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例によりまして、ふと、私の頭に浮かんだ素朴な疑問について質問いたします。

偶然って何ですか?
必然(性)とは何ですか?

Wikipediaを見たところ、必然性の欠如をもって偶然と呼ぶ、といったような記述がありました。

ネットにある辞書によりますと

─────────
偶然
[名・形動]何の因果関係もなく、予期しないことが起こること。また、そのさま。「―の一致」「―に見つける」⇔必然。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/60444/m0u/
─────────

─────────
ひつ‐ぜん 【必然】

[名・形動]必ずそうなること。それよりほかになりようのないこと。また、そのさま。「―の帰結」「なまけたのだから不合格は―だ」⇔蓋然(がいぜん)/偶然。

http://kotobank.jp/word/%E5%BF%85%E7%84%B6
─────────

─────────
がい‐ぜん 【蓋然】

たぶんそうであろうと考えられること。ある程度確実であること。⇔必然。

http://kotobank.jp/word/%E8%93%8B%E7%84%B6?dic=d …
─────────

とありました。

論理学的な必然(性)はひとまず置いておきまして、
どうやら、必然と偶然を分けるものは、
 1 因果関係の有る無し
 2 予測可能か、いなか
の2点にあるようです。

で、更に私の疑問は深まります。

この世に因果関係と無縁に存在するものはあるのだろうか?
ある現象が発生するための因果関係があまりに複雑で、また、同時に、我々の得られる情報があまりに少なく、その現象の発生を予見できないものを、
単に偶然と呼んでいるのに過ぎないのではないか?

もちろん、私たちは量子力学や不確定原理を知っていますので、ラプラスの悪魔が存在しないことは知っています。
ですが、我々の感覚器官は精度の悪い観測器のようなもので、量子レベルの不確定さは検出できません。
また、私たちが実際に生きている世界はマクロ系であり、この世界は古典物理学が支配する決定論的世界です。
 ───ここでいう決定論的は100%の精度の意味ではなく、99.9・・・%と、9が有限桁続く精度の予見可能性の世界、程度の意味。この精度は99.9%でも構わない───

この様に考えるならば、
人間が実際に五感で感じ、生きる世界の現象に偶然などありうるのだろうか?
ただ、我々の知識と情報の欠如のために、そして、計算能力の低さのために、偶然と感じるだけなのではないか?


皆さんのお考えを教えてください。


─────────
ラプラスの魔【Laplace's demon】

自然界のあらゆる力と宇宙全体のある時点における状態を完全に把握することができ,かつ,これらの素材を完璧に解析する能力をもった仮想的な知的存在.このような魔(demon)にとっては宇宙の中に何一つとして不確実なものはなく,未来のことを完璧な形で予見することが可能となる.

https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%97%E3%8 …
─────────

A 回答 (50件中21~30件)

 こんばんは。



 ◇(No.27お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは親鸞の思想が、老荘以後、数百年経って成立した現在の道教と同じだとは言っていませんよ。
 親鸞の思想形成に『老子』や『荘子』が深く関わっている可能性がある、と指摘しているだけですよ。
 《自然(じねん)》という言葉やその概念が生まれたのは、中国ですし。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いいえ。《可能性がある》という表現では効きません。マチガイです。次の発言では 《源流 根底にある》ということのようです。つまり 親鸞は 道教のパクリであると言ったも同然です。神道にかんしても 《道教(老荘)を母胎の一つとして生まれた》ということのようです。

 ◇◇ (【Q:穢(けが)れとは何か】No.48お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8764727.html

  ☆☆(回答No.48) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    すくわれるとか何とか そんなことはどうでもよい。

  というのが 親鸞です。これが 神ながらの道だ。と大拙は言おうとしているようです。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 親鸞のこうした考え方の源流、根底にあるのは、老荘ですよ。


 http://crf.flib.u-fukui.ac.jp/dspace/bitstream/1 …

 http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/archives/518090 …

 http://ameblo.jp/sonosuji/entry-11473895103.html


 そして、
 神道が道教(老荘)を母胎の一つとして生まれたことに帰着します。


 老荘を日本的霊性とは呼べないでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 最後の発言:《老荘を日本的霊性とは呼べないでしょう。》は 日本的霊性のすべては 老荘に発すると言ったも同然となっています。いまのところ 何の論証もありません。ことごとくと言ってよいほど 批判し反駁しました。

