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西田幾多郎の『善の研究』の第二編第十章に「実在としての神」という章があります。

この第二編は「真の実在」を規定する部分です。

「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」(第二編第二章)
意識現象は、刻々と移りゆくものである。
その意識の根底に不変の統一力(「統一的或者」)が働いている。
この「統一的或者」は、我々の思惟意志の根底にあるもので、同時に、宇宙現象における統一力でもある。

「神」が出てくるのは、そうした流れです。

「この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」

さらにこの神は
「この点より見て神は無である」
「ただよく無なるが故に、有ならざる所なく働かざる所がないのである」
という存在でもあります。

西田の「純粋経験」の原理から導き出されたこの「神」の概念が、何度読んでもよく理解できません。

すでにお読みになり、ご理解していらっしゃる方に教えていただければ、と思っております。よろしくお願いいたします。

A 回答 (5件)

私には回答する資格がないのですが。



最近読んだ(斜め読みですが)本に関係ありそうな気になる文章が有りました。
仏教哲学の関係のようですが、
「一つの事象にたいして宇宙全体が原因になっている(神が原因などといっているのではない)という思想は非常に重要だと思う。」
論理の構造 上巻 中村元 P514

宇宙全体が原因となることが、科学でなく思想としか成り得ない点が、神の存在が無となるのではないでしょうか?

それと、曖昧ですか、仏教哲学に「有」には有限性があつて、「無」が「空観」繋がるような印象を受けましたが、
関係するかどうか、全く全文、自信なしです。
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この回答へのお礼

興味深い回答をありがとうございました。
ご引用の箇所は、確かに通じるものがありますね。
おそらくこの部分は後年の「絶対無」の思想に通じていく部分だと思うのですが、この「無」が西洋哲学的な意味での「無」ではない、対象的な否Aとしての「無」ではないのだろう、と思っていたので、
>仏教哲学に「有」には有限性があつて、「無」が「空観」繋がるような印象を受けました
という部分は、興味を引かれました。
実はこのあいだから図書館に行くと、哲学の書架にある、ご紹介くださった本の背表紙、肉太の書体がこっちを呼んでいるような気がしてなりませんでした(笑)。こんなもんに手を出したらえらいことになる、と思って、聞こえないフリをしていたのですが、んー、読まなくちゃいけないみたいですね。
回答してくださって、ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/14 08:32

参考程度に


山川草木悉有仏性、全てのものに仏性がある。人間にも仏性がある。
思考するということの現象の根底(意識の根底)は仏性があるからである。
その仏性が不変の統一力(「統一的或者」)であり神そのものである。
だから神とは決してこの実在(直接経験の事実)の外に超越せる者ではない。
また、それに気がつくがどうかに無関係に存在するから無なのである。
ぐらいの意味ですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ひとつの解釈として、参考にさせていただきたいと思います。
ただ、それだけのことであれば、西田がなぜもっと単純に書かなかったのか、「仏性」と具体的に西田が指し示す対象があるのであれば、なぜそう書かなかったか、という疑問が生まれます。
また若干外れますが、「仏性」という概念も、私には理解しにくいもののひとつです。たとえば、「あらゆるものには本来仏性が備わっているが、煩悩に覆われている。その煩悩を取り除けば、仏性が現れてくる」という考え方は、五蘊 から成るはずの人間に、五蘊とは別の属性(?)を与えることになるような気がしてならないのです。
仏教思想に関しては、ほとんど知識なく書いています。もし批判的に聞こえたとしたら、どうかご容赦ください。あくまでも所感を述べただけで、回答いただいたことに感謝こそすれ、批判の意図は毛頭ありません。また、この欄の内容に関して、再度の回答をお願いするものではありません。回答してくださって、ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/14 08:33

西田著『場所的論理と宗教的世界観』に、


「私の神と云うのは、所謂神性 Gottheit の如きものを云うのではない、自己自身に於て絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるのである、般若の即非的弁証法が最も能く之を表して居る」とあります。
 般若の即非的弁証法とは、禅を通じて交友のあった鈴木大拙から影響を受けた論法です。どういうものかと言うと「Aは非Aである。ゆえにAといわれる」という論述形式で、『即非の論理』と呼ばれているものです。般若というのは金剛般若経をさし、この経典では「如来は如来ならざるものである。だから如来といわれる」という言い回しが多用されていることに因ります。
 何故こんな論理性ゼロの記述が用いられるのか、それは悟りの境地は言葉で論理的に書きあらわすことはできないと西田は考えるからです。(ref:第一編四章末文) 非論理的に述べることによって、もっともその実態に近づけているレトリックとも解釈できます。仏教の究極的真理とされる色即是空の詞も、この即非の論理に適った表記です。
 ということで、神とは西田が終生探り続けた「『絶対矛盾の自己同一』の在るところ」ですが、その概念に相応しい箇所を書き綴られた文から抽出しようとしても、表面的には言葉の矛盾にしか読めません。くだりが理論的に強引になると読み手も臨機応変に思考回路を切り替えて、「A=B」という論述で考えずに「A=B的感覚」と感じて、その詩的空間や行間から、氏の述べんとするものを識ろうとする心構えが読み手に必要とされる書のようです。
 そうして酌み取れた神が如何なるものかは、今ここで言葉で伝えられるはずはないのですが、それでは回答にならないので、氏の語る『絶対矛盾の自己同一』が神になった経緯についての、個人的であてずっぽうな見解を以下に書いてみました。

