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「真宗大谷派」の門徒ですが、宗派の名前に疑問を感じ、調べた所、やはり歴史に於ける一向宗からの動向を理解すべきと思い書かせて貰いました


さて、織田信長と一向宗との争いは「有名」ですが、豊臣 秀吉になってからは、そういった「軋轢」を聞いた事が有りません

仮に、その豊臣時代、関係は「良好」であったとして「江戸時代」に於いて、一向宗は、どのような感じで、かつ、幕府との「関係」は、どのような感じだったのでしょうか?

例えば「浄土真宗」を呼び名にして欲しい、との要望を出したが、聞き入れて貰えなかった、と聞いたように思います・・・正確かどうかは解りませんが

しかし、御存知の如く、真宗大谷派は徳川 家康に、言わば「独立」を認められた訳ですから、行動は「穏便」であったのでは?と、いう気がします

ですが、どうも江戸時代に於ける真宗大谷派の動向・・・武士に反抗?或いは恭順?さて、どのような感じだったのか?

また、それにより「江戸幕府」との関係は、どうだったのか?

「本当の所は、どうなのか?」知りたく思っています、詳しい方、おられましたら宜しくお願いします

A 回答 (4件)

No.1です


わざわざお礼を記入頂いて有難うございます。
お礼の中に
>徳川家は「浄土宗」の門徒ですか、意外です、武士は殆ど?が禅宗と思ってましたからね
とありますが、家康と増上寺との出会いは、家康が秀吉の指示で江戸へ向かったときに、増上寺の住職が沿道に迎えに出て家康と親しく会話したのが始まりとされています。

武家は確かに禅宗が多くみかけられますが、そうとも限りません。
加賀前田家は日蓮宗で、立正安国論の原本を所有している千葉の中山法華経寺に五重塔を寄進して、現在重要文化財として残っています。
大奥の女性にも日蓮宗の信者が多く、その影響で、将軍の中には、お家安寧を願った祈祷札を日蓮宗のお寺へ収めている人もいます。

江戸幕府は発足当初から宗教集団とは距離を置いていました。
宗教信者を政権の維持に期待するなどという考え方は毛頭ありませんでした。
神道も仏教も大切にはするが、口出しはせさないというスタンスです。

江戸城の場所も家康が入城した当初は、現在の千鳥ヶ淵一帯にお寺が集結していましたが、さっさと追い出しています。
日蓮宗5寺禅宗5寺浄土真宗2寺天台宗1寺あったそうです。
有名な紫衣事件のときも、禅宗の臨済宗大徳寺の住職であった沢庵和尚を出羽へ流罪処分しています。

何事も一宗一派に偏らないように細心の注意をはらっていました。
将軍の埋葬地も寛永寺と増上寺に分けていたのは、権威が集中することを排除するのが目的でした。
春日局の菩提寺である臨済宗麟祥院も大切にされ現在でも春日通りとして名前が残っています。
大名がどこの宗派であるかなどはキリスト教以外は全く無頓着でした。

蛇足
門徒というのは浄土真宗の方が使われる言葉で一般には壇越、檀家と言います。
門徒宗という呼び名もここからきたのではないのでしょうか。
今時なら単に信徒でしょうかね。
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この回答へのお礼

再びの回答、有り難う御座います

前回は、御礼の言葉が「抜けて」いたようで、大変失礼致しました、実は今「リフォーム中」で、てんやわんやの状況で、忙しすぎる程忙しいものですから、ウッカリしておりました



>何事も一宗一派に偏らないように細心の注意をはらっていました

そうですか、偏らないようにというのは知りませんでした、よく御存知ですね


>門徒というのは浄土真宗の方が使われる言葉で一般には壇越、檀家と言います

あらまっ、そうですか、これまたお恥ずかしき限りです^^;


色々と、お詳しいようで、素晴らしいです。私も宗教に興味がありますので、また質問をさせて頂くかもしれません

その際は、また宜しくお願い致します。

お礼日時:2014/06/23 21:52

こんにちは。


私は自称「歴史作家」です。

親鸞の遺骨がその末娘覚信尼(かくしんに)によって京都の東山吉水にて改葬され、廟舎(びょうしゃ)が建てられた。これが「本願寺」の始まりとされています。
覚信尼は自ら親鸞廟舎の管理者(留守職・るすしき)となってその職を世襲制にし、つづく親鸞の曽孫覚如(かくにょ)はそこに「本願寺」という寺号を掲げました。
こうして誕生した本願寺教団が「一向宗」として名を馳せるようになったのは、第8世蓮如(れんにょ)の時代からでした。

