最初に、これは質問者自身、何を問いたいのか?何を問うているのかが甚だ曖昧な質問であり、そもそも「問いかけ」として成立し得るのかさえ心もとない疑問です。
ですからこの質問自体が「意味不明の妄言」であると判断された場合は、そのまま無視してください。
これはぶらじゅろーぬさんが、別のところで述べておられた、「可知」「既知」「未知」「不可知」そして「非知」という言葉に触発された疑問ですが、ここではもともとのぶらじゅろーぬさんの議論を離れて、甚だ「知的」ならざる愚問を発してみたいと考えます。
「知る」について―疑問:1
例えばここに一台のグランドピアノがあります。その中で、ひとつだけ、音の出ない鍵盤があります。
その出ない音はなにか?は、その左右の音を確認することで明らかになります。
では仮にその「音の出ない鍵盤」以外のキーをすべて囲ってしまい、触れることが出来るのはその音の出ない鍵盤のみである場合に、「出ていない音」を知ることは可能でしょうか?
(この場合、鍵盤を叩く者は目隠しをしていて、音の出ない鍵盤の「位置」を確かめることもできない)
「知る」について―疑問:2
モンテーニュの有名な言葉、「わたしは何を知っているか?」(ク・セ・ジュ)Que sais-je ?
この言葉を
「わたしは何を知らないか?」と言い換えることは可能でしょうか?
「わたしは何を知らないかを知っている」という命題は成立するでしょうか?
勿論これは「わたしはロシア語を知らない(ということ)を知っている」というような意味ではありません。
なぜならこの場合「ロシア語」は「未知」であって「非知」ではないからです。
同様に「あなたはなにを知りませんか?」と訊いたときに、「~を知りません」と言える領域は「未知」のものに限られるのではないでしょうか?
「○○という本があることは知っているが読んだことはない」
「○○という映画があることは知っているが観たことことはない(内容も知らない)」
「○○という理論があることは聞いたことがあるがそれについては何も知らない」
「近所に田中さんという家が越してきたが、まだ会ったことはない」
例えば化学の「周期表」のようなものがあって、何が「未発見」「未知」であるかはわかっているばあい、これは「わたしはなにを知らないかを知っている」といえると思います。
改めて、質問:2
「わたしは知らないものを知ることはできないか?」
「あなたは何を知らないかを知っているか?」
こんなことをぼそぼそと考えてみました。
尚、ぶらじゅろーぬさんの「可知」「既知」「未知」「不可知」「非知」についての解説は以下に述べられています。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9303164.html
繰り返しますが、質問者が何を問うているのかよく理解できていないので、万一回答をいただいても理解できない可能性があります。予めご了承ください。
A 回答 (26件中1~10件)
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No.1
- 回答日時:
「知るについて」ー疑問1
これは音が出れば聞こえる“事柄”なので「未知」の状態と言えます。
「知るについて」ー疑問2
有名な言葉で有るならば、、、
「私は何を知っているか?」を暴けば、「本当に大事なこと、真理を知っているのだろうか?」となります。
由って以下は推し量ってみて下さい。
改めて、質問2に付いて。
「知らないものでも知ることは出来ます。その物に出くわせば。」
また
「物事を特定すれば知っているか知らないか、そして其れがどのくらいになのか、が分かる。」
このように考えてみました。
「非知」とは、想定、想像、なので有るとも無いとも言えず、従って“かもしれない”の事柄です。
ちなみに、ゼロ(O)は「非知」と言えるかも知れません。
こんばんは、yy8さん。
>「知るについて」ー疑問1
これは音が出れば聞こえる“事柄”なので「未知」の状態と言えます。
そうですが、やはり「音が出ない」状態で知ることはできないでしょうか?
>改めて、質問2に付いて。
「知らないものでも知ることは出来ます。その物に出くわせば。」
それはその通りです。では「わたしは何に出会っていないか?」を知ることは出来るのでしょうか?
