これ何て呼びますか

 これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?

 ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~
 「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))
  http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkal …

 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?

 ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~
 △  12章 45節
 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html

 わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。

 △ 5章 19節
 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html

 そこで、イエスは彼らに言われた。
  「はっきり言っておく。
  子は、父のなさることを見なければ、
  自分からは何事もできない。
  父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。

 △ 10章 30節
 http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html

 わたしと父とは一つである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。

   ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ

   聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト
            ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス


 すなわち
 △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。
 ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?

 その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?
 ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~
  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …

 1074  師《ゴータマ)が答えた、
    「ウバシーヴァよ。
    たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は
    滅びてしまって(火としては)数えられないように、
    そのように聖者は名称と身体から解脱して
    滅びてしまって、
    (生存するものとしては)数えられないのである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (30件中21~30件)

釈尊(仏、ブッダ)は人間では無いが、神でもないのでしょうね。

人間の定義にもよりますが。私はそのように思っています。
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この回答へのお礼

 ですから そういう範疇はないのです。

 文学的な修辞です それは。

 哲学のお話をしましょう。




 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/05/08 16:23

 お久しぶりです。

私の質問とかぶってる部分が多い質問なので、私も思うところを書きますね。

>>これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?
 これはいわゆる「仏随念」という実践を表す言葉でしょう。
 『スッタニパータ』第五章の1146にヴァッカリ尊者の名前が挙がっていますが、ここでは「信を発こせ」または「信を寄せよ」とあります。(中村元師の説では「信を捨て去れ」となっていますが、私は村上真完師の「信を発こせ」という説を採用します。)そして、信と関係した実践法としては
1143信仰と、喜びと、意と、念とが、わたくしを、ゴータマの教えから離れさせません。どちらの方角でも、知恵豊かな方がおもむかれる方角に、私は傾くのです。
とあるように、いわゆる仏随念がとかれ、そこにヴァッカリ尊者の名前が挙がっているということは『サンユッタニカーヤ』の言葉も仏随念と関係したものと考えるのが自然でしょう。

>>つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?
 へー。そんな言葉があるんですね。知らなかった。

>>△ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。
>>☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?
 違いはここでしょう。
 この「仏陀と出会う」ということは、仏舎利信仰につながっていくわけですが、『マハーヴァンサ(大史)』のなかにも、スリランカに仏教を伝えたマヒンダ長老は当時のデーヴァ―ナンピヤティッサ王に
「スリランカに来てから、ブッダ(お釈迦様)に会えなくてさびしいよう」
ということを言うと、王様が
「いやいや、ブッダはもう死んで何百年もたってるでしょ?会えないってどういう意味?」
とその旨を問いただすと、マヒンダ長老は
「遺骨を見ると、ブッダに会ったことになるんです。」
と答えています。この「ブッダに出会う」というのが上述のような意味になると考えられます。
 しかし、bragelonne氏の言うように「法身仏=応身仏ゴータマ」ということに限定されるものではありません。『根本説一切有部毘奈耶雑事』には、お釈迦様は跡取り考えていたサーリープッタ尊者が亡くなった時に、わざわざ自分のもとに遺骨を届けさせ遺骨を掌に載せてその遺徳をしのんでおられたとあります。そして、そののちスダッタ長者にサーリープッタ尊者のストゥーパを立てることを許しています。つまり、この遺骨に対する仏教のスタンスから考えて、応身=法身であったとしても、法身=応身ゴータマという限定的なものではなくほかの弟子にも適用できるとと考えます。
 しかし、キリスト教において「ヨハネは父なる神と一つである」は間違いですよね?

>>その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?
 人間ではないのではありません。「この世のどの物差しを持っても測ることができない」のです。『マジッマニカーヤ』には「この世において如来は不可知である」とあり、『ダンマパタ』にも「足跡がない」と説かれます。また、『マジッマニカーヤ』には詳しく

ヴァッチャよ、まさにそのように色によって如来を示そうとするものは、その色が如来にとって放棄され、根絶され、根こそぎにされ、存在せず、未来において再び生じることがないものであることを示すべきである。実ヴァッチャよ、如来は色と呼ばれるものから解脱している。

