1.
まず、
祈らざるを得ない瞬間。これは誰にも必ず訪れるでしょう。
・祈り=神仏に対して望みがかなうように請い求める。
であり、
・望み=そうなればよい、そうしたいと思うこと。願い。希望。
です。(大辞泉より)
つまり、未知のことでどうなるかわからないから、あるいは、人智の及ばぬことだからこそ祈る。
予知能力の無い人間にとって極めて自然な行為でしょう。
「人智の及ばぬことだから(こそ祈る)」のですから、祈った時点で、すでに思考は停止していることになる。
・人智の及ばぬことに関して、思考停止状態で望みがかなうように請い求めること。
これが祈るという行為の実態です。そして、「祈り」を無くすことはできません。
2.
さて、
「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
という定理によれば、「人智の及ばぬこと」に関して何かを請い求めるのであれば、その祈る先は、必然的に「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理」になる。
また、祈っている人の胸中も本来は、そうなっている(いた)はず。
ここで、「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理」は、表現としても、また、概念としても長すぎるという問題は発生するでしょう。
そこで人間は「神」という言葉を、「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理」の象徴として編み出した。
【質問1】これが神の起源だと思いますが、どう思われますか?
3.
ところが、実は、
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
ということであるため、「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理」、あるいは、その象徴としての「神」に祈った(請い求めた)としても、 [ 自我としてのこの我 ] 、つまり「一個人としての我」に対して(個別に)応えてもらえるはずはないのです。
しかし、先述いたしましたように、人間から「祈り」を取り上げることはできません。
4.
そこで、
そうした人間の祈りに応えるために宗教が生まれた。
そして宗教は、「象徴としてではない神」を設定しなければならなかった。
なぜなら、「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理」、あるいは、その「象徴としての神」では、3で述べたように祈りを叶えることができないからです。
つまり、
・宗教としての神は、人間の祈りに応えるために必要悪として絶対的摂理を直視させず、「象徴としてではない神」によって偽善的な愛を普及し続けている。
また、「象徴としてではない」のであるから、その神に対して任意の名を与える必要もあった。
ここに実は最大の誤謬が発生していると思うのですが、つまり、名を与えた瞬間に、その神は恣意性(意志)を持って自由に振舞うことができるようになってしまうでしょう。少なくとも、人びとにそう思わせることになる。
【質問2】こうした考え方について、どう思われますか。
5.
では、
[ 自我としてのこの我 ] 、つまり「一個人としての我」に対して(個別に)応えてもらえるはずがないにも拘わらず、「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理」、あるいは、その「象徴としての神」に祈るという行為に、人間は意義を見出すことができるでしょうか。
個人的には、「祈る」という行為がもたらす心理作用に、その意義を見出すことができるように思っています。(真面目に祈ったことがないので検証はできていませんが)
「叶えられるとは限らない」と知りつつも、ひたすら、それを請い求めるという行為自体に意義が存在し得るのではないか、ということでもあるのですが、それがむしろ祈るという行為の本当の意味ではないかとも思います。そして、
【質問3】「象徴としてではない神」に祈るという現行宗教の形は、絶対的摂理、つまり、真理から人びとの目を逸らさせている、という点で誤謬を重ねていると思うのですが、いかがでしょうか。
以上、質問が3つになってしまいましたが通底しております。
書きなぐりのため、質問の趣旨を忖度した上でご回答いただければ助かります。
触手の動いた項目についてだけお答えいただいても構いませんので、よろしくどうぞ。
No.7ベストアンサー
- 回答日時:
現行宗教批判の一点目として、「祈り」即ち「人知の及ばぬことに関して思考停止状態で
望みが叶うように請い求めること」を挙げておられますが、私はこれに賛同いたしかねま
す。
宗教的「祈り」の定義が適切でないと思うからです。
仰る通り、現実には「思考停止」になっているケースがほとんどであると思います。しか
し、「祈るとは、これ以上できないという努力が前提になっている」という教義、解釈が
存在するのです。
