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日本人思想の根幹と思えるこの言葉、言葉通り「仲良きことは美しき哉」では有りませんが、この時代、大和民族・先住民族・渡来人等々、多様な民族の融和を促した言葉なのでしょうか?

  他民族から見れば迷惑な話かもしれませんが、この考え方が、アイヌ・熊襲・琉球併合となり、後の台湾・朝鮮併合へと続く、植民地化と言うより、名前や言葉を日本化して民族和合を図ったような気がしてならないのです。

A 回答 (3件)

「和をもって尊しとなす」を当時の事情に合わせて、意訳すると「みんな日本人なんだから、細かいことでギスギスしないで、お互いを尊重しようよ」ということになると思います。



現在では、聖徳太子の実在そのものが疑われていますが、それはちょっと脇において、彼が生きた時代のことを考えて見ます。

彼の生きた西暦600年前後(7世紀初頭)というのは、日本史で言えば古墳時代から飛鳥時代に変わる時代とされています。

そもそも、古墳時代というのはヤマト王権が日本を統一国家にしていく過程の時代であり、西暦600年前後はヤマト王権がほぼ日本を統一して、朝廷として君臨し、対外的な呼称すら「倭」から「日本」へ変えていこうとした、「日本統一が成し遂げられて、日本として出発しはじめた」時代であり、遣隋使の派遣という対外的な政策・冠位十二階・十七条憲法などの国内政策そして仏教を取り入れて「日本」という国の基礎を確実なものにしようとしていたのが、聖徳太子をはじめとしたこの時代の人々であったといえます。

しかし、実際は新興宗教である仏教を取り入れ権勢を図ろうとする輩もいれば、神道(というより自分の部族の守り神)を信奉して仏教に頑なに反対する勢力、など、まだまだ「日本」という国の形がぜんぜん出来ていない、時代であったのです。

「このままでは、せっかく何代もかけて先代たちが国をまとめてきたのに、崩壊してしまう」という危機感が聖徳太子にはあったのでしょう。

「和をもって尊しとなす」というのは、○○部族民から「日本人」になろうという呼びかけであったことは間違いないと思います。当時としては、先住民族や渡来人だけでなく、まだ大和民族が出来ていなかった、ということです。

>  他民族から見れば迷惑な話かもしれませんが、この考え方が、アイヌ・熊襲・琉球併合となり、後の台湾・朝鮮併合へと続く、植民地化と言うより、名前や言葉を日本化して民族和合を図ったような気がしてならないのです。

あながち間違いではないと思います。ただ、他の侵略国、特にヨーロッパ諸国は「勝者の権利」を前提に「被支配者は支配するもの」でしたから「植民地化」がどれほど苛烈で過酷だったかは言うを待ちません。

日本のやり方がよかったかどうかは、分かりませんが、20世紀の帝国主義の時代であっても、日本は日本的な民族合併・民族和合を図ったのが面白いところでしょう。
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この回答へのお礼

phiさん どうもありがとうございます。そっか・・・ 台湾・朝鮮併合は帝国主義ですか・・・・。「和をもって尊しとなす」の言葉は、倭から日本への時代ですね。そう言えば、隋の皇帝に送った国書の「日出づる処の天子・・・・・」は聖徳太子でしたね。
  世界中が「和をもって尊しとなす」の精神がゆきわたれば、戦争は無くなると思いますが、現代の聖徳太子が現れればいいですね。
 ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/12 13:00

No.1 回答者:kaitenzus さんに一票です。


琉球、台湾、朝鮮の事は、チョット意味合いが違うと思いますよ。
植民地で無く、併合という、観点には同意します。
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御存知の事とは思いますが、神社とお寺が同じ敷地内に、明治維新まで、一緒に在りました。
聖徳太子が拡めようとした仏教の、お釈迦様や如来様、菩薩様、地蔵様などが、日本古来の
八百万の神の一員になったのでしょうね。
日本民族の受容の器の大きさ、悪く言えば、曖昧でいい加減な処なのでは・・・
子供が生まれると、神社に詣で、葬式は、お寺行う、人に依っては、結婚式は協会で、
一神教のキリスト教やイスラム教の方々には、理解出来ないでしょう。
和の心は元々日本民族に在った意識に、聖徳太子の言葉が引き金となり、現代まで
温めていて育ったのだと、思いますが・・・
島国の日本では、逃避する処なんぞ、有りゃしない、狭い地域では必然的に仲良く
しないと共存して暮らして行けないですから。
先の戦争で250万人の方々が亡くなり、「和をもって尊しとなす」の言葉が、心の奥深く
まで、沁み込みました。
今こそ、「和の心を」世界に発信したいが、後藤さんのように行動力も度胸も無い私は、
誰かが挙げた指に留まって、後ろから追て行くだけですが・・・
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この回答へのお礼

sawagorouさん ありがとう。なるほど。そう言えば、多神教も「和をもって」ですね。
逃げ場の無い、もしかしたら逃げ延びてたどり着いた島国だから、仲良くするしかない。そして 後藤さんも「和の心」に感じ入りました。 ありがとうございました。

お礼日時:2015/02/12 10:29

さて、どうなんでしょう。

おもしろい見方だとは思いますが、
1000年以上間がありますからね。

太子の時代は、敵対する集団は皆殺しにすることも普通にあったでしょう。
異民族に対して融和主義を取るのは現代の視点ではまちがいだと
されることが多いのですが、
当時の皆殺しからみれば、太子の融和主義の方がずっとましです。

アイヌや琉球に対しては、江戸時代までの統治の仕方は
明らかにまずかったと思いますが、
現代になってから考えてみたらどうでしょう。

たしかに戦後数十年までは差別もあって大変だったと思います。

政府の方策も十分ではなかったでしょう。
ただ、今はずいぶん改善されたようにも思います。
太子の思想が1000年以上のときを超えて現実味を帯びてきたのかも、とも思います。
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この回答へのお礼

laotenzusiさん ありがとう。 なるほど。 坂の上田村麻呂から始まる征夷大将軍。 まさに蝦夷を征伐する武士の頭領のこと。  征夷では殺しあっていたのでしょうか。  それを太子が融和を図ったのでしょうか。 それは偉大な政策ですよね。 イスラエルやパレスチナにも見習ってもらいたいです。

お礼日時:2015/02/12 10:20

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