしまっただけなのか。

 でも 非知なる場についてはそれとの関係が 経験世界に生きるヒトの自然本性なる身と心に しかもその生身の存在をあたかも超えて・つまりは思考や言葉を超えて そのこともあたかも生まれつきのことであるかのようにそなわっているのか。




 ★ 空 
 ☆ は シューナター(からっぽ・ゼロ)のことだと思いますが あつかいにくい。《無い神》のことだとすれば わかりやすいのですが それもいまの《かみ反応》を言う場合には どうもあつかいづらい。のではないでしょうか?


 要するに その場合には

  《空》論

 を展開していただかなくてはならない。と考えます。《かみ反応》の無い場合としての《かみ反応》になるんですかねぇ。

お礼日時:2014/03/05 07:13

ご無沙汰をしております。


ここ2ヶ月ほど、ネットを使えない環境におりましたもので・・・。

最近、ニーチェを少し見直しております。で、柄にもなく、ニーチェを少し弁護(ポリポリ)。

☆ 《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。
◇ニーチェの「神の死亡」宣告の本意は、聖書に書いてあるような、人間を絶えず監視し、事あるごとに人間に干渉、お節介をする、人間のプライバシーを土足で踏みにじる、覗き趣味の神さま、もしくは、そう想定されている(神学上の)神の否定であって、神さまそのものを否定していない、というようなことを書いてあるものをを読みました。
全知者、監視者としての神さまはそれをたえず見張っている。ここに真の自由は存在しない。ずっと見張られており、その視線を意識しないわけにはいきませんから。どうしても、行動や思考に制限が加わってしまう。真の意味での自由はそこにない。
シャイでナイーブなニーチェには、ユダヤ・キリスト教的な、人間(の内面まで)を監視するものとしての神という存在が耐えられなかった・・・、云々ウンヌン。
人間が真の自由を獲得するためには、こうした神さまには死んでもらわないと困る。死んでもらわないまでも、どっかに引っ込んでもらって、その覗き見趣味をやめてもらわないと、人間は恥ずかしさのあまりおっ死(ち)んでしまう。
ということで、ニーチェは、神さまそのものを否定しているのではなく、人間の内面まで土足で踏み込んでくるユダヤ・キリスト教的な神さまという存在、支配原理を否定している、拒否している、とかいないとか。

事実、ニーチェの時代には、一部の敬虔なクリスチャンを除いて、このような神さまは死んでいましたしね~。

☆《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。
◇人間の支配原理、あるいは、自然現象の説明としての神(仮説)をもって神さまと言うのならば、多くの人にとって死んでしまったのでしょうね、神さま。理性や人間の良心、自然科学などがそれに取って代わる神さまになっている。神さま像は時代や社会(の要請、求め)によって変わるということになるのでは。
もちろん、これは非思考・非経験の神さまではありませんけれどもね。


☆☆☆☆☆☆
ちなみに、
 ○すべての実在との一体感は、個人の身体的な境界意識を遮断することで生じる。
 ○神の存在あるいは超自然的な存在の感覚は、「自我システム」を二分して、他方が一方を別の実体として見るときに生じる。
という認知科学からの、神さま経験の反論があるようです。
要するに、神さまヴィジョンというものは、人間の頭が勝手にこさえたもの。

さらに、
 ○神さま経験は、神さまという存在の感覚は、脳が暴走しないように、パニックを起こさないように、脳が作り出したマヤカシの感覚であり、脳の暴走を防ぐために備わった安全装置である。
などという研究者もいるようです。
───「神の座」といわれる脳の部位が見つかっている。ここを刺激すると、いわゆる『神さま経験』といわれるものが現れることが知られている───

《非思考・非経験の場》における神さま体験に対する自然科学的アプローチからの反論です。
そもそも、前提となるこうした経験(?)が、心や脳が作るマヤカシならば、前提がおかしいことになってしまいます。
この件についていかがお考えでしょうか?
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この回答へのお礼

 やあやあやあです。話をしていましたが 催促はしないことにしていました。

 まづは こんにちは。ご回答をありがとうございます。
 この間 かなり翼がひろがった感を持っています。


 ◇ ニーチェの「神の死亡」宣告の本意は、聖書に書いてあるような、人間を絶えず監視し、事あるごとに人間に干渉、お節介をする、人間のプライバシーを土足で踏みにじる、覗き趣味の神さま、もしくは、そう想定されている(神学上の)神の否定であって、神さまそのものを否定していない、というようなことを書いてあるものをを読みました。
 ☆ このことは そのとおりです。しかもそう発言するだけでは 同時に 《信仰を知らない》と言わねばならない。こう考えます。 