完全に他律的教義がありますが、人間を自律へ誘う宗教の教義があります。
祈っただけで、願いが叶うのならば、楽ですよね。人間堕落します。第一道理にかなわな
いことはないはずです、なんかの巡り合わせでそうなることはあっても。
「神の起源」に関しましては、宗教を作った側としては、仰るような意図があった場合も
あっただろうと思います。
しかし、信ずる民衆の側は、もっとずっと「人格的なもの」をイメージしていただろうと
思います。「観念」を信ずることは非常に難しいと思うからです。
その作り手と、受け手とのギャップが、宗教の堕落の一因になっていたと考えられます。
ご回答ありがとうございます。
>「祈るとは、これ以上できないという努力が前提になっている」
:
たしかに、その要素が無いものは単なる願いであって、祈りとは言えないですね。
「祈らざるを得ない瞬間」という表現で、その要素もお示ししたつもりでしたが、おっしゃっていただいたように表現するほうが分かりやすいかもしれません。
>第一道理にかなわないことはないはずです、なんかの巡り合わせでそうなることはあっても。
:
こちらの意味がちょっと読み取れませんでした。
>しかし、信ずる民衆の側は、もっとずっと「人格的なもの」をイメージしていただろうと思います。「観念」を信ずることは非常に難しいと思うからです。
:
実は、祈り、あるいは信仰・宗教に関しては、この点が最大の課題ではないかと思っています。
つまり、
▼「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理」の象徴▼
という捉え方での神を、おっしゃっていただいたように、祈りの対象にし得るか否か、といったことです。
◎「観念」を信ずることは非常に難しい◎
という気もする一方、たとえば、日本の象徴として国旗を仰ぎ見ることは出来ていると思います。
国旗を通して日本という国を見ていることは明らかですが、この場合、日本が大事なのであって、国旗はあくまで象徴にすぎないことが理解されていないと様々な誤謬の発端となるのではないか、といったこと。
◎「人格的なもの」◎
は恣意的な存在としての神、つまり人格神ということになるでしょうが、
a.雷=人格神
であったのか、
b.雷⇒「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理」⇒人格神
という経緯であったのか。
微妙なところかもしれませんが、どちらもある、という選択肢もありそうですね。
いずれにせよ、
c.雷⇒「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理」⇒象徴としての神
という視点の欠如が、現行宗教の最大の誤謬ではないか、ということを問うたつもりです。
この辺りに関しては、もう少し詰めていく必要性を感じている次第。
No.12
- 回答日時:
>【質問1】これが神の起源だと思いますが、どう思われますか?
おおよそその通りだと思います。
>【質問2】こうした考え方について、どう思われますか。
おおよそその通りだと思います。
>【質問3】「象徴としてではない神」に祈るという現行宗教の形は..
おおよそその通りだと思います。
私は仏教徒ですので、本来ならばご質問にお答えする資格は
ないのかもしれません。
なぜならば仏教では本質的には「神」という概念が無いからです。
釈尊在世の頃はバラモン教の時代で、神が大衆に浸透していたので
まったく切り離すことができませんでした。
そこで「仏法を行ずる者を守る働き」として仏教の中に神という
概念を配置しました。
本来仏教は万物の創造者的な神というようなものは、認めて
いません。
祈りではなく「解脱を目指す道、教え」だったのです。
つまり法を求める修行だったものが、大乗仏教ができ、大衆に
浸透するにしたがって仏塔、仏像崇拝がはじまり、本来の目的である
解脱、成仏ではなく「欲望達成のための祈り」となってしまいました。
ご回答ありがとうございます。
>なぜならば仏教では本質的には「神」という概念が無いからです。
:
そうでしたか。
たしかに釈迦には神の要素はないようですね。
ただ、大日如来とかは神的な位置づけだと思っていました。
>祈りではなく「解脱を目指す道、教え」だったのです。
:
素人目には、これがキリスト教との大きな違いのように見えますね。
>大乗仏教ができ、大衆に
浸透するにしたがって仏塔、仏像崇拝がはじまり、本来の目的である
解脱、成仏ではなく「欲望達成のための祈り」となってしまいました。
:
なるほど。
何でもそうですが、「団体」になってしまうと、その秩序を維持したくなるために、色々な弊害も発生してくるような気もしているんですよね。
秩序維持が、本来の「祈り」とは程遠い目的として個々人に干渉してくるのではないか、といった印象。
No.11
- 回答日時:
お礼有難うございました。
丁度、又、前質問から7日経って締め切られる直前なので、取り急ぎ、お礼で述べられたコメントにお答えします。
>「人智が及ばない」存在をどうして人間がつくることが出来るのでしょうか?
