アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。



 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。

 なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。



 《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。
 
 《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。






 信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。
 (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。

 受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。

 何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。




 このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。

 つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。
 (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。




 神および信仰は 人間の経験世界を超えている。

 この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか?
  
 内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。

 神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。


 これが 神である。これが 良心・信教の自由である。



 無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。

 まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。

A 回答 (24件中21~24件)

いや。


反対意見がある。
非思考の庭を共有した状態がありうる。

個人的な事を言えば、それは共同作業中のコミュニケーションでね、
私は私の兄とかつてこんな共感作用を共有していた。

兄の言葉>ちょっとこれ持ってきて。
私の言葉>コレ?
兄のビジョン>>コレ。
ここで兄のビジョンを共有し私にその品の映像が見える。
私の言葉>どこ?
兄のビジョン>ココ。
ここで兄のビジョンを共有し、棚の映像が見える。
私はなにせ理解できたので>わかった。
そして行動として、言われた品を兄の元に届ける。

これらはテレパシーの仲介したコミュニケーションだが、共有しているのはあなたの言う非思考の庭ではないかい?
私は宗教を必要としないが、宗教の場の共有は、こうした非思考の共有を目指しているんでないかい?
あなたの批判は聞きあきたよ。
理解しようとする努力について聞かせてくれ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 理解しようとする努力について聞かせてくれ。
 ☆ 理解するって 何を?

 努力って たとえばここに書いたたたき台である。

 ★ あなたの批判は聞きあきたよ。
 ☆ 批判って あなたの考えへのか それとも たとえばここに展開している宗教への批判のことか?

 聞き飽きたなら その中身を了解しているのではないか?

 と言っても
 ★ 宗教の場の共有は、こうした非思考の共有を目指しているんでないかい?
 ☆ 宗教とは 《オシエを信じる》という現実にあり得ないことを考えてそのオシエなる神に近いところから 聖なるつとめとしての組織内の最高の地位を決め そのもとに権限の階層をつくり組織内の人間の関係を取り決めその外の人びとをも従わせようとするウゴキである。百害あって一利なしと言っています。

 聞き飽きていないぢゃん。ひと言も聞いていないぢゃん。





 ★ 非思考の庭を共有した状態がありうる。
 ☆ それは このように述べた考えなる内容を共有することではあっても おのおの存在の奥底なる《非思考の庭》そのものを共有するということは おかしい。

 思考に非ずを共有するというのは 漠然としすぎている。
 あるいはぎゃくに
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~
  受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。

  何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というとき このナゾを共有しているということは あり得ます。ただし理性による思考において共有することは それがあるとしても あくまで仮りのことです。

 つまり言いたいことは 人間が神を共有するというのではなく 必ずしもそうではなく 神によってわれわれにんげんは 知るところとなったなら そのことが 誰にとっても共通であるといった想定事項のことです。

お礼日時:2014/03/05 06:42

 ブラジュロンヌさんに問う!



 「神に甘える」

 これの“真意”をここで表現してみてほしい

 まさか、子供が親にするような“甘え”とは違うよね。

 それに、回答ナンバー2への返事もあいまいだし。

 “ゆだねる?”“在りのまま?”

 たぶん、三大宗教、いや二大宗教への不信感、嫌悪感が『ブラジュロンヌ』を誕生させたんだろうと思います。

 そして、要するに「思考に非ず」というのは

 ☆ 既存の言葉に置き換えれば「親子の関係」の事である、はず、だよね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ まさか、子供が親にするような“甘え”とは違うよね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  そして、要するに「思考に非ず」というのは

  ☆ 既存の言葉に置き換えれば「親子の関係」の事である、はず、だよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ◇ 一応の比喩としては 《親にたいする子のあまえ。殊に母親に対する赤子のあまえ》を挙げようとしています。

 ただし 違いもあるはずです。というのは 赤子や子どもは やがて大人になるはずですから。

 つまりは 大人として神にあまえるというのは どういう事態か? として答えなければならないはずです。

 その再応のこたえとは?

  ○ 無条件・無制約のもとに=まったく自由に
  ○ 聖なるあまえ
  ○ 何でも自由に願えばよい。それが 神である。

 《聖なるあまえ》は 答えにならないでしょうが それでも《理屈抜きに》というような意味として 《無条件にうんぬん》と呼応しています。



 ★ “ゆだねる?”“在りのまま?”
 ◇ これでは 不満です。何故なら 《自由に願いを言う》ときに いちいち心を《在りのまま》にして身と心とを《ゆだねる》といった準備作業は要らないし しないからです。


 ★ それに、回答ナンバー2への返事もあいまいだし。
 ◇ という声を聞くと このままではまだ答えたことにならないようなのですが どうしますかねぇ。

 つまり《あまえる》という言葉を聞いて 受け取ったままに(その受け取った意味のままに) そうする。という答えではどうですかねぇ。ダメですか?

