プロが教えるわが家の防犯対策術!

ちょっと本当に分からないので教えてください
個人的には
絵を見れば、面白い絵だなとか、こう考えて書いたのかな?とか考えて見ます
彫刻はよく分からないですが、同じ感じで見ます
ごくたまに美術館に見に行く事はありますが、それだけです

そこで質問なのですが、現代アートだけは意味がわかりません
ある作品の意味が分からないという話ではないです
まず、現代アートの定義がよく分からないのです
古典西洋美術ではない物である という事なら、それはなんとなく分かります
では現代の人が古典美術に似た絵を描いて、現代アートだと言った場合は?
そもそも古典の西洋美術との差は何か?

とある物でアートと美術は別である、美術は技術系の話で、アートは概念系の話だ
技術は金で買える、と言ってたのを見ました
それを言ってた人に、私はあなたの言ってる意味が分からないと言いましたが
アートから技術として金の部分を引いたら何が残るのですか?
アートの部分も金で買える物なのではないでしょうか?

現代アートは自由でなくてはならないという話も見かけた事ありますが
際限の無い自由はただの不自由ではないのか?

芸術には批判が必要だと言ってる人が居ましたが、これはそもそも必要なんですか?
必要だという話は、自由ではないのでは?
そもそも批判は何で必要なのか

調べれば調べるほど、アートと言っておけばいい一発屋の集団に見えてしまいます

これを見りゃ分かるんじゃないか?という本とかでもいいです
狭義の現代アートの定義を教えてください

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    >「アート」と呼ばなければいけない「必然性」を持つのが、「現代美術(アート)」だと言う事です。
    アートと呼ばなければいけない必然性 というのは何なんですか?
    私が女の子だと思われるキャラ書いて、「これは現代アートだ」と言えば済む話?

    >既成概念に対する批判や
    うん、だからその批判て現代アートに必要な物なの?構成要素なの?って話で

    >あらゆるものに対する主張を内包しているものであり
    あらゆるものというのは言葉のあやでしょうからスルーしますが、主張する事は物を作れば主張になるはずで
    じゃあ「アートではない物を作ってるのとアートは何の差があるの?」となると思うけど

    >鑑賞者になんらかの「衝撃」や「問題意識」を生み出す物とも言えます。
    衝撃や問題意識が生まれなかったらそれは現代アートではないと?

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/19 03:45
  • うーん・・・

    >アーチストの技量が乏しかったり、「鑑賞者」の意識の乏しさにより、それは単なる「ゴミ」にも成りえます。
    アーティストが現代アートと言って作ってもですか?
    マルセル・デュシャンは便器にサインして作品としたのに、ゴミになるので?

    >「批判」うんぬんは、芸術をアナーキズムと捉えてる場合は、そこに何らかの「批判」が存在すべきと言う事でしょう。
    ここはちょっと分かった気がします
    アナーキズムとしては批判が必要だけど、だからといってそれは現代アートではない?
    だから別?

    私が書いたのが大枠で合ってるとすると
    定義もなにもされてない、自分が作ったか他人が作ったかも関係無い
    そういうよく分からない物に現代アートと言っておけば、それは現代アートだ
    という事になると思うんですが

      補足日時:2016/06/19 03:46
  • うーん・・・

    個人的には
    >作り手がアートだと主張して、受け手がアートだと思えば、それはアートになると言う事です。
    という話は、なんとなく意味はってると思いますが
    それはアートという言葉の定義が出来てれば言える事です
    Wikipediaより「アート」
    1 間接的に社会に影響を与えるもの
    2 芸術
    3 美術
    美術や芸術の中にアートは含まれるっぽく書かれています
    ただ、現実的には芸術や美術っぽくなくてもアートという言葉はついてるし
    あれはアートじゃない(類似含む)、「美術とアートという言葉を区別して使う奴」
    なども居るし
    「>作り手がアートだと主張して」だと
    別に社会に影響が与えられなくても本人がアートだと主張すれば良い事になってしまう

    あきらかにアート云々という言葉を使ってる人は、その人の中だけで定義して使用してますよね
    では実質でアートというのはどういう定義なのですか?って話です

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/21 14:07
  • どう思う?

