1. 特に経験世界を超えた場として想定されることになる≪神とは何か≫について
哲学するには この仮説法がふさわしい。のでは?
2. すなわち 次の図式で説明しうると思います。
Deduction: Rule→ Case→ Result
(演繹法: 大前提→ 小前提→ 結論)
Induction: Case→ Result→ Rule
(帰納法: 小前提→ 結論→ 大前提)
Abduction: Result→ Rule→ Case
(仮説法: 結論 → 大前提→ 小前提)
3. なぜなら 演繹法も帰納法も 一般にあくまで経験世界におけるものごとを捉
えて議論を展開するしかないと考えられるからです。
4. 帰納法は 経験現実の一つひとつの事実およびその認識を取り上げ積み上げて
行った帰結について 概念を抽象して理論立てをおこなう。
5. 演繹法は 理論立てを初めに持って来ると言っても それが経験事象について
捉えた基本的な要素を整理したものであることによって なかなか経験世界を開いた
かたちでは捉えがたい。
6. いっそのことすでに初めに経験世界を開いたかたちで思惟を展開する。そこに
仮説を形成し理論づける。という出発点に立って始めればどうか?
7. いづれの方法であっても まづは――相対的な主観真実〔とその共同化〕とい
う域を出ないかも知れないのだけれど―― その方法による理論が現実世界を説明し
ているなら よしとされる。はずであるのだから。
8. 仮説法は アブダクションですから すでに初めに結論を掻っ攫(さら)って
来ている。結論の拉致が初めに来る。ようなのですが。
例示を省きましたが よろしくどうぞご見解をのべてください。
9. 神は 非知である。といった仮説法の例示をはぶきました。すなわち 神は想
定するよりほかに捉えがたいという訴えをそこに含むものですが。
A 回答 (15件中1~10件)
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No.15
- 回答日時:
ちなみに、ニーチェとスピノザの絶対的な差異は、ニーチェが運命が不合理である事を認めるのに対して、スピノザは個々(局部的)には運命が不合理に見えても、全体では合理的に調和していると考えている事です。
その他にも、スピノザが自己保存性を生命の本質的に持つ性質と考えた事に対しても、ニーチェは、自己保存性は、「力への意志」を衰弱させるとして批判しています。
ニーチェに関しては、実は批判はしても、その中にキリスト教的なものもあれば、ヘーゲル的、スピノザ的なものが存在しています。
一種のコンプレックス状態とも言えるので、晩年の思考の混乱も、疾病の為とは言え、その思考の複雑さに原因があったのかもしれません。
一見すると、何者も信じないような強い意志を感じますが、ニーチェ自身が、信じられる何かを追求しようとしていたのかもしれませんね。(そう考えると、何者にも影響されない「超人」は、ニーチェにとっては見果てぬ夢だったのかもしれません)
ニーチェは それにしても厄介ですね。
りゅぱん344さんは かなりすんなりと受け留めておられるよう
ですが。
合理も不合理も 自由も不自由(その意味での運命愛)も 強気も
弱気も みんなごちゃまぜであるように見えます。
★ 何者にも影響されない「超人」は、ニーチェにとっては見果て
ぬ夢だったのかもしれません
☆ うつくしい言葉で受け留めてやっておられます。
口のわるいわたしとしては 神にしても信仰にしてもそのオシヘと
それによる文明(オシヘにもとづく人間関係)にしても 捉えたよ
でいて まだまだよく分からないので そのゴルディウスの結び目
を一刀両断のもとに切って処理するというような手段に この≪超
人≫を持って来た。
つまり 解決には成っていない。としか まだまだわたしには見え
て来ません。
というのが 正直なところです。
りゅぱんさんにしても 聖書ないし神論を哲学として捉え切ってお
くという作業を 失礼ながらまだ やっておられない。
もちろん これまでの成果について満足しておられるのかも分かり
ませんが そこのところは 何とも歯がゆいですね。
有神論と無神論とは まったく同じであるという視点(そして 新
説)だけとしても 何とか成らないでしょうかねぇ。普遍神の理論
ですね。
ご回答をありがとうございます。
勝手をもうしていますが。
No.14
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
ニーチェのスピノザに対する評価に関しては、スピノザの神が全ての運命をつかさどる事によるのでしょう。
スピノザにとっての神は、全ての存在とその関連性の全てです。
つまり、それは運命そのものだと言う事です。
スピノザは、自身が神の一部であり、運命の一部である事から、神への最大の愛を感じると述べています。
