信仰とは、自らの進路を自分以外の何かに規定してもらいたいという欲求から生まれたのではないかと思います。
「自らの進路を規定できる」という場合、そこに恣意性が求められるはずです。
自らの進路を確実に変えるほどの力を持つと想定可能なもの、それが自然、または、それに類する現象だったのでしょう。
実際、自然は圧倒的な力を人間に見せ付けることができます。
その自然の中に神を見出すのは、極めて自然な流れであったと思いますが、自然に対すると同様の力を自らにも及ぼしてもらえる、つまり、神に恣意性を求めたことから事実誤認が始まり、ここに宗教によるあらゆる弊害の根源があるように思います。
冒頭に戻りますが、「自らの進路を自分以外の何かに規定してもらいたいという欲求」、つまり、「思考の放棄」が神を生んだのであるから、神による様々な弊害が発生するのは必然であり、これを嘆くこと自体無意味である、ということは言えるでしょうか。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
№4へのコメントにも先立っておぎないます。
権現あるいは明神と言います。
どちらも神が仮り(=権)に明らかに現われたもの(仮り(=偶)の像=偶像)を言い
ます。
ブディズムの影響が色濃く交じっているようですが そもそも神は 隠れたる神です。
大神(おほみわ)神社が 典型的な古来のやしろです。
鳥居をくぐって参道を行き神殿に詣でて拝むのですが 別に神殿に神がまつってあるわ
けではありません。
その背後の山(三輪山)が かむなび(神-の-霊(ひ))やまとして 神であると言わ
れます。しかもその山は これも仮りの姿なわけです。
《非経験の場》と言いますが 超自然とか超経験と言ったほうが分かりやすいかも分か
りません。
つまり 《神社や神殿や権現や明神や何やかや》はすべて経験事物です。
権現や明神というのは 概念説明であり観念です。
けれども 神はこの観念の神ではないのです。
超自然なる神であり 自然のいろんなものもそれらが神々だとされるのは あくまで仮
りの姿であり言わばそれぞれが普遍神の分身です。
思考をおこないつつ 普遍神への信仰をいだくことが可能です。
思考の緑野と非思考の庭とは とうぜんのごとく両立し共存しています。
信仰は――思い込みや錯覚でなければ―― 思考の放棄やぎゃくにその思考による人間
の恣意性やとは無縁です。
この〔隠れたる〕普遍神は 人間の思考や想像や欲求や何やかやの恣意性からはまった
く自由な超自然であり 観念をも超えています。
ご回答ありがとうございます。
>つまり 《神社や神殿や権現や明神や何やかや》はすべて経験事物です。
権現や明神というのは 概念説明であり観念です。
けれども 神はこの観念の神ではないのです。
超自然なる神であり 自然のいろんなものもそれらが神々だとされるのは あくまで仮
りの姿であり言わばそれぞれが普遍神の分身です。
:
全くわたしの見解と変わらないと思いますが、今まで、何を「反論的に」言ってきたんですかね。
意図が掴めません。
>思考をおこないつつ 普遍神への信仰をいだくことが可能です。
:
それが妥当でしょう。
>思考の緑野と非思考の庭とは とうぜんのごとく両立し共存しています。
:
いや、ですから、それをごっちゃにしているのが現存の宗教じゃないんですか、と申し上げています。
そうした思考停止の形としてしか信仰がないのであるから、宗教の対立を含めた様々な宗教的混乱が生じるのも当然であって、それを嘆いてもしかたないんですよね、と問うている。
しかし、かなりわかりやすく説明してもらえた気はします。
なぜ、七面倒くさい表現を使わず、最初から、こうした表現をしないんですかね。
まあ、それはいいですが、これでやっと次のステップに進めそうです。
別に、悪魔と同じかもしれない天使や、恣意的存在としての神をいじめるために質問したわけではないので。
>信仰は――思い込みや錯覚でなければ―― 思考の放棄やぎゃくにその思考による人間
の恣意性やとは無縁です。
:
まあ、それはわかります。
神の恣意性を信じてはいなければ、当然、そうなるでしょう。
>この〔隠れたる〕普遍神は 人間の思考や想像や欲求や何やかやの恣意性からはまった
く自由な超自然であり 観念をも超えています。
:
大分、わかりやすくなってきましたね。
良い傾向と思いますので、今後とも、その調子で頼みます。
「観念をも超えて」いるかどうかは、また場を改めさせていただきます。
No.32
- 回答日時:
これで締めてもらってもよいというかたちにしたいと思います。
つまりその意味で ふたつの発言の再掲とひとつのあたらしい発言です。
(あ) ★★(№18お礼欄) ~~~~~~~~~~~
>ですから そのように(*その内容を省略します)《「いない」を選んだ立場》を規定する
のなら それこそが《恣意的存在としての神》になります。《思考を放棄しなければ》という
ところともかかわっているようです。
:
誤解があるといけませんので触れておきますが、「恣意」を発揮するのは、あくまで神であっ
て、人間が主格という設定ではありません。
~~~~~~~~~~~~~~
(い)☆☆(回答№27) ~~~~~~~~~~~~
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>☆ 初めの決め込みとは違ったそしてその決め込み内容にとっては不都合となる新知見が現
