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明智光秀が信長に謀反するきっかけとなった出来事について
・信長からいじめを受けていた
・家康の接待役をはずされた
と言うのは後世の資料に拠る根拠の無い事であると判明していますが
・丹波と近江を召し上げ、石見・出雲を切り取り次第 と言うのは「日本史」や「信長公記」には出てきますか?

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A 回答 (2件)

制圧後、その領地の支配権を認める切り取り次第


いわゆる未征服地の一職支配権授与に関しては信長は他の家臣にも命じてます


有名どころでは
荒木村重に摂津
佐々成政に越中

彼らは成功例ですが


失敗例としては
天正三年、簗田広正に南部ニ郡しか領有していなかった加賀の制圧を命じましたが
一向衆の猛反撃で逆に大聖寺城に追い込まれ
急を知り駆けつけた柴田勝家、佐久間盛政に救出される大失態でお役免除
この戦いで戦功があり、後の加賀制圧で一向衆から鬼玄番と恐れられ、戦上手を見せつけた佐久間盛政に任される事に


ただ光秀に本拠を返上し出雲等切り取り次第を命じたというのは胡散臭いですね



あと信長が光秀を冷遇したことをなかったのでは?

天正四年に塙直政の対本願寺攻めの軍に配下として従っていた光秀は
旗頭塙直政が雑賀衆により討たれ天王寺砦で本願寺・雑賀衆1万5千の大軍に包囲されました


その急報を聞いた信長は馬廻のみのたった3千の兵を率いて
本願寺の大軍の中を突破して光秀を救出しました
その時、信長は太ももに銃弾を受け負傷していました


信長にとり光秀は
例え自分が負傷しようと寡兵で大軍と戦おうとも
救出するに価値のある家臣であったのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます
確かに家臣の中で最も信頼していたのは光秀ですからね

お礼日時:2014/03/24 17:22

フロイス「日本史」や「信長公記」には出てない。


これは、元禄年間の「明智軍記」が初出。
作者が、現在では失われた文書から記したとされる。

しかし、吉川英治の「宮本武蔵」程度の信憑性なので、
作者の創作かもしれない。\(^^;)...マァマァ
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この回答へのお礼

ぽいですね ありがとうございます

お礼日時:2014/03/24 17:21

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Q知行の決定について

いつも皆様にはお世話になっています。中世の藩について調べています(質問タイトル「廃藩置県」で継続してお世話掛けています)。
3天下人(信長・秀吉・家康)の家臣への知行地割り当てについて質問です。
信長は知行については「切り取り知行」が重いようですが。
秀吉は「切り取り」とは少し違う秀吉個人の判定のように感じます。
家康にあたっては、「重臣と協議した上」が重いような。
いずれも私の勝手な推量で根拠がありません。
そこで質問です。
1・天下人が知行地を決定する際、どんな人(連中)と協議して決定したのでしょうか?
2・知行地の決定、発令までどれくらいの期間があったのでしょうか?
3・所領替えにかける期間(猶予)はどのくらいだったのでしょうか?

Aベストアンサー

信長は実力本位で適材を登用するのに躊躇いはありませんでした。
譜代の家臣には方面軍の指揮官として敵地を切り取りによるようにあてがいました。
投降する諸侯は旧領を安堵し織田軍に組み入れましたが後に反乱すると容赦せず徹底的に鎮圧しました。
これらの決定に余人の意見などの介入する隙はありませんでした。
所領換えにおける猶予期間はまちまちであったとおもいます。
明智光秀の場合は中国への増援であったので軍の編成に時間を要したでしょうが即刻出発するように命ぜられた筈です。
軍団の編成には指揮官の下に寄騎として協力すべき武将をつけましたがこれらは指揮官の知行地に近く本領をあたえました。

秀吉の場合は信長亡き後実力で天下をとりましたがなるべく戦わずに融和策をとりました。 すでに官僚制の兆しはありましたから自身の思惑に加えて石田三成や親族の浅野、弟の羽柴秀長らと協議したとおもいます。
所領換えの所要期間は既に安定した所と敵地に近い所などによりまちまちでしょう。
家康への関東への国換えは秀吉個人の構想ではないかとおもいます。

家康の場合は重臣達の権力もあり合議制への移行が始まっていましたが参考意見を聞いたとおもいますが基本的には自身の構想によったとおもいます。  諸侯の土地への癒着を恐れしばしば所領換えを行い、重要地点には親藩、譜代を配置しました。

信長は実力本位で適材を登用するのに躊躇いはありませんでした。
譜代の家臣には方面軍の指揮官として敵地を切り取りによるようにあてがいました。
投降する諸侯は旧領を安堵し織田軍に組み入れましたが後に反乱すると容赦せず徹底的に鎮圧しました。
これらの決定に余人の意見などの介入する隙はありませんでした。
所領換えにおける猶予期間はまちまちであったとおもいます。
明智光秀の場合は中国への増援であったので軍の編成に時間を要したでしょうが即刻出発するように命ぜられた筈です。
軍団の編成...続きを読む


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