以後、教団の拡大に合わせて各地で一向一揆が続発し、そのクライマックスが10年にわたって織田信長と対峙した石山合戦だったのです。
合戦の後、第11世顕如(けんにょ)は天皇の勅命を受け入れて和睦をしました。しかし、顕如の長男である教如(きょうにょ)はそれに反対したため、顕如は止むなく教如を義絶しました。

顕如の死後、豊臣秀吉によって京都六条堀川に寺所を与えられ、12世を教如が継いだが、顕如の側室であった如春尼(にょしゅんに)は顕如の譲状を盾にそれを認めず、12世に顕如の末子准如(じゅんにょ)を継がせました。
これにより、教如は止むなく家臣たちと寺を出ました。そして、本願寺教団はここで分裂をし、准如の系譜を「本願寺派」(西本願寺)と呼ぶようになりました。

やがて、関ヶ原の戦いが始まり、准如は秀吉に寺領を与えられた恩義により豊臣方に付き、寺を出ていた教如は准如と袂を分かちていたこともあり、徳川家康に付きました。

慶長7年(1602)、家康は教如に京都七条烏丸に寺領を与えて12代本願寺宗主として復帰させました。以後、この教如の流れが「真宗大谷派」となり、「東本願寺」と呼ばれるようになりました。

徳川家康は三河で松平を名乗っていた頃より浄土宗を厚く信奉しており、
「末代まで浄土宗を護るべし」
と、遺言をしていました。
しかし、家康は神格化されて日光東照宮に祀られました。
一方で家康は天海上人(天台宗)とも緊密になったことから、天台宗も庇護するようになりました。

また、明徳4年(1393)に武蔵国豊島郷貝塚に開かれた増上寺(浄土宗)は天正18年(1590)に家康の命により、徳川家の菩提寺として厚遇され、慶長3年(1598)に現在の芝へ移転をし隆盛を極めました。

同じ頃(天正18年)8月30日には、摂津国佃村(現・大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が家康と共に江戸へ移り、名前のない砂州に百間四方の土砂を埋め立てて拡張し、この島を「佃島」と命名して定住しました。

そして、元和3年(1617)に浅草横山町に西本願寺の別院として建立された「江戸浅草御坊」が明暦3年(1657)の通称振袖火事で焼失した折、幕府に同地での再建を願い出ましたが、江戸府内が手狭になって浅草方面の開発を目指していた幕府は許可を出さず、代替地として八丁堀近くの海岸端の狭い土地を与えました。
それを聞いた佃島の門徒たちが中心となって海を埋め立てて土地を築き、延宝7年(1679)に本堂を再建し「築地本願寺」(または、築地御坊)と呼ばれるようになりました。
この時、幕府は土地の埋め立てについては何も意見(文句)を言わず、門徒たちのしたいようにさせたと言われています。

こうして、家康が増上寺と寛永寺を庇護したため、徳川将軍家では原則的には、増上寺と寛永寺に交互に将軍の遺体を埋葬する、という暗黙の決まりができました。(実際には狂いもありますが・・・)

さて、千代田城(当時、江戸城とは呼ばず、正式には「舞鶴城」(ぶかくじょう)、または、「千代田城」と呼ばれ、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました)で、将軍は参詣であっても城からおおやけには出ることができませんでしたので、法要などは大奥にある御仏間で執り行われました。

面白いところでは、芝方丈(しばほうじょう)と呼ばれた増上寺の高僧は「御玄関白洲」と呼ばれる正式の玄関のすぐ近くまで籠で乗り入れることが許されていましたが、築地本願寺と浅草本願寺の高僧は、はるか手前で籠を降りなければならなかったのです。しかし、「旧事諮問録」という本によりますと、なんと、玄関番が「そこまで、そこまで」と手で押しとどめる振りをしながらも、しっかりと「御玄関白洲」付近まで案内をした。とあります。さぞかし、玄関番はこの二つのお寺から多額の心付け(賄賂)が贈られたことでしょう。芝方丈なみに扱われた、と記録には残っています。
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この回答へのお礼

詳しく、有り難う御座います

>こうして、家康が増上寺と寛永寺を庇護したため、徳川将軍家では原則的には、増上寺と寛永寺に交互に将軍の遺体を埋葬する、という暗黙の決まりができました

浄土宗と天台宗にドップリ?ですか・・・一般人とは宗教も違う、はて、その心境は?一般人と同じく浄土真宗や日蓮宗の門徒であった方が「支持」され、為政者としては、得になりそうな気もするんですけどね

それよりも、違う宗教にする事で、優越感を感じたい、という事なんでしょうかね。まぁ~真意は解りませんが、しかし、優れた宗教となれば、教典が優れた日蓮宗、或いは密教あたりになるのではないでしょうかね