    回答ありがとうございます
    ちょっと考えをまとめ直してみました
    こういう認識でいいのか教えてください

    アートは美術を内包しているが、美術と言われなくてもアートと言われる物がある
    アートはどちらかというと概念的な意味が強い
    何かの意図を持って製作者が作り、それ見た人に心理的変化がある事(驚き、興味、好意、嫌悪など)
    両方が存在してアートである(片方だけではアートとは言えない?)
    アートと自由さは関係無い(自由じゃなくてもアートはある)
    アートと批判は関係無い(作品内容として批判があると面白い、などの話は別問題)
    作り手側と受け手側の個人的な経験によるので、アートというものの定義は難しい
    ですかね

    そこに上乗せして、現代アートというのはそれまでのアートが分からないと理解しづらい
    理由はデュシャンの所で概念を重視したため、下地となる知識が必要になった
    という所なんでしょうか?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/27 21:02
  • うーん・・・

    >コンテンポラリー・アートに関していえばそう言えると思います。
    ふと思ったというか、やっぱり疑問なのが、古典、近代、現代の区別です
    コンテンポラリー・アートは近代や現代にしかないと思いますが
    現代で印象派と呼ばれる感じの油絵を描いた場合、何というのでしょうか?

    >個人的には、眼差しが「あるもの」をアート足らしめる、受け手の意識の問題だと思います。
    うーん、提供者が存在しない状態が想像できないです
    「アートとは「それ自体」ではなく、われわれ(提供者(デュシャン)と見る人)が「そこ」に注ぐ眼差しである」
    と読めたのと
    >河原の石ころをアートとして売っていた
    この例で言うと、石ころが河原にあった状態はアートではなく
    持ってきて売るという行為が入ってアートになったのでは?と思います
    変な石が河原にあって、それを見てアートと思うかと言われると、うーん、なんとも言えないかなと

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/28 20:48
  • >この場合の自由というのは、「表現の自由」という意味だろうと思います。<中略>それに従っていては最早アートではありません。
    なんとなく意味は分かりました
    ただ、もはやアートではありません、という所はちょっと言い過ぎのような
    脱線しますが、個人的には「制限があって(金、方法、自分と他人が違う存在、その他色々)それを飛び越えて何かを伝えるのがアートなのでは」と考えたり
    自由とは言うが、100m走はコースが決まっていて、タイムを計るのが必要で
    走る道が決まってない徒競走(100m走)は意味があるのか?と考えてしまったり
    表現者としては表現する方法の自由度が必要と言うのは分かりますが、不可欠かというと個人的には同意できないです

    >モーツァルトを聴いて心地よい、モネを観てきれいだと思う、ミロをみて笑ってしまう、それで充分だと思います。
    これは了解です

      補足日時:2016/06/28 21:43
  • うーん・・・

    >デュシャンの「見出されたもの」=男性用便器だって、単純に面白がれればいいんです。<後略>
    これについては、ちょっと考える所があって
    村上隆さんが重層化という言葉を使って説明してる部分がありますが
    それが現代アートと言われる物なのかなと思った事があります
    この重層化されてる物を理解するためには、何に対する表現の層があるか理解してないと分からない
    一般的な人は人生経験などから自分の中で印象という物を作るけど
    専門で見てる人は他のアートの意味を考えた経験も含めて印象を作っていて
    その差が現代アートを理解出来ない差なのかなと考えた事はあるんですが
    では、これが現代アートとそれより前のアートの違いなのかというと、それはやっぱり違うんじゃないかと
    じゃあ、現代アートと昔の西洋絵画の違いは?日本画との違いは?
    油絵や日本画で現代の人が現代の題材で古典ぽく書いた物は現代アート?
    となって悩んだのです

      補足日時:2016/06/28 22:03
  • >「印象派」というのは、絵画のスタイルです。技法です。<中略>何故なら、実時間で「印象派」と呼ばれた一連の画家たちはもういないのですから。
    印象派と言われる物は、当時の環境も含めて存在しているわけで
    それは現代では存在できない
    現代だと印象派風という形になるという事でしょうか?

