これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?
▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~
「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkal …
13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?
▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~
△ 12章 45節
http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html
わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
△ 5章 19節
http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html
そこで、イエスは彼らに言われた。
「はっきり言っておく。
子は、父のなさることを見なければ、
自分からは何事もできない。
父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
△ 10章 30節
http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html
わたしと父とは一つである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。
ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ
聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト
・・・・・・・・・・・・ 人:イエス
すなわち
△ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。
☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?
その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?
▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …
1074 師《ゴータマ)が答えた、
「ウバシーヴァよ。
たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は
滅びてしまって(火としては)数えられないように、
そのように聖者は名称と身体から解脱して
滅びてしまって、
(生存するものとしては)数えられないのである。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
違うな、
~~~~~~~~
13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
~~~~~~~~
ここで語られている法・dharmaは、有為法(つくられたモノ)や、現象の真実の姿・《法性》のことを言っているようですね。
心身は五蘊仮和合、諸行無常、諸法無我ということを言っていて、
例のゴータマ・マジックに繋がっていきます。
結局、解脱については何ひとつ語っていない。
bragelonneさんのかい被りでさぁ~。
《法性》を付け加えたのは、オマケです。
私のお情けです(ニコニコ)。
────────────
法性
仏教で法たること,すなわち改変することのない法の法たる本体をいう。諸法の実相,真如,法界,真理などの異名としても用いる。三論宗では真空を,法相宗では円成実性をさす。
http://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E6%80%A7
────────────
ご回答をありがとうございます。
◇ ここで語られている法・dharmaは、有為法(つくられたモノ)や、現象の真実の姿・《法性》のことを言っているようですね。
☆ ということは 科学によって認識しえた世界観ということですよね。
つまり ゴータマは 《法》を体現していると言うけれど それは 法身仏すなわち神のことではない。ゴータマは あくまで人間にとどまる。こういうことですね?
キリスト・イエスとは はっきり違う。想定として違う。ですね?
スッタニパータの 1074 が あたかも文学的表現で すでに人間ではなくなっている⇒ゆえに 法身として神である。というふうに言っているかにも見えます。これは 却下するということですね?
No.30
- 回答日時:
hayah
http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexi …
しまった。
文字を間違えた。
よくみたら
ヘーとヘットを見間違えていた。
I.to be, become, come to pass, exist, happen, fall out
こっちか。
「なる」でもいいのかなあ。
あと fall out というのは?落ちるの?
ご回答をありがとうございます。
《存在》を表わすのに 三つ同じ系統の語があります。chayah / chavah ( chavvah ) / hayah
○ chayah חָיָה~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexi …
to live, have life, remain alive, sustain life, live prosperously, live for ever, be quickened, be alive, be restored to life or health
○ chavah חָוָה~~~~~~~~~~~~~~~~
http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexi …
to breathe; to live
(Piel) to tell, declare, show, make known
(CLBL) to breath
○ Chavvah חַוָּה ~~~~~~~~~~~~
http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexi …
Eve = "life" or "living"
the first woman, wife of Adam
○ hayah הָיָה ~~~~~~~~~~~~~
http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexi …
to be, become, come to pass, exist, happen, fall out
▲ ( Exo 3:14) I AM THAT I AM אֶֽהְיֶה אֲשֶׁר אֶֽהְיֶה
▲ (Jos 22:20) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jos&c …
Did not Achan the son of Zerah commit a trespass in the accursed thing, and wrath fell ( hayah הָיָה ) on all the congregation of Israel? ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.29
- 回答日時:
chayah
http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexi …
神というとややこしいけれど
生きること
がそもそもの根源であって、
ニルヴァーナは、生きることをやめることで、
つまり、
アニミズムから始まって、そのうち
生きることを放棄する人々が現れて、
でも、結局アニミズムを肯定するような形に落ち着いた。
そんなところなのかなあ。
△ (道元:現成公案) ~~~~~~~~
自己を運びて万法を修証するを迷とす。
万法進みて自己を修証するは悟りなり。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つまり
★ ~~~~~~~~~~~~~~
神というとややこしいけれど
生きること
がそもそもの根源であって、
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ と《思考の緑野(+ 感性の原野)》において《万法を修証》しようとするのは 明らかに《迷》である。
《非思考の庭》だと言っているのだから。
《自己――その理性あるいは その理性を誇り心は高ぶり自己の像を風船ガムのように膨れ上がらせるようになってしまったわれ(これを バカが《自我》と呼ぶようになってしまった)――を運ぶ》という初めのボタンのかけ違いから始まっている。
《生きること》と言うというのは 感性+思考である。
ニルワーナは この生きることがどうにも自分の思うようにならないという命題をわざわざさらに置いてしまったそのあと 修行――感性――によってか あるいは瞑想かつ思索によってか こたえを見出そうとするものである。
ボタンの掛け違いが 二重になってしまっている。《生は苦》がさらに加わっている。
もしこの問いをすべて解いたというのなら そのことを皆に知らせねばならない。
それは 非思考の庭なる《賭けのごとき 神の受け容れ》であると。けれども この《神の受け容れ》なる信仰は すでに 梵我一如において説明が与えられていた。
これにも逆らったからには ボタンの掛け違いが 三重になってしまった。
後世の名も無い人間が ブッダターの提唱で この糸のむすぼりを解きほぐした。ただし ブッダターは アートマンにひとしい。
★ ~~~~~~~~~~~~
つまり、
アニミズムから始まって、そのうち
・・・
~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは こたえを見出すための模索であるかも知れない。知れないけれど 《思考+感性》では埒が開かないからと言って 《意識という心の取りあえずの現われを とまどうに任せさ迷うに任せ みづから錯乱する方途を求めた》というに過ぎない。
《自己をはこぶ》な! とは道元のことば。
神をいったいなんだと思っているのだろう。
あたかもセミを捕るように網で神を捉えられるとでも思っているのだろうか。
すでにあなたが 神によってたも(網)で掬われているというのに。
絶対他力って言ってんぢゃん。
こんなところかなぁ。
ご回答をありがとうございます。
No.28
- 回答日時:
58:ヨハネによる福音書/ 08章 58節
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
8:58 εἶπεν αὐτοῖς Ἰησοῦς ἀμὴν ἀμὴν λέγω ὑμῖν πρὶν Ἀβραὰμ γενέσθαι ἐγὼ εἰμί
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これだけど、ギリシャ語はまったくわからないのでなんとも。
egō eimi
私はある
となると、仏教の無我と比べてやっぱり全然、違う、反対だよ。
といいたくもなるけれど。
どうなんだろう。
エイミとアートマンを誰か比較してみてほしい。
個人的には
アートマンはプシューケーとかプネウマとかで、
私はある。とは違うような気もするんだけど。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~
アートマンはプシューケーとかプネウマとかで、
私はある。とは違うような気もするんだけど。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 《われあり》を神が言う場合は あたかも《アートマン=ルーアハ=プネウマ=プシュケー・トゥー・コスムー=アニマ・ムンディ》の領域で言っているかたちです。
その領域――非思考の庭――が
▼ 《アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』》
☆ なる存在の問題です。つまり 神の子キリストなる存在にかんしてです。
イエスは そのころ三十数年を生きたひとりの人間です。
No.27
- 回答日時:
神の名前を
ヘブライ語とかギリシャ語ではなく
ラテン語で
ego sum qui sum
と書いたから一応これも。
cogito, ergo sum
でも、考えるから、ある。だなんて
あるから考える。とまるで反対だと思うのです。
知らんけど。
chayah
http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexi …
ブラジュロンヌさんが遊ぶのところで回答していた
「生きる」というのを活用させると神になるのかな?