 つまりまづ 《聖書に書いてあるような》は 仮りにそうだとしてもその額面どおりに受け取るのは おかしいという留保条件をつけますが。

 つまり確かに 旧約における《多民族の虐殺〔を命令するヤハヱー〕》は 弁護がむつかしいですが 聖書の叙述から 《神は死んだ》と言わねばならない神観をしか読み取れないとしたら それは《信仰を知らない》発言だと言わねばならないと考えます。

 つまりは ひとが生まれたときから死ぬまで・いえ 死んでからもその生ないし人間を管理し支配するかのような教会制度 そこにおける《観念の神・あるいは文明としてのナラワシの中に倫理的にしろ何にしろはたらき人を拘束する観念の神》 これに対して意を唱え批判する言動じたいには 問題はないと考えます。考えますがそのとき同時に では《神とは何か? 信仰とは何か?》についてきちんと明らかにしていないのなら それは やはりいただけません。活用し得ない思想です。

 というより けっきょく《超人》だとか《永劫回帰》だとかのマボロシの《観念の神》を建ててしまっている。のではないでしょうか。




 ◇ 全知者、監視者としての神さまはそれをたえず見張っている。ここに真の自由は存在しない。ずっと見張られており、その視線を意識しないわけにはいきませんから。どうしても、行動や思考に制限が加わってしまう。
 ☆ このように規定した神 それは 人間の想像し思考しうる内容としての神の像です。つまり 自分たちが勝手にそう考えて マチガイとしての神をいただいただけのことではないでしょうか? ――と説明して 《神は死んだ》と説かなければならなかったはずなのです。



 ☆☆(趣旨説明欄) ・・・初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある。
 ☆ というところまで明らかにする必要があったはずです。そうし得なかったなら 《信仰を知らない》発言であるとなります。





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・認知科学からの、神さま経験の反論があるようです。
 要するに、神さまヴィジョンというものは、人間の頭が勝手にこさえたもの。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 人間が規定したものとしての神と 人間が想定したものとしての神とは違うと考えます。

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~
  信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。
 ・・・

 受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。

 何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このような神は 受け容れる前もその後も 認知科学で言う意識や感覚による認知とは カテゴリとして別です。

 いっさいの認知がないことを そのナゾは 前提しているからです。そうでなければ 神ではないという想定です。〔だから 神を名(――ことばですから 何らかの概念認識はありえましょうが それを打っちゃって 名前――)だけのこととして受け容れるかたちです〕。





 その上で 実際問題としては 人それぞれに 神体験は有り得るようです。

 わたしは神を見たとか あのときは神のチカラがはたらいたのだと思ったとか。これは あくまで主観のもんだいです。

 《規定しうるかし得ないかについて 人間によっては 規定し得ないナゾ》なのですから 主観の内面にあっては おれは規定し得たとか 規定以前にその実在(チカラの作用)を把握したのだとか言う場合はあり得るようです。

 ただその主観内容を共同化することは かなわないでしょうね。


 というナゾなのですから 自然科学も おそらく同じ神観を共有するものと考えます。自然科学は そういう大前提については いちいち触れないようですが。

 《非思考の庭》は やはり 想定による人間現実であると考えられます。それを自然科学は扱わないという暗黙の前提を置いていると見られます。


 

お礼日時:2014/03/05 16:04

そうですね、自然本性を語った場合、空は適切な気がしません。

いい話が聞けました^_^
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 自然本性を語った場合
 ☆ なら 移ろいゆく限りのある存在であっても 存在があることは それとして認めなければなりませんから 《無 ないし 無い神》から出発する議論は なかなかうまく形成しづらい。かも知れません。



 ● (空・シューニャター) ~~~~~~~~~
 http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=zUnyat …

 शून्यता zUnyatA
 f. illusory nature
 f. nothingness
 f. absence of mind
 f. absence or want of
 f. illusory nature of phenomena
 f. desolateness
 f. non-reality
 f. loneliness
 f. non-existence
 f. vacancy
 f. emptiness
 f. distraction
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《まぼろし( illusonary nature )》といった意味もあるようですが 《無( nothingness )・からっぽ( vacancy / emptiness ))が 基本ではないかと見られます。



