とっておきの手土産を教えて

宗教を信じている人は他の宗教との関係をどのように考えているのかおたずねします。

例えば、AさんとBさんは友達で、AさんはXという神様をBさんはYという神様を信じているとしとします。もし本当にAさんがX神様を信じているなら「Bさんは神様でないものを信じている」とAさんは考えると思います。Bさんのためを思えば、X神様を信じるようにBさんを説得すべきと考えるのではないでしょうか?また、BさんもY神様を信じるようにAさんを説得しようと考えるのではないでしょうか?

もし「個人には信教の自由があって好きな神様を信じればいいのだ」とAさんが考えるとするなら、AさんはX神様のことを本当は信じていないと思うのです。この世を創造し、人間を創造したのはX神様とAさんが考えているなら、X神様を信じるほかのありようはないからです。もし、個人の自由というなら、それは、神様より上に個人の人権とか自由を置いている証拠です。

私はなにも宗教戦争をしろというわけではありません。本当に信じるということを追求すると他の宗教の否定になりそうに思うので、これを回避するにはどんな考え方をしているのかお聞きしたいと思って質問します。あるいは、それを回避するのは難しいので深く考えないことにしているのでしょうか?

A 回答 (22件中11~20件)

多神教の中でもヒンドゥー教なんかはイエスキリストも神として祭ってたような気が



そういう多くの神々を祀る宗教があっても 一神教などはガンとして譲りません

アメリカは聖書に先生して戦闘に出て行くし

共産主義国は無宗教なのに思想信条は自由じゃない

神も仏もあるものか この現実は何だ?これが神が作った世界か?

宗教よりももっと根本的な原理を理解して互いに理解しし合うことができれば

人間の目的を理解した上での人間の合意が達成できるのですが・・・・・無念
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなりましてすみません。
宗教を信じている人にとって、それよりも上のものが存在することは認められない気がします。いろいろな揉め事をなくしていくにはご指摘のように考えるのがよいと思います。

お礼日時:2014/11/18 21:22

自分が正しいと信じていれば他人の事など気にすべきではないと思いますね。


例えばそれが邪教であれば、いずれ化けの皮は剥がれます。

他人の教えを気にして批判したり攻撃する。それは人間の慾や迷いから生まれるものです。
つまり宗教者として最もやってはいけないことです。

ちなみにイエスはユダヤ教を批判しました。
しかし彼はキリスト教を立ち上げたわけじゃありません。彼はユダヤ教とであり、慾にまみれたユダヤ教を正すべく批判したのです。
しかしユダヤ教は自らの道を正すことはなかった。だからキリスト教を立ち上げたのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなり済みませんでした。
回答の前半と後半が逆のことを言っている気がするのですが?
前半は他人を批判するのは人間の慾や迷いに起因するということでしたが、キリストによるユダヤ教信者批判は肯定的に受け止めていらっしゃるのですよね。

お礼日時:2014/11/19 19:07

何を信じていようがいまいが、その人を許したらいいと思います。





>本当に信じるということを追求すると他の宗教の否定になりそうに思うので・・・

人権を侵害しろという神の話は聞いたことが無いので
侵害している時点で、教えに反してると言うことはあり得ると思います。

信じるのと信じさせるのとの違いが分からないと
大抵は無茶苦茶になりますよね。

信じさせたい己のエゴに気がつくかつかないか。
そこで分かれますよね。
神じゃなく、神以上に自分の意見・意思を優先している。

神の上に立つ人ととは、話しがややこしくなります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなってすみませんでした。
他人が明らかに間違った宗教に入っていると思ったら、それを正そうとするのは自分のエゴなんでしょうか?例えば、友人が酒やパチンコに溺れていたら、なんとかしてやりたいと思うのは自分のエゴでしょうか?いろいろな考え方があるところかもしれません。

お礼日時:2014/11/19 19:11

神様、仏様と日本語では言いますが、それは英語でも何語でも、要するに「神様」のことを意味します。


日本の憲法では、あらゆる宗教を認めていますが、仏教でもキリスト教でも、新興宗教があって、それぞれが伝統的な教えから枝分かれした親戚同士のようなものですが、それぞれが、「自分のところの考え方が一番正しい」と思っていたりする反面、すべての宗教を認めている新興宗教もあります。
実際に僕は、3つの新興宗教の人たちと話をしましたが、他の宗教を一切認めないところもありました。その時に僕は、「何で親戚のような関係なのに、喧嘩したがるの?」と言ったら、黙ってしまいました。
その結果、僕はどこかの信者になることは、偏りのように感じ、信心しながらも、どこにも所属していません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなってすみません。
確かに、他人を認め仲良くするのが一番です。私もそう思います。
ですが、自分の宗教が正しいと信じるのなら、他の宗教は間違いとなり質問したようなことにはならないのか?ならないとしたら、その理屈はどのようなものか?ということをお聞きしていました。

