アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

1. 神などはいるもんかと言う。
――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことに
よって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。

2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。
――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形にな
る。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。

3. 神は 精神だと言う。概念だと言う。
――けれども 精神も概念もは 人間のもの。自然本性としてそなわったも
の。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経
験事象であるのか。



人びとはどうして神のことが分からないのか?

質問者からの補足コメント

  • ★ ~~~~~~~
     >(あ) 神は 《絶対》である。(自同律として)。

    を、あなた自身が真であるとするなら、
    「神がいない事を真とする」事を追求しないといけませんね。
    ~~~~~~~~
    ☆ わたしたちの心〔を超えた心〕なる非思考の庭(=信仰)において
    人は 普遍神(それは 霊ですが)をいだきます。

    そしてその普遍神は 説としては 有神論としてかまたは無神論として
    実際には持たれます。非知ゆえ どちらも互いに同等です。

    ★ だから、あらゆる回答を全て否で返してしまい話がかみ合わなくな
    り独りよがりの結論に達するのです。 / まぁそれもあなたの考えでは神
    の仕業なのですね
    ☆ 哲学としての真なる命題を問い求めています。回答者にしても ま
    ったく同じ姿勢であるっちゃうの?

    No.32の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/02/19 06:43
  • 次の試論を参考にしてみてください。

    【Q:信仰としての《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9161091.html

    【Q:神とは何か?】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9137113.html

    【Q:《神は有る》のみや《神は無い》のみはアホバカ教】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9456638.html

    ほかにも少なからず問うています。

      補足日時:2017/02/19 12:26
  • ひちゃちさんに――そのお考えは わたしとは異なっていますが――
    これからのためにエールを贈る意味で BAとしました。

    No.24の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/02/23 13:01

A 回答 (36件中11~20件)

No.15です。



お礼は、回答しがたい質問に満ちており、私には、到底、普遍的に言い現わすことはできませんが、あくまでも、”私の場合”ということで、もう一度、回答申し上げます。

私の目的地は、聖書にある通り、いつか全能の人に、巡り合うことです。それが、果たして叶うものかどうか。それが、信じられるように、希望を捨てることがないように、目的地に向かって日々、暮らしているわけですが、目的にむかった方向性があるかどうかで、現在の生き方が違ってゆくと思うのです。あくまで私の場合ですが、”明日は明日の風が吹く”では、風に吹かれたヘチマのように、頼りない生き方になってしまう、と、自戒しています。それは、自分の弱さが、よくわかっているからなのです。

現世利益が目的では、私の場合、美しい自制心が成り立ちません。保証付きの、愚かな人間ですから、利益目当ての信仰では、ダウンワード・スパイラルになるのが、見えています。何か、もっと、この世のものならぬ、手の届かないものに、届こうとしなくては。。。と。

教えの必要性については、私は、ギリシア語もヘブライ語にも通じておらず、聖書の歴史的な背景も、人様に教えていただいている状態なので、必要と言えます。さらに言えば、新約聖書の成り立ちを見てみれば、イエス・キリストが私たちに示してくださったのは、彼の誠実な生き方と、たとえ話だけでした。中盤以降は、ペトロやパウロの手紙から成り立っており、それが、キリストの言葉を、私たちの血肉とするために、役立っています。聖霊が仲立ちをする、人間対人間の言葉のやり取りが、必要である例であるように思われるのです。

海外に長いので、何度か、危ない目に遭い、もうダメだ、ということもありました。本当に、アホだなぁ、と嘆息することが、現在でも、よくあります。だから余計に、この世のものでない父の愛を、ありがたく感じます。

宗教については、私の寄付したお金の使い道を、賢く決めてくれる団体、と心得ています。賢く、というのが、キーです。あくまで、現実的な存在ですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

いまは――生身の姿では―― 神直視はかないませんが ただしその栄光
をぼんやりと鏡に映してのように見ながら 日から日へ――聖霊のはたら
きを享けて――その似像(にすがた)に変えられて行く。・・・のではな
いでしょうか?

つまり――わたしの捉え方としては――明日は 明日の風が吹くのです。
風が ルーアハです。プネウマです。スピリトゥスです。


★ 現世利益が 目的
☆ なのではありません。何でも願いなさいと聞いているという意味です。
排除する必要はないという意味です。

★ 利益目当ての信仰
☆ であっても わたしがわたしである自然本性を生きることが出来るよ
うに・そしてさらによく生きることが出来るように その信仰をあたえた
まえと願えばよいのでは? 