つまり、それは、ニーチェの運命愛と同じ事を意味します。(ニーチェが運命を必然と考えたように、スピノザにとっても運命は必然であり、それはそのまま受け入れるべきことだと言えます)
ちなみに、ニーチェもスピノザも本質的な人間の「自由意思」というものは認めていません。
スピノザにとっては、人間が「自由意思」と呼んでいるものは、すべて「神」のもとにあり、幻想や夢のようなものだと考えています。(「自由意思」とは、現象に対する行動を生み出すものと考えてください)
ただし、人間の精神の内に生ずる感情は、個々が自由にもちうる事と考えています。
ニーチェもスピノザも、運命とはあくまで現象として捉えています。(それをどう受け取るかは、個々の自由な感情だと言う事です)
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。
まづ先に 自由意志を取り上げます。
すでに次のようなルネサンス人からの≪宣
言≫が出されていることには
注目したいと思います。:
▲(ピコ・デッラ・ミランドラ:arbitrium(判断・自由意志)~~
《汝(=アダム)はいかなる制約によっても抑制されないで わたし
(=神)が汝をその手中においた自由意志にしたがって自己を決定す
るのだ。
わたしは世界の真中に汝をおいた。それは世界の中にあるすべてのも
のをそこからいっそう容易に考察するためである。
わたしは汝を天のものとも地のものとも 死すべきものとも 不死な
るものとも造らなかった。それは汝が自由で名誉ある造り主また形成
者のように 自分が選んだどのような形にでも汝自身を造りだすため
である。汝は堕ちて獣の世界である低次のものとなることも 神的な
ものである高次のものに自分の心の判断により再生されることもでき
る》。
(『人間の尊厳についての演説』――金子晴勇よりの孫引き)
△ Oration on the Dignity of Man
https://ebooks.adelaide.edu.au/p/pico_della_mira …
~~~~~~~~
☆ スピノザもニーチェにもピコを知らないとは言わせないわけです。
マッキャヴェッリも 運命に逆らいそれをあやつるというまでのこと
を言っていたとか。
★ スピノザにとっての神は、全ての存在とその関連性の全てです。
つまり、それは運命そのものだと言う事です。
☆ そのようであり得ます。信仰とは そういうものです。
自由意志の発揮があるとしても それすらも 神の恩恵――その意味
での運命――のもとにある。という解釈と表現は あり得るからです。
ただ 経験的な思惟と行動とは それがつねに恩恵≒運命に従うとい
ったことはおそらく人間に無理ですし そういう意識を持ち続けるこ
とも無理ですし さらにはそういう意識と自覚をたとえ持ち続けたと
してもそれが 神の恩恵のもとに従っているかどうかは まったく分
からない――ことだと思われるからです。
ここまで 話を推し進めている必要があった。
ピコの自由意志論があったあとであるならです。
ニーチェは りゅぱん344さんのご議論を参照しつつ 見守ります。
No.13
- 回答日時:
よくよく考えたら、スピノザの演繹法は、その大前提が神の存在=神の定義からはじまっていますから、それが仮説だとしたら、仮説法に近いかもしれませんね。
ただ、スピノザの神の定義は、キリスト教的な単一神が別に存在するという形では無く、全ての存在が、神の一部であり、神とは、全ての存在の関連性を含めた全体を意味すると言うところに違いがあります。(この定義のせいで、スピノザは最大の(キリスト教にとっての)無神論者とされました)
ヘーゲルも、キリスト教からは、何回も(キリスト教にとっての)無神論者と批判されましたが、あくまで本人は敬虔なクリスチャンだと弁明していました。
ご回答をありがとうございます。
《神すなわち自然( Deus sive Natura )》
これをわたしは単純に ≪単一神の遍在≫といったように解釈します。
▲(ヰキぺ:スピノザ) ~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC …
§ 2.2 存在論・認識論
神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである。
神とはすなわち自然(この自然とは、植物のことではなく、人や物も
含めたすべてのこと)である。
神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神に
おける二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられ
る一側面)としての思惟と延長とに他ならない。
~~~~~
☆ 遍在の仕方は 神と人についてなら そこに相似性を見ると言
っているというようにです。
ところで 次のような評言はどうなんですか?
