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玄武神社を創建した人の名前が星野市正紀茂光というようです。
惟喬親王の母(紀静子)方の末梢だとか、紀名虎の孫だと記されています。

紀茂光は「きのしげみつ」と読むのだと思います。

星野市正は「ほしのいちのかみ」でしょうか?

星野市正とは役職ですか?

だとすればどのような役職でしょうか?

A 回答 (3件)

こんにちは


『京都・山城 寺院神社大辞典』(平凡社編)の「玄武神社」には、次のような記述があります。
現(在地) 京都市北区紫野雲林院町
祭神は惟喬親王(文徳天皇第一皇子)。玄武は青龍・白虎・朱雀とともに四神の一で、四神相応の地といわれた平安京の北方守護神である。だが、他の三神を各地に祀った形跡はない。旧村社。「京都府愛宕郡村志」に「大宮村雲林院内、玄武神社、祭神惟喬親王、村社社伝に惟喬親王の遺物なる剣を紀名虎の祭れるなりと云う」とある。元慶元年(878)星野市正源茂光が惟喬親王が寵愛した紀名虎(親王の外祖父)所蔵の御剣を祀ったとする社伝もある。ちなみに星野茂光は大宮郷(現北区)の郷士で、若宮八幡宮の神職であったと伝える。また当社は別名の惟喬社をある時期に玄武社が合併したとも考えられるが、すべて推測の域を出ない。室餅時代には七野神社(現上京区)の末社として同社境内に存していたが、応仁の乱後七野神社が衰退し、その後、今宮神社(現北区)の御旅所が七野神社の社地に建立されるに及んで現在地に移されたとも伝えられるが、地誌類では宝暦四年(1754)刊の「山城名跡巡行志」に、惟喬の祠、雲林院の南、今宮旅所の東にあり、鳥居、社南向」と記されるのが唯一のものである。今宮神社をはじめ各所で行われる「やすらい祭」は、近年当社でも行われ、毎年例祭日には氏子の行列が参詣する。
ついでに、若宮八幡宮についての記述の冒頭については次の通りです。
現(在地) 京都市北区紫野雲林院町
源氏の祖清和天応を祀る。法人名は若宮神社。山城石清水八幡宮を本宮とする若宮で、社伝は源頼光の邸内にあった鎮守社という。-以下略-
これらの中では創建者が、「星野市正源茂光」となっています。質問文は「星野市正紀茂光」で、どちらが正しいのか判然としません。
ともかく、名前の読み方は、「星野・市正・源・茂光」は「ほしの・いちのかみ・みなもと の しげみつ」。「星野・市正・紀・茂光」は「ほしの・いちのかみ・き の しげみつ」です。氏名と実名・諱の間に「の」が入ります。
「星野」は名字(苗字・家名)です。「市正(いちのかみ)」は官職名です。「源・紀」は氏名(うじな)で、カバネを付けた源朝臣・紀朝臣のことです。「茂光」は実名・諱です。
「市正」は律令官制で、京を維持管理・運営する京職(きょうしき)に属する市司(いちのつかさ)の長官です。京は平城京・平安京なども共通ですが、中央を東西に走る朱雀大路を境に、東側を左京、西側を右京と分けます。京職はこの区分に従い左右に分かれ=左京職・右京職に分かれます。そして、左・右京にはそれぞれに市が一つあり、左京に東市、右京に西市があり、左京職のもとには東市司、右京職のもとには西市司が置かれ、それぞれに市司の長官として、東市正・西市正がいました。ただ、西市は早くに廃止されたようで、西市正の任命もなくなります。そのようなこともあったせいでもあるのでしょうが、「東市正」の東を読まずに、「いちのかみ」と呼ぶことが慣例化(有職読み)します。