お礼日時:2014/11/19 19:14

>「個人には信教の自由があって好きな神様を信じればいいのだ」とAさんが考えるとするなら、AさんはX神様のことを本当は信じていないと思うのです。

・・・
信仰というものは、このように割り切れません。
一神教という考え方も二通りあります。
〇多くの神の存在を認めて、その中の一人を最高最善のもとして尊崇する。
〇他の神の存在は認めずに、唯一の神のみを最善として尊崇する。
前者に含まれるのがギリシャ神話やローマ神話、日本の浄土真宗などです。
後者がユダヤ教やキリスト教、イスラム教です。
キリスト教はローマ時代以降ヨーロッパに広がるのにつれて、天使や妖精を受け入れました。
聖母マリアも独立して信仰されるようになりました。
同時に三位一体論(父と子と聖霊)のようなややこしい考え方が出てきて現在も決着がついていません。

宗教論争以前に信仰、信心というものをお考えになられることをお勧めします。
回避するのが難しいのではなく、信仰というものを一面からのみご覧になられておられる結果です。
大いに議論して下さい。

注)「宗教」という言葉は明治以降に欧米の文献を翻訳する際に新しく作られた言葉です。
キリスト教に基づいて翻訳されましたので、言葉の定義もキリスト教での定義がそのまま流用されてしまいました。
この定義が未だに一般常識として使われています。
学術的には別の定義で使われています。
キリスト教に基づく定義の範囲ですと、日本の神道は宗教では無いということになりますので注意して下さい。
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 こんにちは。



 出発点で違って来ていると考えます。

 個人の信仰と集団としての宗教とはまるっきり違います。
 シュウキョウは オシエであり これは考えるものであっても信じるものではありません。




 ひとりの人間にとって信仰があるとしたら その信じる神は 人類にとって同じひとつの神しか想定できません。

 違った神がいたら そのどちらかが(または両方が) マチガイです。

 重ねて言えば 名前は違ったとしてもいやしくも神と言うのならば A さんの神は B さんのいだく神とまったく同じ神です。じんるいの中の人間のあいだに分け隔てがないかぎり そうです。


 ところがこの神をシュウキョウは おれっちの神こそが すぐれていると言うか またはほかの神をダメだと言って排斥するかです。

 神にかんして何も知らない何もわかっていないという精神錯乱の状態が慢性化している人間がやっているのでなければ シュウキョウはあり得ません。


 だってシュウキョウを論じるみなさんだって 宗教はいちおう人間の有効な意志行為であるという前提に立ってしまっている。すなわち精神錯乱についてそれでよいと認めた恰好になっている。ならば 他のシュウキョウを排除しようとする頭の持ち主も 出て来るというものです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなってすみませんでした。
ご指摘のように宗教はお互いのことを考えると矛盾なしにはすまない気がします。

お礼日時:2014/11/18 21:54

>私はなにも宗教戦争をしろというわけではありません。

本当に信じるということを追求すると他の宗教の否定になりそうに思うので、これを回避するにはどんな考え方をしているのかお聞きしたいと思って質問します。
〇信仰と知恵の問題ですね。知恵無き信仰には偏狭な部分が見られるということですね。
世界のどの宗教においてもその経典を素直に読むと一神教など存在しないですね。どの宗教にも教祖より偉い神が存在していることは明らかですね。仏教の教祖の釈尊は神々の中で自身が一番であるとは言っていますがたくさんいることは認めています。当然、モーゼにもイエスにもモハメッドにも自信よりえらい神の存在を認めていますね。ギリシャでも、日本の神道もしかりですね。
この整然とした真実の中で何故、極端な一神教が生まれたのかが問題ですね。これは人間の民度の低さですね。2分法でしか理解できない程度の民度しかなかったということですね。わかりやすいし、広めやすいですからね。それが原因で宗教的混乱が世界に広まったということですね。まあ、猿か犬か猫かの範疇に成り下がったというのが現状ですね。人間の民度の低さにつけ込んで、神の中にもわれこそのみが神であると言いたい神もいますからそのようなローカル神が混乱に拍車を掛けたことは事実ですね。
神々の世界もヒエラルキーがあるということを認めるだけの知恵があれば、宗教間のトラブルはなくなるものです。特に宗教間のトラブルの原因は各宗教にある些細なシキタリの相違ですね。些細な戒律はお互いに捨て去る努力をすれば宗教間のトラブルはなくなりますね。
まずは、人間の民度を上げないといけないですね。民度を上げるという意味は正しく物事を見て考えられるという程度のことなんですよ。まあ、子供の時から刷り込まれたゴミ知識を本当のことだと信じて疑わないということ自体が猿並みの民度と言っているわけです。一番えらい神様は下々の神が原因で起きたこの世界の混乱に対して神々にも序列があるがみな神である、それを認めることが先決といってますね。特にイスラム教とキリスト教の対立はそれで収まるでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなりまして済みません。
各宗教間の違いはどうやっても整合性がとれないと思うのですが・・・。
ヒエラルキーがあるとすると一番上の神様はどの宗教の神様なのかでもめそうな気がします。