すると、あるというよりは、生きるでもいいような。
“Alaṃ, vakkali, kiṃ te iminā pūtikāyena diṭṭhena? Yo kho, vakkali, dhammaṃ passati so maṃ passati; yo maṃ passati so dhammaṃ passati. Dhammañhi, vakkali, passanto maṃ passati; maṃ passanto dhammaṃ passati
maṃ
passati
が気になるかな。
人称代名詞は仏教でも使われるのね。
人称代名詞の私と、アートマンの我は区別されているのかどうなのか?
passatiは流行のヴィパッサナー瞑想でもおなじみ
止観の観も連想してしまう。
40 比丘たちよ、善男子ヴァッカリは、かれの意識は住することなく、完全な涅槃に入ったのである」
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkal …
意識はたぶんviññāṇena
完全な涅槃はparinibbuto
T02n0099_p0347b10║善男子識神當生何處。 佛告諸比丘。跋迦
T02n0099_p0347b11║梨善男子不住識神。以刀自殺。 爾時。世尊
http://www.cbeta.org/cgi-bin/goto.pl?linehead=T0 …
不住識神
識神という言葉になっている。
それにニッバーナではなくて、ニッブト
この使い分けはやっぱり何か意味があるのかないのか。
Appatiṭṭhitena ca, bhikkhave, viññāṇena vakkali kulaputto parinibbuto”ti.
http://suttacentral.net/pi/sn22.87
我思うゆえに我ありなら、
vakkaliさんにとって神は存在しないのではないでしょうか。
でも、不住とはなんだろうと思いつつ。
でもなあ、「わたしはある」とか別の回答でしていたせいか、
法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る
の私が気になって気になって。
ご回答をありがとうございます。
▼ ego sum qui sum
(エフィエ アッシェル エフィエ。)
☆ この《われあり》を持ち出すなら たとえば趣旨説明欄における次のくだりにも触れてもらわねば。
▲(ヨハネ福音)
△ 5章 19節 ~~~~~~~~~~~~~~~~
そこで、イエスは彼らに言われた。
「はっきり言っておく。
子は、父のなさることを見なければ、
自分からは何事もできない。
父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《父なる神が成す》⇒《子なる神がおこなう》。
しかも これは 《霊》の次元での話です。人間にとっては 身と心とから成る存在の内なる――と想定されるところの――《非思考の庭》における話です。
つまり 《存在》は そういうナゾの次元をもふくめて捉える道が考えられます。はたして哲学として成り立つかどうか。
でも
▼ 《われあり》 これが われなり。
というときには そういう《非知》のまぼろしなる宇宙野の話がついてまわります。
コギト エルゴ スム(じっさいには デカルトは フランス語で言ったそうですが)は このような《存在》論がすでに前提になっていると考えられます。
それに 《 Si fallor, sum. (われあやまつなら われあり)》のほうも よろしく。
ニルワーナ(ニッバーナ)にしろ ニッブトにしろ このような《非知》の世界への飽くなき追究といったイメージがありますが 早く言えば 《ブラフマン神‐霊我アートマン》なる一如の命題を超え得なかったと考えられます。
きょうこれから 親鸞のアニメを見に行きます。区で 区民に対する生涯学習の一環としておこなわれるのだそうです。
触れ残したところは よろしくどうぞ。(自分でやれ)。
エフィエは ハーヤーの活用形ですから。
No.26
- 回答日時:
こんばんは
> ☆ 《聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。》――これは 生きている聖者について言っているのではないでしょうか。
死んだ者が 《滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられない》のは 当たり前ですから。
確かに、そのようにも読めます。ただ、これがどのような状態(境地)なのかが新たに疑問として出てきました。
> ☆ いいえ。《非思考の庭 ないし 非経験の場》は 《形而上学》ではあり得ません。形而上学は 思考の問題です。相対性にかかわる経験世界に属します。いいかげんなことは言わないでください。
誤解を招いたことをお許しください。
形而上”学”は、学問の性質上、思考の領域に入ります。
そこで、形而上”的”と、以下のサイト意味(経験によっては認識できないもの)から使用致しました。
形而上 goo辞書から
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/66493/m0u/
こだわった理由と致しましては、以下のように、ブッディズムは無神論とのわたくしの認識があり、”形而下的”との対比で、この語を用いた次第でございます。
Atheist Buddhism BBC
http://www.bbc.co.uk/religion/religions/atheism/ …
誤解を招く表現、深くお詫び申しあげます。
ですが、スッタニパータのブラフマンの記述でございますが、
弟子達の中にもブラフマン信仰を持つものが多かったため、方便として用いたのかもしれませんし、本当は釈尊自身も信仰の発芽を備えていた、ともとれますが、これ以上のことはわかりませんでした。
それでは、失礼させていただきます。
ご回答をありがとうございます。
▼ 2 哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。⇔形而下。
★ こだわった理由と致しましては、以下のように、ブッディズムは無神論とのわたくしの認識があり、”形而下的”との対比で、この語を用いた次第でございます。
☆ ということは 形而上学は 神学と同じであるとなります。
すなわち 神学も 神についての学問です。非経験の場についての〔仮りに試みた〕経験思考です。
形而上学は 形而上なるものについての学問です。ゆえに形而上なるものは 非経験の場のことであり 神のことである。となります。
▼ 超自然的、理念的なもの。
☆ 《超自然》は 非経験です。《理念的なもの》は その超自然的なものが仮りに思考において捉えられた概念となると思います。
ならば 《形而上なるもの》は 神のことです。
そういうふうには捉えてはいませんでした。間違えました。すみませんでした。
No.25
- 回答日時:
こんばんは
> つまり ゴータマの発言にあっては 矛盾することを何らかまわないかのごとく あい対立する内容のことを言う場合があるかとさえ考えられて来ます。
おそらく、同じ時代、しかもほぼ同じ場所にて活動したジャイナ教(アートマンの不滅を説いています)の影響もあったのかもしれません。このため、思想に矛盾するところがでてきたのかもしれません。憶測に過ぎませんが。
参考
http://www.hm.aitai.ne.jp/~genkou/jituzon/indoja …
> つまり要するに 《永遠》といった概念は持っていた・また使っていたのではないかとも推測されるのではないか。とは思うのです。
初期・部派仏教時代にも、”輪廻”を肯定していました。これらは、《不死》や《永遠》を前提としていると考えられます。従って、これらの概念もあったのかもしれません。