 『善の研究』第二編は、暗示をかけるかのように、全章にわたり統一・合一・同一と一なる言葉の畳みかけで成っています。そこでは、知識と情意が、意識と経験が、主観と客観が、自己と他者が、およそ対立していた物事すべてが、両極を俯瞰する統一的或者の視点によって即非の論理に宛がわれ一なるものに統べらます。あたかもジューサーに放り込まれた果物が忽ちにカッターに粉砕され一に溶けゆくように、統一的或者の懐に放り込まれた全ての秩序は、その認識され得る境界を、純粋経験という逃れる術のない快刀のもとに砕かれて、一なる存在へと融合されていくのです。
 論理を超越してまでのこの統一作用は、「一にされねばならない」という氏の哲学の根本姿勢であり、それは即ち、禅で精神統一を希う心気が思考することを止めない意識と、格闘し影響しあい協力し融合していく姿だとも見えます。
 さてここからです。意識上の唯一の特異点、純粋経験から生まれた統一力が無限大に渦巻くブラックホールは、ビッグバンによって散在してしまった全ての存在を次々と飲み込んでいきます。読み終えた頁すら次々と白紙になっていきそうな実在の吸引作業は順調に進み、十章に至って遂に宇宙の全てを統一させてしまいます。最後にブラックホールのみが残ります。このブラックホールは無なる存在ですが、この無は有の対極としての無にあたります。即非の論理が最後の大仕事を成し遂げます。「有は無である。無は有である」 ブラックホールは自らのブラックホールに飲まれ消失したのです。この有も無もない状態が「絶対無」で、いわゆる西田の言う無です。
 全ての実在が消えた?と思ってしまいますが、実はそうはならないのです。即非の論理に最後の大仕事をさせた統一的或者が、ぽつねんと居残ったのです。この最後の統一的或者だけは絶対に消し去ることができません。あの十全の働きをしてきた統一作用が、この唯一の実在の前に潰えたのです。この唯一の実在、これが西田の「神」です。
 物理学者達が、150億年前のビッグバンを言いあて、その時の温度、誇張速度もろもろをつぶさにはじき出して、宇宙の始まりを描いてみせましたが、なぜビッグバンが起こったかという理由に関しては「神の一撃」としか言えませんでした。意識空間で存在の全てを収斂してみせた西田のブラックホールも、無から絶対無へ転じるには神の一撃が要ったのです。この疑いなき唯一の統一された無限なる実在は、続編以降にて、尽きることのない他愛の礎となります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
西田は哲学を学んでいる立場の者から、西田哲学の禅との関連について問われた際に、厳しく否定した事実があります。わたしはこの立場から西田哲学を読もうとしているし、中村雄二郎の解釈、さらに上田閑照の解釈にも親近性を覚えています。そうした立場と、回答者さんの立場にはずいぶん隔たりがあるし、「実在」や「統一的或者」など、いくつかの重要タームが非常に粗雑に扱われている(申し訳ありません)のを見ると、困惑を覚えざるをえない、というのが正直なところです。せっかく回答をしてくださったにも関わらず、このようなお礼を書き込むのは心苦しいのですが、当方はそれなりの知識の蓄積を前提として質問しているのだということをご理解していただければ幸いに思います。回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/10/14 17:02

#3です。

お礼欄拝見しました。

今になって見返してみると、後半部分はない方が好かったと後悔しています。
重要タームが粗雑なのは、西田の『絶対矛盾の自己同一』における有と無の即非、つまり、あるということがないもおなじだという、通常我々にとって受け入れ難い一言、その感覚を明らかにすることに重点を置いたためです。私が思ったところを伝えようとしたのですが、途中から自分で考えている像が判らなくなり、そこから自嘲気味になってそれが表現の端々に含まれ、結果、西田哲学までも揶揄にしたような感じになったのは、うかれてしまいやすい自分の反省点です。
質問者さん他へ不快感をあたえであろうこと、すいませんでした。

