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神について語るとき、そもそも神とは何であるかについて理解がなければ神について何ごとも語ることは出来ません。
これについては人の道においては既に答えは出ており明確であります。
しかし神が何であるかについて一般には共通の理解は無いようである。
そこで神が何であるか明確にするために、まず神であるための要件について考えてみたい。

神の要件その2・・・唯一絶対の原則
神に親がいて子がいて神が家族を構成し、またあたかも人間社会のごとく役割分担し縦割り社会になっており、それで山の神とか、海の神とか、酒の神とか・・・・いろいろいて楽しいのかもしれないけど、果たして神がこのような有様でよいのかということ。
やはり神の社会も人間社会と同じで人間原理で出来ており、神の考えることは人間の考える事と同じなのかということ。
また神があるときは一つであったり、あるときは八百万に分かれたりしてよいのかということ。
果たして様々な考えをもった神が入り荒れていて神は機能するのかということ。
やはり神は唯一絶対のものとすべきではないでしょうか。

A 回答 (12件中1~10件)

こんにちは森山と言います



神について私の個人的意見を申しあげます。
そして社会であまり語られる事の無い、私の個人的哲学体系書の一部を使って話を進めていますが、自己自身に引き寄せ、ゆっくりと普段と異なる視点に立ち、理解して頂いたら非常にありがたいです。
社会では人間文化の中で、倫理を先導する為の神であったり、教義を持った信仰対象であったり、お願いする為の神であったり、人知を超えたすぐれたものであったり、絶対的超越的存在であったり社会では言われています。
ですが、私の神について思う事は、対象としての神や、対象としての自己の意識や、対象としての世界だけではありません。
対象とされるものと、対象としている自己との全体を、根底から構成している何ものかを、一部限定し、一部限定した意識や世界の構成要素とします。
そして世界や自己の意識の構成要素の一方を、得体の知れない、受動刺激変化力を支える時間として規定した(仮名・力の神)とします。
また構成要素の一方を得体の知れず、自己の幸せを求め、捨象と抽象との選択し、自己の意味世界を押し広げ支えている、自己の命とし規定した(仮名・命の神)とします。
そして構成された、私達の世界や自己の意識と、構成要素である、力の神と、命の神と、の関係を(仮名・人間の公理)とします。
わたしたちの日常生活は、当然ながら時間が静止したり、自己の命が無くなったりすれば、現在の自己の日常生活が有るとは考えられません。時刻と共に、現在を過去へ押しやる、受動刺激である、現在閾値閾(自己の命が、力の神との接触可能な、現在での受動刺激領域を言います)と、それを読み取り意味付けている、自己の命との、異次元に跨り、出会う事で、初めてそれぞれが自覚できる意識世界があると考えられます。
自己の意識を根底で支えているのは、普段は考えることのない、時間と自己の命との混合でありながら、時間と自己の命をそれぞれ単独に分けたり、完全に理解したりすることはできません。そして構成された私達の一つの意識は、構成要素である公共の時間(他者と共有している受動刺激力)と固有である自己の命との、不一不二構造(一つの意識は時間と異次元である、自己の命との二つによって構成される、いやそうではなく全ては一つの意識の中に対象として時間や命が在る、この同語反復構造の体感)に成っています。
そこで、仕方なく比喩を使った仮説として、日常生活での、意識の外に形而上としての、中間神概念(日常生活での了解と、本当の神{一切の人間からの規定を許さず、対象とする事も出来ず、有無の規定も許さず、一切の了解を許さない}との中間に在る、公共の力の神と、自己の命の神と、その構造である人間の公理の事です)である、力の神と命の神を措定します。一切の意味を含まない、純粋な力であり今現在を変化させる力を力の神とします。そして、全ての意味を担いながらも、自らは陰陽意味選択(受動刺激を意識とする為に、捨象と抽象との選択をしたりさせられたりして意味付ける事)する力を持たない、自己の純粋な命を、命の神として、自己の意識と、力の神と、命の神との関係が、人間の公理です、そして日常生活と、本当の神(分かったか、分からないか、すら分からない)との中間に、力の神と、命の神と、人間の公理の位置が在ります。
身近な友人や親が他界する経験を、日常生活からの視点に立って考えてみると、他者の死とは、二度と他者自身の身体に、意識が戻らないことだと考えています。日常生活では自己も他者も同等の同じ命を持って、公共社会の上で、命同数世界(自己に心の世界が在る様に、見る事は出来ないが、他者においても、命の数だけの心の世界が在ると、自己から信じる事)を、生きていると私は信じています。ですが、視点の取り方を、自身の命からみれば、世界が逆転するほどの違いがあるとわたしは考えます。
その理由は、他者である、私の親や友人が他界したことを、わたしの意識によって確認し、葬儀にも出席したりできます。ですが、わたしの死んだときは他者の死と異なり、自己の死を確認したり、自己の葬儀に出席したりすることが不可能だと、確信を持っているからです。
他者の生死は常に自己からの、意識対象としてあり、自己の死は意識そのものが、分離消滅すると信じています。