> さらにあるいは 法身仏=つまり この場合は 法を説くゴータマ・ブッダ というような捉え方から この法もブッダも 永遠なるもの・永遠なる存在であるといった見方へと広がって行ったかも分からない。
そういう意味において 現代において 拡大解釈をも許容して どう捉えるかと考えてはいました。
そうでございましたか。了解致しました。
大乗仏教におきましては、このような傾向は顕著にみられますので、その各時代において、思想の変化などがあったのかもしれません。
> 微妙ですね。つまり ひとつの基本は 当時の情況の中で――おっしゃるように――その言葉の意味を確定して捉えることでしょうね 確かに。
スッタニパータは今日でも上座部の経典でもあります。さらにこの上に大乗仏教(現在も対立がみられます)の思想を加えてしまいますと、複雑化し過ぎてしまうと考えたため、このように簡略化させていただきました。
> ☆ ううーん。何だか わかりづらいところですね。《人間ではなくなっている》って言っても まだ生きている間のことをも言っているように思われるんです。
スッタニパータには、以下のように”来生”に関する記述も見られます。このため、”来生”のことかと考えました。
もちろん、生きている間なのかどうかにつきましては、はっきりとしたことはわかりません。誠に申し訳ございません。
404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」
> ▼ 師(1074): そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。
☆ これも まだ生存しているあいだについても言っているように思えるのですが どうなんでしょうねぇ。
”身体から解脱”とありましたので、”生存していない”と考えましたが、やはり、これもわかりません。ごめんなさい。
> ○ それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。
これですが 有るか無いかの判断基準を超えている。相対性の世界を超えている。というふうにも見られるように思うのです。
確かに、形而上的な意味合いを持っていると考えられます。
> ただし もしそうだとしても それは おそらくそのような神に 人間が成る。つまり ゴータマが 神なる存在に成った。というような見方を言っているのなら それは ちょっとどういう現実かと疑わねばならないようにも思います。
上記の404詩にもございますが、ゴータマが神になった、とは言い難いと思われます。
> 法には 相対的な世界におけるブッダの現実のすがた・その徳のありさまを言う場合と
そうして あたかもこの相対性の世界を超えたところのことをも指し示しているかのような場合と――ふたつの意味があるように感じます。
後者(相対性の世界を超えたところ)の例として以下の詩がございました。もしかしますと、形而上的なものまで及んでいたのかもしれません。
139 かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、情欲を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。
285 バラモンたちには家畜もなかったし、黄金もなかったし、穀物もなかった。しかしかれらはヴェーダ読誦を財産ともなし、穀物ともなし、ブラフマンを倉として守っていた。
> そしてこの後者の絶対の世界については 非経験の場であると想定したかたちでの捉え方が あいまいである。だから ブラフマン神と人間における霊我アートマンといった非経験の場のことを ゴータマは捉え得ていなかった。
部派仏教時代、また現在の上座部も含めまして、「無神論」であるというのが通説だったと思われます。ですが、上述の詩にもございますが、”ブラフマン神”という語だ出てきます。これをどのように解釈すべきかは、はっきり申しまして難しいのですが、
・このスッタニパータも後に種々改変されたものである
・アートマンの否定から出発したため、ブラフマンについて積極的には言い出すことが困難となった。
のような推測が可能かもしれませんが、形而上的なものに関しては消極的であることは確かなように思えます。そういう意味では、捉えていたかもしれませんが、消極的な姿勢を堅持したため、「ブラフマン神と人間における霊我アートマンといった非経験の場」については敢えて言及しなかった、もしくは後の編集者達はこれを無視したのかもしれません。これも憶測ではございますが・・・
> そういうあいまいさ――つまり 両義性としては 両方の意味がありうる――において
▼ 法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る
☆ と言っている。のであろうと見るのですが どうでしょうかねぇ。
そうでございますね。改めてスッタニパータを見ますと、両方の意味もありうる、そう感じさせられました。
憶測だらけの回答となってしまいました。残念ながら、これがわたくしの限界かもしれません。
それでは、失礼をば・・・
ご回答をありがとうございます。
▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~
1074 師《ゴータマ)が答えた、
「ウバシーヴァよ。
たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は
滅びてしまって(火としては)数えられないように、
そのように聖者は名称と身体から解脱して
滅びてしまって、
(生存するものとしては)数えられないのである。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。》――これは 生きている聖者について言っているのではないでしょうか。
死んだ者が 《滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられない》のは 当たり前ですから。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これですが 有るか無いかの判断基準を超えている。相対性の世界を超えている。というふうにも見られるように思うのです。
確かに、形而上的な意味合いを持っていると考えられます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いいえ。《非思考の庭 ないし 非経験の場》は 《形而上学》ではあり得ません。形而上学は 思考の問題です。相対性にかかわる経験世界に属します。いいかげんなことは言わないでください。
★ ・アートマンの否定から出発したため、ブラフマンについて積極的には言い出すことが困難となった。
☆ この要因は おおきいかと考えます。
No.24
- 回答日時:
こんばんは
まず、以下の経典の一部を想起致しました。
大パリニッバーナ 第二章26 中村元訳
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるだろう。
さらに一方、NemurinekoNyaさんも(厳密には、kazamidoriさんでしょうか)回答No.2にも言及されておられますように、
スッタニパータに記載内の”法”=釈尊が説いた不滅の言葉、教義
ぐらいかと思います。
さらにまた、釈尊は、形而上的なものを否定したとされています。このため、あくまで形而下のものに止まると考えられます。
そこでなのですが、
> つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?