    重層化についてはここらへんでちょろっと話が出てます
    http://togetter.com/li/391315
    あとはニコニコ動画で講座っぽい動画上げてましたね
    >現代のアートはそれだけ外付けの「意味」や「付加価値」を加えなければ
    賛同は出来ないのですが、その構造はなんとなくは分かります
    濃い方が好まれるのは普通ですし、物の濃さという事だと付加価値が必要という話だと思います
    ただ、濃いのを初めての人が好むかというのは別かなと

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/29 21:14

A 回答 (7件)

こんばんは。



>やっぱり疑問なのが、古典、近代、現代の区別です
コンテンポラリー・アートは近代や現代にしかないと思いますが
現代で印象派と呼ばれる感じの油絵を描いた場合、何というのでしょうか?

「印象派」というのは、絵画のスタイルです。技法です。ですから、現代のアーティストがモネのような画を描いたら、印象派風(印象派スタイルの)絵、ということになるでしょう。何故なら、実時間で「印象派」と呼ばれた一連の画家たちはもういないのですから。
残ったのはそのスタイルです。バロックであろうとロココであろうと、それらの画家たちはその時代にしか存在しない。けれどもそのスタイルは残ります。

>うーん、提供者が存在しない状態が想像できないです

>河原の石ころをアートとして売っていた
この例で言うと、石ころが河原にあった状態はアートではなく持ってきて売るという行為が入ってアートになったのでは?と思います

そう思います。アートが河原に転がっているのではなく、「それをアートと見做して」「市場」に乗せる(この場合は河原のテントですが)
それは物象化であり、同時に石ころがアートになることでもあります。

これは面白い問題で、例えばピカソのアトリエに未発表の作品が存在するが、誰もその存在を知らない。ではそれは「アート」か?
けれども一方で、ピカソの習作、鉛筆書きの下絵のようなものでも、巨額のお金を出して買おうという好事家と呼ばれる人たちもいます。彼らにとってそれはアートです。上下逆にして見ていても気づかなくてもアートです。なぜってそれはそれを享受するものにとってアートだからです。「これこれの条件を満たしていなければアートとは言えない」というような、外部的な規定は存在しないはずです。

>変な石が河原にあって、それを見てアートと思うかと言われると、うーん、なんとも言えないかなと

それが市場に流通しはじめた時点で、それを「アート」と呼びます。「石」ですが。(笑)
つまりアートの定義は一義的ではないということです。

「自由さ」の問題は、わたしの立場としては「物理的」な不自由は仕方がないけれども、「検閲」などで、作者の意図しない改変が強制されるような場合は、それは最早本来のアートではなくなっているという意味です。ただこれはあくまで個人的な意見ですので、場合によってはそのような外部の力による半強制的な「改変」もありうると考えることを非難するものではありません。

「重層化」という言葉は知りませんでしたが、アートに限らず、新たに目にするもの、耳にするものは、過去の記憶からそれに関連する記憶を連想させます。ですからアートを鑑賞する際に、いろいろな知識があるのは鑑賞の手助けにはなりますが、逆に言えば、雨宿りのつもりで飛び込んだギャラリーで偶然目にした一枚の絵、一体の彫像に目を奪われ、心を奪われるという体験を欠いたアートにどれだけの価値があるだろうという気持ちもあります。逆に言えば、現代のアートはそれだけ外付けの「意味」や「付加価値」を加えなければ、それ自体としてインパクトを持ち得なくなったという現代の衰退の象徴かもしれませんね。