と示されるように、この「色」の部分はいわゆる五蘊に置き換えられ繰り返されています。つまり、五蘊仮和合というものから解脱してしまったものは、生じるとか生じないと議論すること自体が成り立たないわけです。だから、お釈迦様は『アングッタラニカーヤ』には「あなたは神か?ガンダッバ(半人半獣の神)か?夜叉か?それとも人か?」と問われて、それらすべてを断って、自分は何者かたらしめる汚れをすべて断っており、あえて呼ぶとしたら仏であると答えています。

こんなとこですかね。ちょっと急ぎ足で書いたので、誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛

この回答への補足

 あぁ これはこれは。こんにちは。わたしの持論は相当はっきりしたものと成って いわば先鋭化して来ていますので 直接のお手合わせはひかえたほうがよいと考えて来ています。そういう事情にあって このように別仕立ての設問とあい成っています。


 ご回答をありがとうございます。


 さて どのようにお応えしたらよいか。そうですね。いつものように反応をつづってまいりましょうか。


 ★ 『スッタニパータ』第五章の1146にヴァッカリ尊者の名前が挙がっていますが、ここでは「信を発こせ」または「信を寄せよ」とあります。(中村元師の説では「信を捨て去れ」となっていますが、私は村上真完師の「信を発こせ」という説を採用します。)
 ☆ ここは まづ原文(翻訳)を確認しておきます。つまり 中村元も 修正した訳をも出しています。

 ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~
 http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …

 1143 〔ピンギヤの発言:〕信仰と、喜びと、意と、念いとが、わたくしを、ゴータマの教えから離れさせません。どちらの方角でも、智慧豊かな方のおもむかれる方角に、わたくしは傾くのです。

 1144 わたくしは、もう老いて、気力も衰えました。ですから、わが身はかしこにおもむくことはできません。しかし想いを馳せて常におもむくのです。バラモンさま。わたくしの心は、かれと結びついているのです。

 1145 わたくしは汚泥の中に臥してもがきながら、洲から洲へと漂いました。そうしてついに、激流を乗り超えた、汚れのない<完全にさとった人>(正覚者)にお会いしたのです。」


 1146 (師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

 * 別訳:「ヴァッカリ・・・が信仰により了解したように そのように汝もまた信仰によって了解せよ。汝は死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ」。
 (中村元訳:『ブッダのことば』 1958初版。1977・23刷版。これのさらに新しい版も出ているようです)。


 1147 (ピンギヤはいった)、「わたくしは聖者のことばを聞いて、ますます心が澄む(=信ずる)ようになりました。さとった人は、煩悩の覆いを開き、心の荒みなく、明察のあられる方です。

 1148 神々に関してもよく熟知して、あれこれ一切のことがらを知っておられます。師は、疑いをいだきまた言を立てる人々の質問を解決されます。

 1149 どこにも譬うべきものなく、奪い去られず、動揺することのない境地に、わたくしは確かにおもむくことでしょう。このことについて、わたくしには疑惑がありません。わたくしの心がこのように確信して了解していることを、お認めください。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 そこでまづ この引用部分でも《1144 〔ゴータマなる存在へ または そのオシエへ〕・・・想いを馳せて常におもむく》とも言っているように ゴータマのブッダであることの徳を思いその内容に心を集中しておもむくといった《仏隨念》が ここで鍵語となる。すなわち 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》という:
 ★ 『サンユッタニカーヤ』の言葉も 仏随念と関係したものと考えるのが自然でしょう。
 ☆ ということですね。



 ということは たぶんたとえば
 ◇ (回答No.4) ここで語られている法・dharmaは、有為法(つくられたモノ)や、現象の真実の姿・《法性》のことを言っているようですね。
 ☆ というごとく いまのこの《法》は 《ブッダ(仏)であることの徳などをそなえた真実の姿についての 隨念》のことを言っているのだと。

 《法を見る》が そのように《仏隨念》のことだとすれば 当然のごとくゴータマはそれが《ブッダである私を見る》ことだと説明している。こうですね。

 そうして 念のために確認するなら 決して《神のことではない》 ですね。つまり《法身仏》とは関係ないのだと。





 ここで ひとつだけ 疑念をつづります。すなわち
 ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~~~
 1074  師《ゴータマ)が答えた、
    「ウバシーヴァよ。
    たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は
    滅びてしまって(火としては)数えられないように、
    そのように聖者は名称と身体から解脱して
    滅びてしまって、
    (生存するものとしては)数えられないのである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という説明を文字通り受け取るなら すでにゴータマは ブッダとしてはふつうの人の目には見えない状態にあるとなるのではないか?