われたと かろうじて分かったのでしょうね。
:
全般的に言えることですが、自意識過剰ですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いえいえ。もっと過剰です。なぜなら 《非知》として明かした理論は たぶん世界初だ
からです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(う) さいころ氏は 心がひろくあたたかなので ああいった表現をなさっていますが 要
するに哲学としての神論は 《クラシック》な理論形成(ないし そのむしろ前提となる定義
などの手続きとしての理論)しかないですよ。
おつかれさま。
ご回答ありがとうございます。
>要するに哲学としての神論は 《クラシック》な理論形成(ないし そのむしろ前提となる定義
などの手続きとしての理論)しかないですよ。
:
哲学は自分だけのものだと勘違いなさっておられるようで。
まあ、マスターベーションだとお認めになったわけですから、ご自由に。
しかし、都合が悪くなると見事にスルーする、この厚顔さは見上げたものですね。
同類や腰巾着しか寄ってこない理由がわかるような気がします。
オット・・・つい捨て台詞になってしまいましたね。
仕方ない、もうしばらく開けておく必要を自ら認めましょう。
No.31
- 回答日時:
反論ではないのですが、尻切れとんぼにならないようにご挨拶を。
まずブラジュロンヌさん、残念ですが私もよく分かりません。非知の話は私の守備範囲外です。語学力としてお助けできないということを別としても、中身としても、ぼんやりとしたことしか申せません。すみません。
ハコブルさん、長大な批判に対する懇切丁寧な応答のご苦労、お察し致します。ブラジュロンヌさんはクラシックな神的次元の話をするのであれば、またとない話し相手とも言えるのでしょうけれどもね。私個人は「分からないことを分からないままにしておくこと」も理知的な態度かと考えています。例えば他人について、中身が分からないのに「分かった」と言ってしまえば、レッテルを貼るという暴力になってしまうでしょう。もっとも実践は難しく、「あなたは結局xxxということなんですね?」とまとめていかないと、話が進まないことはあるものです。そして数年前の私はそれで随分と顰蹙を買いましたし、先頃もまた別の応答で顰蹙を買ったばかりです。
物事、態度は二通りあると存じます。1どんどんシンプルに考え、どんどん決断し、どんどん進んでいく。2留保して動かない。最終的にどちらが良い結果になるかが、分からない時代になったと私は感じております。時代の風潮として感じることですが、原子力など好例と思います。作ってよかったのかどうか(つまり原子力を発明せずに保留しておいた方がよかったのか)、分からなくなりました。ある種の懐疑主義が現代にはあると感じております。一般化はできませんが、マスタベーションで済ませておいてよい事象もあるのかもしれません。
神の問題が長らく保留されていたのは、敢えてマスタベーションで済ませた方が安全だという叡智かもしれないと(根拠なく)推測しております。仮に思惟があるとすれば、思惟を読み解いたと称するものが、神の名を借りて世界を動かし始めるのではないか。例えば十字軍など、神の思惟は異教徒を打ち倒すことだと喧伝されていたそうです。戦争になるくらいであればむしろ、神の思惟が分からないから、何もしないとしておいた方が、議論の中身それ自体は不毛に思えても、社会の在り方としては平和だったのではないか、とも思います。これは私の印象で、資料的根拠はありません。
脱線的な話になってしまいましたが、これにて失礼致します。
ご回答ありがとうございます。
>もっとも実践は難しく、「あなたは結局xxxということなんですね?」とまとめていかないと、話が進まないことはあるものです。
:
これは全くおっしゃるとおりで、わたしのスタンスも同じです。
個人的には、【見解の相違】という表現を使います。
見解の相違に至るまでに、どこまで、どのような会話ができたかによって、実りの多寡が決まってくるという考え。
ですので、わたしが「見解の相違」と言う場合には、基本的に(その話題に関しては)会話の終了を意味します。
また、それを心がけることで、『話が進まない』という事態を避けると同時に、意見が食い違っても紳士的な話し合いができるはず、という考え。
見解の相違にぶち当たると、キチガイとかアホとか呼ぶ方も稀におられますが、日常的にそう呼ばれてつらい経験をなさっている方だと考えるのが妥当ですので、全く気にはならず、なるべく、見解の相違はあっても、理解できた点に関しての感謝は述べるように心がけているつもりです。
>仮に思惟があるとすれば、思惟を読み解いたと称するものが、神の名を借りて世界を動かし始めるのではないか。
:
極めて同感できるご見解です。
と言いますのも、実は、神の問題のみならず、人間の信じるという行為の意味するところと、そこから生じることがら(特に弊害)について考えていきたいという構想(というほどのものではありませんが)を持って、一連の質問を開始した次第です。
また、ご教示いただける機会が得られますよう願っております。
No.30
- 回答日時:
№27のお礼欄でもコメントをいただいています。
が そうしてよいという判断にて 受け流しましょう。
支障は生じないでしょう。
補足欄が使えないので、#29のお礼の続きをこちらに記させていただきます。
2.