 《空》観としての理論じたいは あり得ますけれど。

お礼日時:2014/03/05 16:19

 「★」「☆」「~~~~~~~~~~~~~~」



が頻繁に出てきて非常に読みにくいです。
もう少し、砕いて書いて頂けると助かります。
------------------------------------------------------------
 全体を問いとして受け留めて もう復唱せずにお応えしてまいりますが:
 答えは「真理はきみたちを自由にする。(ヨハネ福音8:32 )」 にあると
思っています。
-----------------------------------------------------------

は、文自体はよく判りますが、真理、の前に「私が説く」という言葉が
隠れていると思います。

-----------------------------------------------------------
 すなわち 先ほどのお応えの中身を言いかえるなら:

  神――真理――の中にわが存在を自覚するという道

 のことです。《道・ルート》ですから 切れていないというところが
 ミソだと思っています。
----------------------------------------------------------
神、真理という崇高なものを深く理解しているわが存在は
神や真理の中に永遠に続く。

というような意味合いに読めてしまいそうですが、そうなのでしょうか?

私の聞き方が甘かったのかも知れませんね。 

-----------------------------------------------------------
私:あなたは僅かばかりの平凡な生を、つかの間送ってから、消え去り、
  忘れ去られる。 それについてどう納得しておられるのですか?
-----------------------------------------------------------

と問うたのは、あなたご自身の遠からぬ消滅についてお訊きしたのです。

-----------------------------------------------------------
あなた:それは、神や真理という「永遠、崇高さ」の中に、私がその
     一部として存在しているが故に、一切の思考が及ばぬ
     「超越」或いは「完全無欠」に私の命は含まれている。
-----------------------------------------------------------
というように私は安易に読み取ってしまいました。

私の問いかけは世界に (勿論それを「神」や「真理」と呼ぶのは
各々の自由ですが) 含まれている「命」について問うたものでは
なく、人として生きている僅かな人生の期間、思い、悩み、考え、
喜怒哀楽にまみれて死ぬ時まで縛られている、あなたの「自我」の
消滅や無意味さについて問うたのです。

あなたの設問文にある「非思考の庭」という観念自体は条件付き
ですが、然程違和感無く受け止められます。

が、その後の (信仰) という二文字と、「誰からも汚され得ない」
という一文が、強い違和感があるのです。

イチゴの乗ったショートケーキが味噌ラーメンの中に浮いている
ような違和感です。 全然違うものがあるべきでない所にある。

哲学的な観念が、極めて個人的な世俗的感情論、にストーンと
レベルが堕ちてしまう。

だから、「あ、通じてない。やっぱりいつものような思い込みの
答えが返ってきた」と思ってしまう。

私なら、「非思考の庭」という宗教的な匂いのする単語は使わず、
「思考と無関係に存在する理」とでも、とりあえずしときます。

そんな卑近な意味ではないよ、と仰られたいかも知れませんが
先ほど述べたようにラーメンからケーキを、とりあえず分離する
方が先です。

そういう解釈なら、「非思考の庭」なる言葉もよく理解できるのです。
人の感情だの自尊心だの価値観だの思考だのを一切離れて
この世の「理」は存在し、無辺に広がり波及する、それは道理。

物理学をはじめ、様々な学問が見出した法則も、それから導き
出された応用・・・誰もが簡単に使えるようになった魔法のような
技術も、人間のちっぽけな感情などお構いなしに営々と
築いてきた科学文明の所産ですから。

それらは「世界の理」の、ほんの一部を操ることで人類が
手にしたものです。

だから、人の感情まみれ、自尊心まみれの「思考」などから
はるかに遠く純化された合理的演繹、あるがままに捉え、
それを再現できるように試行錯誤してきた「作業」として、
ようやく「世界の理」というものに少しだけ触れることが
人類には許されてきました。

そのような意味として「非思考の庭」という観念を捉えるなら、
一応の理解は出来る、ということです。

が、先ほど述べたように、それはとても純粋な、少し乱暴ですが
科学、或いは哲学としての位置づけでの「非思考」の領域に
ついての見解です。

そこに(信仰)とか、誰かに汚される、という個人の感情が
まぶされると、それは万人が共有できる知的財産としての
思想や哲学ではなくて、単なる個人の信仰の自由を批判され
棄損されたと感じた、という不満の表明でしかなくなってしまう。