お礼日時:2014/11/18 21:20

そういう問題は一神教間、あるいは一神教と多神教間


で問題になることであって
神道のような多神教では問題は少ないと思います。

Xという神様もいるし、Yという神様もいる、
それで終わりです。


”もし「個人には信教の自由があって好きな神様を信じればいいのだ」
 とAさんが考えるとするなら、AさんはX神様のことを
 本当は信じていないと思うのです。”
     ↑
信じていないのではなく、争いになるのを
避けているだけ、ということもあるでしょう。


”個人の自由というなら、それは、神様より上に
 個人の人権とか自由を置いている証拠です。”
    ↑
これはその通りだと思います。
争いになるのを避けているだけなら、争いの忌避を
神様より上に置いていることになるでしょう。


”あるいは、それを回避するのは難しいので深く
 考えないことにしているのでしょうか? ”
    ↑
己の保身をなによりも優先しているだけです。
神がどうのこうの、て所詮はこの程度なのです。

だからこそ、プロテスタントに信者を奪われたカトリックは、
選び抜かれた精鋭を諸外国に送り込んで、布教活動を
やったのです。

選び抜かれた精鋭達は、海を越え山を越え、どんな
探検隊も尻込みした秘境にも突き進んで行きました。

だからこそ、欧米以外のキリスト教はほとんどが
カトリックになったのです。

彼らは、侵略の先兵ともなりましたが、信仰に
裏付けられた勇気には見習うべきものがあると
思っています。

金儲けだけに走っている宗教を目にするにつけ
つくづくそう思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が遅くなってすみませんでした。
例えば、キリスト教の神様のありようは、神道の宗教の記述の中に存在しませんよね。
その場合に、キリスト教みたいな神様を神道として認めることができるものなのでしょうか?
多神教でもその宗教の記述の中にない神様は認められない気がするのですが・・・。

お礼日時:2014/11/18 21:58

私は仏教徒だと思っています。

キリスト教のことがあまり分りません。ましてやイスラム教はほとんど分りません。許すも許さないも、分らないのではどうしようもありません。
私は理系人間だからかもしれないが、創造主のような神にはまったく興味がないのです。神社の神様はもとは人間であったので興味があり、お寺よりもよくお参りに行きます。毎日、神棚と仏壇には手を合わせています。
仏様を信仰しているから神様を信じないとの気持ちはありません。お寺さんは両親の法要や墓参りの時にお参りします。私の信仰は先祖から代々受け継いだものなので、これを守る気持ちに揺るぎはありません。
仏教の各宗派の教えにも興味があり、仏教書物や現代訳経典を読みますし、音読みのお経も唱えます。お教の理解もしているつもりです。各宗派の総本山にもすべてお参りに行っています。我が家の宗派と含め他の宗派の教えの違いを理解していますが、各宗派を非難攻撃するほどの内容ではありません。人はそれぞれの価値感の優先順位が異なっているだけです。その意味で各宗派の存在を許しているのだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。実際に信仰をお持ちの方のお話が伺えてうれしいです。
他の宗教はどこか遠いよくわからない自分の関心からはずれたところにある。
だから、他の宗教のことをどうのこうの考えることはない。
あまり思いつかないということでしょうか。
なるほど実感としてはそうなのですね。

私は他の宗教との整合性はどうなっているのか気になってましたが・・・

お礼日時:2014/10/06 23:10

其れは信仰している対象が、何と言っているか次第ですよね。



其の対象が、他宗を認める教えであれば、認めるだけでしょう。

まぁ、大概の宗教が「隣人を愛せよ」と同等の事を言っているのですが・・・


しかし此れが「教団」ともなると、そうも行きません。

様々な「都合」が起きて来ますので。

まぁ、「宗教家」か「経営者」かの差でしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ご指摘のとおり宗教によって回答が違いそうですね。

隣人を愛するがゆえに自分の信じている神様を押し付けるようにならないか?
なってはいけないのですけど、どうやってそれを防ぐか、その理屈は何かということをお尋ねしたかったのです。私の質問の書き方が悪かったかもしれません。

お礼日時:2014/10/06 23:04

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