ガリラヤの嵐の中でも わたしだ! という声が聞こえるのではないので
すか?




イエスなる男は 神殿を浄めるということで そこで商売をしている金貸
しや生け贄の動物売りでしたかを暴力を用いて追い払いました。

そういうこともおこないます。
★ 彼の誠実な生き方
☆ は 信仰――あくまで《非思考》です――のはたらきの賜物です。

誠実で真面目で立派な信念と行動ゆえに 信仰が与えられるのではありま
せん。

パウロのようにユダヤ教イエス派のあたらしい信徒たちをころした人間も
が 神の子たちの中に入れられました。

と思っています。



宗教は 社会活動の団体ではあると考えています。



★ 自分の弱さが、よくわかっているからなのです。
☆ 心のお強いお方だとお見受けしました。


というよりも 何だか《説教》しているみたいになりました。あぁ よわ
い そして 何とあほな と思いつつも綴ったままとします。・・・

お礼日時:2017/02/18 08:13

それは誰も見たことも、触ったことも声を聞いたこともないからです。

それなのに聖職者はさも見知ったかのようにのたまえる。反発して、猜疑心を持って当然ですよね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

後半のお考えには 賛成です。組織宗教における《聖職者》としての
権限関係(ヒエラルキア)について おかしいと同じく考えます。そ
の根拠は 《神秘(サクラメント)》に――勝手に――おかれていま
す。

前半のご議論は 残念ながら 根拠または推論としてかなりよわいと
は思います。

神は 非知ですから 誰か一人が おれは神を見たぞと言った場合
そうだとしても その発言そのものは 否定できない。それとして
みとめる必要がある。

ただし そこまでであるとも言ってやる。

なぜなら その人の見た神(または 神を見たということ)が ほか
の誰かひとりの人と共有できるかと言えば それは まったく分から
ないからです。

分からないと言うよりは 人と人とは互いに同じ神を共有すると言う
ことは出来ません。

共有できたと言えるとしたらそれは 言葉で説明したその概念内容を
自分たちは共通の認識として持った・・・というまでのことでしょう。

と考えます。

お礼日時:2017/02/18 07:47

>(あ) 神は 《絶対》である。

(自同律として)。
>(あ)を前提としています。(この質問の場合です)。
としている段階で、あらゆる反論は否である。
結果、人びとは神のことが分からない

では

神は 《絶対》ではない。(矛盾律として)。
神は 《絶対》であり、《絶対》ではない。(排中律として)。
の説明をしてください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《絶対》は 《相対》と合わせて――概念としては――意味内容が規定
されます。(経験事象ではないので 《想定》ですけれど)。

《無限》で説明するほうが 分かりやすいのではないでしょうか。

いつも言うのは 《二で割っても三で割っても その商はつねに元の無
限である》というのが 無限であり絶対です。

神は 無限であり絶対である。というのが 常識です。

言葉ですから いろんな用法があるでしょうが 基本は ふつうに《超
自然ないし超経験》と捉えられていて 無限であり絶対である。という
ことになっています。

また 哲学としては この規定(想定)の場合を問題(主題)とします。

№21お礼欄の《図表》を参考にしてみてください。

お礼日時:2017/02/18 07:25

う〜〜ん、すいません、ちょっと自信ないのですが・・・



私達に起こっている悪が、満ち溢れる恩恵に、飲み込まれてしまう・・・とおっしゃっているように、おもいますが・・・

だとしたら、そこに、力関係があるように思います

恩恵のほうが、悪よりも、力があるような・・・

実際、そうなのかもしれませんが・・・ここでは、チカラ関係とは少し違うものになります

先程の例をとれば、恩恵と悪の関係は、チカラ関係ではなく、それぞれが必要不可欠な要素という事です

ちょっと、変わりますが・・・光が7色で構成されているのは・・・ご存知だと思いますが、例えば、青と赤を比べますと、好みの問題があるかもしれませんが、一般的には価値としては、どちかかが、価値が上だという事は無いと思います

ただ、はっきりしているのは、太陽光になる為には、7色のすべての色が必要という事です

一色でも、かけたら、太陽光には、なりません、だから、7色には、優劣はなく、そして、すべてが揃って初めて、太陽光になるという関係です

同じように、愛にも、すべての感情が混ざりあう事が必要で、ひとつひとつの感情には、優劣はないという関係になります

だから、神からすれば、良い体験も、悪い体験もなく、すべてが必要な体験となります

苦しみも、楽しみも、等しく、成長する為の貴重な体験という事になります

で、神は、私達に、すべての体験を経験する事を望んでいます
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ だから、神からすれば、良い体験も、悪い体験もなく、すべてが必要な体験
となります
☆ 《体験はすべて必要であるかどうか》 これは分かりませんが 神は《善悪
の彼岸》なる存在だとも言われます。