どんなに自らを神の一部として位置づけても、あなたも2060年には
お墓の下に入っているし、親族の間でも何年か経てば話題に
登ることもなくなってきます。

あなたの命が、死後再び命の原料として、命の源流に還って
いくのは自然の理としても、あなたの思考や感情、記憶、人格、
それらは全て斎場の炎に焼却され、忘れ去られ消え去ります。

その事実は、宗教とは全く別の、逃げられない現実です。

そこに、あなたの言葉が多くの矛盾を孕み、読み難いなあと
思わせる混乱があるように見えるのです。

信仰は、人間にはどうにもできない自然への畏怖と、
自然界では当然である弱肉強食から逃れようと生み出した
人間の幸せのためにのみ造られた「究極の物語」です。

それは、先ほど述べた「世界の理」という、科学的・哲学的な
「知の財産」とは、また異なるものです。

その二つが混同されているように見えるのです。
それをラーメンとケーキになぞらえたのです。

他の方とのやりとりを拝見し、あなたの言葉が中々
理解されず、根本的にあなたが大切なことを理解せずに
独りよがりに騒いでいると評されたことへのいらだちが
ここしばらくトーンダウンしてきた心理的背景について
思いを巡らせずにはいられません。

つまり、極めて人間臭い思考そのものです。

その個人的自尊心に基づいて人間、とか人間の思考、とか
途方もない巨大なものを余りにも簡単に一言でくくって
しまっていることも、先に挙げた「世界の理」という、純粋な
捉え方の対極にあるものです。

そこに、いつもあなたと誰かのやり取りに付きまとう
「根本的な矛盾」があるのです。

汚すとか貶すというのは人間社会での不平不満を表す
個人的な気持ちを表す語、です。

あなたが何かしらの個人的欝憤を抱えていて、世間の奴ら、
俺を馬鹿にしやがって!お前らがいくら俺を罵っても、俺は
崇高な存在なんだから心に傷一つつかないもんね~、

なんて書かれていたら、誰でも「判る判る・・・」と納得は
するでしょう。 (まあ、褒めてはくれないでしょうけど)

でも、個人的感情でしかない「語」と、それを組み合わせて
作られた文章で「神や真理」を語る、となると余りに無理が
生じる、と言いたいのです。

人間的な感情論と哲学的考察を宗教を媒体に結ぶと
人に伝わるための大切なルールを無視したやりとりに
終始しがちです。

だから、それらを切り離して考えることができなければ、
人が共有できる知としての帰結から遠ざかってしまうのです。

多くの人々の人生は何も為せぬまま、忘れ去られ、
消え去って行きます。

その虚しさを「無情」という哀しさとして捉え、様々な音楽や
文章が生み出され、世の人々の共感を得て、皆の気持ちを
代弁するものとして、数多くの作品が創られ、遺されて
来ました。

取るに足りないつかの間の人生を精一杯生き、そして
消えていく虚しさを、人々は身近な人々とのありふれた
日常への感謝と、それらの心動かす作品に触れることで、
「自分だけじゃない、皆辛いことは辛いし、辛いばかりの
人生でもないんだ」と慰められ、励まされて、毎日生きて
いく。

その中に、心のよりどころとして、同時に民衆を支配する
力として、宗教があり続けたことは、とても人間臭いことです。

でも、所詮、宗教もまた、人が人のために生み出した
産物に過ぎず、超越的な「世界の理」へのアプローチは
個人の幸福からは乖離する宿命を持っています。

神、という超越した「理」は、別に人間を救ったりは
しません。 でも、現実の酷い地獄を見て尚、神は人を
愛していると頑なに思う人の心には、もはや人々が
納得する道理ではなく、ただひたすらに自分の全人格を
肯定するものへの執着に終始することになるでしょう。

それを「祈り」と称しても良いかも知れないな、とも
思います。

祈りとは、執着心とも言える。

祈りは一人でするものです。

それでお訊きしたのです。あなたの無常について。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  「★」「☆」「~~~~~~~~~~~~~~」

 が頻繁に出てきて非常に読みにくいです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これにつきましては この方式がいまのところ 妥当であるとは思っています。