 あるいはほかに 縄文時代にすでに入って来て そのまま――何の素地もない日本の地で――受け容れられて行ったとの発言もありました。
 すべて そう言われている。というのが 根拠であるに過ぎません。そう見る人が多いという根拠のみです。






 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆☆ こういうハカラヒとは無縁です。親鸞は。百八十度ちがいます。

  ◇ 親鸞においても、ハカラヒ(分別)を捨てるわけですよね。
  それほど違わないと思いますが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 大違いです。

 《ハカラヒ(分別)を捨てる》なら それはひとつの意志行為としてハカラヒです。
 ハカラヒを捨てるハカラヒをまた捨てる そしてそれをもまた捨てる・・・といった悪無限に落ち入ってはいられないのですから そこが 天下分け目の合戦になります。



 《非知》に到達したのです 親鸞は。



 ですから 老荘思想にこの《非知 ないし これをわが心に受け容れたときには 非思考の庭》なる内容はありますか? こう問うのが いちばん手っ取り早い筋道でしょう。

 義無きを義とすというのは 正義や善やなどのイデアの欠如をもって義とするというのではなく そうではなく 諸行無常で正義も善も思いやりも皆無だと言う人がいたなら その義無きをもって義としましょうと答えています。

 意味は 詮議詮索するのはよしましょうです。あるいは 詮議詮索するのも よしとしつつただしその結果得られる答えによって 最終の答えを決めるというものでもないですよと。

 思考――をしてもかまいませんが 基本的に言って思考――としての義も無いかたちで よしとしましょうと言っています。



 つまり 非思考の庭です。これが ハカラヒ無き自然法爾です。
 無為自然が そう言っているのなら こちらの降参です。







 なお 上に再掲したように そちらが 道教(老荘思想)についてそれは 神道および親鸞のアンチョコであり虎の巻だという命題を提出したのですから・そしてこちらが それに反論しているのですから(しかも この反論は いまのところおおむね功を奏しています) 森三樹三郎だかかんだかが参考になるとかどうとかといって答えるのは はなはだ道理に合いません。

 勝手にしらべろ おれの言うことはただしいに決まっていると腹の中でつぶやいているとしか 聞こえませんよ。
 それか 自分では答えられないかです。いづれにしても みっともないです。

 議論にけじめをつけるべきです。

 無為自然についてくわしく調べるということであれば いまは保留してそうすればよいのではないですか?
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この回答へのお礼

『荘子』内篇 万物齋同に
~~~~~~
「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」

岸陽子 『荘子』 徳間書店
~~~~~~
とありますよ。

bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?


また、
親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、
bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/09 19:54

お礼ありがとうございます。



>反感を買うと研究費を削られる可能性があるので(ポリポリ)。

世の中には、そう言う所もあるんですね。
私の周りの研究職と随分違うようです。

私が彼ら彼女らから学んだことは、自分の立場は自分で作ること。
それは、どの職業でも言えることだと思います。
そのための努力は、並大抵ではないですけどね。

しかし、全員がそうしなくてもいいと思っています。
それぞれがそれぞれの立場で、それぞれ自分で選んでやっている訳ですから。
誰しも、自分がやれることを自分なりにやっているだけだと思っています。
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この回答へのお礼

こんばんは。


☆世の中には、そう言う所もあるんですね。
◇人間には感情がありますので…。
それに、学閥、派閥、コネなどの世間並のシガラミもある。
イジメ、嫌がらせもありますし、
結構、陰湿な世界でもある。



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/09 20:02

偶然の多くは人間の行動が関係してると思います。


人間の行動は予測が難しいので偶然が起きやすいです。
天気は物理法則に支配されていますので天気予報が外れても偶然の天気とは言いません。
偶然と言うのは店で知り合いに会った場合です。
会った相手が店にいることを知っていたら会うのは必然です。
会った相手が今日店に行くことを知っていたら会うのは必然でもあり偶然にもなります。
会った相手と約束も連絡も取っていない状態で会ったらそれは偶然になります。
予測可能な事柄であれば必然。
人間の行動など予測が困難で尚且つ起こる確率が低い事柄を偶然と言うのだと思います。
予測できない事柄全てに偶然なんて付けませんよね。
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この回答へのお礼

