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古代の大和政権以外の王国についてよくわかっていない理由

飛鳥時代以前、日本には大和政権以外の王国が複数あったとの記録があります。 
出雲国、吉備国、筑紫国あたりが代表的だと思いますが、これらの古代王国についてどのくらい分かっているのでしょうか? 

歴代の王、首都、滅亡の経緯など、考古学が進歩した現在においてはある程度分かっていてもおかしくないと思うのですが。 
それとも、考古学の世界においては未だに皇国史観に支配されており、大和政権以外の王朝の歴史を調べるのは現在もタブーとされているのでしょうか?

例えば、古代の吉備王国は岡山のどこに首都を構えていて、誰が統治しており、何の産業によって栄え、どういう経緯で滅びたか、ほとんど解っていないし、研究する人もいないように思います。

質問者からの補足コメント

  • それでも、首都や主な産業くらいは発掘して判りそうなものですが。
    また、出雲王国は国譲りによって比較的穏便に併合されたようなので、出雲大社あたりに記録があってもよさそうです。

      補足日時:2016/02/04 19:02
  • 文書資料には残っていないかもしれませんが、考古学的アプローチで調べることは今でもできそうな気がします。
    首都と歴代の王、主な産業くらいはわかってもよさそうです。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/04 20:22
  • 西日本の古代王国は国名だけでもわかっていますが、東日本の古代王国になるとほとんどわからないのも不思議です。
    関東地方にもそれなりの規模の古代王国があってよさそうなものですが。

      補足日時:2016/02/05 23:15
  • すみません。
    王や首都、産業といったものは、それこそ古代エジプトからあるものですが。

    そのようなことも知らない人に、歴史を勉強しろと言われても、ねえ。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/08 18:09

A 回答 (5件)

手塚治虫の火の鳥・ヤマト編を参考に。


たくさんの王国を征服した、ヤマト王朝によって、資料が抹殺されました。
海外でも、歴史は勝者によって創られるパターンがけっこうあります。
中国の史記のように、記録を残す慣習がなかったのが、悔やまれます。
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持統天皇(藤原不比等も共謀?)あたりが、日本書紀編纂時に自分の孫に譲位するために、過去の歴史を抹殺し、自らをアマテラス神の生まれ変わりのように設定してしまった。


このストーリーに邪魔になる歴史はすべて闇の中へ葬り去られた。
この回答への補足あり
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>首都と歴代の王、主な産業くらいはわかってもよさそうです。



NHKネタですが、邪馬台国は北九州の伊都国の発掘で、伊都国から奈良・巻向に遷都したと云うのが有力になったそうです。

ただ、それ以外は藤原不比等あたりに見事に歴史から消し去られてしまったようです。
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出雲その他がヤマト政権の傘下に加わったのは、相当古い時代のことですから、記録がないのは無理もありません。

吉備や筑紫は、ヤマト政権ができたとき(多分3世紀前半)、すでにその一員だったようです。「ヤマト政権に滅ぼされた」わけではなく、西日本各地の勢力が連合して、ヤマト政権をつくったという形でしょう。
出雲はやや遅れたかもしれませんが、それでも多分4世紀のうちには、ヤマト政権に服属(または参加?)したはずです。

> それとも、考古学の世界においては未だに皇国史観に支配されており、大和政権以外の王朝の歴史を調べるのは現在もタブーとされているのでしょうか?
そこまで人間性の腐った研究者は、多くはないでしょう。資料不足で、わかっていることが少ないだけです。

ヤマト政権ができる以前の歴史は、『古事記』『日本書紀』でも神話の世界で(国譲り神話もその一部)、史実をどの程度反映しているかはわかりません。中央政権でもその有様ですから、地方の国々の歴史に謎が多いのは(記紀・風土記の物語や考古資料から、一部を推定することはできます)、当然と言えば当然です。

> 首都と歴代の王、主な産業くらいはわかってもよさそうです。
まず歴代の王の名は、文献がないのでわかりません。「王墓級」とみられる巨大な墓に葬られている人物が、多分この地方の王だったのだろう、という推測が成り立つ程度です。
次に首都ですが、古墳時代までの日本の住居跡は、柱穴くらいしか残されていません。「王宮」の類が判別しにくいので、首都を特定するのは困難です。ヤマト政権の王宮跡でさえ、発掘で確認された最も古い例は、推古天皇の「豊浦宮」跡です(雄略や用明の宮跡についても、有力な候補はありますが)。
http://sakuwa.com/yw62.html
産業については、遺跡からある程度わかります。たとえば出雲は、玉類(管玉・勾玉など)の製作が盛んだったようです。

寺沢薫『王権誕生』(講談社学術文庫)↓によれば、ヤマト政権ができる前(2世紀ごろ)の各地の状況は、以下のように推定されています(もちろん、あくまで一説です)。
http://www.honyaclub.com/shop/g/g12539804/

出雲:出雲半島の東部と西部に大きな勢力があり、統一されてはいなかったようです。東部では安来市の塩津山墳墓群、西部では出雲市の西谷墳墓群が、王の墓と考えられています。
吉備:吉備地方の国々がまとまって、連合をつくっていたようです。吉備国連合のリーダーの墓は、総社市の楯築遺跡です。
筑紫:伊都国・奴国など、多くの国々がありましたが、2世紀には伊都国を中心にまとまっていたとされています。糸島市の平原遺跡が、伊都国王(伊都国連合のリーダーでもある)の墓でしょう。

古代の地方史については多くの本が出ていますが、トンデモの類も多いです。比較的あてになりそうなものだけ挙げておきましょう。
『列島の古代史(1)古代史の舞台』岩波書店
http://www.honyaclub.com/shop/g/g12250137/
『出雲の考古学と「出雲国風土記」』学生社
http://www.honyaclub.com/shop/g/g12253835/
『邪馬台国時代のツクシとヤマト』〃
http://www.honyaclub.com/shop/g/g12267341/
『古代を考える 出雲』吉川弘文館
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32351.html
『古代を考える 吉備』〃
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32361.html
『古代吉備王国の謎』山陽新聞社
http://honto.jp/netstore/pd-book_01182631.html
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この回答へのお礼

詳しいご回答、ありがとうございます!

お礼日時:2016/02/05 21:26

記録が無いのだから、相当難しい。


日本書紀に記載されている内容が、すべて正しくはありませんが、解釈できる。
考古学が万能ではない。
あなた歴史を勉強しなさい。
首都、王、主な産業とは現代の歴史。当時王、首都のような概念があったとは思えない。
この回答への補足あり
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