これは、形而上てきなものを否定した釈尊とは、極めて対照的だと思います。
類似点を挙げるとしますと、共に人間として肉体を持った存在であったことぐらいでしょうか(主イエスもこのため肉体的死を迎えた)。
さらに、
> △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。
☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?
前者は、「三位一体説」からもお分かりのように、そのように考えます。
後者におきましては、難しく思います。三身(法身・報身・応身)は、大乗仏教の説だと思われます。このため、スッタニパータ、つまり説一切有部の時代では、法身仏=「”法” 説いた釈尊」ぐらいの意味だと思われます。また、繰り返しとなりますが、”応身仏”とはその時代にはない表現ですので、当時の考えからしますと、「法身仏=ゴータマ」と考えられます。
> その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?
まず、神格化現象がかなり進んだ詩だとも思われました。
前後の内容、つまり、下記サイトの1072-1076詩までをまとめますと、以下のようになります。
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …
<7、学生ウバシーヴァの質問> から
師(1072):
最上の<想いからの解脱>において解脱した人、は退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。
↓
ウバシーヴァ(1073):
もしもかれが[さらに]そこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?
↓
師(1074):
そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。
↓
ウバシーヴァ(1075):
滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?
↓
師(1076):
ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。
そこで、
「聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」
から判断しますと、”滅びてしまって、もはや生存していない状態”のように見受けられます。
そうなりますと、
> その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか?
以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?
生きている(生存している)存在ではなくなっているため、「人間ではなくなっている」と考えられます。ただし、神になった訳ではないと考えます。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
三身(法身・報身・応身)は、大乗仏教の説だと思われます。このため、スッタニパータ、つまり説一切有部の時代では、法身仏=「”法” 説いた釈尊」ぐらいの意味だと思われます。また、繰り返しとなりますが、”応身仏”とはその時代にはない表現ですので、当時の考えからしますと、「法身仏=ゴータマ」と考えられます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ なるほど。でも ただし 《法身仏》という言い方がなくても すでにその当時において 《主宰神ブラフマンのごとき神》という見方はあったとも考えられます。
それを 確かにアン‐アートマンなる無我説において 否定したということですが それでも《不死》といった見方もあり得たかと考えられます。
つまり ゴータマの発言にあっては 矛盾することを何らかまわないかのごとく あい対立する内容のことを言う場合があるかとさえ考えられて来ます。
つまり要するに 《永遠》といった概念は持っていた・また使っていたのではないかとも推測されるのではないか。とは思うのです。
さらにあるいは 法身仏=つまり この場合は 法を説くゴータマ・ブッダ というような捉え方から この法もブッダも 永遠なるもの・永遠なる存在であるといった見方へと広がって行ったかも分からない。
そういう意味において 現代において 拡大解釈をも許容して どう捉えるかと考えてはいました。
微妙ですね。つまり ひとつの基本は 当時の情況の中で――おっしゃるように――その言葉の意味を確定して捉えることでしょうね 確かに。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
そこで、
「聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」
から判断しますと、”滅びてしまって、もはや生存していない状態”のように見受けられます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
生きている(生存している)存在ではなくなっているため、「人間ではなくなっている」と考えられます。ただし、神になった訳ではないと考えます。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ううーん。何だか わかりづらいところですね。《人間ではなくなっている》って言っても まだ生きている間のことをも言っているように思われるんです。
▼ 師(1074): そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。
☆ これも まだ生存しているあいだについても言っているように思えるのですが どうなんでしょうねぇ。
それから
▼ 師(1076): ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。
☆ この表現によれば 主宰神ブラフマンのような神である・すなわち 法身仏であると 実質的には 言ったのではないかとも取られます。
○ それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。
これですが 有るか無いかの判断基準を超えている。相対性の世界を超えている。というふうにも見られるように思うのです。
ただし もしそうだとしても それは おそらくそのような神に 人間が成る。つまり ゴータマが 神なる存在に成った。というような見方を言っているのなら それは ちょっとどういう現実かと疑わねばならないようにも思います。
法には 相対的な世界におけるブッダの現実のすがた・その徳のありさまを言う場合と
そうして あたかもこの相対性の世界を超えたところのことをも指し示しているかのような場合と――ふたつの意味があるように感じます。
そしてこの後者の絶対の世界については 非経験の場であると想定したかたちでの捉え方が あいまいである。だから ブラフマン神と人間における霊我アートマンといった非経験の場のことを ゴータマは捉え得ていなかった。
そういうあいまいさ――つまり 両義性としては 両方の意味がありうる――において
▼ 法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る
☆ と言っている。のであろうと見るのですが どうでしょうかねぇ。
No.23
- 回答日時:
ごく短く。
>>次のくだりで こりゃあだめだと――失礼ながら――思ってしまいました。
意図がうまく伝わらないなぁ。
>>☆ この( a )と( b )とは 矛盾しています。いいでしょうか? 《毛・爪・歯・・・》は 《物質(げんみつには 質料)》です。よ。
>>つまり 《色》は 片や《物質ではない》と言い 片や《毛・爪・歯など》であるということだそうです。成り立ちません。
「色=物質という訳は間違いだ」ということです。あくまで色は眼に対応するものであり、物質という意味を言葉として持ち合わせていないということです。物質例えば、h2oは形体が気体液体個体と変わってもh20はh2oですよね?仏教でいう色はそういうものではなく、一瞬一瞬目に映る色であり、実感される色です。同じような同じ天気の同じような時期の夕焼けを見ても二度と同じには見えないし、感じられないというのが「色」なわけで、物質=色というたんじゃんな訳語にはならないんですよ。色はあくまで『サンユッタニカーヤ』にあるように「意識されえるもの」という意味と考えます。
bragelonne氏は色=物質という意味で使っているのですかね?