● (ニーチェとスピノザ)~~~~
http://yojiseki.exblog.jp/7527243/
1881年(7月30日=永劫回帰発見の直前)のニーチェのスピノザ
評は以下です。
<僕はすっかりびっくりして、うっとりしているんだ。僕には先
駆者がいたんだ、なんという先駆者だろう。
僕はほとんどスピノザを知らなかった、僕がいまスピノザを(読
んで)認めるまで。………彼の説の五つの主要な点に僕は僕の姿
を見た。この最も異質な最も孤独な思想家は、まさに僕にもっと
も近いのだ。
………つまりだね、高い高い山に登った時のように、ときどき僕
の息を苦しくさせたり、僕の血を流させたりした僕の孤独が、す
くなくとも(スピノザを読んだ)いまは、二人連れの孤独になっ
たんだ——不思議だね!>
(ニーチェ。1881年7月30日、オーヴァーベック宛て書簡、
ちくま学芸文庫『ニーチェ全集』別巻一、p500参照)
スピノザとニーチェには、神への愛と運命への愛、コナトゥスと力
への意志、隠者=ツァラツストゥラといった相似点,論点が見出せ
ます。
・・・・
~~~~~~
☆ さっぱり分かりません。
No.12
- 回答日時:
補足ですが、ヘーゲルにとっては、「絶対知」は、究極の到達点ですが、そこに達した時に、それを歴史として認識する事になります。
つまり、ヘーゲルにとっての哲学=宗教は、「絶対知」に向かう歴史的活動であり、歴史の終わりからはじめる「信仰」とは、立ち位置が違う事になります。
ご回答をありがとうございます。
★ ヘーゲルにとっては、「絶対知」は、究極の到達点ですが、
そこに達した時に、それを歴史として認識する事になります。
☆ ≪それを身につけている――言わば〈絶対知〉なる実存(?)