お礼日時:2014/03/05 00:07

相変わらずですねえ・・・



まるで言葉や持論の牢獄に囚われている様にも
見えます。

さて、思考、というものは必ずしも言葉で行われて
いるわけではありません。

それから、常にあなたの言葉には隠された
「想い」が色濃く感じられます。
人としてのあなたの「書かざるを得ない理由」というか。

でも、それ自体は語られているのを見たことが
ありません。

宗教的なニュアンスの問いかけ、のようにも
見えるような見えないような、目的を明確に
表現できないまま、煩悶をひたすら書いておられる
ように見えます。

以前も書きましたが、私の人生に全く無関係な方が
どんな神様を信じ、どんな思考をなさっているかは
殆ど私の関心の埒外です。

だから、批判したい気持ちも否定したい気持ちも
無いまま、書いています。

ある、問いかけをしたいがために。

死ぬまで理解されない、そして誰にも(僅かな例外を除き)
思考や着想の価値を認めてもらえないまま消え去り、忘れ
去られていく孤独について、あなたはどう、納得されて
いるのですか?

という問いです。

それこそが、膨大なあなたの言葉の泉の中で、ついぞ
語られることのない、目的であり、着地点であり、理由でも
有るはずなのにな、と私は思っているのです。

重ねて申し上げますが、これは批判ではなくて、極めて
哲学的な問いかけです。

僅かばかりの平凡な生を終えて、忘れ去られ、消えゆく
自分の人生について、どう揺るぎなく、納得していらっしゃるのか。

たった一人でも、誰にも理解されず、記憶にさえ留められず、
それでも、そんなことはどうでもいいと本心から感じ、満ち足りて
生きていく心の姿勢について、簡潔にお答え願えれば、と
思うのです。

それが、ここに私がお返事を書かせて頂いた理由です。

自分の消滅を考える事こそ、多分ですが、神の存在を知覚する
最短のルートだと、私は考えているからです。

神、というものを論じることは、自分と言う存在の無意味さを
避けては語れないものである筈ですから。

無い神、と書かれたことを反映したイメージでした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 すなわち より精確に言えば
 ★ 極めて哲学的な問いかけ
 ☆ をありがとうございます。


 全体を問いとして受け留めて もう復唱せずにお応えしてまいりますが:

 答えは

  真理はきみたちを自由にする。(ヨハネ福音8:32 )

 にあると思っています。すなわちその問いを確認するなら 次です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 僅かばかりの平凡な生を終えて、忘れ去られ、消えゆく
 自分の人生について、どう揺るぎなく、納得していらっしゃるのか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 自分の消滅を考える事こそ、多分ですが、神の存在を知覚する
 最短のルートだと、私は考えているからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 すなわち 先ほどのお応えの中身を言いかえるなら:

  神――真理――の中にわが存在を自覚するという道

 のことです。《道・ルート》ですから 切れていないというところがミソだと思っています。
 ★ 僅かばかりの平凡な生
 ☆ が です。すなわち延長線――延長戦?――すらもあるという道です。通じますでしょうか?


 すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~
 神、というものを論じることは、自分と言う存在の無意味さを
 避けては語れないものである筈ですから。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というときの《わが存在の無意味さ》が 神ないし真理の知るところとなった(その道)という意味です。どうでしょう? お応え出来たと思っています。

 この応答内容は 《無い神》の場合でもまったく同じだと理解しています。

お礼日時:2014/03/04 22:17

この言は、一種、空性を帯びているのかなと感じました。

汚れないのはその空性によると。
その空性が、信仰の動態にあるのか、神にあるのかは測りかねるのですが、おそらくは神の方でしょう。少しの感想を述べて見ました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ううーん。そうですね。


 そうですね。イメージとして通じた・・・のでしょうか?


 たぶん今回は 神を少し突き放したところに置いた恰好で捉えようとしているのではないかと思います。

 それが
 ★ 一種、空性を帯びているのかなと感じました。
 ☆ につながったのかなとです。

 ちがっているかも。


 ★ 汚れないのはその空性によると。
 ☆ たぶんわたしの言葉では 《ナゾゆえに》になると思います。同じ内容を言っているとしたら よかったと思います。




 ★ その空性が、信仰の動態にあるのか
 ☆ たしかに信仰は すでに動態として経験事象ですから ナゾそのものではないでしょうね。ワタシという存在がいます。その対象は 《汚し得ない》ナゾである。といった事情でしょうね。

 よって
 ★ おそらくは神の方でしょう。



 回答No.2に なにやらむつかしいことが書いてあるようです。(ちらっと見ただけですが)。

お礼日時:2014/03/04 22:00

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!