で、今回のご指摘について。

上田閑照『西田幾多郎 人間の生涯ということ』は大変読みやすい本でした。私の解釈はこの本によっているところ大きいです。
この第四章の『禅と哲学』は、西田哲学と禅の関連について書かれている章ですが、そこを読む限りでは、関連を厳しく否定したという様子はうかがえないように読めました。
『善の研究』第一遍四章知的直観(p53)には、
「我々の意識が単に感官的性質のものならば、普通の知覚的直覚の状態に止まるのであろう、しかし理想的なる精神は無限の統一を求める、而してこの統一はいわゆる知的直観の形において与えられたのである。知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一せる状態である。」とあります。文中とくに「理想的なる精神は無限の統一を求める」は、前文に脈略を持たないところから繰り出されています。
『善の研究』ひいては西田哲学が、禅と親子関係ではないにせよ、少なくとも兄弟関係以上にはあると言えると思います。

それと、神の概念について。(困惑を与えながらもなおひつこいですが(^^;)
氏は芸術に関しても多くを語っていますが、他の人が芸術について端的に述べている言葉が、氏の述べている神を論理的に言いあらわした形に近いのではないかと私は感じています。もし何かの参考になればということで。では。
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この回答へのお礼

再度回答ありがとうございました。
 西田哲学が禅と関係を持っていないと言っているのではありません。西田自身、友人である鈴木大拙に対してはそのことを認めていました。あるいは上田閑照のように、西洋哲学の知識を十分に持ち、さらにインド哲学、東洋思想も十分に学んだ上で、禅の研鑽を積んだ人が、西田の思想の中に禅の影響を見る、そしてそれをわかりやすい形で読み解いてくれるのは、確かに参考になります。
 けれどもそうでないものが、安直に結びつける。西田が考え方の礎として学んだ西洋哲学もたいして知らず、まして禅さえ知らない、そうした人間が、西田の難解さを禅の難解さに結びつけて恥じないような解釈をする。そういう解釈をわたしは退ける、と言っているのです。
 ここのカテゴリでは「哲学」の風を装った「おしゃべり」が中心です。別にそうした方々を否定するつもりはありませんが、わたし自身は「おしゃべり」は求めていません。
 たとえば「実在」という言葉ひとつにとっても、プラトンのそれ、バークリーのそれ、ヘーゲルのそれと明確な定義を持ったタームです。哲学というのはそうした言葉ひとつひとつを哲学者が継承し、自らの思想を体系づけていくときに再度定義しなおしてきたものです。いわば、囲碁や将棋の「定石」のようなものと言えるでしょう。哲学を学ぶとはとりもなおさずそうした「定石」を学んでいくことだとわたしは考えています。わたし自身、そこまで専門的に勉強したわけではありませんが、少なくとも自分がそうしたタームを使う時、できるだけ厳密に使ってきたつもりだし、そうするつもりです。それを「おしゃべり」で使われると、大変居心地が悪いのです。
 ここでこうした問題を立てること自体、いまとなっては不適切であったのかと思わざるを得ませんが、かつては禅や哲学に深い知識をお持ちの方がいらっしゃいました。
 わたしは「おしゃべり」ではなく「知識」を求めています。どうかご理解ください。またこのお礼欄の内容に関する再度のご回答もご容赦願います。
 文中、多々失礼なことを申し上げました。せっかくご回答くださった方にこのようなことを書いてしまったこと深くお詫びいたします。申し訳ありませんでした。

お礼日時:2004/10/18 17:53

概念としてよく拾い出してあると思います.


そういう言い方にならざるを得ないのではないでしょうか.
理解しようとするより
観ずるものであると思います.
その中に理解もしくは確信があるものだと思います.
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この回答へのお礼

回答を拝見して、中江兆民の『一年有半』にある「我日本古より今に至る迄哲学無し」という文章を思いだしました。
日本人は諸外国の人々と較べてものわかりがよく、時の流れに順応し、「一種小怜悧、小巧智」である、と。そのために、考え抜くことをしようとせず、浅薄であることを免れ得ない、と。
自らの死期を知りつつ、血を吐くような思いで哲学を求めた兆民の呼びかけに応えるがごとく、日本の土壌に哲学をうち立てようとしたのが、西田であったわけです。西田は生涯にわたって、みずからの思索を、厳密な学問知、つまり「哲学」として成り立たせようと苦闘を続けました。その西田の思想を理解しようとするとき、こちらも、哲学、厳密な学問知に依拠する以外にどのような方法があるというのでしょうか。
ともあれ、質問をお読みくださり、回答を書き込んでくださったことには感謝します。ありがとうございました。
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この場をお借りして。
 西田の思想は非常に独特の用語と、ある種の論理の飛躍があります。西洋の哲学ならば、個々のタームで行き詰まっても、哲学史の流れをたどることで理解できたりもするのですが、西田の場合、西洋哲学から逸脱する部分も多く、わかりにくいのです。既存の解説書を見ても、この部分に触れているものはなく、知識の不足を埋めていただけるような回答を期待して、質問を立てさせていただきました。
非常に残念ではありますが、これ以上開けておいても有意な回答を戴ける望みはない、と判断せざるを得ません。
 回答をくださった方々には、ずいぶん遅くなりましたが、この場で再度お礼の言葉を申し上げて、閉めさせていただくことにします。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/08 13:10

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