――≫でしょうか。
でも 少し勝手な解釈をすれば すでにこの絶対知のことを自
己表現する段階にまで来たのですから そこから歴史を始める
のも よいかと思われます。
歴史の終わりの地点に立って 世界に相い向かう。というよう
な。
どうしても我が田に水を引こうというような・・・。
No.11
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
ヘーゲルにおいては、「精神」と「神」は、お互いの「認識」において、相互作用するので、ある意味「神」からの働きと言うのは存在しています。(啓示宗教においては、「神」は人間に作用しないと、その「存在」は無いからです)
ヘーゲルにおいては、一方的に与えられると言う行為は無いですから、お互いに、外化・回帰を繰り返して、その存在を認識する事になります。(これは、「神」が外化する為に、精神で認識される必要があります)
キリスト教の聖霊派では、「神」は聖霊を通じて、人間に作用(啓示)するわけですから、聖霊を「精神」と読みかえれば、「精神」が「神」を啓示する事になります。
三位一体の概念図は、「父なる神」、「キリスト」、「聖霊」が中心でつながり、それぞれは、横の線で違う事を示しています。
この概念図の「聖霊」を「精神」に置き換えれば、ヘーゲルの概念と一致します。(ドイツ語では、ヘーゲルの言う「精神」と「聖霊」は共にGeist なので、読み替える必要自体ありません)
ヘーゲルは「精神現象論」と「宗教哲学講義」において、これを哲学的に解析したわけですから、それがキリスト教などの啓示宗教の構造を解析しただけなのかもしれません。(むしろ、哲学の主題としては、スコラ哲学としての、キリスト教の「神」のみを対象としていたので、元々それ以外の神はその対象では無かったと言えます)
ご回答をありがとうございます。
★ 啓示宗教においては、「神」は人間に作用しないと、その
「存在」は無いからです
☆ ええ。≪啓示≫というと 宗教の型を言っていて 正統な信
仰を言っているように聞こえます。
いづれにしましても アブラハム(当時はアブラム)が その啓
示を受けたあとは 何もオシヘは持ちませんでした。
やっとモーセの時代になって 規範ないしオシヘとして律法を持
ちました。これは 社会秩序を維持するためです。
そして イエスによって(新約になって) この律法〔を守るこ
とによって信仰をまっとうするという形式〕は やはり揚棄され
ました。
石に書かれた律法ではなく 心の胸板に書かれた霊のチカラ(つ
まり信仰)によるというかたちへ変わりました。アブラハムの元
に戻りました。
ですから:
★ 「精神」と「神」は、お互いの「認識」において、相互作用
する
☆ というのは アブラハム=イエスの信仰にとっては あり得
ない人為的な思考操作に見えます。
聖霊は 人間ないしその精神ではあり得ません。
精神は われわれが用いるハタラキです。
聖霊は 経験世界を超えたところのナゾです。
霊は ≪息・風≫を表わす語が ほとんどの言語で用いられている
ようです。そのあとで ≪精神≫をも言うようになった。プネウマ
は 息の関係で肺を表わすゆようになった。
精神と聖霊との一体性は 有限と無限との一体性またそれとして
の矛盾ということになります。
精神ないし人間の心は 神ないし聖霊とのあいだに絶対の隔たり
があります。
それゆえにこそ たとえば≪啓示≫といった事件も起きます。
そして 双方の通行ではあり得ません。
人間の想像しつくった観念の神なら いくらでも人間があやつれ
ます。こういう神は 初めから死んでいます。
≪絶対≫と言ったら 絶対という概念のことだけを言うと一般に思
われているのでしょうか?
これをも人間はあやつれると思っているのでしょうか。
これぢゃ 宗教と信仰とはめちゃくちゃに ごちゃまぜにされて
しまっていることになります。困ったものです。
No.10
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
ヘーゲルの宗教哲学に関しては、キリスト教の哲学的発展のヘーゲル的解釈と判断して、それを哲学的に受け取るよりも、人間の精神構造及び、社会構造、宗教構造の分析と解釈する立場の人もいます。