この自己と他者との違いから、推察されることは、同じ宇宙船時間丸(全ての他者が、今それぞれの命に受動刺激を感じていると、自己が信じる受動刺激の集合を) からの、それぞれの現在閾値閾に、それぞれの命が触れる事で、それぞれの意識を持つことができます。そして、同じ宇宙船時間丸からの現象を、基準にして、三点社会適応(他者と、変化する環境と、自己の希望との、三点を統合し最適と考えて社会に適応して行くこと)をしているために、それぞれが同じような、思い込みを持って、日常生活に人々が集まる事が出来ます、公共の時間と、個人の命とが、一体になり、それぞれの思い込みである、意識を持つことができます。この自己の命からの視点による、意識の構造を人間の公理としてまとめると。
人間の公理(1) 力の神と、命の神に跨って、人間は生きている
人間の公理(2) 人間は力の神も、命の神も、知る事は出来ない
人間の公理(3) 力の神と、命の神を分ける事が出来ない
人間の公理(4) 力の神と、命の神は次元が異なる
人間の公理(5) 全ての人間は今同じ力の神の上に居る
人間の公理(6) 世界の全てを意味付けているのは、唯一自己の命を支える、命の神のみである
本当の神(分かったか、分からないか、すら分からない)について物が有ることや、無いことが分かった。身体的痛みが有るときと、無いときが分かる。意欲の有るときと、無いときが分かる。人はいずれ死ぬと、自分が信じていることが分かる。ある宗教が信じられる事が分かったり、信じられないことが分かったりする。命のことなど考える人は、暇人であることが分かる。夢の内容を思い出せないが、夢を見たことだけが分かる。人間の分かった、分からないなどの全ての了解は、中間神概念である、力の神と命の神によって構成されています、ですがその向こうには、分かったか、分からないか、すら分からない、本当の神がいます。
宇宙空間には終わりが有るのか、無いのかよく分からないことが分かった。命と生命の違いをなんとなく分かった。常に自己は対象について問題としていることが分かった。問うものと問われるものは同語反復に陥る事が分かった。力の神や命の神は、自己の理解を超えていることが分かった。わたしは変化させられているのか、変化を読み取っているのか、それとも一体なのかよく分からないことが分かった。考えることに疲れたことが分かった。思考や概念が動いたことが分かった。いつもわたしたちの日常生活は分かったか、分からないか、分かった気がするか、分からない気がする、であることが分かる。
このように、命を持って生きている人間の世界は、何らかの了解の上に立っています。この人間の本質構造である、了解自体を支えているのは、中間神概念である力の神と命の神が混在する領域です。さらに混在領域の向こうには分かったか、分からないか、すら分からない本当の神に開かれます。
私達の意識は中間神概念である力の神と、命の神との、不一不二構造をしています。
そして異次元である、力の神と、命の神との奥では、混沌とし、一切の規定を許さず、恐怖と共に有限な者として押し返されてしまいます。それが本当の神です。
そして、本当の神は人間に対して解放された未来や、人間は不完全であり絶対の意味ですら完全に理解する事が出来ず開かれます。
本当の神は汎神論や一神教や科学や無神論や、これの意識自体を支えているものであり、汎神論や一神教や科学や無神論などの対象は、三点社会適応での、文化や知識や思い込みで在って、本当の神ではありません、本当の神は、中間神概念や形而上を支えていても、一切の規定を許さず開かれています。
日常生活での現在出発思考構造(自己の今現在の思い込みを原点とし、思考したり、思考させられたり、現在を基準にして、未来に押し広げて行く、思考の仕組み)での、思い込みを、基準にして問う事によって、初めて本当の神と出会う事が出来ます、その為に私は日常生活と本当の神とは対等だと信じています、そして私は本当の神をのぞき見たことが在ります、それは深い内省において、無や空と言われる領域において、雑念の内容ではなく、雑念の発生の瞬間や、雑念の発生場所や、その奥を見たいと思い、我を無くして、注意だけを差し向ける事を、何度もくり返す内に、一度だけ覗き見ました、その時の直感を、逃げ帰った後に、思い返してみると、それはリアルで在る為に、我を持たずにいる私は、恐怖の一言です、私には無理です、この先に進めば発狂する事を直感し、何とか逃げ帰ってきました、これが私の極限での体験です、そしてその時の集中力は二度と持つ事が出来ません、そして二度と行きたくもありません、ですが、その時の本当の神からのお土産は、未来開口構造(現在にのみ出没する、力の神の系と、命の神による、現在や時間の意味世界の系との間は、未来においては、まだ統合されずに、開いている、自由領域構造の事)
への確信と、立ち入る事の出来ない神の領域を認め有限な者としての自覚と、日常生活愛着願望(私は同じ感情の在る、他者と共に、日常生活を生きる事が、感情的に好きです)である里心です。

二値思考に閉ざされるだけで無く、自己の命の自覚を求める私のホームページです。
http://ninngennnokouri.com/
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そういうのは、その辺の宗教に入って教われば良いのでは? 私の回答としては、くだらん!