ですから
>「物事を特定すれば知っているか知らないか、そして其れがどのくらいになのか、が分かる。」
「何を知らないか?」が分からない以上、特定するすべがないように思えます。
>「非知」とは、想定、想像、なので有るとも無いとも言えず、従って“かもしれない”の事柄です。
それはなんとなく「未知」であるような気がします。
>ちなみに、ゼロ(O)は「非知」と言えるかも知れません。
でしょうか?
分からないことだらけの質問ですが、考えを聞かせてくださってありがとうございます。
また何か思いつきましたらよろしくお願いします。
No.2
- 回答日時:
知らない物、事に付いて、その物、事を特定することは出来ると思います。
河口湖から見た富士山は見て知っているが、その裏側の姿は見たことがないので知らない、と。
人を憎いと思ったことはあるけれど、殺したいと思うほどに怒る事はいまだにないので、殺意といった感情がまだよくわからない、と。
再考、ですが。
非知の非は非ず、と読むのでしたね。知るに非ずと。
また、知るとか知らないとかと言うものでもない、と言った説明もありました。
そしてこれを神と人との関係に於いて"自覚するしないにかかわらず、いやもおうもなく繋がっている(甘え)"ということであるという風にも言っています。
この事は、明確ではないものの感じたり、想像したりして起こる“考え”だと思うのです。
有る事柄である、のかも知れないのです。
そう思うと知るに非ず、という表現は成り立たないような気がしてきます。
でも、「ゼロ、無」は仮にという条件の付く“現象?”だから非という文字が使えるかも知れません。
再びの回答をありがとうございます。
>知らない物、事に付いて、その物、事を特定することは出来ると思います。
>河口湖から見た富士山は見て知っているが、その裏側の姿は見たことがないので知らない、と。
>人を憎いと思ったことはあるけれど、殺したいと思うほどに怒る事はいまだにないので、殺意といった感情がまだよくわからない、と。
うん。確かにその通りなのですが、この質問の問いとはちょっとズレるのです。
例えば、「エベレストという山はしっているけれども、実際に見たことはない」とか、「フォアグラを食べたことがないから味を知らない」とかではなく。そもそも何を知らないのかを知ることはできるか?という問いです。(苦笑)
たとえばyy8さんはこれまで誰に出会ってきたかを知っているでしょう。仮に忘れているとしても。
けれども「わたしはこれまで誰と出会わなかったか」を知ることは不可能である。か?というようなことです。
それはもちろんガンジーに会わなかったとか、長嶋に会ったことがないということではありません。
「会わなかった「誰か」は、誰なのか?」を知ることはできないのか?
なんてことを考えています。
「禅問答」って、ご存知ですよね。
「右の手を振っても音は出ない」
「左の手を振っても音は出ない」
では何故「右と左の手を合わせると音が鳴るのか?」「鳴っているのは右の手か?左の手か?それともその間か?」
「非知」「未知」にはあまりこだわらないで構いません。
おそらく自然科学などの新発見の理論というものも、ある程度のそれまでの流れの中での予感・仮定(仮説)のようなものがあるのではないかと思います。で、新たな理論が現れれば、それに則って、またあるていどの仮説が生まれる。
しかし、わたし(たち)が全く知らないものは何か?という疑問です。
どうせ他に回答者は来ないでしょうから、何でも思いついたことを書いてください。
改めて、お付き合いありがとうございます。
No.3
- 回答日時:
「わたしはなにを知らないか?」を知ることができないのは何故か?
「なに」に物、事を入れて見ないから知ることができないのでしょう。
「なに」に物、事を入れて見れば知るか知らないか、を知ることができるはずです。
「わたしはなにを知らないか?」
この一文は文としての意味があいまいなので、レトリックとして受け止めるしかないように思います。
>「わたしはなにを知らないか?」
この一文は文としての意味があいまいなので、レトリックとして受け止めるしかないように思います。
そうなんですよね。
結局誰も答えようがないことはわかっているのですが、このような考えが頭に浮かんできたということは結局わたしがくるっているということなのでしょうか?