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは~、《同感だ》を 《あらためて肯定し主張する》と言いかえたほうがよいのでしょうか。
---------------------------------------------------------------------------
この意味が全くわからないのですよね。
少し整理してみましょうか。
☆ これは セイシンサクランです。
《神が 恣意を発揮する》なる命題。前代未聞です。
【この意図が不明なので次のように尋ねました】
↓
★《神が 恣意を発揮する》を否定的に使っていることは、質問文の段階から誰が見ても理解できますけどね。
【つまり、《神が 恣意を発揮する》とは誰も言っていないのに、「前代未聞です」とは、これいかに?という意味。それに対する応答が次】
↓
☆ それは 否定する・肯定するといった問題ではありません。
【しかし、前代未聞とは、否定していますよね?という意味で次のように尋ねました】
↓
★「前代未聞」なので同感だ、とおっしゃったわけですか?
【否定しない、というなら、そう言ったことになりますが、それでいいんですか? という意味。それに対する答えが】
↓
☆ これは おもしろいことに ほぼそのままを答えとしてお返しできるようなコメントですね。おもしろい。
《同感だ》を 《あらためて肯定し主張する》と言いかえたほうがよいのでしょうか。
【意図と、どこから、こうした話になるのか意味不明ですね】
ま、こういうことですので、一応ご検討ください。
No.29
- 回答日時:
★(№26お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
>神は人間がどう考えようと・また人間が存在しようがしまいが 想定されうる。
:
とのことですが、今まさに「神」と口にした、その「神」というのは人間が作り出
した言葉ですよね。
しかも、具体的な事物・事象を指して作られたものではない。
つまり、最初から概念的な(ですから当然比喩的な)存在と言えるでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《概念である》だけではないということ。
《想定》は 《比喩》ではないということ。を指摘します。
もう説明は繰り返しませんが。
★ ~~~~~~~~~~~~~
論理的な整合性に欠けています。
「絶対だというのなら」とのことですが、それは取りも直さず「絶対だと言うのな
ら」と同義でしょう。
そう「言う」のは人間なのですから、「絶対だと言う」人間がいないのに、「それ
として神は想定されている」はずはないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうなると・つまり そこまでの段階と言いますかの事態になるなら それは
もう人間もいないし神について触れることもなくなっています。
つまり その段階では 《論理》もその《整合性》も《それに欠ける》も何もかも
問題ではなくなっています。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
>《神が 恣意を発揮する》なる命題。前代未聞です。
:
とおっしゃっていますが、
>☆ それは 否定する・肯定するといった問題ではありません。
:
なのですか?
「前代未聞」なので同感だ、とおっしゃったわけですか?
不思議なことをおっしゃる方だな・・・?というのが素朴な感想です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは おもしろいことに ほぼそのままを答えとしてお返しできるようなコメ
ントですね。おもしろい。
《同感だ》を 《あらためて肯定し主張する》と言いかえたほうがよいのでしょうか。
不可知をめぐるそちらの判断について
★ (補足欄) 要するに、どんな弊害が生じるわけでもない、ということですね。
☆ と受け取られたわけですね。
すり替えの問題について
★ 一言も反論することなく、このご都合主義。 / 大したものです。
☆ 批判とお褒めとを受け取りました。
大したことではないと判断して 受け流します。
ご回答ありがとうございます。
回答者は、言い逃げの形になってしまうシステムなので、最後のほうはなるべく大人しくしておきたいのですが、今後のために、2つだけ疑問に感じた点に触れておきます。
1.
★そう「言う」のは人間なのですから、「絶対だと言う」人間がいないのに、「それ
として神は想定されている」はずはないでしょう。
:
と述べたのは、#26での
>☆ ~。ひとつの見方では――《絶対》がその概念説明でもあるように―― 神は人間
がどう考えようと・また人間が存在しようがしまいが 想定されうる。と言っています。
:
という部分を受けての記述なわけですが、これに対して、
>~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうなると・つまり そこまでの段階と言いますかの事態になるなら それは
もう人間もいないし神について触れることもなくなっています。
つまり その段階では 《論理》もその《整合性》も《それに欠ける》も何もかも
問題ではなくなっています。
:
とおっしゃる。
『☆神は人間がどう考えようと・また人間が存在しようがしまいが 想定されうる』
と矛盾しているようですね。
補足欄へ
No.28
- 回答日時:
☆☆(回答№27) (山本巍) ~~~~~~~~~~~~~
人は《神が何であるか》を掴めない。しかしその掴み不可能性自体が掴めない
( incomprehensibilis incomprehensibilitas )。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ について 原典が見つかりました。検索でかんたんでした。
▼(Wikipedia:Vincent Ferrer ) ~~~~~~~~~~
https://en.wikipedia.org/wiki/Vincent_Ferrer
〔 Vincent Ferrier en francais (en valencien Sant Vicent Ferrer) 〕
Vincent Ferrer, O.P., (23 January 1350 – 5 April 1419) was a Valencian Dominican friar,
who gained acclaim as a missionary and a logician.