繰り返しますが現代のアーティストが大正モダンのような画を描いても、それは「大正モダン」ではなく、「~風」でしかないということです。そこに「芸術の一回性」があります。
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

色々ありがとうございました

お礼日時:2016/07/01 20:19

こんばんは。



>アートは美術を内包しているが、美術と言われなくてもアートと言われる物がある

勿論そう思います。

>アートはどちらかというと概念的な意味が強い

コンテンポラリー・アートに関していえばそう言えると思います。けれども、美術史の中で、中世のロマネクス、ゴシックからルネサンス、バロック・・・20世紀のピカソやシュールレアリズムなどに至るモダン・アートまでは、ご質問にあるように、もっと生身の人間とアートが、ダイレクトに向き合えたという気がします。

>何かの意図を持って製作者が作り、それ見た人に心理的変化がある事(驚き、興味、好意、嫌悪など)
両方が存在してアートである(片方だけではアートとは言えない?)

個人的には、眼差しが「あるもの」をアート足らしめるとおもうので、受け手の意識の問題だと思います。
つげ義春の「石を売る人」(映画『無能の人』原作)だって、河原の石ころをアートとして売っていたのですから、
河原の石でもアートと思えばアートです。それがデュシャンの言う「見出されたもの」=Found Objects です。

>アートと自由さは関係無い(自由じゃなくてもアートはある)

ある種の「制約」の中でもアートは生まれるということです。(例えば予算の制約によって、材料が不足している)などの
制約、制限の中で、いかに想像力とクリエイティビティを発揮できるかもアーティストの力量だと思います。

>現代アートは自由でなくてはならないという話も見かけた事ありますが
際限の無い自由はただの不自由ではないのか?

この場合の自由というのは、「表現の自由」という意味だろうと思います。このときの「自由」の対義語は、例えば「検閲」というようなものです。何らかの外部の「圧力」によって、不当に表現を規制されない自由、これは不可欠です。それに従っていては最早アートではありません。

>アートと批判は関係無い(作品内容として批判があると面白い、などの話は別問題)

これも捉え方の問題だと思います。例えば、古典主義の主張に対するアンチテーゼとして現れたのがロマン主義です、それに対して批判的になったのがリアリズムです。
アート・ムーブメントは原則的にそれ以前の方法論への批判から発展しています。
けれどもいかなる運動であっても、基本的にアートが目指すのは「美」であって「批判」や「プロパガンダ」ではないと思うので、
アートと批判は分けて考えるべきで、それを不可分のものと考えるべきではないでしょう。

モーツァルトを聴いて心地よい、モネを観てきれいだと思う、ミロをみて笑ってしまう、それで充分だと思います。

>作り手側と受け手側の個人的な経験によるので、アートというものの定義は難しい

ことに現代のアートはそう感じます。

>現代アートというのはそれまでのアートが分からないと理解しづらい
理由はデュシャンの所で概念を重視したため、下地となる知識が必要になった
という所なんでしょうか?

デュシャンの「見出されたもの」=男性用便器だって、単純に面白がれればいいんです。逆に「知的」に「理解しよう」とするから、ダイレクトに面白がれないのではないでしょうか。道端の名もない花や、珍しい形の石でもおもしろがれる、それが大事だと思います。
子供の隠している「秘密の箱」の中なんて、「見出されたもの」(ファウンド・オブジェクト)たちばかりです。
この回答への補足あり
    • good
    • 2

追記です。



デュシャンの言葉を敷衍して、現代アートを定義するとしたら、それは予め(アートとして)「あるもの」ではなく(アートに)「なるもの」ということができるかもしれません。

ですから高校生が描いた女性の画でも、例えば美術の先生がそれを気に入って、知り合いのギャラリーのオーナーのところに持って行き、
それが展示された時点で、立派な(?)アートです。

>実質でアートというのはどういう定義なのですか?