抽象的な「人智が及ばない」ものに対して、「神 という言葉」を編み出した、という意味です。
⇒「神」という存在自体は宇宙創造以前からあるとしても、そういう言葉や概念を人間が編み出したという意味なら納得します。
>つまり、[ 自我としてのこの我 ] 、つまり「一個人としての我」に対して、神は(個別に)応えて下さっているのです。
こうした(事実に反する)ことをおっしゃると、宗教の信憑性が疑われやすくなるように思うのですけどね・・。
⇒どうして「事実に反する」と言えるのでしょうか?
神と言う存在は、空間や時間を超越している存在なので、同時に無数の人の祈りを聞き届けられる存在として想定しています。それが「神」の基本形であり、譲ることは出来ません。
>少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたもの、というよりは、個々の人間が生まれ育った土地に根付いた古くからの伝統的宗教を、親から子へ、そして孫へと、代々自然に受容して行くケースの方が一般的なのではないでしょうか?
:
宗教としての信仰は、たしかに、そうした要素は多いでしょうね。
希望したわけではなくとも、いつのまにか檀家に入っている、などというのが実情でしょう。
⇒日本のように、特定の宗教が根付いている訳ではない地域は、世界的には極めてまれであり、それだけに、我々は自ら自分の信じる道を選び取って行かない限り、宗教を水のようにしか感じなくなるのでしょう。
>信仰(盲信)を殊更に「悪いこと」であると強調されているように見える
:
「祈り」が止むに止まれぬ必要性に発しているのと対極を為すはずなのですが、「宗教としての信仰」には疑念を抱いています。
おそらく、祈りを集団化したことによって生まれた弊害が存在するのではないか、と推測しているところ。
⇒ 同信の信者達を教団として組織した宗教は、多くの日本人にとって抵抗のあるであるのはわかります。私も前の回答で挙げた通り、個々人の自然な信仰心の発露が大切だと思います。しかし、一方では、人間は弱い存在なので、キリスト教のように、共同体を通じて信仰するのも大変有効だと思います。
>信仰には、まず理屈以前に「無条件」に「神を信じる」という過程が必要なのでは、
:
全く同感です。
それゆえに弊害が生じやすくなるのではないか、という点で、おそらく見解の相違があるのだと思います。
⇒奇跡や教義を信じることは、理屈だけでは割り切れません。ここは理性だけではなく、仏教やキリスト教の宗教者や聖人の声に耳を傾け、どうしてそうした信仰に至ったかに耳を傾けるのも良いと思います。⇒聖三木図書館(東京・四ツ谷のイグナチオ教会構内)や、キリスト教・仏教関係の書店を利用しましょう。
>【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という「諦観」や「あきらめ」の境地に至り、
:
私としては、単に真理を真理として認めることの重要性を述べているだけなのですけどね。
◎「諦観」や「あきらめ」の境地◎
と言ってしまうと趣旨からずれてしまいます。
⇒あきらめとは「諦める」ことではなく、物事の心理を「明らめる」ことです。
>「神のいつくしみ」を頼りに生きて行くことは、人生の平安を得るには必須のことのように思います。
:
無いものをどうやって頼れるのか不思議です。
無いものを有ると信じ込むのは盲信で、思考停止と言えると思います。
つまり、(神の意思だと判断されさえすれば)「何でもあり」になるでしょう。
そこが問題なんじゃないですかね。
⇒「見えないもの」を信じることの重要性は、古今から多くの宗教者たちが述べています。
又、文学の世界でも、サンテグジュペリ『星の王子様』などでも言及しています。
ご回答ありがとうございます。
>神と言う存在は、空間や時間を超越している存在なので、同時に無数の人の祈りを聞き届けられる存在として想定しています。それが「神」の基本形であり、譲ることは出来ません。
:
たしかに「空間や時間を超越している」と想定可能な事柄はあると思います。
ただ、それがどんなものかはわからないので「不可知」とするのが論理的な判断でしょう。
私は、宇宙をバランスさせている摂理が、それに当たると思っています。そして、この「宇宙をバランスさせている摂理」を比喩的に「神」と呼ぶのは構わないでしょう。
しかし、oozora2000さんとしても、姿を見たり、声を聞いたりしたことはないはずですから、「無数の人の祈りを聞き届けられる存在」とまで言ってしまうと嘘になると思いますけどね。
実際、本当に聞いてもらえるのなら、こんなひどい世の中が放置されているはずはないでしょう。
>人間は弱い存在なので、キリスト教のように、共同体を通じて信仰するのも大変有効だと思います。
:
これは、まだ勘にすぎないのですが、おそらくは、その「弱さ」を利用する人が出てくるのではないか、と思っています。
◎共同体◎
となると、秩序が必要になりますから、その秩序を神の教えに絡めて民衆を支配しようとするタイプの人間が出てくる。