 つまりは 形のある身体としての姿が目に見えないというだけではなく 一般に概念ないし観念としての姿をも つまり徳やそのチカラとしてのハタラキについても 人が見ることは出来ない。となるのではないか?
 
 それなのに 《仏隨念》をおこなうとおっしゃっている。――これは 矛盾ではないのですか?








 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 マヒンダ長老は
  「遺骨を見ると、ブッダに会ったことになるんです。」
 と答えています。この「ブッダに出会う」というのが上述のような意味になると考えられます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ この《上述のような意味》というのが よく分からなかったのですが?

 つまり
 ☆☆ 法身仏=応身仏ゴータマ という想定
 ☆ という意味合いのことでしょうか?

 《遺骨を見る》のは 《実際のゴータマを見る》のと同じことになる。とすれば それは 先ほどの《法を見る》という意味であり それは 仏隨念ということであって けっして《神――法身仏――を見ることではない》わけですから ましてやこの《法身仏=応身仏ゴータマ という想定》にまでは到らない。ということでしょうね。

 そうなると よく意味が取れなくなります。


 でも おっしゃっているのは どうもそのようですよね。違いは ただ
 ★ しかし、bragelonne氏の言うように「法身仏=応身仏ゴータマ」ということに限定されるものではありません。
 ☆ というだけであって この《法身仏=応身仏ゴータマ という想定》をその基本内容としている。ということのようですよね?



 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 『根本説一切有部毘奈耶雑事』には、お釈迦様は跡取りと考えていたサーリープッタ尊者が亡くなった時に、わざわざ自分のもとに遺骨を届けさせ遺骨を掌に載せてその遺徳をしのんでおられたとあります。そして、そののちスダッタ長者にサーリープッタ尊者のストゥーパを立てることを許しています。

 つまり、この遺骨に対する仏教のスタンスから考えて、応身=法身であったとしても、法身=応身ゴータマという限定的なものではなくほかの弟子にも適用できるとと考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ すなわち 《仏隨念》であった《法を見る=ゴータマ(実在の身および仏舎利)を見る》という見方から 一気に《法身仏=応身仏ゴータマ という想定》にすすんだと見受けられるのですが このあたりについて説明をお願いしたいと思います。


 けっきょく両方をふくむのですか?

 《経験的な姿として徳などを思い念じる》〔という意味での《法を見る》〕と そして 《あたかも肉身としての存在=つまり応身を見るなら 法=すなわちここでは法身仏(つまり 神)をも見る》 これら両者が 意味としてふくまれている。こうでしょうか?



 つまり上の長い引用箇所では 《法身仏=応身仏ゴータマ という想定》を中核として いわばそれに準じるかたちで 弟子たちについても《法身仏=応身仏ゴータマ という想定》が適用される。と表明されたものと思われます。

 ううーん。けっきょく 《ゴータマは 神――法身仏――である》のですね?


 (つづく)

補足日時:2014/05/08 12:21
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この回答へのお礼

 (つづき)


 ★ しかし、キリスト教において「ヨハネは父なる神と一つである」は間違いですよね?
 ☆ わたしの説明するところは クリスチア二ティなる宗教(そのオシエ)とは何の関係もありません。とまづお断りしまして。

 この 
 ▲ (ヨハネ福音)10:30 わたしと父とは一つである。
 ☆ については これは イエスが発言しています。したがって意味としては 《イエスなる人間に――想定において――同時に成った神の子キリストは 父なる神とひとつである》と言っています。早く言えば 《父と子とは 神として 同じひとつである》です。

 



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
   >>その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?