つまり、「絶対精神」と「神」が等しいわけですから、「神」が「神」だと言っているだけで、「神」の存在を人間が「定義」しただけと言っても過言では無いでしょう。(単純に、「神」はそのようなものだと言っているだけです)
ヘーゲルに関しては、哲学と神学を調和させた消極的哲学として批判している哲学者もいます。
キリスト教に、人間と「神」が一体化する志向があるのは確かでしょう。(「神」へ歩み寄る行為が「信仰」と言う事なのでしょう)
ヘーゲルは、「絶対精神」も「神」も理念として認識しています。
その理念は、その無限性から、ある意味完成していないわけです。(「神」の全知も「絶対精神」の全知も増大しつづけているわけです)
最終的な到達点としての「絶対知」はそれらを超えた地点に存在します。(むしろ、これを「神」と呼ぶべきでしょうが、ヘーゲルは、そうは考えなかったのは、それが到達できない「無限」だからかもしれません)
つまり、「絶対精神」も「神」もその過程の中に存在しているわけです。
ここら辺は、スピノザの全存在の総和としての「神」という概念に近い面もありますが、ヘーゲルはスピノザの「神」は存在しているだけで、自らが動かない事を批判しています。
ご回答をありがとうございます。
そうですね。おそらく従来のヘーゲル解釈をきちんと説明してくだ
さっているものと思います。
それと同時に 神論をあたらしく展開したいというコンタンがこち
らにはありますので いまのようなやり取りになっていると思いま
す。
★ キリスト教に、人間と「神」が一体化する志向があるのは確か
でしょう。(「神」へ歩み寄る行為が「信仰」と言う事なのでしょ
う)
☆ そう言われている部分はありますね。
ですが それはあくまで人間の側で用意する≪神≫であり≪信仰≫な
のだと思います。つまり 宗教のオシヘの問題であり 普遍神の問
題ではないのだと。
そもそも信仰は 神のほうから与えられるものです。わづかにその
ような神の訪れがあったときに それを受け容れるという意志行為
として領収証を発行することだけが 人間のわざです。
そうでなければ すべては 人間のつくった神であり信仰になりま
す。
つまりは:
★ ヘーゲルは、「絶対精神」も「神」も理念として認識していま
す。
☆ ということになるでしょうね。
★ 最終的な到達点としての「絶対知」はそれらを超えた地点に存
在します。
☆ ならば 初めからその≪超えた地点≫を思い・しかもこれは 想
定として定義することになります。
信仰の立ち場は 歴史を終わりから始める。となります。
★ スピノザの全存在の総和としての「神」という概念に近い面も
ありますが、ヘーゲルはスピノザの「神」は存在しているだけで、
自らが動かない事を批判しています。
☆ ≪神即自然≫でしょうか。
これは 非知なる神が 非知ゆえ≪遍在≫する――あるいは絶無であ
るとも言いうる――というときの遍在として 或る程度理解が行く
かもしれないのですが。
わたしは ローマ教会の罪を思っています。ニーチェの批判が ど
こか気が抜けたビールみたいになっていることをあかししているか
と思います。
No.9
- 回答日時:
補足と言うか、注意点ですが、ヘーゲルが「絶対精神」から「神」が外化すると分析したのは、啓示宗教であるキリスト教だけで、他の宗教では成り立つ事ではありません。
(ヘーゲルの論理では、キリストの受肉が重要な要素となっているので、これを抜きさる事が出来ません)ご回答をありがとうございます。
確かに きちんと≪三位一体≫論についても 議論していたと
思います。(歴史哲学だったかどっかで)。
あたかも宗教が 低い次元のものから弁証法過程をつうじて
クリスチア二ズムにまで高められたとか何とか。
ただ 鍵となる一点については なおまだ掴みきれなかった
のだと思います。
ヘブル書8章が 旧約のエレミヤ書31:31以降に書かれ
た≪あたらしい契約≫の問題を取り上げています。
そこでは ≪神は すでに人びとの罪を覚えない。忘れる≫
と言い もう一点としては ≪神は すでに神を知れと言っ
っておしえることはない≫と言っていることです。
言わば神は――すでに旧約の頃に――みづからを揚棄する
と言ったわけです。
罪を問う倫理規範の神ではなくなる。
神をオシヘとして受け留めなさいなどといういわゆる宗教
のかたちではなくなる。と。
この点でも 神論について革命が期待されます。よね。