こんにちは。


☆人間の行動など予測が困難で尚且つ起こる確率が低い事柄を偶然と言うのだと思います。
予測できない事柄全てに偶然なんて付けませんよね。
◇なるほど。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/09 16:29

 No.24を承けます。



 次の文章ひとつで――これを先に参照したのですが―― はっきり違うと確認できるはずです。


 ▲ (「荘子」に見られる「忘」について) ~~~~~~
 http://mohsho.image.coocan.jp/sohji-wasureru.html

 忘年忘義
 これを和するに天倪をもってし、これによる曼衍をもってするは、年を窮めるゆえんなり。・・・
 年を忘れ義を忘れて、無竟に振う。故にこれを無竟に寓す。

 (和訳) 生死を忘れ、是非を忘れて、無窮の世界に逍遥しようではないか。そうすれば、無限に自由な境地を獲得することができる。

 斉物論篇
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この翻訳によるならば あきらかに人間の側のハカラヒが見られます。いちいちそういったコトを起こすハカラヒとは無縁であるというのが 親鸞です。


 親鸞とて 浄土の概念を受け留めており その概念についての説明世界をもそれとして議論します。
 けれども それはそれとして・ということは そういった浄土論すなわちすくいの論議は 論議として押さえておいて 自分の立つ位置は ほんとうにそうであるかどうかは知らぬと言っています。総じてもて存知せざるなりと。

 すなわち 《無竟に振う》とかその《無竟》という概念から自由な場に身をつまり実存を置いています。


 ですから問題は 道教が仏教に対して 親鸞のように《オシエはオシエとして受け留め しかしながらわが実存はほんとうは別の問題としてある》といった対応をしているかどうかではないでしょうか。

 ▲ (和訳) 生死を忘れ、是非を忘れて、無窮の世界に逍遥しようではないか。そうすれば、無限に自由な境地を獲得することができる。
 ☆ これなら ブディズムのオシエと変わりないものと見られます。





 ひとつの参照だけではいけないと思って:
 ▼ (コトバンク:坐忘) ~~~~~~~~~~~~~~
  https://kotobank.jp/word/%E5%9D%90%E5%BF%98-69684

 世界大百科事典 第2版の解説
 ざぼう【坐忘 zuò wàng】

 身心を脱落放下して根源的な〈道〉と冥合し,〈物〉すなわち外物と〈我〉すなわち自己とが一体化した境地。
 《荘子》大宗師篇にもとづくことば。

 《荘子》人間世篇では坐忘と類似の心の修養法が〈心斎(しんさい)〉とよばれている。唐の道士司馬承禎の《坐忘論》は,坐忘を道教修行の根本にすえ,それを〈敬信〉することにはじまって〈得道〉にいたるまでの実践の過程を7段階に分けて論じた。【吉川 忠夫】
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ こういうハカラヒとは無縁です。親鸞は。百八十度ちがいます。
 
 ▼ 根源的な〈道〉と冥合し,〈物〉すなわち外物と〈我〉すなわち自己とが一体化した境地
 ☆ こういった命題は 理屈であると捉え 突き放すのが 親鸞です。境地は境地の問題として思索もしているわけですから べつに反対して突き放すのではなく そうではなく 理屈にはわれはとどまらないという意味だと思います。

 《非行非善》ですから 《得道》だとか《実践》だとかとも ほんとうは無縁なのです。そういう意味でも ブディズムのオシエとしては 即得往生を掲げます。そのようにあしらっておくわけです。

 強いて《修行》があるとすれば それは《生活世界》です。個人としての生産と共同自治なる公共行為に目を向けます。信長に敗れるまで一世紀にわたって自治をおこなった加賀一揆の事例があります。極楽往生は 煮詰めて言えば どうでもよいという思想(生活態度)です。




 はっきりとしたネタ本が挙げられないかぎり 親鸞が道教と同じ思想だという見方は捨てていただきたい。こう考えます。




 人の思想は 偶然・必然から自由な場を独自に占めているのではないか。と考えます。
 ほかの人びとから影響を受けつつ しかもその人に固有の香りが放たれるあたらしい別の思想となって現われると考えられるゆえにです。
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この回答へのお礼