彼らは神の教えを広めるのではなく、自らが神になりたい欲求に突き動かされるように変質していくのではないかということです。
>「見えないもの」を信じることの重要性は、古今から多くの宗教者たちが述べています。
:
まあ、おっしゃるとおりなのですが、重要なのは「見えないもの」自体ではなく、「信じるという行為」でしょう。
見えても見えなくても「信じるという行為」による効能は極めて大きいわけです。
ただ、何を信じるのか?ということが重要なのであって、「見えないもの」をなんでも信じれば良いわけではありません。
No.10
- 回答日時:
hakobuluさん、いつもお世話になります。
「祈り」は、カトリック信徒である私にとって、非常に重要なテーマですので、回答を試みます。
【質問1への回答】
おっしゃるように、「祈り」とは、「人智の及ばぬこと」(いわゆる『神の摂理』)に関して、「神」に対して、請い求める行為であると言えると思いますが、その「祈り」の対象である「神」を、「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理」の象徴として、人間が作り出したと仮定すると、大変矛盾したことになると思われます。
なぜって、「人智が及ばない」存在をどうして人間がつくることが出来るのでしょうか?
勿論、宗教の中には、本来神が作ったはずの人間や動物や自然、或いは何かの象徴など「被造物」を「神」とみなして、崇拝しているものもあります。こうした「神」は、キリスト教などの一神教から見ると、「偶像崇拝」ということになり、そうした神たちは、人間の必要性に応じて、後から創り出されたものだと思われます。
(仏教など他宗教の神仏をどう見るか、と言う議論はありますが、私は、こうした神仏も、神の現れ方のひとつの変容として見ており、あながち否定するものではありません。ただ、神道などで我々の先祖たちを神仏と崇めている例については、それが「祈り」の対象である場合には少々抵抗を感じなくもありませんが、「敬う」、「崇敬する」と言う範疇なら、まあ許容してもよいのではないかという感覚があります。)
【質問2への回答】
あなたの質問文中の命題A,Bから導き出される結論は、常々あなたの持論の命題C
≪彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない≫ですよね。
確かに、世界中の子供のほしいものをサンタクロースが把握しきれないと同じように、もし「神」という存在が人間なら、如何に有能な人でも、時代や空間を超えた人々のニーズを把握することは出来ません。
従って、あなたという小さな存在が、祈ったところで聞き届けられるはずもないのです。
しかし、「神」と言う概念に、時間とか空間とかは想定されていないのです。
神が全能であるならば、あなたがいくら祈っても、もうあなたの将来の運命は決まっており、祈りは無駄になるのでしょうか?
いいえ、あなたの21世紀における只今の祈りは、時代や空間を超えて、神が聞き届けておられるのです。つまり、[ 自我としてのこの我 ] 、つまり「一個人としての我」に対して、神は(個別に)応えて下さっているのです。
【質問3への回答】
>「象徴としてではない神」に祈るという現行宗教の形は、絶対的摂理、つまり、真理から人びとの目を逸らさせている、という点で誤謬を重ねていると思うのですが、いかがでしょうか。
「象徴としての神」、「象徴としてではない神」が、それぞれどういう宗教のどういう「神」を想定しているのか、質問文を読んだだけでは確証がないのですが、私は、常日頃、宗教には、教祖、教義、教典などのある「創唱宗教」(キリスト教、イスラム教、仏教など)と、人々の心に自然に発生する「自然宗教」(神道や、日本の先祖崇拝、お天道様を見て、いつも品行方正に生きたいと思う心など)があるということを承知しており、かつて以下の質問をしたことがあります。⇒ご参考1(1)
仮に、あなたの言われる「宗教」や「神」が、人間の必要性に応じて作られたものなら、当然、絶対的摂理から目をそらせることになるのかもしれません。
(ご参考1=私の過去問)
(1) 「普通名詞としての神」に祈ること http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html
(2)あなたは「祈る」ことがありますか?https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8735362.html
(ご参考2=以下は、hakobuluさんの先のご質問http://oshiete.goo.ne.jp/qa/9151024.html に対して、100番目の回答をしようとした処、最終回答から一週間目に締め切るという管理者の方針の下、タッチの差で締め切られ、本当に悔しい思いをした回答未遂稿です。今回のご質問と似通ったテーマなので、ここに引用させて頂きます。臨場感を出すため、余計な文言が入っていますが、お許し下さい。)
あれ?どうなっちゃったんでしょう?