ここで、細かいことを言っても仕方がないとは思うのですが、気になるので。
まず、名字(苗字・家名)が使われるようになるのは、平安時代も後期になってからで、創建年とされる元慶元年(878)頃にはこのような名乗り方はしなかったと思います。
さらに、上記の内容をまとめると、祭神は惟喬親王。宝物は惟喬親王が寵愛した紀名虎所蔵の御剣。創建者は星野市正源茂光。創建年は元慶元年(878)となります。加えて、創建者の星野市正源茂光については、大宮郷(現北区)の郷士で、若宮八幡宮の神職であり、若宮八幡宮は、源頼光の邸内にあった鎮守社であったという事です。
その上で、関係者の没年を次のようになります。
847年=紀名虎没
866年=紀静子没
877年=紀有常(名虎子息)没
878年=元慶元年
897年=惟喬親王薨去(873年没説もあるが、『日本紀略』の寛平九年二月廿日の条に、「入道弾正尹四品惟喬親王薨。」)
1000年前後=源頼光の活動時期
つまり、惟喬親王の薨去前に、その遺品を祀った神社ができ、創建者もまだ生まれていなかった可能性が高いことになります。創建年を引き上げるために操作したような感じです。
神社の縁起などはこのような物だとは思います。
今一つは、紀名虎の孫についてですが、系図上は男系の子孫は息子の紀有常一人で、有常は、在原業平と、藤原敏行に嫁いだ娘が2名だけしか記載されていません。系図に乗っていない人物がいないとは限りませんが、『尊卑文脈』『系図纂要』『群書類従 系図部』『続群書類従 系図部』などどれも同じです。また、「茂光」という人物についても探してみたのですが、源氏、紀氏には見当たりませんでした。
神社や寺院の縁起・期限などにはこのようなことは当たり前のことですが、読んだ感じからは、この神社というのか、星野市正源茂光の時代というべきなのか、鎌倉時代前後ではないかと思うのですが。

だいぶ脱線してしまいましたが、参考まで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
『京都・山城 寺院神社大辞典』の記述、とても参考になります。

星野茂光と記されていますね。
若宮八幡宮の神職さんであったと。
若宮八幡宮は京都市北区紫野雲林院町にあるのですね。
そしてその若宮八幡宮の記述では「星野市正源茂光」となっている・・・
源と紀氏ではえらく違いますがどっちが正しいんでしょうね?

星野・・・苗字
市正・・・官職名
源・紀・・・氏名(うじな)
茂光・・・実名・諱

苗字と氏名があるとは知りませんでした。

市正の説明も詳しくしてくださってありがとうございます。

>ここで、細かいことを言っても仕方がないとは思うのですが、気になるので。

とんでもないーー。
詳しく教えていただけるとほんと嬉しいです。

名字(苗字・家名)が使われるようになるのは、平安時代後期なのですね。
惟喬親王の薨去年って873年説もあるとはしりませんでした。

>つまり、惟喬親王の薨去前に、その遺品を祀った神社ができ、創建者もまだ生まれていなかった可能性が高いことになります。創建年を引き上げるために操作したような感じです。
神社の縁起などはこのような物だとは思います。

おっしゃるとおりとおもいます。

> 今一つは、紀名虎の孫についてですが、系図上は男系の子孫は息子の紀有常一人で、有常は、在原業平と、藤原敏行に嫁いだ娘が2名だけしか記載されていません。系図に乗っていない人物がいないとは限りませんが、『尊卑文脈』『系図纂要』『群書類従 系図部』『続群書類従 系図部』などどれも同じです。また、「茂光」という人物についても探してみたのですが、源氏、紀氏には見当たりませんでした。

神社の由緒に登場する人物って系図になく、実在した人物なのか、架空の人物なのかよくわからないことが多いですね。

大変勉強になりました。

お礼日時:2014/03/27 23:20

市正は平安時代に京都に置かれた市司(いちのつかさ)としての役職です。


京都の東西に一人ずつ置かれました。
所掌は、掌財貨 交易 器物真偽、度量軽重、売買估價、禁察非違事 とされています。
推測すると、取引関係の、現代で言う民事事件を取り扱っていた役職でしょう。
市正の正確な読み方は分かりません。
市司にはこの他に市佑が東西各一人置かれていました。

星野はおそらく七条大路に面して設けられていた東西いずれかの市が置かれていた場所の名前ではないのでしょうか。
京都の地形に詳しくないので申し訳ありません。(西七条にある安阿弥寺付近か?)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
市司としての役職なんですか~。
詳しい仕事の内容までありがとうございます。
七条大通りだったかどうか忘れましたが、東西に市があったと聞いたことがあります。
そのあたりの地名だとお考えなのですね。
大変勉強になりました!

お礼日時:2014/03/27 22:48

星野市上「ほしのいちのかみ」は役職です。


「市上」は郡の下の市に置かれた「市司 いちのつかさ」
の長です。

今の市長か町長のようなものです。
星野は京都市星野町あたりの地名と思います。

地名から名前になることは、よくありますが、この場合は
違うと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
群の下の市に置かれた「市司」の長を「市上」と言うのですね~。
星野って地名何ですか~。
東山区にありますね。
とても勉強になりました!

お礼日時:2014/03/27 22:38

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