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日本語学習者です。複合辞のことで伺いたいんですが。

以下の 「したにしても」「するにせよ」をもつ文(前の2例) と
     
      「したとしても」「するとせよ」(あとの2例) と

      の違いを教えていただけませんか。

ア)(ひっこしが)よしんば急にきまったにしても、走り書きの手紙ぐらい寄こす日数はあったはずである。

イ)(モアイの遺跡は)石垣も段々畑にしては立派で、修復されたところもあるにせよ、よく保存されている。

ウ)かりに私が考古学者で、ファラオーの誰かの地下納骨所から、エメラルドで刻まれ、死者に捧げられた宝物を発見したとしても、これ以上の感動を受けなかっただろう。

エ)では、かりに第2の方法をとるとせよ、結果はどうかわるか。

A 回答 (6件)

 それぞれの文に示されている出来事とその前提について考えてみましょう。


(ア)「出来事」→手紙すらもよこさなかった
  「前提」→引っ越しが急にきまった
ここから想起できることは、手紙すら来なかったのはなぜか、との疑問もしくは不満に対し、その理由が述べられているとのことです。
 けれども、この前提が「事実」であるかどうかは確定的ではありません。もしかしたら、「~したはずである」と考える話し手の思い込みかもしれません。それを示すのが文頭にある「よしんば」との副詞です。

(イ)「出来事」→モアイの遺跡はよく保存されている
  「前提」→それは修復されているからである
 この文が(ア)と異なるのは、出来事に対して、それを説明する理由が確定的な前提に基づいているとの部分です。

(ウ)「出来事」→これ以上の感動を私は受けたことがない
  「前提」→「私に関する説明」が全て「仮定条件」であること。実際に私は考古学者でもなければエメラルドで刻まれた宝物も発見してはいない。

(エ)「出来事」→結論は変わらない(第1の方法での結論に疑問の余地はない)
  「前提」→第1の方法で論証されている内容に取り立てての問題点はない
そしてこの文は反語文であるともとれます。反語文ですから、書かれている内容とは逆の意味として理解することになります。

(ア)と(イ)そして(ウ)と(エ)を二つのグループに分けている理由が判然としませんが、主節と従説の関係が「確定要件」に基づいているかそれとも「仮定条件」に基づいて説明されているかとの違いであると考えます。
 (ア)(ウ)が仮定条件に基づいているのは、従説にある「よしんば」「かりに」との副詞に注目してみて下さい。
 この二つの副詞は共に「仮定」を示しますが、使い方の用例として、
(1)文末に打ち消しや反語を伴う使い方
(2)一応は確定的な事実があるとの使い方
の二つの使い方があり、それは文脈から判断せざるを得ません。
 (エ)は微妙ですが、僕はこのまま反語として読み取りました。もちろん「では、かりに第2の方法をとるとせよ、結果はどうかわるか」は問い掛けの文ですから、その問い掛けに対する回答が「第1の方法で得た結論と同じであるかもしれないが、同じではないかもしれない。それは実際にやってみなければ解らない」との未定要素を多分に含んでいるともいえます。
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この回答へのお礼

ご丁寧にお答えくださいましてありがとうございます。

お礼日時:2014/05/15 16:09

複合辞と称される一つの単語として理解されると、難しいかと思います。


日本語には習慣的に組みわせて使わる言葉があります。
この習慣的な組み合わせを複合辞と称しただけです。

原点に戻って分解してみて下さい。
「したにしても」⇒「した」+「に」+「しても」
「したとしても」⇒「した」+「と」+「しても」
「に」「と」の違いです。

この場合の「に」「と」は同じように行為や結果が影響を及ぼす対象を示す言葉です。
「に」は行為や結果に他の選択肢があることを示すニアンスを持っています。
「と」は行為や結果を断定しているニアンスがあります。

ア)「急にきまったにしても」⇒急であっても、急でなくて手紙をも出す日数はあった・・・決まる状況が複数あるニアンスです
「急にきまったとしても」⇒急であることを断定しています。
決まるのが急であっても手紙を出すだけの日数はあった・・・強いニアンスが含まれます。

イ)「修復されたところもあるにせよ」⇒修復されていないところと、あるところがある、・・・複数の状況が含まれているニアンスです。
「せよ」は古語で選択の意味を強調する言葉です。
「行くにせよ帰るにせよ」⇒「行く」「帰る」の二つの行動を選択してどちらでも、のような使い方がされる言葉です。
「せよ」がある為に「と」が使えません。
「と」を使うためには「修復されたところがあるとしても」のように言いかえる必要があります。

ウ)「発見したとしても」⇒「発見した」ことを断定しています
「に」を使って「発見したにせよ」のように表現した場合、これ以上の感動を受ける原因が複数あるニアンスを含みます。
強調が弱くなります。
エ)「第2の方法をとるとせよ」⇒他の方法を取ってはならない、の意味です・・・断定しています。
ここで使われている「せよ」はイ)とは異なり「~しなくてはならない」の意味を表します。命令を表す言葉です。(古語です)
「降伏せよ」⇒降伏しなさい。のような行為を命令する意味を表す使い方がされます。

「に」「と」は沢山の異なる意味や使い方がある言葉ですので辞書で確認して下さい。
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この回答へのお礼