このような民族神のみづからによるみづからの揚棄は け
っきょく普遍神の問題に――すなわち個別および一般絶対
性理論に――おのづから展開されて行くはずです。
No.8
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
まず、ヘーゲルの宗教哲学の考え方については、キルケゴールがその批判において、「神」を人間の「精神」の内にとどめ置いたと語った事から、周囲には「神」が有限化されたと捉えられていた事は確かでしょう。
ヘーゲルは、「絶対精神」が「神」を実体化すると分析したわけですから、「神」が「絶対精神」の全知の中にある事は確かです。
ただし、「絶対精神」は、それ自身を認識し、外化する過程で、無限性を持ちますから、「絶対精神」の全知もまた無限になります。
なお、ヘーゲルの無限反復は、連続する円環の分割なので、数学的には、連続無限であり、加算無限ではありません。(いくらでも、無限に分割が可能な実数になります)
イメージ的に比較して良いのかどうかはわかりませんが、連続無限は、部分においてもその濃度は変わりません。(いくら分割しても、またさらに間に実数が生まれるので、その濃度は変わらず連続無限なわけです)
「非知」は、その定義で言えば、永遠に見いだせないものですが、連続無限はいくらでも現れるので、それは「未知」であっても「非知」では無いです。(全体が見えない(無限)ので、全体は「不可知」かもしれません)
「絶対精神」も「神」も、その全体は「有」であるとしか表現できない存在なのでしょう。
要は、キルケゴールは、人間を有限な存在に固定しているので、「神」は、「絶対精神」と言えども、その外側に存在しますが、ヘーゲルの場合は「絶対精神」そのものが、「神」を外化するので、両方が全知になります。
ヘーゲルの考えでは、「神」は人間の「絶対精神」を媒介として、自分自身を知るので、不可分の関係になります。
これは、一見すると「神」を人間が作り出した存在と受け取られますが、ヘーゲルにとっては、「神」は実在し、人間に啓示する存在として実在し、人間は(宗教)哲学によって、それを無限反復しながら、展開していく事になります。
なお、「絶対精神」とは、一人の人間によって実現されるわけでは無く、歴史的に発展していく精神を意味します。
この点において、ヘーゲルの宗教哲学とは、キリスト教の哲学的発展の歴史学的解釈と同等となります。
これは、ニーチェによって、激しく批判される事になります。
ご回答をありがとうございます。
無限についておっしゃっていることは分かるつもりです。
問題は 二で割っても三で割ってもその商はやはり元の無限である
という神の無限のことですよね。
三つの位格があっても その一つはそれぞれが 全体にひとしい。
そういう無限のことが 神論の問題です。
それ以外は 経験世界における想像物としての神でしかない。とな
ります。
≪絶対精神≫と言っていても むしろ人間の精神がその≪絶対≫を思
考し想像し あたかもそれに成りきるといったような議論になって
しまっていますよね。
★ ヘーゲルの考えでは、「神」は人間の「絶対精神」を媒介とし
て、自分自身を知るので、不可分の関係になります。
☆ これは そのようにやはり≪人間の精神の内で捉えた≫と言って
いるに過ぎない。こうなるはずです。
つまりは 人間の作りなした神のことです。非知なる神とは別です。
≪世界精神≫という捉え方をしても おんなじだと考えます。世界精
神として――歴史の狡知でしたっけ――やはり人間が捉えるところ
の思惟です。
★ 「神」は実在し
☆ といったように無造作に・不用意に≪実在≫ということを言い出
すなら すべて人間がそう考えそう言っているに過ぎないものだと
ほとんど一義的になってしまいます。
いちいち≪批判≫をするほどの問題ではない。と初めから分かってい
るしろものです。よね。
No.7
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
ヘーゲルの場合は、「哲学」と「宗教」はその構造において同一なので、その方法論が違うだけです。
どちらにしろ、人間が超越者や無限などを認識する活動と捉えているようです。(それは、無限反復なので、それを止揚するだけで、それが全ての無に帰結するわけでは無いと言う立場です)