 人間ではないのではありません。「この世のどの物差しを持っても測ることができない」のです。『マジッマニカーヤ』には「この世において如来は不可知である」とあり、『ダンマパタ』にも「足跡がない」と説かれます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 人間のあらゆる理性と知恵とによっても知解することが出来ないのであれば ふたつの可能性があります。

 《不可知》かそれとも《非知》かです。

 ○ 《非知》とは? ~~~~~~~~~~

  経験世界

    可知
     既知
     未知

    不可知(知り得ないと知った)

  非経験の場
 
    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち《不可知》なら それはじつは経験世界に属しています。ふつうの人間です。いくら知り得ないところがあると言っても そうです。

 法身仏――無為法――は 神であり これは 《非知》なのです。非知でなければ 法身とも神とも言い得ません。言い得たとしたら それは 人間の理性の考えた何かであり 想像の産物であるとなります。観念において――仏隨念としてのように――思うところのただの思惟にその神と言い張るものは おさまります。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 また、『マジッマニカーヤ』には詳しく

  ヴァッチャよ、まさにそのように色によって如来を示そうとするものは、その色が如来にとって放棄され、根絶され、根こそぎにされ、存在せず、未来において再び生じることがないものであることを示すべきである。実ヴァッチャよ、如来は色と呼ばれるものから解脱している。

 と示されるように、この「色」の部分はいわゆる五蘊に置き換えられ繰り返されています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 成り立たないと思いますよ。

 ▼ その色が如来にとって放棄され、・・・存在せず、
 ☆ ならば 経験事象ではなくなったことを意味します。そこからは やはり二つの解釈可能性が出て来ます。
 
 ( a ) 《放棄され存在せず》になる前においては 《色》として存在したのかと問うて もし然りという答えであるなら それは《死んだ》ということになります。

 ( a-1 ) ところが 《色と呼ばれるものから解脱している》という何らかの経験事象としての存在もしくは状態にある。というわけだと思われますから これは 矛盾でしょうね。
  《死んだも同然》というのは まだ死んではいません。

 ( b ) もともと《色》すなわち肉の身であったときにも 同時に法身仏=すなわち応身仏であった。つまり 人間であると同時に 神でもあった。という想定にする場合。

 つまり 話がかろうじて成り立つためには ( b )の想定を採用するよりほかにないはずです。




 ★ つまり、五蘊仮和合というものから解脱してしまったものは、生じるとか生じないと議論すること自体が成り立たないわけです。
 ☆ ええっとですね。( b )の解釈というのは 人間であり しかも同時に神であるというナゾの想定です。

 《五蘊仮和合》なる身も そしてその《五蘊仮和合というものから解脱してしまったもの》という存在も もしこの人間の生きている経験世界に まだ居残っているのなら それは あくまで《人間》です。《神》ではあり得ません。

 《生じるとか生じないと議論すること自体が成り立たないわけで》ある存在は 人間ではありません。つまり 神です。

 《有るとも無いとも人間が決められないもの》は ナゾであり非知であり 神です。

 《因果関係からまったく自由な存在》 これも 神です。法身仏です。


 ということは 法身仏が仮りに人間の身となったという応身仏なるものは まさにそのように人間なる経験存在であると同時に それに一体となった神としての・神の霊としてのブッダであるわけです。つまり 上の( b )の解釈になりますし それよりほかに可能性はあり得ないでしょうね。

 早い話が かのシッダッタと呼ばれた人間は ゴータマなる人間であり それと同時に 法身仏の地上における現われとしての応身仏である。すなわち 
 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~
 
  ブッダ:法 / 法身====== 応身:ゴータマ・ブッダ
              ・・・・・・・人間:シッダッタ

  聖書:父なる神========子なる神:キリスト
             ・・・・・・・・・・人間:イエス

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という想定における――存在の二重性としての――神学を展開している。こういうことになるでしょうね。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから、お釈迦様は『アングッタラニカーヤ』には「あなたは神か?ガンダッバ(半人半獣の神)か?夜叉か?それとも人か?」と問われて、それらすべてを断って、自分は何者かたらしめる汚れをすべて断っており、あえて呼ぶとしたら仏であると答えています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから その《仏》とは何か? 世界標準において説明しなければなりません。もしくは 世界基準がマチガイであるということを 明らかにするつとめがあると考えられます。





 取りあえずは こういう課題をもった局面にある。こう考えます。

 《不可知》は おそらくダメでしょう。経験事象に属します。だから ダメでしょう。

 《非知》なら やはり神です。梵我一如のブラフマンなる神であり 霊我アートマンなる神の霊です。この神の霊については アン‐アートマン(無我)と言っても――さきほど《有無を超えている》と見たように―― まったく同じ神学なのです。