ご回答をありがとうございます。
No.4
- 回答日時:
禅問答ならば、
裏側を見ることだから、
「なにを知らないか?」に“裏側”が無いから。
と、なります。
影、は物が有るから。
「なにを知らないか?」
は、何もないから。
とも。
「何もないから」知り得ない。その通りですね。何もないと「何がないか」は知り得ないですね。
関係ないけど、わたしは「無」とか「宇宙の開闢」ということが想像できないんですよ。
人間は「無」というものをイメージすることができますか?はじめに「無」だったところにどうしてビッグバンが起こるのか?
やはりわたしはくるっているのか?
No.5
- 回答日時:
横入りします。
○ ゼロ;無
は ≪非知≫ですよ。
無限に可能無限があるように――あるいはつまり 円周率 π は
限りなく小数点以下の数が続きますが そのもの自体は 3と
4の間におさまります そういう経験事象としての可能無限が
あるように――
ゼロや無も ≪そこにあったモノがなくなった≫とか≪別のモノ
に変化した≫といった情況で≪有る無し・居る居ない≫を問題に
することがあり得ます。あり得ますが そうなのではなく
けっきょく≪絶対無≫のことです。絶対無限。それなら ≪非知≫
です。
さらには 非知なら それを仮りに人間が経験的な言葉として
の≪有る≫と言ったりあるいは≪無い≫と言ったりしても どち
らにも対応することが出来ます。
つまり 絶対無とは 絶対有と同じです。
どちらも≪絶対≫であり 非知です。
≪有・無≫は仮りに非知なる神を擬人化して ≪神はある≫とか
≪神などはいない≫とかというふうに表現してみる。ことが起き
ます。表現の問題に入りますから。
そういう場面(段階)で神の≪存在する・しない≫は現われて来
ます。
つまり要するに 非知なる神については ≪有る神≫派も≪無い
神≪派も どちらも同じ信仰という心的現象におさまります。
(神は人間の単なる心でもなく そういう現象でもありませ
んが)。
≪無い神≫と≪有る神≫とは 非知において同じものであり さ
らに有神論の内でその≪有る神≫の名が さまざまに異なって
います。いますが ヤハヱ―にしてもアッラーフにしてもブラ
フマンにしても 非知を神と言い その神に仮りに名をつけた
だけのことですから 無神論をふくめて みな≪信仰≫です。
非知なる神は 普遍神です。
この普遍神と我れとの関係は 人間の心的現象について見てみ
ると たとえば≪甘え≫といったコトに成り得ます。
そのとき問題は 甘えなり心的現象なりが 神ではない。とい
うことです。
ビッグバン関係では 昔から言われているのは ≪無からの創
造 creatio ex nihilo ≫です。
自然科学はこれをはっきりさせないのかも知れませんが 哲学
ないし神学としては この≪無≫はあくまで絶対有と呼んでも同
じことになる絶対無のことです。
非知ないし絶対というのは ≪非経験の場≫のことでもありまし
た。
つまりは ≪宇宙・世界・時空間≫となるその場は 経験世界と
してのことであり この経験場を超えて≪非経験の場≫が想定さ
れるということだと思います。
時間や空間のその果てとかさらにその先とかという経験次元で
の話ではなく それらを超えた非経験の場 これが≪無からの
創造≫に言う≪無≫のことだと推し測られます。
★ わたしはなにを知らないか?
☆ この問いについては ふたつの場合に分かれると思います。
特定のわたしは知らないのにほかの人は知っているものがある
という場合が ひとつ。これは おしえてもらえば それが何
かは 分かります。既知と未知。
人間の誰もが知らないものについての場合。
もしやがて知るようになると思ったら これもやはり≪未知≫と
して扱う。
もし≪知り得るか知り得ないかが知り得ない≫と規定し想定した
なら・・・。
こんにちは。
お答えをありがとうございます。
簡潔にお聞きします。
ぶらじゅろーぬさんは、あるいはいっぱんに人は「無」というイメージを持つことができますか?
わたしは高校か大学生のころから、「はじめは無があった」という言葉がどうしてもイメージすることが出来ません。
「無」が「有った」とは矛盾以外の何物でもないでしょう?