ヘーゲルのカントに対する批判は、カントの方法論では結果的にそれが無に帰結する事です。(仏教的に言えば無記になる事です)
ヘーゲルの立場が、「精神」が超越者の直前にいるか、それと同一視されるかは、研究者により異論がありますが、記述される内容では、直前にいると言う事です。
また、「精神」に対しても、社会的精神と言う概念も導入しているので、それは「個」の「精神」にとどまらず、社会が共有する「精神」が歴史的に、超越者に近づいて行くことも示しています。
ヘーゲルの場合は、「知」による論理的構造がアンチノミー(矛盾)を内包するのが必然であり、それは弁証法により、対立概念を展開する事を繰り返し、それを止揚する事により、認識すると言う形式を取るわけです。
アンチノミーをそのまま理解すると解釈するか、それ以外の方法を取るのかが、ヘーゲル研究者の論点となっています。
素直に考えれば、アンチノミーは弁証法で展開される事により、それが実体化され、止揚されると言う事実から、その立点はあっても、その本質は無限反復の運動自体と言う事になります。
ヘーゲルの言う高い人格とは、その運動性を理解して、矛盾を含めて止揚できる「精神」を意味します。
根本的には、直観と言う概念は無く、それは「知」による無限反復ですから、「絶対」は想定していても、「非知」と言う概念とはちょっと違うような感じもします。
ご回答をありがとうございます。
三点あります。
1. ヘーゲル理解は おそらくりゅぱん344さんの説明になった
ところが そうなのだろうと思います。
そうでなければ もっと≪非知≫もしくはそれと同じ内容の理論が人び
とに受け留められていたろうと思われるからです。(変則的な理解で
すまないことですが)。
2. わづかにお示しした法の哲学の講義録は やはり非知ないし非
思考の庭の観点を示唆し得ているとは考えます。
3. ★ 無限反復
☆ といった事柄が出て来ます。これも ヘーゲル理解としてそうな
のだろうと考えます。
ということは 非知の定義の仕方をしっかりとは知らないでいた。つ
まり ヘーゲルはです。
いわゆる可能無限ですよね。ゼロならゼロに無限に近づいて行くとい
うやり方で あたかも真理に限りなく近づくといった≪精神の対自か
つ即自的なあり方 ないし絶対精神≫の捉え方であろうと思われます。
これは それとして精神の修養になるかも分かりませんが 非知なる
神とは 似ても似つかないものです。どこまで行っても 人間の精神
という範疇の問題ですから。
であるからには ≪無限と有限との一体性という矛盾≫の問題 これが
≪非知なるナゾを心に受け容れたところに成る非思考の庭≫つまり信仰
の主題であると考えます。
受け容れる対象は 超経験であり 受け容れるというコトは 人間の
意志行為であり経験事象である。という或る種の矛盾です。
★ 「知」による論理的構造がアンチノミー(矛盾)を内包するのが
必然であり、それは弁証法により、対立概念を展開する事を繰り返し、
それを止揚する事により、認識すると言う形式を取るわけです。
☆ このアンチノミー(矛盾)は あくまで思考ないし精神の領域の
内にあります。弁証法の過程もそうです。
次のご評言と 見方を同じくし得たと言ってよいでしょうか。
★ 素直に考えれば、アンチノミーは弁証法で展開される事により、
それが実体化され、止揚されると言う事実から、その立点はあって
も、その本質は無限反復の運動自体と言う事になります。
No.6
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
ヘーゲルにとっては、認識されていない物は全て仮説(仮象)ですから、最初は仮説で良いと思います。
弁証法により、仮象は意識に認識されると言う事になると思います。(仮象が意識の「世界」に取り込まれて、意識がそれをまた外的存在として、実体化すると言うような事なのでしょう)
「精神」の認識に対するしくみが、「精神」にとっての「世界」を構成する考えですから、これは観念論です。
ただし、これは「精神」にとっては、実体を持った「世界」であり、そのようにしか「世界」は認識出来ないと言う事を意味しているだけです。
アンチノミーは無限反復(これは振動であり、それを平面に展開すれば円運動となります)であり、円運動を続ける事を意味します。(ニーチェの永劫回帰も、これに似た考えであり、直線的な無限では無く、永遠に続く円運動を発想したものでしょう)