 ブディズムが どうか独りよがりになりませんように。

 タターガタ・ガルバ(如来蔵)ないしブッダター(仏性)は アートマンとまったく同じ神の霊です。聖霊なる神のことです。この聖霊なる神は いくらかはそれに報身仏が似ているという見方が出されるかも知れません。

 どうか開かれて行かれますように。

お礼日時:2014/05/08 13:12

私の聞いたところでは、仏は人間ではなく、喜怒哀楽に生きる存在ではないということです。


報身か応身かは置いといて、すくなくとも法身では無いと私は考えますが。
当時の人々はどう見てたのでしょうね。そこまではわかりません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 仏は人間ではなく、喜怒哀楽に生きる存在ではないということです。
 ☆ これでは――この表現では―― 議論の中身がはっきりしません。

 つまり 《仏は》の問題ではなく ゴータマはどうなのかです。

 ゴータマは たとえ母となるマーヤーが出産のため郷里に帰る途中に立ち寄ったルンビニーの園で花を手折ろうと手を伸ばしたところ 右脇から生まれたと伝えられていようと あるいはゴータマが産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して《天上天下唯我独尊》と話したと伝えられていようと それらは 脚色しただけの話で あくまで人間であった。と――当然のごとく――見るのか? 
 それとも 神であったと見るのか?

 このようにゴータマがどうなのかという問いです。



 神であったという場合には あたかも宇宙の主宰神であるブラフマンとのごとくある神が 《法身仏》です。

 その法身仏たる神が――想定として―― 人間になったという場合には その存在が応身仏です。

 (この場合 まだ ひとつの説明が不足しているはずです。それは この世に現われている存在は すでに全体が応身仏であるということか? つまり ぜんぶ神であるのか?

 それとも 人間である――ゴータマなる人間である――と同時に 神なる応身仏でもあるという二重の存在であるというのか?

 この点を明らかにすべきだとなります)。


 報身仏は 神の知恵のことを言います。これは 法身仏および応身仏には もともとそなわっていると言えばよいことでしょう。いえ あるいは 法身仏じたいが 神の霊であるからには その霊そのもののことを あたかも中身が知恵であるとして 報身仏と呼ぶのかも知れません。


 いづれにしましても ブディストが定義を明らかにすべきことだと考えます。
 質問者は これを問う立ち場でしかありません。

お礼日時:2014/05/08 06:56

>これでよろしければ 人間としてふつうの見解に立つならば ゴータマは 神になったのではなく 人間にとどまっている。

と確認し得たと思います。

事実その通りです。

しかし貴方は其処に囚われている。

納得をしたい自分に囚われている。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~
 しかし貴方は其処に囚われている。

 納得をしたい自分に囚われている。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そういうふうに見られるようにやり取りをして来ていますが――特にこの質問の場合にですが―― 答えは 自分なりに分かってはいました。つまり

 (あ) あくまでどこまでもゴータマは 人間である。

 (い) もし法身仏の降臨としての応身仏であったなら――つまり神であったなら――それとして 想定の話になる。思考によって結論を出したというたぐいの話ではない。だから その想定だということをはっきりさせなければならない。

 このどちらかになるということは 分かっていました。



 そして質問者が こだわりが過ぎるということですが それは (い)の見解を採る場合に いや それこそがこだわり過ぎておりすでにその観念に囚われてしまっている ということを明らかにするという目的のもとにあります。

 すなわち 囚われている説から人びとが解放されるように 是が非でも《納得させたい》だけのことです。





 この質問のきっかけは No.7お礼欄に参考資料としてかかげたひとつの見解に接したことです。見てみてください。なぜ わざわざ《ゴータマは人間である》ことを説得しようとしているかが お分かりになると思います。

お礼日時:2014/05/08 06:37

法身は違うでしょうね。

それは法そのものと思われます。釈尊自身は報身だったかな?もう一つ応身(一瞬の化身仏、善知識)というのがあったと思いますが。あやふやで申し訳ないですが。
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この回答へのお礼