99の喧々諤々のやりとりの後に訪れたこの一週間の沈黙は?
間もなく、管理者による締切となる前に、僭越ですが、私めが、栄えある(?)100番目の回答をしてもよろしいでしょうか?
これまでの話の流れからは、ピントのずれた回答になるかもしれませんが、何卒ご容赦下さい。
先ず、質問者のこの命題≪彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない。≫は、質問者の一連のご質問を通して、「通奏低音」のように流れているものであり、先ずは、基本的には賛同致します。
そして、こうした、自分では運命を決められない人間の運命を決めるのは、神の「摂理」であり、人間は、たとえどんな過酷な運命を背負わされようと、それに抗弁する術を持たず、従うしかないのだと思います。
・・・そこに、仏教でいう「諦観」(たいかん、一般的にはていかんと呼ばれる)やあきらめ(諦め、或いは、明きらめ=明らかに真理を見ること)という概念があり、 キリスト教でいう「神のいつくしみ」にすがって、救いを求める姿勢があるのだと思います。
従って、本来の「信仰」とは、大体書かれている定義で合っているとは思うのですが、多くの人間にとっては、少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたもの、というよりは、個々の人間が生まれ育った土地に根付いた古くからの伝統的宗教を、親から子へ、そして孫へと、代々自然に受容して行くケースの方が一般的なのではないでしょうか?
確かに、近代においては、海外はじめ他社会との交流も多くなり、価値観の多様化が進んだ結果、ただ親から引き継いだ宗教を引き継いで行くだけではなく、今まで知らなかった宗教に帰依したり、マックス・ウェーバーの言う「呪術からの解放」や個人主義の台頭により、そもそも宗教の影が薄くなり、他の価値観に身を委ねようとする人間が増えてきたのは事実です。
そうした過程で、あなたの言われるように、、「自我による思考」によって、信仰をもつかどうか、或いはどの宗教/神を選択するかを考える人間も増えてきたのだとは思います。
ただ、そこで、気になるのは、あなたが、信仰(盲信)を殊更に「悪いこと」であると強調されているように見えることですが、キリストは「求めよ、さらば与えられん。」、「困っている人は自分の所に来なさい。」と言われ、前記の通り、キリスト教では、「神のいつくしみ」を頼りに、神にすがることをむしろ奨励しているくらいであり、信仰には、まず理屈以前に「無条件」に「神を信じる」という過程が必要なのでは、と私などは考えてしまうことです。
尤も、次の段階で、近代の人間の理想像として、あなたの言われるような「理性的に、自らの宗教・価値観を選び取っていく」という姿勢は必要かな、とは思いますので、最後落ち着く所は、あなたの結論からそう遠い訳ではないと感じます。
そして、信仰する動機、根拠として、宇宙の摂理という絶対性を信じ、人間という種を俯瞰してみるという作業の中で、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という「諦観」や「あきらめ」の境地に至り、「神のいつくしみ」を頼りに生きて行くことは、人生の平安を得るには必須のことのように思います。
ご回答ありがとうございます。
お礼が遅れ失礼しました。
>「人智が及ばない」存在をどうして人間がつくることが出来るのでしょうか?
:
抽象的な「人智が及ばない」ものに対して、「神 という言葉」を編み出した、という意味です。
>つまり、[ 自我としてのこの我 ] 、つまり「一個人としての我」に対して、神は(個別に)応えて下さっているのです。
:
こうした(事実に反する)ことをおっしゃると、宗教の信憑性が疑われやすくなるように思うのですけどね・・。
>少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたもの、というよりは、個々の人間が生まれ育った土地に根付いた古くからの伝統的宗教を、親から子へ、そして孫へと、代々自然に受容して行くケースの方が一般的なのではないでしょうか?