モダン・アートでもそうですが、コンテンポラリー・アートになって、より「固有」の意味というものから「関係性」へと移行していったようです。つまりデュシャンの言う「まなざし」です。

なかなか面白いテーマなので、補足が必要なら書いてください、一緒に考えましょう。

アートについて wiki

https://en.wikipedia.org/wiki/Fine_art
    • good
    • 1

>美術や芸術の中にアートは含まれるっぽく書かれています



「絵画」「版画」「彫刻」「イラスト」「写真」「広義のデザイン」「オブジェ(オブジェクト)」など、すべてArtです。

http://www.sothebys.com/content/dam/stb/lots/L16 …

これは現在サザビーズ・ロンドンのオークションにかけられている、ジャン・デュビュフェのアクリル画です。
描かれたのは1983年です。

これは「芸術っぽい」ですか?「美術っぽいですか?」わたしにはそうは思えないのです(苦笑)

わたしはデュビュフェの作品でも好きなものもあります。でも多くのコンテンポラリー・アート(現代美術)には、ジャクソン・ポロックや、ウィリアム・デ・クーニングなどの「抽象表現主義」などを主に、意味不明なものが多い。

これらは、「絵画の死」と呼ばれるもので、言ってみれば、「芸術っぽくない」「絵画っぽくない」アートのことです。

>狭義の現代アートの定義を教えてください

これは簡単ではありません。だって、コンテンポラリー・アートには「コンセプチュアル・アート」あり「ミニマリズム」あり、様々なムーブメントが存在して、それは広義のアートを定義することと同様に困難です。

古典派にも、ロマン派にも、印象主義にも、表現主義にも、異なった思想的背景があるのと同じです。

それを単に「意味が分かる画である」というのは本質的な定義とは言えません。

最後にデュシャンの言葉を引用します。

“Art is not about itself but the attention we bring to it.”

『アートとは「それ自体」ではなく、われわれが「そこ」に注ぐ眼差しである』
この回答への補足あり
    • good
    • 1

芸術とは何なのかについては色々な説があります。



大きく分けて、人間とは独立して芸術が存在する
とする説と、
あくまで人間があっての芸術だ、とする説があります。

古来の人々は、人間とは別に芸術が存在する
と考えてきました。
これは神の存在を前提としたものです。

この考えに基づく芸術とは、自然の模倣だ、
いや、均斉こそが芸術だ、イデアを表した
モノが芸術だ、と言われてきました。


しかし、神が死んだとされる現在では
芸術は、人間あってのモノだと考えられて
います。

これには、作者の感性、感動を表出した
のが芸術だ、鈍磨した感性を覚醒させるのが
芸術だ、と言われています。
後者は異化説といわれ、最有力の説だと
言われています。
だから、奇妙きてれつな作品が登場するように
なったのです。

この異化説には、原爆を落とせば異化するぞ
という批判があります。
事実、911以降、異化説は力を失ったとも
言われています。
    • good
    • 0

補足ありがとうございます。


ほぼ、そのとおりです。
作り手がアートだと主張して、受け手がアートだと思えば、それはアートになると言う事です。
この回答への補足あり
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2016/07/01 20:19

おおむね、質問文の認識で正しいとは言えます。


ただ、そのような認識を与えるのが「現代美術(アート)」だと言う事です。
実のところ、それを「アート」と呼ばなければいけない「必然性」を持つのが、「現代美術(アート)」だと言う事です。
それは、既成概念に対する批判や、あらゆるものに対する主張を内包しているものであり、鑑賞者になんらかの「衝撃」や「問題意識」を生み出す物とも言えます。(こんなものは意味が無いと言うのも、ある意味付けです)
アーチストの技量が乏しかったり、「鑑賞者」の意識の乏しさにより、それは単なる「ゴミ」にも成りえます。
しかし、「ゴミ」になる事が目的のものもあるので、なかなか難しいですね。
「批判」うんぬんは、芸術をアナーキズムと捉えてる場合は、そこに何らかの「批判」が存在すべきと言う事でしょう。
この回答への補足あり
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!