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ただし 文章はわかりづらいです。わたしには よく分かりません。
▼ (R.P.M. Vincentii Ferre ... Commentaria scholastica in Div. Thomam)~~~~~~
https://books.google.co.jp/books?id=MlfwcNDy2zoC …
https://www.google.co.jp/search?q=incomprehensib …
その四つ目のサイトをクリックしてください。
Quod incomprehensibilis et ineffabilis, quam de Deo definit praefatum Concilium;
non debet accipi in distinctio sensu, sed in eodem ita ut perly incomprehensibilis,
intelligatur incomprehensibilitas cogitatus locutionis; quasi velit dicere quod
cogitatus noster non valet Deum adaquate cognoscere, neque lingua nostra valet
adaequate ipsum effari, id est vocaliter explicare:
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《 perly 》なんてのも分かりませんし。
No.27
- 回答日時:
★(№24お礼欄) ~~~~~~~~~~~
「知り得ないと思っていること」が不可知でしょ?
ということでもあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まあやっと 定義が出て来ました。
けれども そういった《恣意〔を無条件でみとめるかたちの主観〕的思考としての定義》
は 用を成しません。お分かりですよね。
分かっているけれど ちょっと言ってみただけですよね。
分かりますよ。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>★ 違いはわかりますが、神が未知でも不可知でも同じでしょう。
☆ 出たああああ! ちゃぶ台返し。
最初の最初の定義から ひっくり返しちゃった。
:
まあまあ。
そもそも、非知と不可知を(わざわざ)分ける意味を、最初から認めているわけじゃないのに、
ご自分だけ、そう思い込んできたから、こうした反応になるのだと思います。
それに、未知でも不可知でも同じですよね、とは何回か申し上げていますけどね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ たぶんお疲れなのでしょう。
分かります。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>☆ 既知・未知なる可知および不可知そうして非知についてその違いを説明しているところへ
いろんなケースがあるかどうかという脇道の問題へと論点をすり替えています。
:
よく言えるものだと感心しますよ。
>ほかの人にとっては既知の場合もあり得ます。
:
と論点をすり替えたのはどなたなんですか?
a.分からない。と人類全員が答える場合。
とわざわざ言わなくたって、「他の人」がどうこうの問題じゃないことぐらいわかるでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すばらしい推論です。ほめたたえたいと思います。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>そして 回答者の言っていることは 初めの初めから意に介していない。
:
筋が通っていれば、たとえ同意できなくても、それなりの納得は得られるものです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ さいころさんが何か言っていますよ。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>☆ 初めの決め込みとは違ったそしてその決め込み内容にとっては不都合となる新知見が現
われたと かろうじて分かったのでしょうね。
:
全般的に言えることですが、自意識過剰ですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いえいえ。もっと過剰です。なぜなら 《非知》として明かした理論は たぶん世界初だ
からです。
(さいころ氏に 情報提供と言いますか むしろ原典をおしえて欲しい発言があります。:
▲ (山本巍:神とは何か?) ~~~~~~~~~~
《神は何であるか》 人間はこれを把握できるであろうか。しかしそれは・・・《神が何で
あるか》という問題そのものが理解しがたいということではなかろうか。
それは理解不可能性自体が把握できないことである。
人は《神が何であるか》を掴めない。しかしその掴み不可能性自体が掴めない
( incomprehensibilis incomprehensibilitas )。
(山本巍:第一章 聖書の言語宇宙――ソクラテスとイエス in 宮本久雄・大貫隆・山本巍
共著:『聖書の言語を超えて―ソクラテス・イエス・グノーシス』1997 pp.105-106 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《知り得るか知り得ないかが知り得ない》と似ています。《つかめるか掴めないかが掴めな
い》という意味ですから。残念ながら その本には出典が書いてありませんでした。西欧の人間
が書いたものだと思われますが。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
>《おれは神を見た》なる発言が 妄想として一蹴され得ない妙味があるのです。
:
という件を拝見して、これは今はコメントを避けるほうが良いだろう、と判断したまでのことで
す。
また新しく質問しますので、必要であれば、そのときにでもまた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 楽屋裏事情を明かしたときには その時点では 理由をも明らかにするのが エチケットで
しょうね。
ご回答ありがとうございます。
>☆ まあやっと 定義が出て来ました。
:
??????
「知り得ないと思っていること」が不可知でしょ?
といちいち言わなければわからないんですか?