>>★ 「色がないってことは見えない」などという教理を問題にしているのではなく
>>☆ いいでしょうか? 《毛が無い》ってことは 《毛が見えない》ことです。
毛は地の要素であって、私の要素ではないっていってるんですよ。
>>観念やそのこだわりが無いってことは ブッダの徳についての観念が無いのであって 隨念すべき徳の概念が 心の目でも見得ないのです。
>>☆初めに《色》も《心》も無くなっていると言っちゃったからです。
>>《仏を見る。法を見る》ということが言えるためには 《解脱において 観念(ナーマ)もカタチ(ルーパ)も滅びた》と言ったことは ウソだったと省みてあやまらなければなりません。
だから、仏陀を見るというのは、どれもお釈迦様の要素を持ち合わせてない姿を見るんです、つまり法を見るんですよ。
>>★ 「(狭義の)色」は、普通であればどれもが「自分のもの」と思われやすいものを、
>>☆ これは 一般の人びとについて言えることです。いまは ブッダの状態が 問題です。ブッダをめぐって《法を見る / 私を見る》という表現が 何を意味するかを問うています。
だから、『マジッマニカーヤ』に説かれている、「これは私のものではない」「私はこれでない」「これは私の我ではない」って状態でしょ。だから、『スッタニパータ』三章455でも、私に姓を訪ねることは適当でないともしてますね。
>>色も心(受想行識)も ほろびたのなら それらが《自分のものではなくなった》というのも 当然のことです。しかしながら そうであるなら 一般の人びとは ブッダを見るにも法を見るにも その色も心も消えているのなら 目でも心の目でも見えるはずがないぢゃありませんか。
いや、見えるでしょ。目には映るし感じられるでしょ?でもその目に映ったものである色は「ゴータマのものではない」んですよ。
>>つまり 早い話が 仏舎利つまり骨も 《色》であり《物質》なのですから もしすでに滅びているのなら 決して見えないはずなのです。
骨は物質ですよ。けれども、色は物質という言語と=で結ぶのは不可能です。その骨目には映りますよけど「ゴータマではないん」ですよ。そこに意味があるんじゃないですか?
>>それとも ゴータマの語りは 矛盾に満ちていてもよいという前提か何かがあるのですか? つじつまが全く合わないとしても 構わないというオシエがあるのですか?
たしかに、つじつまが合わないことがいっぱいはりますね。お経読んでて思ったのが、提婆達多が生きながら地獄に落ちた後、戒律についての改定案を出したりしてますからね。いつ復活したの?って感じだったりしますよね。受けます。
けど、この件に関しては、bragelonne氏が間違ってますよ。色は物質ではありません。読んでて思い出したのがレギナルド・レイ師は「象徴や崇拝、伝説と離れて無関係な。脱神話化された個人性という西洋的で近代的な概念は、初期仏教の真相とは全く関係ない。」て言葉ですな。当時の言語としてどのような意味で使われていたのかとか、当時の事情はどうであったのかとかは関係ないんですね?たぶんこれでは話がかみ合わない。
>>★ 許してください。
>>☆ 存在じたいは 初めから赦されています。けれども 推論におけるマチガイについては 決して哲学は許しません。
わたしは推論の前提になる言語的意味が間違っていると思いますよ。
>>ブッダター(ブッダ‐ダートゥ)やタターガタ・ガルバ(如来蔵)は 想定です。神の霊であると想定したものです。これは 遍在です。
>>もしそのように想定したくなかったなら うつろいゆくもの・朽ちざるを得ないもの(つまり 諸行無常・諸法無我)としての仏性を立てて 理論構築すればよいだけです。
当時の言語の意味を理解しようとして、当時の意味を解釈すしても、現代語に意味が勝ちすぎてしまうってのはよくあることです。しかし、そんな私も先の回答で挙げたような言語的な意味を考えると、仏性をただ「偏在です」と済ませてしまうのは、哲学的態度とはは思えませんね。考える余地もないのですか??それともそれは、中国日本仏教に大きな功績を遺した偉大なる誤訳「仏性」に対する敬意なんでしょうかね?