 ご回答ををありがとうございます。


 梵我一如という説明のかたちがあります。これで行くと 分かりやすいと思います。

 主宰神ブラフマンが 法身仏です。つまり 神です。

 法という場合には この法身を言う場合――つまり 神です――と そうではなく経験世界における法則のごとき科学的真実を言う場合とがあるようです。


 応身仏は 法身なる神が そのまま人間となった場合を言うと思います。神の独り子が 肉(=身と心なる存在)となった。つまり イエスなる人間となった。こういう場合にあたるはずです。


 ゴータマは 応身仏か? という問いでもあります。


 要するに 神となったのか? それとも 人間にとどまったのか? です。



 参考資料 
 ◆ (【Q:『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図】)~~~~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8573374.html
 回答No.7お礼欄

  また、『スッタニパータ』第五章においても学生ウパシーヴァの質問においてもい、

  1074 師が答えた「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである」 

 とあって、そもそも肉身(身体)としては想定できないというのが、お釈迦様に対する一つの認識であり、「結語」のピンキヤ尊者の言葉にも、法身のお釈迦様という考えにも、通底した考えであるとおもいます。

 原始経典の中から文献学的に抽出可能なお釈迦様は、肉身のお釈迦様ではなく、肉身でありながら法身のお釈迦様です。

 つまり、上述にある「釈尊を目の当たりにする」ということに意味は「パーラーヤナ」結語にも名前があがるヴァッカリ尊者に『サンユッタニーヤ』の中でお釈迦様がおっしゃった

   「法を見るものは私を見る、私を見るものは法を見る」

 という言葉が表すように、当時の人たちはそのように認識していたのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/05/08 00:27

>これは 無理です。

むろん そう仮説することは出来ますが 《現象をつかさどる》そのありさまを人間のだれも見たことはないからです。

説明が悪かったですかね、「現象」そのものです。

単純に人間がその背後を想像しただけです。

>分かりました。たとえばここに集っているわれわれの一人ひとりも ちょっとしたマニュアルを作成したなら ゴータマと同じような生き方にもなる。こういうことですね。



仏陀と同じ生き方がいいのですか?

>われわれは一般に 迷いの一本道を突き進むことはない。引き返したり 別の道を探したりする。こうですね。承知しました。ありがとう。

引き返すのも、別の道を探すのも自由です。

ただ、「一本道」を見つけられたならばその意見も理解出来ますが・・
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます

 ★ 仏陀と同じ生き方がいいのですか?
 ☆ いえ。同じような生き方をしようと思えばできるということです。そのように あくまで人間一般の範囲を出ない存在であった つまりゴータマは ということの確認のためにたとえた事例です。



 ★ ただ、「一本道」を見つけられたならばその意見も理解出来ますが・・
 ☆ ただし ゴータマの場合は 《迷いの一本道》であった。それゆえ ドM だと見られるという。――ですね。


 これでよろしければ 人間としてふつうの見解に立つならば ゴータマは 神になったのではなく 人間にとどまっている。と確認し得たと思います。

お礼日時:2014/05/08 00:33

>《法》は けっきょく《神》でしょう?



んんんんん~~~~~~~~~・・・・・・・・・・

定義によってしまうので何とも言えませんが、「違い」ます。

説明は面倒くさいので簡単に・・・

神は「既に有った者を象徴化したもの」です。

人類以前と言ってもいいですかね。

もちろん「法」も人類以前から人類等は関係なく存在しますが、「神」は「現象」を司る者です。

「法」は「現象」では満足出来なくなった人間が、探し出した物です。

更に言えば、「現象」を賢しらに口にするモノに対しての疑問から、生じたものです。

>つまりは ナゾゆえに《霊》として 神の霊すなわちアートマンのことではないのですか?
つまりは 梵我一如であるとするからには 霊我アートマンを――すなわちこれを ブッダター(仏性)と言っても同じなはずですが――われら人間がそれぞれ宿すと見るなら その意味で 《人間はみなおのおの 法を体現している》ということではないのですか?
つまり ゴータマに限らず ひとは《法を体現している》ということではないのですか?
ゴータマとわれわれと どう違いますか?
実際はどうだかを別として。

「法を体現している」については、人によって言う事が違うでしょうから、私が此処で駄文を晒しても余り意味はありません。

“勝手にやればw”としか言えません。

しかし苦しみからの解脱を望んでいるのでしたら、自ずと選ぶべき事があります。

仏陀と我々は本質に何ら違いはありません。

仮にあるとすれば、人生が違う位。

当たり前の事です。

しかし、生き方は皆、それぞれでは?