 
   ★ と ☆

 とは 回答者と質問者とをそれぞれ指定するのに役立ちます。そして

   ~~~~~~~~~~~~~~~

 については 長い文章を引用する場合には けっきょくどこまでが引用部分であるかを明らかにするために必要であると思っています。

 いろいろクレームがついたこともありましたが いまのところさほど読みづらいというまでではないと 受け留めています。斟酌していただけると思うのですが どうしてもいけないでしょうか。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  答えは「真理はきみたちを自由にする。(ヨハネ福音8:32 )」 にあると
 思っています。
  --------------------------------

 は、文自体はよく判りますが、真理、の前に「私が説く」という言葉が
 隠れていると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この真理は 神のことだと説明しています。次のとおりです。

 ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
  先ほどのお応えの中身を言いかえるなら:

  神――真理――の中にわが存在を自覚するという道

 のことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《絶対 あるいは 無限》が 人間にとって普遍性を表わすのではなく 単なる主観的な概念であるとは理解していません。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  神、真理という崇高なものを深く理解しているわが存在は
  神や真理の中に永遠に続く。

 というような意味合いに読めてしまいそうですが、そうなのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも ほかのわたしの説明を合わせて受け取っていただければさいわいなのですが。つまりは

 ☆☆(No.2お礼欄)・・・《わが存在の無意味さ》が 神ないし真理の知るところとなった(その道)という意味です。
 ☆ すなわち 《神の知るところとなった》というのは 人間・わたし・つまりその主観としての《思考や理解〔するところのわが存在〕》ではないという意味をふくみます。

 言いかえると 《神の知るところとなる》かどうかは 分からないとも言っています。(分からないというのは げんみつに言えば 《分かるか分からないかが分からない》という意味です。したがって それゆえにこそ 主観は 《神を知った》とか《神の知るところとなったという予感がする》とかというふうには 主観の範囲内では 言えるという事態が 神ないし信仰の問題では起きることです)。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私の問いかけは世界に (勿論それを「神」や「真理」と呼ぶのは
 各々の自由ですが) 含まれている「命」について問うたものでは
なく、人として生きている僅かな人生の期間、思い、悩み、考え、
喜怒哀楽にまみれて死ぬ時まで縛られている、あなたの「自我」の
 消滅や無意味さについて問うたのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《自我》あるいは 無意識・エス・超自我 これらの用語は マヤカシであると理解しています。

 【Q:《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7232092.html

 詳しくは触れませんが 要するに《わたしという人間存在 あるいは わたしという人格》がやがて消滅するというその意味での無意味さについて どう考えるのか? という問いとして答えました。

 繰り返すなら:

  この移ろいゆく存在としてのわたしについて その限りある
 存在のままで――生身のからだのままで―― 《非思考の庭》に
 あっては 神とのかかわりが成っているという受け留めを持つ。

 こう言っています。言いかえると 《無意味さ》は 無意味さとしてそのままこの経験世界にある人間存在として認識され得ると 同時に言っています。そのとき わが存在が神の知るところとなる可能性はある。こういう意味です。ただし その可能性は あくまで《非思考の庭》にあってのことであるとも言っています。またそのことが この問いの主要な中身です。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 「非思考の庭」という観念自体は条件付き
ですが、然程違和感無く受け止められます。

 が、その後の (信仰) という二文字と、「誰からも汚され得ない」
 という一文が、強い違和感があるのです。

 イチゴの乗ったショートケーキが味噌ラーメンの中に浮いている
 ような違和感です。 全然違うものがあるべきでない所にある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは かんたんだと思いますが。

 つまり 言っていることは

   非経験の場(これを受け容れると 非思考の庭が成る)と
  経験世界(そこでは 汚されることがある)とは 別だ。

 というに過ぎません。どうでしょう。