>>わるいが これで 日本ブディズムは――親鸞を除いて―― 単なる土着のアニミズムに毛が生えたものであると理解できました。
これはあながち間違いじゃない。けど、親鸞聖人もそうですよ案外。てゆうか仏教がそもそもそういうスタイルだしね。『六法礼経』よめば、もともとのバラモンの儀礼に仏教的な意味をのせてお釈迦様は説いてるわけだし。日本だけじゃなくてインドからそうだと思いますよ。
やっぱり今回も、最後がかみ合いませんでしたな。またなんかあったらよろしくお願いします。急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦を。
合掌 南無阿弥陀佛
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・同じ天気の同じような時期の夕焼けを見ても二度と同じには見えないし、感じられないというのが「色」なわけで、物質=色というたんじゃんな訳語にはならないんですよ。色はあくまで『サンユッタニカーヤ』にあるように「意識されえるもの」という意味と考えます。
bragelonne氏は色=物質という意味で使っているのですかね?
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 問題は 《毛・爪・歯など》が《色》だというところから出て来ます。
毛が色なら それは 物質ですよということです。
毛でも 《同じ天気で同じ時期に見ても 二度と同じには見えないし 感じられない》というのは 常識です。
どこか勘違い・考え違いをなさっています。
★ 毛は地の要素であって、私の要素ではないっていってるんですよ。
☆ そのあとです 問題は。
《私のもの・私の要素ではなくなった状態》にあっては その毛なら毛は 人びと一般に見えるのか・見えないのか? と訊いているだけです。
《ほろびた》というのなら 《毛はあるいは骨は もう見えない》となります。
しかもそれを 思えという仏隨念を言う。これは おかしい。――こういう物言いです。
★ だから、仏陀を見るというのは、どれもお釈迦様の要素を持ち合わせてない姿を見るんです、つまり法を見るんですよ。
☆ えっ? えっ? もういちど えっ?
★ お釈迦様の要素を持ち合わせてない姿を見るんです
☆ 見えないですよね?
★ つまり法を見るんですよ。
☆ ですから 《ルーパ(かたち たとえば毛)もナーマ(観念 たとえばさとりの境地なる徳 つまり 法)もが ほろびた》と言っています。《火がかき消されたごとく 消えてしまった》と言っています。
すなわち知恵や徳も 毛や爪やと同じように《消えている》のです。どうして 心の目によってしても 見得ましょうか?
☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~
初めに《色》も《心》も無くなっていると言っちゃったからです。
《仏を見る。法を見る》ということが言えるためには 《解脱において 観念(ナーマ)もカタチ(ルーパ)も滅びた》と言ったことは ウソだったと省みてあやまらなければなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ です。
しかし 往生際がわるいなぁ。
★ だから、『マジッマニカーヤ』に説かれている、「これは私のものではない」「私はこれでない」「これは私の我ではない」って状態でしょ。だから、『スッタニパータ』三章455でも、私に姓を訪ねることは適当でないともしてますね。
☆ これでは 見得ないのです。わたしは すでにブッダなるさとりを得ていますから 見得ますが 一般の人びとには見得ないでしょう。
もし人びと一般にも見える・だから想念を持ち思うことが出来るとすれば おそらくすでにそのブッダのさとりなるものは 万人がふつうに得ようとして得られる境地である。と言わねばならないでしょう。
むしろ こちらのほうが 理論として・オシエとして ふさわしいでしょう。
★ いや、見えるでしょ。目には映るし感じられるでしょ? でもその目に映ったものである色は「ゴータマのものではない」んですよ。
☆ もうここは このやり取りをごらんになっているみなさんに 判断はゆだねます。
次のくだりも 同じくです。
★ 骨は物質ですよ。けれども、色は物質という言語と=で結ぶのは不可能です。その骨目には映りますよけど「ゴータマではないん」ですよ。そこに意味があるんじゃないですか?
★ 色は物質ではありません。
☆ けれども 《毛・爪・歯・・・》のことである。のですよね。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
読んでて思い出したのがレギナルド・レイ師は「象徴や崇拝、伝説と離れて無関係な。脱神話化された個人性という西洋的で近代的な概念は、初期仏教の真相とは全く関係ない。」て言葉ですな。当時の言語としてどのような意味で使われていたのかとか、当時の事情はどうであったのかとかは関係ないんですね?たぶんこれでは話がかみ合わない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この文章の意味は わたしはキ印です。と言っているということですよ。
分からないことは 《古代の生活や社会の事情》の所為にする。これです。
《仏性》が 朽ちるものか それとも遍在する常住のものかは ブディストであるそちらが決めることです。
どちらをえらぶにしても その結果は これこれになりますよとお伝えしているだけです こちらは。
神の霊であるとするなら けっきょく――アン‐アートマンと呼ぼうとも―― 霊我アートマンとひとしいことになります。
もしそうではなく 朽ちるべきものだとすれば けっきょく徳や境地が ただただ程度問題であって 誰でも到達できる知恵ないし判断力のお話だとなります。