人は「無」というものをどのようにイメージしているのか?
>この≪無≫はあくまで絶対有と呼んでも同じことになる絶対無のことです。
「絶対無」「絶対有」といわれてもピンときません。
>非知ないし絶対というのは ≪非経験の場≫のことでもありました。
つまりは ≪宇宙・世界・時空間≫となるその場は 経験世界としてのことであり
この経験場を超えて≪非経験の場≫が想定されるということだと思います。
経験され得る、「宇宙・時空」という以前の「非経験の場」=「無」
ということはやはり人類は「無」を「非経験であるがゆえに」心象として持つことはできないということでしょうか?
>★ わたしはなにを知らないか?
☆ この問いについては ふたつの場合に分かれると思います。
>特定のわたしは知らないのにほかの人は知っているものがあるという場合が ひとつ。
これは おしえてもらえば それが何かは 分かります。既知と未知。
なんとなく、これはパラレルワールドの世界の話のようにも思えたりします。
つまりどこか別の世界にいるG_Rは、その世界で「Aさん」「Bクン」「Cさん」と出会っているかもしれない。
しかしわたしはこの世界で、過去に誰と「会わなかったか?」を知ることはできない。これは誰に聞いても答えることはできない。
それは何故か?という問いはやはり成り立ちませんか?
No.7
- 回答日時:
お礼をありがとうございます。
★(№5お礼欄) ~~~~~~~~~
しかしわたしはこの世界で、過去に誰と「会わなかったか?」を
知ることはできない。これは誰に聞いても答えることはできない。
それは何故か?という問いはやはり成り立ちませんか?
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ だれだれと会ったのは何故か? と同じ問いであるように思
います。
言いかえると 確率が多いか少ないかの違いだと考えられます。
パラレルワールドについては 残念ながら分かりませんが この
地球じょうに限るなら 会えなかったけれど会えたであろう人間
とその数は そこに同時代人として生まれ生きた人間は決まって
いますから あとは確率の問題になるかと。
★ 人は「無」というイメージを持つことができますか?
☆ 想像することはできますが 或る一定の決まった(人びとが
共有しうる)イメージは 必ずしも持つことはむつかしい。
なぜなら 非知としての絶対無なら 絶対有としても まったく
同じ意味合いを指し示すかたちでそのイメージを持ち得ると考え
られるからです。(持ち得るとすればですが)。
つまり 非経験の場=非知なるナゾ=絶対・無限=普遍神につい
ては 規定はするのですがそれは飽くまで≪想定≫としての定義に
なります。
≪経験世界を超えた場≫を想定するという意味です。
なぜ想定するかは 一般に≪かみ≫という言葉を持ってしまってい
るからです。それは何か? という問いに答えるためです。
人間は 百年内外でたいていは死にます。つまり 限りなく生き
たという人はいないのに じつに言葉として≪永遠≫という概念を
持ちました。
この永遠にしてもそのイメージは 持つことがむつかしい。持ち
切ったというイメージはないでしょう。
でも かんたんにこの≪永遠≫という言葉は 使っています。
イオン・イーオン・アイオーンというのは 一つの意味としてや
はり永遠を表わします。それが 日常生活の中に入り込んでいま
す。
それと同じように さまざまな意味の変形を伴なって≪かみ≫と
いう言葉もあまねく使用されています。
イメージは――思考や知覚を超えているからには――むつかしい
ですが 言葉は普及しています。
そこで哲学は これについて一般的な定義をしておこうというこ
とだと思います。
★ 「はじめは無があった」という言葉がどうしてもイメージす
ることが出来ません。
☆ イメージするのは むつかしいでしょうね。
重ねて触れますが この命題は:
≪初めに無がなかった≫とも
≪初めに有があった≫とも
≪初めに有がなかった≫とも
いづれも互いにひとしい意味内容として言いかえることができます。
みな ≪非知≫のことを指し示しているからです。つまり:
≪初めに神があった≫とも
≪初めに神はなかった≫とも
同じく言える命題です。その≪初めに≫というのは ≪いま・ここな
るわれの現実存在において≫とも 容易に言い換えられます。
≪いま・ここに神はいない≫という命題は 無神論者の神観です。
すべては≪非知≫をあつかっているからです。そういう想定として
定義しているという意味です。