>先ほどのように 梵我一如なる信仰のかたちにおいては だれも無視しているわけではないと考えられます。
ゴータマとほかの人とのあいだの違いについて 明らかになりませんか?

無視は出来ないでしょうね。

苦しみからの解脱の処世術のマニュアル作成者ですから。

しかしぶっちゃけ法理については違いは無いです。

「仏陀のせいで迷った」・・・・

「仏陀のお陰で悟った」・・・・

どっちも同じです。

自分を生きていないから。

ただ、私が仏陀を尊敬出来る一点は、「種」を撒いた事です。

人によっては頼る大木に見えたでしょう。

又有る人によっては、羅針盤の様に感じたでしょう。

それも迷いですが、判っていてそれに一生を捧げました。

悟りの段階では、歴史に埋もれた方々と何一つ変わりません。

違う事は「迷いの道」を真っ直ぐ一生貫いた事です。


補足

ドMとも言いますw
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~
 神は「既に有った者を象徴化したもの」です。

 人類以前と言ってもいいですかね。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 人間が想像した神です。あるいは 世界についてそこから取り出し認識したものとしての神です。

 そういう意味での《法》は No.4でねむりねこさんが説明してくれた《有為法(つくられたモノ)や、現象の真実の姿》のことではないかと思います。

 そういう意味で ゴータマが法を体現していると言っても それほどおどろきません。それは けっきょく科学が知ることの出来る世界現実だと考えられるからです。




 ★ 「神」は「現象」を司る者です。
 ☆ これは 無理です。むろん そう仮説することは出来ますが 《現象をつかさどる》そのありさまを人間のだれも見たことはないからです。 

 もし仮りに科学が そういう《つかさどった跡》などを捉えたという場合にも そのような経験事象にかかわる神は そのまま経験事象〔についての法則〕であるにとどまります。この世界を超えていません。





 ★ ~~~~~~~~~~~~
 仏陀と我々は本質に何ら違いはありません。

 仮にあるとすれば、人生が違う位。

 当たり前の事です。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ありがとうございます。人間としての見解が聞けた感じです。

 つまり ゴータマは 人間として ほかの誰とも 決して違う存在などではない。これです。



 ですから
 ▼ (スッタニパータ) ~~~~~~
 1074 ・・・
    聖者は名称と身体から解脱して
    滅びてしまって、
    (生存するものとしては)数えられないのである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と言っているのは あくまで比喩である。そう表現したとしても ゴータマが人間であることに変わりない。――こうですね。
 

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 無視は出来ないでしょうね。

 苦しみからの解脱の処世術のマニュアル作成者ですから。

 しかしぶっちゃけ法理については違いは無いです。

 「仏陀のせいで迷った」・・・・

 「仏陀のお陰で悟った」・・・・

 どっちも同じです。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かりました。たとえばここに集っているわれわれの一人ひとりも ちょっとしたマニュアルを作成したなら ゴータマと同じような生き方にもなる。こういうことですね。



 ★ ~~~~~~~~~
 違う事は「迷いの道」を真っ直ぐ一生貫いた事です。


 補足

 ドMとも言いますw
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ われわれは一般に 迷いの一本道を突き進むことはない。引き返したり 別の道を探したりする。こうですね。承知しました。ありがとう。

お礼日時:2014/05/07 23:46

>以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?



1074の通りかと思います。ブッダは人を超えた存在ということと、よく耳にします。他の表現では、人を超えた楽しみを得る、とか言うのもあります。でも、だからなんだと私は思いますが。神とか、法とかを出せば人がひれ伏すわけじゃないですよね。
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この回答へのお礼

 けっきょく どうなんですか? 結論として どういうご見解ですか?