 ★ 私なら、「非思考の庭」という宗教的な匂いのする単語は使わず、
「思考と無関係に存在する理」とでも、とりあえずしときます。
 ☆ お言葉を返しますが 《理》は やはりなお《思考》の世界にあると捉えています。《ラーメンとケーキ》とは むろん思考および感覚の世界です。


 ★ 人の感情だの自尊心だの価値観だの思考だのを一切離れて
この世の「理」は存在し、無辺に広がり波及する、それは道理。
 ☆ この命題について 考えるところを述べます。

 すなわち 《非経験の場(これが 真理であり神のことです) または それを心で受け容れたときにわが心に成る非思考の庭》は 経験世界を超えていますが それを《離れる》ことではありません。

 むしろ絶対の場としては 相対の世界を 超えているなら 覆いつつむとさえ考えられて来ます。それゆえ 神の遍在といった説も出されて来るわけです。

 神は この世界を超えていますが そこから離れるわけではありません。それゆえ 指先がわが身ないしわが心に触れたかに思われるような体験を――主観内にとどまるかぎりで――持ったと捉える場合も 出て来ます。
 それらは いっさい分からないことですが。つまり分かるか分からないかが分からないナゾとして 神はわれわれにとってかかわっている。と推し測られます。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・ようやく「世界の理」というものに少しだけ触れることが
 人類には許されてきました。

 そのような意味として「非思考の庭」という観念を捉えるなら、
 一応の理解は出来る、ということです。
 ~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ いいえ。そういう意味での《世界の理》は 《非思考の庭 ないし 非経験の場》の言わば補助線であると見ます。世界の理そのものは 思考ないし認識の対象であり 経験世界に属します。神ではありません。



 ★ ~~~~~~~~~~~
 そこに(信仰)とか、誰かに汚される、という個人の感情が
 まぶされると、それは万人が共有できる知的財産としての
 思想や哲学ではなくて、単なる個人の信仰の自由を批判され
 棄損されたと感じた、という不満の表明でしかなくなってしまう。
 ~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ならば たとえば《それは 神を冒涜する言葉だ》といった表現がいまなお何故聞かれるのでしょうか? それは 《神と人間とをマゼコゼにして捉えているマチガイ》であると明らかにする意味が この問いにはあります。



 ★ どんなに自らを神の一部として位置づけても
 ☆ 人間が自分で 思考をつうじて 《みづからを神の知るところとする》のではありません。非思考の庭なる世界においてのことです。そして 非経験の場が そのように非思考の庭に受け容れられているなら それは――受け容れるというのは 人間の・わたしの意志行為なのですから―― 非思考であるにもかかわらず 現実の一部である。こう捉えて その成否を問うています。


 その《真理がすべてにおいてすべてである》ようなわが存在の・神による受け留め〔という想定〕は
 ★ あなたも2060年にはお墓の下に入っているし
 ☆ という事実としての見通しとは両立します。


 ★ 信仰は、・・・自然界では当然である弱肉強食から逃れようと
 ☆ するためのものではありません。むしろそのような現実を受け容れ しかもそれと両立する非思考の庭のやはり現実性を見ている心的現象です。


 ★ ~~~~~~~~~~
 あなたが何かしらの個人的欝憤を抱えていて、世間の奴ら、
 俺を馬鹿にしやがって!お前らがいくら俺を罵っても、俺は
 崇高な存在なんだから心に傷一つつかないもんね~、
 ~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 誰もがそうだと言う問いです。

 ★ その中に、心のよりどころとして、同時に民衆を支配する
 力として、宗教があり続けたことは、とても人間臭いことです。
 ☆ そのあとの但し書きを引用しませんでしたがそれがしめすように シュウキョウが まやかしであると言っています。

 《無常》が現実の全部だなどと誰が言ったのですか?

お礼日時:2014/03/05 18:20

仏教の空観が出たので、少し横槍を入れます。



禅宗の禅については知りませんが、
───わたしに言わせると、禅の空や無は、老荘の《無》の仏教バージョンです───
インド的な仏教におけるヨーガ、毘鉢舎那(ビバシャナ)は、何か対象を心の中で作りだし、要素に分解するなどして、そこにアートマンや自性(svabhAva)がないことを観察するというのが基本です。
心の中に何か場を設定し、その中の対象を除去していく。すると○○の中には何にもなくなる。○○はカラッポ、空だ。
ぶっちゃけ、これが《空》という奴です。

たとえば、ダンマパダに
~~~~~~~
92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
~~~~~~~
とありますが、
解脱の境地は、執著や煩悩とよばれるものがないから、空(それらが空っぽ)であり、無相(これといった目印、特徴がない)となります。
ここで、何かものすごいこと───たとえば、悟りや解脱と呼ばれるものは、本当はないのだとか───を書いているわけでも、語っているわけでもありません。