人間の心理や思わくの隙を縫って この場合 哲学はおのれの務め
を 狡猾にも 果たしている。と――自分のことながら――見てい
ます。
ちょっと長くなりますが そのように定義しますと たとえば次の
ように世界の神観がすべて交通整理され得ると考えますが どうで
しょう。
A. ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我
B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
無梵:空(シューニャター)・ゼロ
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
/ マハーワイローチャナ(大日如来)
仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)
D. クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
E. (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
F. 《もののあはれを知る》
霊:かみ(自然および超自然)
霊:われ(自然本性)
G. ユダヤイズム:霊霊一如
霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
霊:われ
H. イスラーム:霊霊一如
霊:アッラーフ(イラーハ=神)
霊:われ
☆ みな 同じひとつの類型だという意味です。≪非思考の庭≫
が このような一般類型としての≪梵我一如≫として成り立って
いるという見方です。
このように≪普遍神≫を理論づけ得たとするなら 世界の人びと
の心におけるやすらかさに貢献できるとも自負しています。
再度のご回答をありがとうございます。
疑問に思ったところをまたお聞きします。
>会えなかったけれど会えたであろう人間とその数は そこに同時代人として生まれ生きた人間は決まっていますから あとは確率の問題になるかと。
仰る通りなのですが、この部分はまた「補足」として皆さんに問いたいと思います。
>★ 人は「無」というイメージを持つことができますか?
☆ 想像することはできますが 或る一定の決まった(人びとが共有しうる)イメージは 必ずしも持つことはむつかしい。
想像することが出来る、と、イメージを持つことができるは違いますか?必ずしも普遍的に共有しうる同一のイメージではないにしても。
>人間は 百年内外でたいていは死にます。つまり 限りなく生きたという人はいないのに じつに言葉として≪永遠≫という概念を
持ちました。
>この永遠にしてもそのイメージは 持つことがむつかしい。持ち切ったというイメージはないでしょう。
>でも かんたんにこの≪永遠≫という言葉は 使っています。
「無」というイメージが持てないことを不思議に思っていますが、「永遠」というイメージを持ったことはない。それはきっと「無」は空間的な概念で、「空間」は視覚的なものです。一方「永遠」は時間的な概念で、誰も「1時間」というイメージを持つことはできないと思います。
後半のA~Hまでの説明部分はおもしろいですね。ブッダとブッディズムって違うんですね。「梵我一如」って仏教の言葉かと思ってました。ただ、素人のわれわれにはもう少し用語説明が欲しいですね。
No.8
- 回答日時:
最初に、「知らない」の意味について、
a.存在は知ってはいるが、どういったものであるかを知らない。
b.存在しているかどうか自体を知らない。
2通り挙げておきます。
1.
>「わたしは何を知らないかを知っている」という命題は成立するでしょうか?
:
a ⇒成立する。
b ⇒成立しない。
2.
>「わたしは知らないものを知ることはできないか?」
:
a ⇒知ることはできる。
b ⇒知ることはできない。但し、偶然の結果として知ることはできる。
3.
>「あなたは何を知らないかを知っているか?」
:
a ⇒知っている。
b ⇒知らない。あるいは、知り得ない。
4.
>「わたしはなにを知らないか?」を知ることができないのは何故か?
:
[ b.存在しているかどうか自体を知らない] 場合は、当然、知ることができません。
「○○を知らない」と言った時点で、すでに「○○」について言及しているわけですから、「存在しているかどうか自体を知らない」という前提に矛盾してしまうからです。
たとえば、ヒッグス粒子が想定、あるいは発見される以前の世界で、「わたしはヒッグス粒子を知らない」と言うことはできないでしょう。
5.