ヘーゲルも、読み解くのは難しいです。(基本的には、精神を一元化して、「世界」認識が実体や超越者を認識出来ると言う考えだと思います)
デカルトが、意識の有限性から、その外側を認識しようとした事に対して、ヘーゲルは意識の運動により、「世界」を一元として認識出来ると考えていたようです。
カントの場合は、理性とは何かを批判的に検証して、その限界を明らかにしたわけです。(アンチノミーが存在する)
ご回答をありがとうございます。
仮説法を 神論の場合に限定していいでしょうか。
○ 《非思考の庭》の想定 ~~~~~
[+α]:非思考の庭(クレド=しんじる。ヒラメキ)
________________________
[心]:思考の緑野(コギト=かんがえる)
[身]:感性の原野(センスス・コムニス。直感)
~~~~~~~~~~~~~~
☆ ふつうは [+α]→(ヒラメキ)→[精神]という方向であり
その内容であると見ます。
ヘーゲルらは ぎゃくに[+α]←(仮象としての思惟)←[精神]
という方向と内容を捉えています。
いづれも:
▲ 空しい蒸気となって消えてしまう
▼ 撃退されて はね返される
☆ そのあとに仮象としての思惟があたかも残るのだと。
これゆえ ≪非思考の庭(≒非知なるナゾ=非経験の場)≫はすでに
次元を異にしており それだから 仮説法で説こうとして≪想定≫し
ているのだと。
★ ヘーゲル:「世界」認識が実体や超越者を認識出来ると言う考
えだと思います
☆ そのようですが この場合あくまで≪認識≫――経験合理性によ
る言葉化とその妥当性の追究――だけでは あやふやだと見ます。
人間の言葉によっては その表現が 一対一に対応することが分か
らないナゾを相手にしているからにはです。
想像物たる観念としての表現とも違います。
なぜなら 想定した非知は 想像や思考を超えている相手であるか
らです。
でもヘーゲルは すでにお示ししたと思いますが 次のように言っ
て ≪非知なるナゾ≫を想定しているかと考えますが どうでしょ
うか。:
▲ (ヘーゲル:法の哲学の講義録より) ~~~
無限なもの([+α]と 有限なもの(身と心)との一体性・・・
この矛盾・・・は
どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない
ないしはこれを 我慢できないであろうが
この矛盾を持ちこたえることができるのが
人格(もしくは《わが固有の時間》ないし≪非思考の庭≫)の高さ
である。
(『法の哲学』 §35追加 藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
~~~~~~~~~~~~~~
カントは このヘーゲルのように信仰に席を空けておいたとは思
いますが。
デカルトは アウグスティヌスの二番煎じで ニーチェは 文学
作品だと思います。(字数制限にて)
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神に対する大いなる勘違い
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▲(ヘーゲル:絶対知) ~~~
この美しき魂は 純粋な透明な統一において 自己自身を自ら知ることである。
すなわちそれは 純粋自己内有についてのこの純粋知が 精神であると知ってい
る自己意識である。・・神的なものの自己直観でもあるような自己意識である。
この概念は その実現に対立して固定されるときには 一面的な形態である。われ
われが見たところではこの形態は 空しい蒸気となって消えてしまうが 積極的に
外化し進んで行くものでもある。
(『精神の現象学』 樫山欽四郎訳 1973 F 八 (554))
▼(アウグスティヌス:非知について) ~~~
到達する人自身がそこに留まるのではなく その眼差しそのものは言わばそこで
撃退されて はね返され そして移ろい行かないもの(非知)の移り行く思惟が
生じるのである。
(『三位一体論』 中沢宣夫訳 1975 vol.12 ch.14 )
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