お礼日時:2014/06/22 23:02

顕如の跡を教如が継いだのですが、信長との講和にも否定的だった強硬派の教如に対して穏健派が不満を持ち、対立するようになったようです。

その結果、秀吉の介入で弟の准如に法主の座を譲ることになりました。
その後家康に接近した教如は家康から寺領を与えられ、現在のようになったそうです。

以後本願寺のパワーは内部抗争に向けられ、幕府の宗教支配はかなり楽になりました。家康にしてみれば、自身が三河の一向一揆に手を焼いており、その時には一向一揆派だった本多正信も参謀にいた訳ですから、状況から見て家康の宗教政策と考えていいと思います。
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この回答へのお礼

>以後本願寺のパワーは内部抗争に向けられ、幕府の宗教支配はかなり楽になりました

武士や社会に対しては、どうだったんでしょうかね、具体的に「一揆」のようなものは
なかったんでしょうか

単に「内部抗争のみ」で、社会に対しては、全く「反抗」はなかった・・・こう理解して
良いのでしょうか

お礼日時:2014/06/22 21:11

阿弥陀様の本願を大切にする、浄土真宗、一向宗、浄土宗、時宗の歴史的な名称の変遷がややこしいことから生じたご質問かと思います。


いずれの宗派でも御宗旨に変化があった訳ではありません。

一番ややこしいのは、現在、浄土真宗、一向宗と呼ばれている宗派の名称が継続して使われていたのではない、ということです。
信長と対峙した一向宗と江戸時代の一向宗とは直接的には結びつきません。
浄土真宗は信長と対峙した一向宗の末裔ではありません。

江戸幕府が寺社の統率を目指して宗派を統廃合した際に、現在の浄土真宗に相当する宗派の名称として一向宗と名乗るように指示しました。
信長と対峙した一向宗は、時宗十二派とよばれる時宗の宗派の一つとして時宗一向派となりました。

浄土真宗は親鸞が京都から遠く離れた東国で布教活動をしたのと、親鸞自身が弟子は持たないとしていたことから、時代が下るにつれて二派に分裂するという状態になりました。
江戸時代に入り、東本願寺と西本願寺が協議の上、統一した宗派の正式な名称として「浄土真宗」という宗派名を認めるように江戸幕府に申請しました。
これに対して、江戸幕府すなわち徳川家の菩提寺であった芝の増上寺が、真の浄土宗とは何事かと激怒して檀家である徳川家にクレームをつけました。(増上寺は室町時代から続く浄土宗のお寺です)
この論争は明治時代まで続きました。
明治政府になって、初めて公式名称として浄土真宗という名称を使うことを認められました。

秀吉も家康も宗教集団を敵に回すと始末がおえなくなることを熟知していました。
このため、両者とも宗教集団に対しては、どの宗派とも友好的な関係を維持し続けました。
これも、信長が叡山を始めとする仏教集団を徹底的に武力鎮圧した後だったからできた芸当です。

江戸幕府は、基本的に武家である武力集団であったことから、民政については、あらゆる分野で間接統治の手法を取りました。
寺院の統治に当たっても、本末制度と呼ばれる、本山を頂点としたピラミッド型の組織を各宗派が作るように強請しました。
現在も続く本山と末寺の組織です。
この各宗派のピラミッド型組織と幕府の寺社奉行との連絡役として、江戸を中心とした関東周辺に「触頭(ふれがしら)」と呼ばれる窓口になるお寺を指定しました。(このお寺には武家と同じように〇〇石という寺領を与えました)
宗派内の運営には口出しはしないが、こちらの指示には従え!という巧妙な制度です。
即ち、新しく宗派を名乗るということは、この本末制度から離脱して、新たな組織を作るということになってしまいます。
本末制度からの離脱を認めるか否かは宗派内の問題として片づけることができます。
信長のようにいちいち宗派論争にまで口出しをしなくて済みます。
東西本願寺の申し出も浄土宗が受けて立つことになり延々と神学論が続けられる結果となりました。

以上ざっとした説明になりましたが、何かあれば補足をお願いします。
ただし、ご宗旨の詳細な内容まではご勘弁願います。
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この回答へのお礼

>これに対して、江戸幕府すなわち徳川家の菩提寺であった芝の増上寺が、真の浄土宗とは何事かと怒 して檀家である徳川家にクレームをつけました。(増上寺は室町時代から続く浄土宗のお寺です)
この論争は明治時代まで続きました

徳川家は「浄土宗」の門徒ですか、意外です、武士は殆ど?が禅宗と思ってましたからね


>明治政府になって、初めて公式名称として浄土真宗という名称を使うことを認められました

これは「お西さん」の事でしょうかね、確か「お東さん」は明治時代になってから認められた
名前は「真宗」だったと思います

お礼日時:2014/06/22 21:21

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