 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 仏典にしたがう解釈を捉えたあと 要するに どうだと考えるか? を問いたいと思います。


 人間であったゴータマは 成道のあとは 神――法身仏――となった。これで よいですか? という問いです。

お礼日時:2014/05/07 23:02

こんばんは。



kazamidoriさんが
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8573374.html
のNo7の回答に書いていますけれども、
────────────
このように釈尊を権威づけようとする企ては、釈尊の教えを永遠の法として権威づけることとなった。
その結果、釈尊よりもむしろ、釈尊を悟らしめ仏陀たらしめた教えである法を重視する思潮を生じた。
────────────
なんでしょう。

説一切有部などでいう法身・dharma-kayaは、
仏陀を仏陀たらしめる教法・dharmaの色彩が濃くて、
大乗でいうところの法身とは意味が異なります。


☆ 13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
◇ここでいう法・dharmaが何かですね。
真理や《神・大乗の法身》の意味にも解釈できますし、
ゴータマの説いたオシエ、教法の意味にもとれます。

わたしならば、《大乗の法身》の意味にとりますけれども、
いわゆる小乗では教法・オシエの意味にとらえるのであろうと。

そんな気がします。


~~~~~~~
   ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ

   聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト
            ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス
~~~~~~~
日本は、大乗の国ですから、これでいいじゃないですか。
父なる神が、キリスト教のような人格神ですと、ちょっとマズいんですが。
───人格神的面を残したいのならば、報身の阿弥陀さんの方がいいのかな───


質問のタイトルをみた瞬間、
「わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」
という聖書の言葉が真っ先に浮かびましたし。
───今回もゴータマ批判だろうから、ゴータマ弁護のために、聖書のこの言葉を引き合いにだそう、と思ったのですが、先を越されてしまった(笑い)───
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 
 込み入っているところについても説明されているようなのですが けっきょく

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
   ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ

   聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト
            ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス


 日本は、大乗の国ですから、これでいいじゃないですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ で いいということですか?

 だとすると 
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~
  すなわち
  △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。
  ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということになるのですが? つまり ゴータマは 神である。ということになるのですが それで よいのでしょうか?



 

 ◇ 父なる神が、キリスト教のような人格神ですと、ちょっとマズいんですが。
 ☆ この問題は 何でもありません。ただ表現上 聖書記者が 神を擬人化してあたかも人間が思惟したり行動したりするように表わしているだけですから。すべては 仮りの表現ですから。





 さらには
 ☆☆ その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?
 ☆ の問題があると思います。

 焦点は 片や聖書では 《人間イエスが 神の子キリストである》と言って このキリストが神でもあるゆえ 父なる神とひとつである――このように説明されるのに対して ゴータマの場合は どうであるか?

 すなわち 人間ゴータマと神(法身仏)ゴータマ・ブッダとが ゴータマなる存在において一体であると捉えるのか? それとも 人間ゴータマは 成道のあとは 人間ではなくなって 神ゴータマ・ブッダとしてのみ存在していると見るのか? です。

お礼日時:2014/05/07 22:59

題名を見たときは「ハンムラビ」かと思いましたよ。




仏陀自身が、「法」を体現していたと言う意味でしょうね。

実際は知りませんが。


ただまぁ、「法理」を求める者が無視して過ぎる事の出来る存在ではないのは確かでしょうね。

貴方も無視出来ない。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 仏陀自身が、「法」を体現していたと言う意味でしょうね。

 実際は知りませんが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~  
 ☆ 《法》は けっきょく《神》でしょう?

 つまりは ナゾゆえに《霊》として 神の霊すなわちアートマンのことではないのですか?

 つまりは 梵我一如であるとするからには 霊我アートマンを――すなわちこれを ブッダター(仏性)と言っても同じなはずですが――われら人間がそれぞれ宿すと見るなら その意味で 《人間はみなおのおの 法を体現している》ということではないのですか?


 つまり ゴータマに限らず ひとは《法を体現している》ということではないのですか?

 ゴータマとわれわれと どう違いますか?

 実際はどうだかを別として。






 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 ただまぁ、「法理」を求める者が無視して過ぎる事の出来る存在ではないのは確かでしょうね。

 貴方も無視出来ない。
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 ☆ 先ほどのように 梵我一如なる信仰のかたちにおいては だれも無視しているわけではないと考えられます。


 ゴータマとほかの人とのあいだの違いについて 明らかになりませんか?

お礼日時:2014/05/07 22:46

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