:
宗教としての信仰は、たしかに、そうした要素は多いでしょうね。
希望したわけではなくとも、いつのまにか檀家に入っている、などというのが実情でしょう。
>信仰(盲信)を殊更に「悪いこと」であると強調されているように見える
:
「祈り」が止むに止まれぬ必要性に発しているのと対極を為すはずなのですが、「宗教としての信仰」には疑念を抱いています。
おそらく、祈りを集団化したことによって生まれた弊害が存在するのではないか、と推測しているところ。
>信仰には、まず理屈以前に「無条件」に「神を信じる」という過程が必要なのでは、
:
全く同感です。
それゆえに弊害が生じやすくなるのではないか、という点で、おそらく見解の相違があるのだと思います。
>【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という「諦観」や「あきらめ」の境地に至り、
:
私としては、単に真理を真理として認めることの重要性を述べているだけなのですけどね。
◎「諦観」や「あきらめ」の境地◎
と言ってしまうと趣旨からずれてしまいます。
>「神のいつくしみ」を頼りに生きて行くことは、人生の平安を得るには必須のことのように思います。
:
無いものをどうやって頼れるのか不思議です。
無いものを有ると信じ込むのは盲信で、思考停止と言えると思います。
つまり、(神の意思だと判断されさえすれば)「何でもあり」になるでしょう。
そこが問題なんじゃないですかね。
No.9
- 回答日時:
私の文章の読解力、表現力はまだ甘いようです。
「第一道理にかなわない云々」の部分は、要するに世の中
奇跡的なことはあっても、奇跡はないということです。
宝くじに当たるということは、「あること」で奇跡ではない
と考えます。但し、通常でない運(不運?)によって実現する
ことで、因果律に則った、奇跡的現象であると思います。
その次にご指摘の点は、極めて難解な問題ですね。
今申し上げられることは、「絶対的宇宙の摂理」を間違いな
く表現した「象徴」があり、それが、実在した人格であると
いうことであれば、完璧といえるでしょう。
ご回答ありがとうございます。
>「第一道理にかなわない云々」の部分は、要するに世の中
奇跡的なことはあっても、奇跡はないということです。
:
わかりました。お答えいただきありがとうございます。
>「絶対的宇宙の摂理」を間違いな
く表現した「象徴」があり、それが、実在した人格であると
いうことであれば、完璧といえるでしょう。
:
「絶対的宇宙の摂理」は、基本的に永遠に不可知と捉えていますので、
◎間違いなく表現した「象徴」◎
でなくても、感覚(語感)にフィットした表現でありさえすれば、何でも良いかと思っています。
◎実在した人格◎
ということになると、じゃあ、それを造ったのは誰なのか?ということになってしまいそうではありますね。
No.8
- 回答日時:
道元と密教は両立しないような気がするのだが
どうなのだろう?
さすがに態度を軟化させて考えてみたけれど、
宗教のマーケティング的な問題と割り切って加持祈祷を行っているのか
それとも、呪術が道元と関係あるのだろうか?