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人間が神を定めるのではなく、人が神を知るもの。


馬鹿は神を聞いて妄想する。馬鹿は自由。賢い者も自由。

日本人は馬鹿だから、何でもあり。なんでも神様。八百万(無数)である。
しかし、神の息吹は余すところ無く満たされている。
息吹って何?馬鹿は読み捨てるか、妄想する。
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生存が許せれる現象は、歴史を学んだものです。

学び対応が出来生存が保たれている現実を理解しましょう。唯一絶対は、歴史の学習ですね。
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それより社会構築の術を學びましょう。

自然界の生存は、一人で生きていかれ無いのです。どんなお金も社会が無ければ意味がないのです。現実認識が足りませんよ。
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どれであれ、宗教なんてただの戯言。

それについて書かれたモノもクズ(それ以下かも)
神なんていないし、嘘っぱち。
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>神について語るとき、そもそも神とは何であるかについて理解がなければ神について何ごとも語ることは出来ません。


これについては人の道においては既に答えは出ており明確であります。<
>既に答えは出ており明確であります。<

誰が出した答え?はっきり回答せよ。ま、出来る訳ないが。

神?無いモノに共通の理解など無い。
神?無いモノに答えなんか無い。これは自明。
神?無いモノにどう理屈を付けても何も生まれない。
神?人が勝手な理屈で自分たちの都合のいい様に作り出した(作り出せたと思い違いをしてるモノ)

>神は唯一絶対のものとすべきではないでしょうか。<

だったらなんでこんなにたくさん神が居る?全部が自分たちの都合の良いモノを勝手に信じろと言ってるだけ。
あえて言うが、そんなモノは無い。従って意見も回答も出る事は絶対に無い。
絶対にあり得ない。
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神というものが、このようなもので良いのかとか、


べきだ、なんてのはおかしいのではないですか。

神は宇宙の法則なんでしょう。
人間存在とは無関係に存在し得るんでしょう。

なら、人間の都合である、良いのか、とか何々べき
なんてのはおかしいでしょう。

宇宙の法則なら、それが唯一絶対である必然性は
ないでしょう。

唯一であろうが、八百万であろうが、宇宙の法則
がそのようなものであれば、仕方がないと
思うのですが。
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この回答へのお礼

>神というものが、このようなもので良いのかとか、
べきだ、なんてのはおかしいのではないですか。

なにがおかしいの?
あるものがどんなものであるのか考えるときに、
それはこのようなもので良いのかとか、
それはこのようなものであるに違いないとか、
それはこのようなものであるべきでないのかとか、
考えるのはおかしいってことなのか。
分からないものについて考えるのであるから、そんな風にして的を絞っていく以外ないんではないのかい。

お礼日時:2015/12/30 18:43

№6です。



7. ☆☆ 《やはり神は唯一絶対のものとすべきではないでしょうか》というように考える
なら それこそが人間原理に頼っていることになるでしょう。
★ アラーも、ヤーベも、イエスキリストも、皆例外なく人間原理に基づき人間の都合に合わ
せて人間によって創られたものであることは間違いないでしょう。
☆ 論証しなければ哲学ではありません。

8. ★ だからコーランが作られ、トーラが作られ、聖書が作られ、その中で奇跡の物語も
作られたのであった。 / すべて人間原理の成せる技である。
☆ もしそうだとして だから あなたも人間原理に頼っていてもよいということにはならな
い。
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この回答へのお礼

>あなたも人間原理に頼っていてもよいということにはならな
い。

だから何度も言ってるよ~に、宇宙の法則は人間が創れるものではないって言ってるじゃん。

お礼日時:2015/12/30 12:33

主様は、宗教に苦しめられた経験がおありでしょうか。



神がもしも存在するのなら、自分自身を絶対と考えていても、無理はないと思います。地球や太陽系なんて、神にとって、アクアリウムのようなものでしょう。
神にあるのは純粋な好奇心であり、生み出した研究対象に対して愛着を感じることはあったとしても、親が子に対し感じるような自己犠牲を伴うほどの愛情は持ってないと考えます。

反対に、神が実際には存在せず、人の心の中にある 希望とか、善意とか、そう言ったものなら、人の思いの数だけ神が存在するという事になります。
八百万の神ですね。

ちなみに、私は、神なんていらないと本気で思っています。

こんな解答でも、何かのインスピレーションを与えられれば幸いです。
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