では、「神を知らない」の場合はどうか。
神の定義にもよるのですが、アラーやキリストなど名を冠せらた、何らかの力を意志的に発揮できるような神、のようにひとまず規定しておきます。
この場合、アラーやキリストを見たことが無いかぎり、
a.存在は知ってはいるが、どういったものであるかを知らない。
と言うことはできないでしょうから、
b.存在しているかどうか自体を知らない。
と言っていることになると思います。
神がいるともいないとも証明できない現段階において、これは論理的に整合性が取れている。
ここで、大辞泉の語釈から引用してみますが、
「未知」
まだ知らないこと。また、まだ知られていないこと。
「不可知」
人知では知ることができないこと。
です。
この両概念、現時点で知らないという点では共通していますが、「未知」の場合、「将来的には知ることのできる可能性が高い」と前提されていることがわかります。「不可知」はその逆で、可能性が全くと言ってよいほど前提されていない。
神に関して、存在を信じたい人にとっては「未知の存在」であり、まさか存在するはずは無いだろう(しかし、存在しないとも断定できない)と考える人にとっては「不可知の存在」と表現することになると思います。
「神を知らない」と言う場合、
b.存在しているかどうか自体を知らない。
という意味にならざるを得ないことは先述いたしましたが、未知か不可知かは趣味的な問題になる。
ただし、このように【神について [ すでに ] 取り上げている時点】で、「非知」という概念を適用するのは不合理でしょう。
知っているいないに拘わらず、知っているかいないかの対象として取り上げられてしまっているわけですから、「知に非ず(あらず)」とは言えないし、「未知」あるいは「不可知」と言えば、それで十分でしょう。
論理的整合性はありませんが、あえて「非知」と表現する意味があるとするなら、「神は畏れ多い存在であり、所詮、人間の思考に収まるようなものではない」という印象を植え付けようとすることぐらいじゃないですかね。
素人なので一貫性のある記述にはなっていないかもしれませんが、その辺りはご寛恕のほどを。
こんばんは、ハコブルさん。
非常に単純明快なお答えを頂きました。
>最初に、「知らない」の意味について、
a.存在は知ってはいるが、どういったものであるかを知らない。
b.存在しているかどうか自体を知らない。
と、「知る」を2種類にわけて、それぞれの命題について当て嵌めていってくださったわけですが、わたしの引っかかっているのは、
>b.存在しているかどうか自体を知らない。のようです。
お答えの4)で明らかにされているように、[存在しているかどうか自体を知らない] 場合は、当然、知ることができません。
ただ、わたしは時々、「この世界にはいったいなにがないんだろう?」と考えることがあります。また上にも書いたように、「わたしはいったい誰に出会わなかったんだろうか?」と。
「わたしは何を知らないか?」は、例えば、世界中の「モノの名」「作品名」「人名」「地名」「理論」。。。等々を一つの円の中に集めて、「知ってる」「知らない」と分けてゆけば、「知らないもの」がわかる理屈ですが、やはりなにか「存在しているかどうか自体を知らない」モノ(ひと)のことを考えてしまいます。
これってどういう心理なんでしょうかね?