これで ゴータマ=ペテン師の説は 確実になりました。ありがとうございます。
No.22
- 回答日時:
お返事ありがとうございます。
私も読んで思うところをつらつら書きます。文字数もありますので、できるだけ短めに。(結局長いのでしょうが・・・)順番的には最後に書かれていますが、この辺から考えたほうが早いと思いますので、
>>タターガタ・ガルバ(如来蔵)ないしブッダター(仏性)は アートマンとまったく同じ神の霊です
これは違うと思いますよ。経典を読んでも「仏性はアートマンとは違う」と連呼されてますからね。じゃ、どう違うかってことですが、端的に言えば「アートマンは教理のもの」ということ。つまり、すべてのものにアートマンはがあるというのがアートマンの考え方の基本ということですね。
では、仏性はどうか?(いわゆる大乗の[以下略])『涅槃経』には「悉有仏性」とあるから、アートマンと同じだということだと思うのですが、これは漢訳の「仏性」という言葉に引っ張られすぎた解釈だと考えます。まずこの『涅槃経』は一般的な解説書を読むと「如来常住」と「悉有仏性」という二本柱で説かれていると書かれているものが多くありますが、この二つの事柄をつなぐということに関しては、いまいち決定打となるような解説はなかなか見いだせません。しかし、語源的な面から考えると、この二つは二本柱ではなく一つのことを表していることがわかるとミュンヘン大学の幅田裕美師は指摘しています。
まず「如来常住」のサンスクリットは「nityo bhagavām buddha」(点とかが付いているところは表記できない場合があります)ということが、サンスクリット『涅槃経』の断片研究からわかっています。日本語にすると「教主仏陀はnityoである」となります。この「nityo」は漢訳では「常住」英語では「eternl」と一般的に訳されますが、これはいわゆる誤訳であるとJohn Brough師は指摘しています。そもそも、このこの語は「ni」に接尾辞「tya」を足したもので、「ni」は「ここに」の意味であり、時間的な永遠性を述べたものではなく、「ここに(ある)」という空間的な意味と考えられます。『涅槃経』では「如来常住」の重要性を説き、観想の実践が説かれているわけですから、いわば、これは先の回答でも述べた仏随念の延長にある考えであることがわかります。つまり、お釈迦様の死後であっても「如来常住」であるというのは、観想(仏随念)を実践すれば、仏陀は「そこにいる」ということになるわけです。
そして、この文脈の中に「悉有仏性」が説かれるわけですね。仏性のサンスクリットは「buddha dhātu」なのですが、この「dhātu」は「構成要素」という意味がありますが、漢訳では「loka dhātu」とした場合「界(世界)」という訳が当てられています。では、なぜ仏性のときは「性(生まれながらにもつ性質)」という字があてられたのか?一つは訳者の曇無讖三蔵は訳すとき原文にはないが中国語にしたときにリズムよく読ませるための語に「性」を好んで使っていることが挙げられます。その証拠にサンスクリットをある程度想定しやすいチベット語の『涅槃経』では「身体の構成要素」意味で用いられ性質的な意味まみえません。そして、仏陀の最期を記す経典群においては「仏舎利」の重要性が説かれるわけですから、仏性の本来の意味は「仏舎利」であったと考えてられます。『涅槃経』の中には「甘露と毒」の偈があり、ここでは「何が拠り所か」という課題が根底にあり三宝の重要性が説かれるわけですが、チベット語『涅槃経』を読むと「khams」という語が頻出していますが、サンスクリットの「dhātu」にあたる語と考えられます。チベット語訳ではお釈迦様は「わたしの身体にkhamasがある」といい、身体的な構成要素つまり仏舎利であると考えられます。そこに続く散文には、buddha dhātuへの帰依と、仏塔への帰依が説かれています。つまり、仏性とはその原意には仏舎利信仰を見出すことができ、先の回答に挙げたマヒンダ長老が「ブッダに会いたーい」といったことにもつながってきます。
また、「悉有仏性」の「有」も、私たちは完了形の「有る、存在する」みたいな意味でとらえてしまいますが、サンスクリットの「asti」は動詞の現在語幹であって、意味として「現在している」というような意味になり、「仏性は現在している」というような意味になります。
つまり、この文脈の上で「仏性」というものを考えるに、『スッタニパータ』で言えば、ピンキヤ尊者の1143の言葉が「如来常住」であり、それによってあらわれた1146のお釈迦様がある意味「仏性」の原型ということにあると思います。ですから、仏性は教理的なものではなく実践の上にあるものであって、「教理の上にあるアートマン」と「実践の上にある仏性」が同じとは考えられませんよ。
余談ですが漢訳の「悉有仏性」は「空」と相性があまり良くないのですが、上述のように考えれば別に相性が悪いとも言い切れないんじゃないかと思うんですけどね。
>>マヒンダ長老は「遺骨を見ると、ブッダに会ったことになるんです。」と答えています。この「ブッダに出会う」というのが上述のような意味になると考えられます。
>>☆ この《上述のような意味》というのが よく分からなかったのですが?
この上述っていうのは「《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》」という意味です。
>>☆ という説明を文字通り受け取るなら すでにゴータマは ブッダとしてはふつうの人の目には見えない状態にあるとなるのではないか?
>>つまりは 形のある身体としての姿が目に見えないというだけではなく 一般に概念ないし観念としての姿をも つまり徳やそのチカラとしてのハタラキについても 人が見ることは出来ない。となるのではないか?
>>それなのに 《仏隨念》をおこなうとおっしゃっている。――これは 矛盾ではないのですか?