という皮肉が通じなかったようで幸いです。
他にどんな定義があるというのか、まったく理解に苦しむ。
>☆ さいころさんが何か言っていますよ。
:
都合の良いところだけ採用するご都合主義丸出しですね。
いやはや、大笑い。
>☆ 楽屋裏事情を明かしたときには その時点では 理由をも明らかにするのが エチケットで
しょうね。
:
自分だけは特別だという妄想があるんでしょうね、おそらく。
そうしてほしければ、まずご自分で実行なさると良いですよ。
キリスト(か神だか)も言ってたと思いますが。
No.26
- 回答日時:
★(№23お礼欄) 神を受け止める人間の存在なくして神は存在しないと思うんです
が、違いますかね。
☆ われわれ人間が 神についてそれは どういうものかと哲学として考え問い求めて
います。ひとつの見方では――《絶対》がその概念説明でもあるように―― 神は人間
がどう考えようと・また人間が存在しようがしまいが 想定されうる。と言っています。
この定義としての議論で折り合えなければ 確かに話はすすみません。
ただし このそちらの定義については 次のようにあらためるのが 妥当ではないかと
いう見方は出来るでしょう。:
《神を受け止める人間の存在がない場合は 神についてどうこうという問い求めがない。
ただ 絶対だというのならそれとして神は想定されている》
と思うんですが、違いますかね。
また 《絶対》という言葉が充てられたならその時点でまたそのコトにおいて 《存在》
はそれと言える状態になります。
ここまで説明をそえたほうがよいのでしょう。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>☆ これは セイシンサクランです。
《神が 恣意を発揮する》なる命題。前代未聞です。
:
お好きですね、その表現。
深夜なのでお疲れなのかもしれませんが、《神が 恣意を発揮する》を否定的に使って
いることは、質問文の段階から誰が見ても理解できますけどね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ それは 否定する・肯定するといった問題ではありません。
神がこうだああだと忖度することは 想像文学ならあり得ますが 哲学としては 成り
立ちません。
《否定的に使って》いようがいまいが そういう表現での議論は出て来ないのです。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
いるかいないかの理解を超えているから その不可知のナゾを 人が自由に有
る神または無い神としてえらべばよい。
と説明したら、どんな弊害が生じるんですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《いるかいないかの理解を超えている》とまづ 想定するということを明らかにす
る必要があります。そしてそれは どういうことかとさらに説明があって 十分な定義
となります。
それと 《不可知》についてそちらからは 定義がありません。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
非知とか非思考という造語をおつくりになるのは自由ですが、それを、この文脈で登
場させる必然性があるのか?
ということなんですけどね。
どうしても重大な差異があるなら困ると思って、いろいろ伺ってきたのですが、特にあ
るようには思われません。
実際にそれがある場面になったら、ほら、見たことか、だから言ったじゃないか、的に
また指摘してください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうですか。そうですね。おっしゃるとおりなのでしょう。
とお答えするのが いまこの時この場での最良の選択でしょう。
★(補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
>☆ ぢゃあ どうして《いない神》をえらび心にいだくという信仰の場合があり得る
のですか?
:
《いない神》は、あくまで結果的な形だけのもので、言ってみれば比喩的表現じゃない
ですか。
別に「心にいだく」なんてことはないでしょうし、信仰と呼ぶ性質のものとは全く異な
るでしょう。
見たことがないからいないんじゃないの?といった程度のノリだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ちゃぶ台がひっくり返されました。初めから説明を始めなければなりません。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>非知なる神が《いる》と決めてかかっているんぢゃないか? とさらに問い返すので
すか?
:
邪推です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうですか。そうなんでしょうね。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
>それが 言葉がある ならば それは存在であるという見方を横から持って来る論法
です。
:
すり替えです。
「普遍神」を言葉として使ったわけではないのに、そういうことを言ってはいけません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すり替えだという指摘には すり替えだと応じるわけですね。
#26です。
>☆ われわれ人間が 神についてそれは どういうものかと哲学として考え問い求めて
います。ひとつの見方では――《絶対》がその概念説明でもあるように―― 神は人間
がどう考えようと・また人間が存在しようがしまいが 想定されうる。と言っています。
この定義としての議論で折り合えなければ 確かに話はすすみません
:
おっしゃるとおりですね。
わたしとしても、そろそろ、見解の相違という判断をせざるを得ないかな、と感じ始めていたところですので。
珍しく意見が一致したようです。
そのうえで、あえて申し上げると、
>神は人間がどう考えようと・また人間が存在しようがしまいが 想定されうる。
:
とのことですが、今まさに「神」と口にした、その「神」というのは人間が作り出した言葉ですよね。
しかも、具体的な事物・事象を指して作られたものではない。
つまり、最初から概念的な(ですから当然比喩的な)存在と言えるでしょう。
>《神を受け止める人間の存在がない場合は 神についてどうこうという問い求めがない。
ただ 絶対だというのならそれとして神は想定されている》
と思うんですが、違いますかね。
:
違うようですね。
論理的な整合性に欠けています。
「絶対だというのなら」とのことですが、それは取りも直さず「絶対だと言うのなら」と同義でしょう。
そう「言う」のは人間なのですから、「絶対だと言う」人間がいないのに、「それとして神は想定されている」はずはないでしょう。
>《神が 恣意を発揮する》なる命題。前代未聞です。
:
とおっしゃっていますが、
>☆ それは 否定する・肯定するといった問題ではありません。
:
なのですか?
「前代未聞」なので同感だ、とおっしゃったわけですか?