こんにちは。


☆はっきりとしたネタ本が挙げられないかぎり 親鸞が道教と同じ思想だという見方は捨てていただきたい。こう考えます。
◇老荘と親鸞の思想との関係については、森三樹三郎がくわしく研究をしていたように記憶しています。
江戸時代の国学などとの関わり合いについても論及していたはずです。

たとえば、

無の思想 老荘思想の系譜 森三樹三郎 講談社現代新書
老子・荘子 森三樹三郎 講談社学術新書

などなど。

わたしは親鸞の思想が、老荘以後、数百年経って成立した現在の道教と同じだとは言っていませんよ。
親鸞の思想形成に『老子』や『荘子』が深く関わっている可能性がある、と指摘しているだけですよ。
《自然(じねん)》という言葉やその概念が生まれたのは、中国ですし。


☆☆ こういうハカラヒとは無縁です。親鸞は。百八十度ちがいます。
◇親鸞においても、ハカラヒ(分別)を捨てるわけですよね。
それほど違わないと思いますが。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/09 16:25

>理系人は、ロマンチストで、雲とカスミを食べて生きられないようでは、つとまらない。



昔は私もそう思っていました。
言いたい気持ちは分かります。

しかし、物理現象の実証には、つまり研究には金がかかります。

もし、金を汚いものだとお思いなら、思いはその人の外にあるものではなく
その人の中にしか存在しない。

まぁ、確かに手垢は付いてますが。


考え方と使い方で、論理は割と簡単に現象にできるという話しなのですけどね。
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この回答へのお礼

こんにちは。


☆言いたい気持ちは分かります。
◇世の中の人の反感を買うようなことを言って欲しくないんですよ。
理系の研究者の立場は非常に弱いので。
お財布を持っていないので。

時に税金泥棒と呼ばれ、会社内では《穀潰し》となじられ、
営業や(商品)開発をしている人たちからは、「お前らは、誰のお陰でおまんまを食べられると思っているんだ。誰のお陰で研究できているんだ」といじめられる。

何かすごい業績を挙げたとしても、「これは私の研究を支えてくれた皆さんあってのことです」と謙虚に振る舞わないといけない。

反感を買うと研究費を削られる可能性があるので(ポリポリ)。



☆しかし、物理現象の実証には、つまり研究には金がかかります。
◇研究費をもらうためにも、謙虚に振る舞わないといけないんですよ。
時に自分の研究室の院生とたいして年齢が変わらないお役人さんに頭を何度も下げなければならない。
「こんな研究には予算をつけられません」と門前払いを喰らうこともある。
忍耐力と、お役人さんを勘違いさせるホラ吹き能力も必要になります。

このことはNASAを見るとよく分かりますよ。
「火星からの隕石に生命の痕跡を発見!!」というような話もしないといけない。
UFO話の幾つかには、NASAが深く関与している????


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/09 16:05

ねむ猫さん お礼ありがとうございます。



そういう解釈でいいのですが。

私は、世界は常に偏りを持ちながら、変化しているという立場です。
新しく未来ができていると考えています。

人間は地球と宇宙(有限な空間)で物理法則を発見しました。
でも、0.01%は変化していると考えます。

もちろん、現在の物理法則は99・9%有効だと思います。
しかし、残りの部分の変化が自由意志であると考えます。
「バタフライ効果」かもしれません。それとも、「ゆらぎ」かな?(笑)
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この回答へのお礼

こんにちは。


☆私は、世界は常に偏りを持ちながら、変化しているという立場です。
新しく未来ができていると考えています。
◇なるほど。


☆「バタフライ効果」かもしれません。それとも、「ゆらぎ」かな?(笑)
◇「ゆらぎ」になるのでしょうね。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/09 15:31

 ◇ (No.20お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~


 ですから、この文章は、ありのままをそのまま肯定的に受け入れようという態度を表明している、と私は考えます。
 荘子の考えにしたがうならば、生と死は齋同であり、生を善、死を悪とするのも、逆に生を悪、死を善とするのも、これはあり得ない話。これを分け隔てるのは、人間の分別なので。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 老荘は それでよいのかも知れません。

 ですが
 ◇ ありのままをそのまま肯定的に受け入れようという態度
 ☆ は 《義無きをもって義とす》る態度とは 別です。

 あるいは 《自然法爾》にしても おのづからなるすがたや状態を言っているということで似ているように見えるかも分かりませんが それは《ありのままを肯定する・否定する》といった判断や裁定から自由な態度を示しています。