お付き合いくださってありがとうございます。
No.9
- 回答日時:
№6のご意見は、おそろしく本源的なものに思えます。
ご質問の中の「知る」は、理性的に認識するという意味であると思います。
この「知る」を前提にした場合、「不可知」という概念が存在しうると思います。
「非知」という概念は、私はいまだによくつかめませんが、いずれにしてもやはり
答えは出ないと思います。
「理性」とともに人間が持っている「直観知」を両輪として認識できたときに、こ
の禅問答の答えが出てくるのでは「なかろうか」と思いました。
こんばんは、ニャンポコさん。
>ご質問の中の「知る」は、理性的に認識するという意味であると思います。
いや、そうでもありません。もっとこう漠然とした「感覚的」なもののようです。
「この世には今いったい何がないんだろう?」というような甚だ、「非・理性的」な感情です。
よく「まだ見ぬ人」って言いますね。あれのバリエーションなのかなとも思います。
「わたしはいったい誰と出会っていなかったんだろう?」という気持ち。
「わたしが出会わなかった人は誰なんだろう?」という思い。
昔から孤独でしたからね、こういう妄想めいたものが出てくるのかもしれません。
ニャンポコさんの「直感」についても参加したいのですがなかなか考えがまとまらなくて。
お付き合いくださってありがとうございます。
No.10
- 回答日時:
質問の回答では無いですが、「不可知」とは、人間がその一部を認識できる「世界」全体に対して、認識出来ない部分を意味すると思います。
(認識外に存在すると想定される部分)それに対して、「非知」とは、その一部分すら認識出来ない存在を意味します。(認識外に存在する事もわからない)
人間が、「世界」の全てについて、その一部分を認識出来ると考えれば、「非知」は「世界」には存在しないものと考えられます。
「未知」は、現在及び過去で認識出来ないものですが、それは未来で認識できる「世界」に存在可能なものです。
こんばんは。
「神」が「不可知」か「未知」か、或いは「非知」かで、ハコブルさんとぶらじゅろーぬさんの意見の相違がみられますね。
ハコブルさんの意見は竹を割ったように分かりやすい。実に論理的です。
ぶらじゅろーぬさんの「非知」も、わかりにくいですが、既存の概念だけでは哲学としての魅力に欠けるとも思います。
知的で個性的な人がもっと「哲学」の場にいて欲しいと思います。
わたしが「出会わなかった人はだれか?」は永遠の非知ですかね?(苦笑)
お付き合いくださってありがとうございます。
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「わたしはなにを知らないか?」を知ることができないのは何故か?
No.3 yy8さんの回答への補足。
>わたしはなにを知らないか?」を知ることができないのは何故か?
>「なに」に物、事を入れて見ないから知ることができないのでしょう。
「なに」に物、事を入れて見れば知るか知らないか、を知ることができるはずです。
これもその通りです。「なに」に具体的な名詞を入れればいいことです、それを知っている、しらない。
しかし「わたしはこれまで誰と出会わなかったか?」を知ることはできるか?と問う時に、この「誰」のところに「鈴木さん」とか「竹内さん」という名前を入れれば、それはそうですが、わたしが過去に会わなかった「未知の人」が、鈴木さん36歳女性、ということは、どのように知れるのでしょうか?
yy8さん、もうさじ投げていいですよ。
「わたしは何を知らないか?」は、何を知らないかを「特定」できない限り知り得ない。か・・・
このような問いを受けたものは
「○○って知ってる?」「××って知ってる?」と片っ端から名前を挙げてゆき、わたしは「知ってる」「知らない」と答える。
そして最後に「あなたはあなたの知らないものを知ってる?」という問いが為されたら?
わたしにはまだ出会ったことのない誰かがいるような気がする。また過去に出会うことになかった人がいたような気がする。
「神」が全知全能であるなら、神はなにかを「知らない」ということを知っているでしょうか?つまり「無知」という状態を理解し得るでしょうか?
また神の描いた絵、神の作った曲は全ての人に愛されるでしょうか?
過たない神であるなら、何故人の痛み、悲しみを知ることができるのでしょう?
「全知全能」ということについて、たしかパスカルだったか、
『神は自分の跳び越すことのできない壁を造ることができないから全知全能ではない』というようなことを言っています。
パスカルは熱心なクリスチャンです。神が「全知全能」ではいけないのではないか?
神を愛するとは「完璧なものを愛する」ということなのか?「あやまつ」という「人間味」のない存在を、人間は愛し得るのか?
「人間を超えた存在だからこそ」その超越性にわが身を委ねるのだろうか?
死せる魂を不死の船へ。
禅問答的「未知」「既知」「非知」考 に回答をお寄せ下さった皆さん。わたしのとりとめもない妄想に長くお付き合いくださりありがとうございました。
改めていただいた回答を読み返してみましたが、みなさん様々な角度からお考えを示していただき、
それに甲乙をつけることが出来ませんでした。
基本的にベストアンサーを決めずに締め切ることはしないのですが、今回は質問の特異性とうこともありご容赦ください。
ご回答いただいた皆様に改めてお礼を申し上げます。お付き合いありがとうございました。