不思議なことをおっしゃる方だな・・・?というのが素朴な感想です。
補足欄へ続きます。
No.25
- 回答日時:
>場合分けし、それぞれについて考えて、最後に統合』というのはユニークな印象
これは、よくあるパターンなのですけれどもね。考察領域を区切って、その中の事象を場合分けすると網羅的に思考が展開できます。カントやヘーゲルなどによくあります。ところで余計なお世話と思いましたが、非知と不可知に関する長いやり取りについて少し読みました。他の質問も読みましたが、ずっと同じやり取りをなさっているのですね。感想を一言申し上げることを、お二人に対してお許しください。何かしら生産的な論点かもしれないと思ったのです。
これは哲学的な事象を分けろ、という話ではないかと思うのです。例えばカントは『純粋理性批判』の冒頭で考察事象を、現世のことと、神的次元のことに分けました。彼の三批判の考察対象は、現世のことに限られました。故に心理学とも呼ばれました。神的次元の話はあとに論じられる予定だったと言われますが、それは実現されませんでした。現世のことは人間に分かる範囲ですが、神のことは分かりません。したがって神に関して論じるとは、実質的に、分からないということについて論じるということでした。この話の肝は、哲学のある領域では、最初にこの事象を分けることを重要な手続きだと考えることがある、ということです。
非知と不可知は、要するに、考察事象を神的次元の話として考えるか、現世の話として考えるか、という基本の問題に対応しているように思います。神的次元のこととして捉えるのなら、非知になり、そもそも議論は結論を下せない次元になります。私の最初の投稿は、神の思惟は人間に計り知れないから何も分からないということでしたが、神的次元の古くから言われるオーソドックスな話です。神の問題を現世的に論じることのメリットは、分かりやすく結論が導けること。デメリットは、本来結論が下せない形而上学的な問題に対して、やや無理に答えを出してしまうかもしれないこと、だと思われます。
延々とハコブルさんが批判を受けているのは、私の理解では、ご質問がどの事象の問題なのかが分からず、場当たり的に現世の話と神的次元の話を行き来しているということなのでしょう。だから悪いということでもありません。ハコブルさんがそのように考える枠組を提唱しているのであれば、それはそれでよいのだとも思います。ブラジュロンヌさんの議論の枠組はクラシックなもので、それを逸脱しているなら相応の議論を行う方が精緻だ、と批判しているということなのでしょう。それもまた哲学のクラシックな手続きと思います。投稿を読む限り、罵詈雑言はありますが、ブラジュロンヌさんは明晰ではあると思いました。
以上は私個人の感想なので、ブラジュロンヌさんの主張がカント的なのか否か、クラシックの枠内に収まるのか否か、などは立証不可能であることを申し添えておきます(数年前に叱られましたので)。参考にならなければご一笑にふして下さいますよう。
ご回答ありがとうございます。
いろいろな意味で、大変、貴重なお話を伺うことができたと思います。
感謝いたします。
しかし、なんですね。
>例えばカントは『純粋理性批判』の冒頭で考察事象を、現世のことと、神的次元のことに分けました。彼の三批判の考察対象は、現世のことに限られました。
:
とのことですが、現世のことを抜きにした哲学というのはマスターベーションと大差ないと思うのですけどね。
さすがカントだと再認識させていただきました。
まあ、それも自由でしょうが、マスターベーションしながら、どうだ、お前も気持ちよいだろう?そうだよな?と迫られても返答に窮するのではないか、というのが感想ですね。
No.24
- 回答日時:
★(№22お礼欄)~~~~~~~~~~~~~
☆ 知り得ないと証明し得ていなければ 無理です。
:
理由を言わずに断定ですか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 不可知についての定義の問題です。それくらい 分かってね。
★ 《未知》を『既知となるまでは不可知』と言うと何かまずいことでも発生しますか?
☆ 《知り得ないと証明できたものごと》が不可知です。証明し得ていなければ 言えません。
それとも 別の定義をしてから そういう問い返しはしてください。
★ 違いはわかりますが、神が未知でも不可知でも同じでしょう。
☆ 出たああああ! ちゃぶ台返し。
最初の最初の定義から ひっくり返しちゃった。
★ 未知ということは結果不可知の可能性があるわけだし、不可知というのは、未知の連続を
意味するわけですから。 / こんな定義にそれほど拘る必要もないでしょう。
☆ わたしは詳しくないので説明がしづらいのですが 数学などで これこれの問いについて
は 解がないと証明できたという場合があるようです。つまり 知り得ないと証明し得たとい
う場合です。これが 不可知です。未知だけの問題ではないのです。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>★ 「神様っているの?」という問いに対して、
a.分からない。
>☆ ( a )は 未知の場合があります。ほかの人にとっては既知の場合もあり得ます。
:
そりゃそうでしょう。
何言ってるんですか?