これが、この後に続く根本的な質問ですかね。
これは私の読むところでは、「色」ということの理解で深まっていくと思います。色については先ほど引用しました
ヴァッチャよ、まさにそのように色によって如来を示そうとするものは、その色が如来にとって放棄され、根絶され、根こそぎにされ、存在せず、未来において再び生じることがないものであることを示すべきである。実ヴァッチャよ、如来は色と呼ばれるものから解脱している。
という文の、文脈で考える必要があります。一般に仏教用語「色」は「物質的なもの」とか「現象・事象」と考えられますが、実は意味は文脈によって様々です。広義的な意味で案が得るなら、『サンユッタニカーヤ』に「比丘たちよ、悩まされる(苦)というので、それゆえ色と呼ばれる。」とあるように、「体内外の要素の中で意識され得るもの」を色となっているわけですね。ただ、今の「ヴァッチャよ」で始まる引用の文脈で言えば、「五蘊」という文脈で考える必要があります。「サンユッタニカーヤ」ではこの五蘊の文脈の色を「比丘よ、色蘊を知らせるためには(地水火風という)四大要素が因である。」とありますが、この四大要素というのも要素というよりも、生き物であり精霊の類に近いものです。中村元師『スッタニパータ』222偈の註にもその旨があり、やはり色は物質というような意味ではありません。このことについて詳しいのは『マジッマニカーヤ』には、内的な要素と外的な要素と別れますが、内的な地の要素について、
髪・毛・爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・髄・腎臓・心臓・肝臓・膜・脾臓・肺臓・腸・腸間膜・胃・糞・あるいは他のなんでも体内各自に取り入れられた粗く硬くなったものである。
という十九種(漢訳では十七)が列挙されます。次に水の要素を
胆汁・粘液・膿・血・汗・脂肪・涙・膏・唾液・鼻汁・関節液・尿・あるいは他に何でも体内各自取り入れられた水や水に含まれるものである。
とあって、十二種(漢訳では十三)が上げられ、火と風の要素は身体の構成要素ではなく、火は体温や消化という機能であり、風は呼吸等の機能となります。この身体構成要素の地と水の十九種と水の要素十二種を合わせて三十一、これに脳が加わって三十二種が身体の構成要素であり五蘊の文脈の狭義の色であり、これが仏の三十二相に対応し仏随念(観想)の対象となっていくわけです。この経文においては、その後
そこで「これは私のものではない」「私はこれでない」「これは私の我ではない」と、このようにありのまま如実に正しい智慧によってみるべきである
と繰り返されます。
色は体内外で意識され得るものであって、『マジッマニカーヤ』ではそれのどれもが自分ではないということが、仏の三十二相と対応する形で説かれています。つまり、「色がないってことは見えない」などという教理を問題にしているのではなく、仏を見ることで法を見て、それを通して自己を見つめなおすという実践につながっているわけです。ですから、「ヴァッチャよ」の引用文も、この実践論の文脈において「(狭義の)色」は、普通であればどれもが「自分のもの」と思われやすいものを、仏身をとおして「「これは私のものではない」「私はこれでない」「これは私の我ではない」」という法を教え諭し、自己に目を向けさせる実践であると考えます。
何とか入れました。疲れた。bragelonne氏は疲れない?ちょっと私これから、返事書けないくらい忙しくなるかもですが、あしからず。
急いで書いて読み直してないのでめちゃくちゃで答にもなってないかもしれませんが、許してください。
合掌 南無阿弥陀佛
ご回答をありがとうございます。
次のくだりで こりゃあだめだと――失礼ながら――思ってしまいました。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
中村元師『スッタニパータ』222偈の註にもその旨があり、やはり
( a ) 色は物質というような意味ではありません。
このことについて詳しいのは『マジッマニカーヤ』には、内的な要素と外的な要素と別れますが、
( b ) 内的な地の要素について、
髪・毛・爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・髄・腎臓・心臓・肝臓・膜・脾臓・肺臓・腸・腸間膜・胃・糞・あるいは他のなんでも体内各自に取り入れられた粗く硬くなったものである。
という十九種(漢訳では十七)が列挙されます。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この( a )と( b )とは 矛盾しています。いいでしょうか? 《毛・爪・歯・・・》は 《物質(げんみつには 質料)》です。よ。
つまり 《色》は 片や《物質ではない》と言い 片や《毛・爪・歯など》であるということだそうです。成り立ちません。
★ 「色がないってことは見えない」などという教理を問題にしているのではなく
☆ いいでしょうか? 《毛が無い》ってことは 《毛が見えない》ことです。
観念やそのこだわりが無いってことは ブッダの徳についての観念が無いのであって 隨念すべき徳の概念が 心の目でも見得ないのです。
だったら
★ 仏を見ることで法を見て、それを通して自己を見つめなおすという実践につながっているわけです。
☆ とは成り得ません。初めに《色》も《心》も無くなっていると言っちゃったからです。
《仏を見る。法を見る》ということが言えるためには 《解脱において 観念(ナーマ)もカタチ(ルーパ)も滅びた》と言ったことは ウソだったと省みてあやまらなければなりません。
★ 「(狭義の)色」は、普通であればどれもが「自分のもの」と思われやすいものを、
☆ これは 一般の人びとについて言えることです。いまは ブッダの状態が 問題です。ブッダをめぐって《法を見る / 私を見る》という表現が 何を意味するかを問うています。
色も心(受想行識)も ほろびたのなら それらが《自分のものではなくなった》というのも 当然のことです。しかしながら そうであるなら 一般の人びとは ブッダを見るにも法を見るにも その色も心も消えているのなら 目でも心の目でも見えるはずがないぢゃありませんか。
つまり 早い話が 仏舎利つまり骨も 《色》であり《物質》なのですから もしすでに滅びているのなら 決して見えないはずなのです。
それとも ゴータマの語りは 矛盾に満ちていてもよいという前提か何かがあるのですか? つじつまが全く合わないとしても 構わないというオシエがあるのですか?
★ 許してください。
☆ 存在じたいは 初めから赦されています。けれども 推論におけるマチガイについては 決して哲学は許しません。
なぜなら 《過ちては則ち改むるに憚ることなかれ》という言葉に行き着きます。
罰の問題ではなく 哲学の世界から追放されるだけです。
あとは 覚え書き程度にしるします。
○ nitya ~~~~~~~~~~~~~~
http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beg …
ni: down back, in , into, within // nether, beneath
tya= tyad: that::( satyam の語源において) indeed, namely, as it is known (always preceded by ha )
nitya: eternal, ordinary, native, indegenous,・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ じゃ、どう違うかってことですが、端的に言えば「アートマンは教理のもの」ということ。つまり、すべてのものにアートマンがあるというのがアートマンの考え方の基本ということですね。
☆ 《教理》かどうかは 関係ありません。教理におけるかのように(つまり オシエかどうかはどうでもよいという意味ですが) 人びとが《想定する》なら 想定のかぎりで 実際の存在にもやどります。
ブッダター(ブッダ‐ダートゥ)やタターガタ・ガルバ(如来蔵)は 想定です。神の霊であると想定したものです。これは 遍在です。
もしそのように想定したくなかったなら うつろいゆくもの・朽ちざるを得ないもの(つまり 諸行無常・諸法無我)としての仏性を立てて 理論構築すればよいだけです。
わるいが これで 日本ブディズムは――親鸞を除いて―― 単なる土着のアニミズムに毛が生えたものであると理解できました。
物言いなら いつでも 言って来てください。
言いがかりやいちゃもんである場合には どこがマチガイであるかをきちんとおしえて差し上げます。何でも受けつけます。よ。
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