 要するに何らかの《態度を表明する》ことからも自由です。

 ◇ 生と死は齋同であり、生を善、死を悪とするのも、・・・
 ☆ うんぬんという思考からも自由でいるのが 親鸞です。《はからひ無きを自然(じねん)と言う》のですから。

 老荘がダメだという議論とは別であって 親鸞が老荘思想に似ていて 同じ着想ではないかという議論はしりぞけることが出来るという問題です。
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この回答へのお礼

☆☆ うんぬんという思考からも自由でいるのが 親鸞です。《はからひ無きを自然(じねん)と言う》のですから。
◇まったく同じだというつもりはありませんし、違いもありますが、
荘子はこれを「忘」、「忘れる」という言葉で説明します。

この代表的なのが、禅家さんが好きな《座忘》という言葉です。

この解説はかなりいい加減なのですが、
ネットでおもしろい四コマ漫画を見つけましたので、まずはそのリンク先をば!!

http://fujiiseiji.sakura.ne.jp/us/04.html


これは中国語・原文を読んでもらった方がいいと思いますので、
原文と英語訳が乗っているサイトを次に。

http://ctext.org/zhuangzi/great-and-most-honoure …

9 大宗師


ここでは儒教について語られていますが、これは儒教のみではなく、荘子の思想についても等しく当てはまります。
ですから、
最終的には「義なきをもって義とする」となろうかと思います。


荘子の「忘」という言葉の使用については、
http://mohsho.image.coocan.jp/sohji-wasureru.html
が参考になるのだろう、と思います。

日本や中国の禅宗には、『荘子』は非常に強い影響を与えています。
そして、間接的に鈴木大拙にも…。

お礼日時:2014/10/09 02:01

お礼ありがとうございます。



>◇たとえば、その現象が(微分)方程式の形で完全に記述できるとしても、条件が不足していると、実際に解けない、
ということはよく起こります。
>支配方程式は分かっているけれど、それを解くための条件が分からない、という場合はあります。

この話しだと、丁度ddtddtddtさんの

>人間の意識の本質は、不完全性定理の限界を突破する非計算性にある。

で、未来に解決できるかもしれませんね。
全てとは言い切れないにしても、条件の充足は行われて
確率は徐々に上がって行くでしょう。

未知の部分に関して、新しい発見を閃きとして出していけば
必要条件が揃ってきます。

答えを出すには多くの手順が必要ですが、求める人がいる限り
いつか誰かが見つけます。


この質問は計算上だけでなく、就職するとか結婚相手とか収入を上げるとか
いろいろ使えそうなので、検討してみます。
自分だけ使えても、大して役に立たないので。

以前も、とてもいい質問がありましたよね。
褒めていただいた回答ですが、あれももっと先の話があの時見えたのですよ。

長年温めた質問がありましたら、これからもよろしくお願いします。
自分が引き出せる質問が、私の好物です。
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この回答へのお礼

こんばんは。


~~~~~~
で、未来に解決できるかもしれませんね。
全てとは言い切れないにしても、条件の充足は行われて
確率は徐々に上がって行くでしょう。
~~~~~~
これは、理系人の願いなんですよ。
「見果てぬ夢」と言ってもいい(笑い)。

理系人は、ロマンチストで、雲とカスミを食べて生きられないようでは、つとまらない。
そして、多くの人がこの志半ばで息絶える(笑い)。


ノーベル物理学賞をもらったN氏のように、お金のことを口に出してはいけない。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/09 00:51

オカマ相手の決めゼリフだ。

あなたは運命を信じますか、、、、
私はあなたを見たとたん運命を感じました。。。
僕が、、、
君の王子さまだよ。
さあ結ばれよう。
レッツチチをもげダンスだ。

どうだまいったか。
これこそが運命だ。
くらくらするだろ。
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この回答へのお礼

☆くらくらするだろ。
◇古典的決定論、カオス理論、ひも理論と実無限&可能無限、荘子の無為自然と親鸞の自然法爾、
さらに仮面ライダー・男プリキュアと、
これらが一度に寄せられているので、
現在、頭がパニックを起こしています。