a.分からない。と人類全員が答える場合。
のようにいちいち言わなければわかりませんかね?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 既知・未知なる可知および不可知そうして非知についてその違いを説明しているところへ
いろんなケースがあるかどうかという脇道の問題へと論点をすり替えています。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>《答えようがない》といった定義としての説明は ほとんど用をなさないでしょう。あやふ
やな答え方が じつはあることもあり得ます。
:
いや、ですから、それも含めて「わからない」でいいでしょ、と申し上げているんですけどね。
本質的に何が問題になるのか、さっぱり。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 初めから――《恣意的存在としての神》は ただ頭の体操でしかないとおおむね
言いつつ―― じつは《神はいない あるいは 神は観念である》と初めから決めつけて質問
をしている。そして 回答者の言っていることは 初めの初めから意に介していない。理解し
ようとしていない。ということが露見しました。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
>非知ないしそれとしての神 その神と人間たるわれとの関係が 幅広く一人ひとりの心の奥
底なる固有の時(わたしがわたしである時)にかかわって 非思考の庭なる動態として 生
活のなかに生きている。という現実を味わってみてください。
:
そうした境地を邪魔するつもりはありません。
ただ、神の定義について論じているときに、
>そうした(といってもどういうものか分かったわけではありあませんが)神の存在にかかわ
って
・・・生きている。という現実を味わってみてください。
:
といった発言をなさる、その心理が理解できません。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 心理の問題ではありません。それは 初めからの定義とそこからの理論の展開が理解でき
ていれば 心理の問題ではないことは 分かるはずです。
★ (補足欄) ~~~~~~~~~~~~~
>☆ 致命的なマチガイは 非知なる神は げんみつに言えば 《見えないもの》ではないの
です。《見えるか見えないかが 人間には分からないし決めることができないナゾ》なのです。
:
《見えるか見えないかが 人間には分からないし決めることができないナゾ》に対して、
>げんみつに言えば 《見えないもの》ではないのです
:
という断定をされる心理もよくわかりませんね。
いずれ、新たに関連質問を立てますので、あとは、そちらでご参加いただければ幸いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 次のように説明しているところは 素通りだったようですね。
☆☆(回答№22) ~~~~~~~~~~~~~~
げんみつに言えば 《見えないもの》ではないのです
それゆえ 《おれは神を見た》なる発言が 妄想として一蹴され得ない妙味があるのです。
ただし その神体験の共有は ありません。定まりません。
もちろん:
★ 因みに妄想の共有はあり得ますよ。
☆ なぜなら 妄想は あたまの中の表象の問題であり ふつうは可知なる経験事象であり
ある程度定義しておけば ゆるいかたちででもその観念の共有はあり得ると見なすことにな
ります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 初めの決め込みとは違ったそしてその決め込み内容にとっては不都合となる新知見が現
われたと かろうじて分かったのでしょうね。だから 肝心の説明は取り上げるのを抜かし
て かろうじて互いのあいだの議論にはなっているという恰好をつくろうと腐心なさってい
るようです。
ご回答ありがとうございます。
>理由を言わずに断定ですか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 不可知についての定義の問題です。それくらい 分かってね。
:
それは分かっていますが、不可知がなぜ、「☆ 知り得ないと証明し得ていなければ 無理です。」
ということになるんですか?ということです。
「知り得ないと思っていること」が不可知でしょ?
ということでもあります。
>★ 違いはわかりますが、神が未知でも不可知でも同じでしょう。
☆ 出たああああ! ちゃぶ台返し。
最初の最初の定義から ひっくり返しちゃった。
:
まあまあ。
そもそも、非知と不可知を(わざわざ)分ける意味を、最初から認めているわけじゃないのに、ご自分だけ、そう思い込んできたから、こうした反応になるのだと思います。
それに、未知でも不可知でも同じですよね、とは何回か申し上げていますけどね。
>☆ 既知・未知なる可知および不可知そうして非知についてその違いを説明しているところへ
いろんなケースがあるかどうかという脇道の問題へと論点をすり替えています。
:
よく言えるものだと感心しますよ。
>ほかの人にとっては既知の場合もあり得ます。
:
と論点をすり替えたのはどなたなんですか?
a.分からない。と人類全員が答える場合。
とわざわざ言わなくたって、「他の人」がどうこうの問題じゃないことぐらいわかるでしょう。
>そして 回答者の言っていることは 初めの初めから意に介していない。
:
筋が通っていれば、たとえ同意できなくても、それなりの納得は得られるものです。
>☆ 初めの決め込みとは違ったそしてその決め込み内容にとっては不都合となる新知見が現
われたと かろうじて分かったのでしょうね。
:
全般的に言えることですが、自意識過剰ですね。
>《おれは神を見た》なる発言が 妄想として一蹴され得ない妙味があるのです。
:
という件を拝見して、これは今はコメントを避けるほうが良いだろう、と判断したまでのことです。
また新しく質問しますので、必要であれば、そのときにでもまた。
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>☆ いいえ。げんみつに言えば 神は 《存在》であるかどうかが分からない想定物
です。
:
「神は 《存在》であるかどうかが分からない想定物」
と
【いるかいないか誰にも証明できない存在】
にどれほどの違いがあるんですか?
>《象徴として》というのは 何の象徴なのでしょう?