不思議だと思った。
宗教ですら病院へ行け、という時代に
病気が治らないから宗教に頼りますなんていうのは
時代遅れのような気がする。
病気治しの宗教の最大の問題は病気が治らないことである。
あたりまえであるが。
というか医師免許とか薬剤師の免許がないのに
医療行為だとか薬を販売したら違法である。
現代に奇跡の居場所は無い。
~~~~~~~~~~
927 わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならぬ。
一四、迅速
ワイド版 岩波文庫 ブッダのことば スッタニパータ 中村元 訳
201ページ
~~~~~~~~~~
19:11神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。 19:12たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。
使徒行伝
http://bible.salterrae.net/kougo/html/acts.html
~~~~~~~~~~~
こうして比べると
仏教とキリスト教は病気に関しては結構異なると思う。
もちろんだからこそ密教だといわれるとそうなのかもしれないが。
まあ、病院に行けよ、という話である。
キリスト教系の病院はあるけれど、仏教系の病院はほとんど、というか私は全く知らないから
そういう違いなのかもしれないが。
ご回答ありがとうございます。
>宗教ですら病院へ行け、という時代に
病気が治らないから宗教に頼りますなんていうのは
時代遅れのような気がする。
:
とりあえずは健全なお考えと思います。
>というか医師免許とか薬剤師の免許がないのに
医療行為だとか薬を販売したら違法である。
:
こちらも極めて正論。
ただ、医師免許とか薬剤師の免許の基準自体が、人間にとっての正当性を完全に担保しているわけではない、という点に最大の問題点が潜んでいるのでしょう。
それに加えて医療ミスなども氷山の一角でしょう。
こう考えてみると、たとえ時代遅れでも選択肢としては有効である場合だって、おそらくあるのではないか、という気はしてきますね。
>まあ、病院に行けよ、という話である。
:
とりあえずは科学のほうが信頼されている、ということなんですかね。
No.1
- 回答日時:
例えば身内が病気になって、難しい手術を受ける事になったとします。
その時、彼の家族は何かに祈ると思うのです。それは亡くなった祖父母であったりするかもしれません。亡くなった祖父母に、彼を守ってくれるように願い祈るのは、なんらおかしいことは無いでしょう。この場合、別に神様に祈っているわけでも無いし、何かの宗教に属しているからというのでもありません。
先祖が現在に生きる人々を支えていたり見守っていたりするという考え、或いは想いと言ったものは、古今東西、共通であると思います。
そして、此処からは私見になりますが、では、家族や親類、友人知人などの人間関係に恵まれなかった人は、何に願い祈れば良いのか?という事態になって、神という普遍的な何かの出番が来るのだと思うのです。この神は、彼を思いやるばずの彼の家族や友人の代わりとして、想いの中に存在しえ、個別のための神であるが、同時に、人々に普遍的に宿る心理機能の一つとして顕現するものだと思われます。
この様に、神とは人間にとってとても身近なものであり、それは自分自身の心に宿るものであり、遠大な宇宙の摂理とは区別せねばならないものである、と、私には思われます。この神は、所謂、普遍的真理だとか、絶対者だとかいうものではありません。しかし、それらとは違ってこの神は、人間のためにある存在として、決して軽視はできないでしょう。
今あるイスラム教の神や、キリスト教の神は、支配者の神であり、人間に対しても支配的であります。しかし、私の述べた神は、人間にとっては家族や親類、知己、先祖の様なものであり、代わりとは言えど、それは優しい神です。それは人を試したりしないし、強要しないし、名前も無い神であるが、神を用いるならこの神こそを、人は選ぶべきだと私は思います。
ご回答ありがとうございます。
>この神は、彼を思いやるばずの彼の家族や友人の代わりとして、想いの中に存在しえ、個別のための神であるが、
:
そこまで考えなくとも、単に戦場に息子を送り出す母親は神に対して祈ると思いますけどね。
わたしも年末ジャンボを買ったときなどには、「神様・・今度こそぜひお願いします」的な心境になります。
>、同時に、人々に普遍的に宿る心理機能の一つとして顕現するものだと思われます。
:
質問文でも述べましたように、ここが結構重要だと思っているのですが、これは、神であろうと、ご先祖であろうと、ほとんど同じなんでしょうね、たぶん。
>この神は、所謂、普遍的真理だとか、絶対者だとかいうものではありません。しかし、それらとは違ってこの神は、人間のためにある存在として、決して軽視はできないでしょう。
:
ここも私とは少し違いますね。
「普遍的真理」を感得しているからこそ、無神論者でも「神よ・・」と祈るのであり、この場合、神というのは、あくまで「普遍的真理」の象徴と位置づけられていると思います。
そのように祈ることによって得られる効果が
>人間のために
:
なるからこそ祈りには効能がある、と思うわけですが、その効能自体を神と呼ぶ必要性はあまり感じません。
>今あるイスラム教の神や、キリスト教の神は、支配者の神であり、人間に対しても支配的であります。
:
戒律が付き纏いますよね。
まあ、それはそれで意味があるのかもしれませんが、他の神を信仰することに対する寛容性の低い点が、若干、引っかかるところ。
神は寛容であるべきですよね。
ただし、これは、
>優しい神
:
という意味で申し上げるのではなく、あくまで、「普遍的真理」あるいは「絶対的摂理」なのだから、声高に強要したり、異教を排除したりする必要はないはずだ、ということです。
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