頭がうまく切り替えれない…。

くらくら眩暈がしています。

頭が本当にストライキを起こしています。


Flareonさんと私が出会ったのは、運命ですよ。偶然ではなく、必然!!
きっと「見えない黒い糸」で結ばれていたに違いない。
互いに求める思いが互いを呼び合ったに違いありません。



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/08 23:49

こんばんは ねむ猫さん



質問に答えが書いてありますけど。量子力学や不確定原理と。ラプラスの魔と。

☆人間がどんなに理想(不変)を追いかけても、現実はそうはならないということです。

全く同じリンゴ一個を作りたいと思って作っても、似たものができる=偶然。(人間の認識では同じものとして満足してしまう=必然)

☆原因は何か?と尋ねられたら

一個のりんごを、何処までも平等に分割できるか?を考えたらいいのかと思います。

☆可能無限は人間は何処まで認識できるか?ということです。

この世界で全ての物理法則を説明するには、少なくとも10次元空間は存在する。

人間は4次元空間の認識はできますが、残りの6次元空間=コンパクトに折りたたまれた空間=カラビヤウ・多様体は認識できない。

☆もう一つ、実無限の問題もあります。

現実には存在しない有限な空間
例えば一個のりんごは不変である。空想の二個目も不変な同じ。空想の無限個も不変な同じ。

☆纏めますと、

世界は、人間が観測できる4次元空間と人間が観測できないコンパクトに折りたたまれた6次元空間からできている。(11次元説もあります)
人間の五感は、現実には存在しない有限な空間(不変)として物体を認識する。

この世界は、無秩序のバラつきからできている?
人間の五感の認識は、無秩序のバラつきを正しく認識できません。
人間が世界を認識する場合、自分の置かれた立場により、人間が生きるのに都合のよい解釈をしてしまう。
観測回数が増えれば、必然に思える。

☆私の結論を述べますと、世界は無秩序のバラつきの空間からできていると予想します。
空間とは無秩序のバラつき(エントロピーかも)でありますが、人間は、過去の観測により有限な空間を設定して、4次元空間だけでの同じような数値を選択していると考えます。
だから、観測回数が増えれば、必然に思える。
簡単にいうと、「人間が4次元空間で観測して経験した想定内の出来事は必然だけれど、人間が世界(無秩序のバラつきのある空間)で一度も経験のない想定外の出来事は偶然だと云うことです。」

私の考えなので、参考意見で受け止めてください。
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この回答へのお礼

こんばんは。


ひも理論からの回答ですね。


☆人間は4次元空間の認識はできますが、残りの6次元空間=コンパクトに折りたたまれた空間=カラビヤウ・多様体は認識できない。
◇ひも理論が正しいならば、そうなりますよね。
私たちが見ているのは、影絵のようなものなので。


☆人間の五感の認識は、無秩序のバラつきを正しく認識できません。
◇これが無秩序なのかどうかは分かりませんが、本来あったであろう規則性のすべてを知ることはできないのでしょうね。
情報が欠けていますから。
そして、
その情報が欠けていることすら、私たちには気づかないのかもしれないですね。


☆人間が世界を認識する場合、自分の置かれた立場により、人間が生きるのに都合のよい解釈をしてしまう。
◇元の世界に何らかの規則性があるのならば、私たちの五感で知りうる世界にも何らかの規則性が生まれるのではないでしょうかね。

あるいは、
ヒュームの言うように、因果律も必然性なんてものは、そもそも無いのかもしれない。
説明が面倒くさいので、Wikipediaから引用!!
手抜きです(ポリポリ)。

~~~~~~
一般に因果関係といわれる二つの出来事のつながりは、ある出来事と別の出来事とが繋がって起こることを人間が繰り返し体験的に理解する中で習慣によって、観察者の中に「因果」が成立しているだけのことであり、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかなく、過去の現実と未来の出来事の間に必然的な関係はありえず、あくまで人間の側で勝手に作ったものにすぎないのである。では「原因」と「結果」と言われるものを繋いでいるのは何か。それは、経験に基づいて未来を推測する、という心理的な習慣である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4% …
~~~~~~

これはこれで、魅力的な考え方だと思います。



☆だから、観測回数が増えれば、必然に思える。
◇ヒュームに言わせれば、「蓋然性が高まっただけ」ということになるのでしょうかね。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/09 00:30

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