:
今さら・・という気分ですね。
自然(または宇宙でも良いでしょう)の法則の象徴ということです。
>何かの象徴ではなく 《神あるいは非知》という言葉≒概念がシルシとなって指し示
すその当のものが 神です。
:
全く意味不明です。
「非知」「シルシ」の意味を噛み砕いてから挿入してみてください。
ご自分の考えを理解してもらう気があるんですか?
【《神》という言葉≒概念がシルシとなって指し示すその当のものが 神です。】
こんな日本語が通用すると思っているんですかね。
もうちょっとまともな文を書いてください。
>(せ) いるを選んでも その存在を証明することは出来ないし いないを選んでも
存在しないことを証明することも出来ないナゾ。です。非知は。
:
ですから、それも当たり前ですよね?不可知なんだから。
>☆ ぢゃあ その法則のことを言いかえたということぢゃないですか。わざわざ《象
徴》ということのほどはなくて。
:
あらら。
言い換えちゃだめなんですか?
それに「わざわざ」と言うのは、全く理解されていませんね、人間心理を。
何かを象徴的に表現したいのは、どういう場合か。
>つまり その意味では神は――普遍神は――いないと決めてかかっているという
人間理性の姿だということにつながります。
:
質問趣旨に立ち戻ってしまいましたが、思考を放棄しなければ、そうならざるを得ないでしょう。
(せ)で「いない」を選んだ立場としての発言ですよ。
次の補足に続きます。
>つまり 神はすべて観念であるという大前提がすでに 変更し得ない結論として設定
されている。ということだと見られます。
:
不可知(非知でも良いですが)なのですから、それは当然でしょう。
お礼欄からの続き。
>しかも その主観内容が ほかの人の主観の中に入って行って共有されるようなことは
客観的に見れば無いと言えることになっています。《非知 あるいは非思考》のものが
ふたりの主観のあいだで比べることが出来るわけがないからです。
:
「主観内容」というより「妄想内容」と捉えるべきじゃないですかね。
見えないものを見たと言うわけですから。
《非知》という概念(これ自体は面白いとは思いますが)を絡ませてまで論じる場面じゃありません。
因みに妄想の共有はあり得ますよ。
#18お礼欄からの続き
>「普遍神」ではありません、
:
本当にわからなくなりますが、これは
>《いる》と決めてかかっている
:
ことにはならないんですか?
揚げ足取るつもりはないんですが、会話の流れが中断されてしまいますので、聞かざるを得ないんですよね。
おそらく、いや何回も言ってるように、それは非知としての神のことだよ、とおっしゃるんでしょうね。
しかし、それ自体が
>《いる》と決めてかかっている
:
ことになりませんかね?
自分の言うことには、他の人と別な解釈が付与されているのだ、と言うのでもなければですが。
#22のお礼欄の続き。
>☆ 致命的なマチガイは 非知なる神は げんみつに言えば 《見えないもの》ではないの
です。《見えるか見えないかが 人間には分からないし決めることができないナゾ》なので
す。
:
《見えるか見えないかが 人間には分からないし決めることができないナゾ》に対して、
>げんみつに言えば 《見えないもの》ではないのです
:
という断定をされる心理もよくわかりませんね。
いずれ、新たに関連質問を立てますので、あとは、そちらでご参加いただければ幸いです。
#23お礼欄の続き
>☆ ぢゃあ どうして《いない神》をえらび心にいだくという信仰の場合があり得るのですか?
:
《いない神》は、あくまで結果的な形だけのもので、言ってみれば比喩的表現じゃないですか。
別に「心にいだく」なんてことはないでしょうし、信仰と呼ぶ性質のものとは全く異なるでしょう。
見たことがないからいないんじゃないの?といった程度のノリだと思います。
>非知なる神が《いる》と決めてかかっているんぢゃないか? とさらに問い返すのですか?
:
邪推です。
>それが 言葉がある ならば それは存在であるという見方を横から持って来る論法です。
:
すり替えです。
「普遍神」を言葉として使ったわけではないのに、そういうことを言ってはいけません。
#26のお礼欄からの続きです。
>>★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
いるかいないかの理解を超えているから その不可知のナゾを 人が自由に有
る神または無い神としてえらべばよい。
と説明したら、どんな弊害が生じるんですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《いるかいないかの理解を超えている》とまづ 想定するということを明らかにす
る必要があります。そしてそれは どういうことかとさらに説明があって 十分な定義
となります。
それと 《不可知》についてそちらからは 定義がありません。
:
要するに、どんな弊害が生じるわけでもない、ということですね。
それを言ってしまうと、非知云々という造語が無意味になってしまうため、慌てて話題を逸らした、ということのようです。
どうでも良いことは聞かれもしないのに千度しゃべり倒すのに、この体たらく。
いやはや、言葉もありません。
次の補足欄
#26補足欄の続きです。
>☆ すり替えだという指摘には すり替えだと応じるわけですね。
:
一言も反論することなく、このご都合主義。
大したものです。
みなさん、ありがとうございます。
大体のところは出揃ったようですので、反論の時間を若干とった後、締め切る予定です。