また同時に、空という特別な存在、原理があって事物を空たらしめているわけではなく、そのものはもともも空である。そんなものはアートマンでないから、執著の対象にならないし、
また、
その奴隷になるから、そんなものに執著してはいけない、と仏教は説きます。
《空》に執著するなんて、《空》に対する神学や形而上学を作る、でっち上げるなどは、まして論外!!
《空》や《空観》は、あくまで、アートマンならざるものへの執著を断つために説かれたものなので、これに執著する、拘るのは、本末転倒。
アートマンがあるかなしかは別にしまして、
諸法無我あるいは諸法非我であることを知るために、心の底からこのことに気づくために、そして、真の心の自由、自在さ───bragelonneさん的に表現をするならば、心の明け(?)───を獲得するために、《空》や《空観》は説かれているので。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 まづ 《横やり》は らせんかいだんさんとのやり取りのほうにもお願いしたいところですね。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 アートマンがあるかなしかは別にしまして、
 諸法無我あるいは諸法非我であることを知るために、心の底からこのことに気づくために、そして、真の心の自由、自在さ───bragelonneさん的に表現をするならば、心の明け(?)───を獲得するために、《空》や《空観》は説かれているので。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 要するに 経験世界における事象は 《仮象》であるということではないのですか?
 仮象だから からっぽであるし 同時に仮象としては 現象していると。


 あとは もし霊我としてのアートマン――つまり 何を隠そうそのままブッダターのことだと見ますが――が無いとする見方をとるなら その信じる対象は ブラフマン(梵)神(ないし 法身のブッダ)ではなく 無梵または《シューニャター(空)》と呼ぶといった仮説においても 用いられるかも知れません。



 自性清浄心について やはりなおちらっと触れておいてもらって 《世界の理》論をめぐってひと言(または 二言三言でも)述べてくださいな。

お礼日時:2014/03/05 18:32

☆ 要するに 経験世界における事象は 《仮象》であるということではないのですか?


 仮象だから からっぽであるし 同時に仮象としては 現象していると。
◇大乗的には、特に中観では。でも、これは全仏教共通の考え方ではないです。同じ大乗でも唯識などでは、仮象に(取りあえずの)存在性は認めています。縁起(依他起)のものに分別vikalpaが加わるから、いけない。分別(ハカライ)がなくなれば、消えれば、真実(性)・《円成実性》、存在の真実の姿が自然と現われてくるみたいに、初期唯識では考えます。
で、分別とは何だ・・・。突き詰めていけば、言葉だ、言葉(概念)による、思考だみたいになります。そして、概念知では絶対に真理に到達できない。ヨーガによる超経験的な直覚知によってのみ、真理や真実在と言ったものに到達できる・・・。
まぁ、そんな感じですかね。


☆《世界の理》論をめぐってひと言(または 二言三言でも)述べてくださいな。
◇物理というのは、物理的な量の間の結び付き、その関係を記述する、一つの物の見方、自然観、現象説明の技術に過ぎないと、私は考えています。そして、そこには、当然、いろいろな仮定や仮説が入っています。
また、量として表せないものは、基本的に物理の対象にはなりませんし、そもそも物理に馴染まない。
したがって、そこにはおのずと限界があります。
たとえば、ニュートンの運動方程式、
f = mα
fは力、mは質量、αは加速度なのですが、なんでこの等式が成立するのかは分からないし、それは問わない。物理現象を記述できる、そして、かなりの精度で結果を予測できさえすればよい。
そして、この(支配)方程式こそが物理でいうところの真理。
理論と現象が一致しないときは、現象に合うようにつじつま合わせの怪しげな補正を行ったり、摩訶不思議なモノの存在を仮定したりしま~す(笑い)。

映画「レッドプラネット」で物理学者から神学・哲学に転向した乗組員の言葉を紹介しま~す。
「科学は人生にとって大切なことを何に一つ答えてくれない!!」
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ◇ 縁起(依他起)
 ☆ は 世界を 仮象を見なすことではないのですか? 
 仮りに因縁によって起きているのであって 変わらざる実体ではないと。

 ◇ ・・・真実(性)・《円成実性》、存在の真実の姿が自然と現われてくるみたいに、初期唯識では考えます。
 ☆ これが ささやかにでも《実体》――《存在》――を言っているということでしょうか?





 ◇ 理論と現象が一致しないときは、現象に合うようにつじつま合わせの怪しげな補正を行ったり、摩訶不思議なモノの存在を仮定したりしま~す(笑い)。
 ☆ 《摩訶不思議なモノの存在を仮定したり》するというのは 《非経験の場 ないし 非思考の庭》ではなく 経験事象としての化け物のことですよね?

お礼日時:2014/03/05 22:37

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