ご丁寧にお答えくださいましてありがとうございます。
たいへん勉強になりました。

お礼日時:2014/05/15 16:10

簡単に、「に」と「と」の問題と考える。

私だったら、日本語学習者に対しては、立派な大人は、「と」は遣わないと言う。

殊に、「第2の方法をとるとせよ」などという不自然な表現を、昨今、聞いたことがない。「とる《に》せよ」と言わないと、日本語を知らぬ者と断定される。

何より、一般感覚では、「と」を遣うと、幼児語を喋っている感じになる。大人の文章としては、必ず、「に」でなくてはならないと確信している。

日本語学習者には、「と」の用法など、教えてはいけない。「と」は「に」の誤記であると断言してやるという乱暴さが必要。
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 2番回答者です。

大事なことを説明し忘れたので、補足させてもらいます。ただ、いま会社で仕事中なので、簡単に。

 『(ひっこしが)よしんば急にきまった"と"しても、走り書きの手紙ぐらい寄こす日数はあったはずである』

 という具合に「に」の代わりに「と」を使うことも可能です。

 では、もともとの「に」の場合と、「と」の場合では、意味がどう違うかと言うと、「に」の場合は、相手の言い分を認める気持ち(こちらが譲歩する気持ち)がありますが、「と」の場合は、自分の意見を強調する働きをします。

 上記の「と」に換えたほうの例文では、相手の言い分を認める意識(譲歩の意識)は感じられなくなり、高圧的に、「手紙を書け、書いてほしかった」という自分の気持ちを強調し、押し付ける感じしかしません。


 『石垣も段々畑にしては立派で、修復されたところもある"としても"、よく保存されている』

 という具合に「と」を含む言い方にすることも可能です。これも、自分の意見(よく保存されている)を強調する働きになります。

 相手の「修復されたところもある」という主張を「受け入れる感じ」が薄くなり、むしろ、「よく保存されている」という自分の意見を強調するときの言い方です。

 例えば、A氏の優しさを強調したいとき、ただ「Aは優しい」と言うよりは、「Aは馬鹿だけど、やさしい」と言ったほうが優しさが強調されます。色の黒さを強調する場合は、背景を黒っぽっくするよりは、白くしたほうが黒が協調される。そんな感じの言い方です。


 ちなみに、修復されたところもある"と"せよ、という言い方をすると、「修復されたところがあると仮定しなさい」という命令文になりますので、意味がまったく変わります。

 つまり、(エ)と同じ働きになります。
 
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> 「したにしても」と「したとしても」の違いは何



 「した"に"しても」というののは、相手から異論・反論・指摘などがもどってくることを予想して、相手に一歩譲る気持ちがある場合に使う用法です。

> )(ひっこしが)よしんば急にきまったにしても、走り書きの手紙ぐらい寄こす日数はあったはずである。

 「手紙をよこせ!」と言い切ると、相手から「だって、急に引っ越すことになったんだから、しかたないだろう」という弁解・反論が来るだろうと予想していたか、すでにそういう弁解・反論が来ているのを前提にして、言う時の言い方です。

 相手の言い分に一理ある(正しい部分がある)ことを認めたうえで、「しかし」「それでも」と、自分の主張を付け加える言い方、と言えばわかるでしょうか?

 相手を傷つけない日本流の言い回しの1つです。


> (モアイの遺跡は)石垣も段々畑にしては立派で、修復されたところもあるにせよ、よく保存されている。

 これもそうです。

 「アモイの遺跡は、よく保存されている」と言い切ると、よそから、「知らないのか?、アモイの遺跡は修復されてるんだぞ」という異論、指摘が予想されるからか、あるいはすでに誰かがすでにそういう指摘をしたから、「うん、たしかに修復はしたんだけど」という具合に、相手の言い分に一歩理解を示して譲歩し、「それでも」と、自分の主張を付け加えています。


 それに対して、「したとしても」というのは、上記のような異論・反論的な指摘を受けない場合の言い方です。「素直な自分の気持ちを主張」する言葉が続きます。

> 宝物を発見したとしても、これ以上の感動を受けなかっただろう

 これは自分の感動ですので、誰からも、「それは違う」という異論をつけられる危険がありません。というか、そういう異論反論を受け付ける気がない場合なので、このように言ったと解釈すべきでしょう。

 「違うかもしれない」という不安があったり、ほかから「もっと大きな感動を受ける場面があるんじゃないの」とかいう指摘を受ける危険性を感じていれば、「宝物を発見した"に"しても、これ以上の感動を・・・ 」という表現をしたかもしれません。

 その場合、「だろう」で文を終わらせず、「だろうと思う」みたいな、あいまいな語尾にしたものと思いますが、表現として「発見したにしても」というように「に」を使っても、間違いではありません。

 例:・・・ 死者に捧げられた宝物を発見した"に"しても、これ以上の感動は受けなかったのではなかろうか。


> では、かりに第2の方法をとるとせよ、結果はどうかわるか。

 これはちょっとほかの用法と性質が違いますが、この一文だけをわかりやすく説明するならば、

 この言葉を発したのは、質問をする権利を有する人です。問題文を作る人は、神の立場で状況を設定し、回答者に回答させる者です。

 設問とは、言うならば神様からの「・・・ 第2の方法をとると仮定しろ!」という命令文ですから、回答者が、「おかしいだろう」という異論反論する余地がありません。

 したがって、「・・・ の方法をとる"に"せよ」という「仮定」的な言い方はできない、とお考えになればよろしいかと思います。
 
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この回答へのお礼

ご丁寧にお答えくださいまして ありがとうございます。

お礼日時:2014/05/15 16:12

「したにしても」「するにせよ」をもつ文(前の2例)


は、確定された出来事の事をさします。

「したとしても」「するとせよ」(あとの2例)
は、まだやっていない出来事の事をさします。(仮定)
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