つまり おっしゃることを受け容れなければならないのですが ただし《神から
すれば》と《人間にとって》とは これまた違う視点や部分があるように思いま
す。

神がその満ち溢れる恩恵によって滅ぼしてくれている悪とは 《人間にとって・
人間からすれば》の問題だと思います。

要するに いやなこと・やましさや恥づかしさを感じるものごと・良くないと思
うことです。

自由を阻むような心の動きです。これは なかなかわれわれ人間がおのれの持て
るチカラと心とで やめよう・乗り越えようとしてもむつかしい。そういうとき
に 助けてくれるチカラ これが 神の愛だと―― 一例ですが――思います。


★ で、神は、私達に、すべての体験を経験する事を望んでいます
☆ 神にしても人間にしても いま上で見た《悪》を人間に体験するようのぞん
でいる・・・ということでしょうか? それは ちょっと受け留めづらいのです
が その心は どういうことでしょう?

お礼日時:2017/02/17 23:43

ありがとうございます^_^



たぶん、二人で同じ様な事の、裏・表を言っている様な気がします・・・

でも、愛についてひとこと!
私が認識している 愛 は、一般的なものとは少し違うかもしれません

勿論、自論ではなく、受け売りですが・・・
愛とは、あらゆる感情の総体をさします

慈しむ心から、嫉妬、憎悪等、すべての感情が混ぜ合わさったものが 愛となります

まぁ、考えれば、嫉妬とか、憎悪にも、愛するが故の嫉妬・憎悪が存在します

従って、かみの姿・・・実際には、神には特定の姿はありませんが・・・姿は、神々しい神から、悪魔までが、混ざって、至高の存在として、在ります

だから、愛は、ただ、優しく・慈しむだけのものではありません、時には憎悪にも、嫉妬にもなるかもしれません

ただ、そこに、相手を愛するが故の行為という事です

で、神との間に、隔たりはありません、だから、わかる人にとっては、神はすごく身近な存在で、わからない人からすれば、永遠に、遭遇しない存在だと思います

こんな事を言ってるから、私は、誰からも相手にされません^_^
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

厳密に表現したいと考えます。二点あります。

★ で、神との間に、隔たりはありません、
☆ そのような《身近な感覚をもって接することのできる存在》だと捉える
ことのできるのは じつはわれとの関係としてそのあいだに――ふつうのへ
だたりではなく――まさに絶対のへだたりがあるゆえではないかと やはり
思っています。

★ ~~~~~~
愛とは、あらゆる感情の総体をさします

慈しむ心から、嫉妬、憎悪等、すべての感情が混ぜ合わさったものが 愛とな
ります
~~~~~~~~
☆ という定義は 一般に人間にとってのその心と能力とによる愛だと考え
ます。

神の愛とは たとえば一例として次のような《めぐみ》の問題だと捉えます。

▲(アウグスティヌス:恩恵について) ~~~~~
かの全能者は 最初の人からであれ その後に加えられたわたしたちの意志
からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる恩恵によって
滅ぼしている。
(『ユリアヌス駁論( Contra Iulianum )』vol.1 ch.5 [16] )
~~~~~~~~~~~~

どうでしょうか。飛躍しすぎでしょうか。

お礼日時:2017/02/17 22:56

>(あ) 神は 《絶対》である。

(自同律として)。

その論理の展開だとやはり神は存在するという前提がまずなければならないでしょう
そう前提した上で、神は《絶対》であるからの反論が成立するのですから
単純に神が存在しないならば《絶対》だって存在しないことになってしまいますからね
bragelloneさんはよく他の回答者と議論をしてますけど
傍から見ていて噛み合ってないように見えるんです
その原因はここにあるんじゃないかと思います
bragelloneさんが議論をする際に暗黙の内に前提にしている事柄を
回答者との間で共有していない(この質問の場合、絶対の神が存在するという前提)ために
煮え切らないすれ違いの議論まがいのやり取りが繰り返されてしまうのではないでしょうか

もしもこの質問文の冒頭に「仮に《絶対》の神が存在するならば」の一文を入れるだけで
bragelloneさんの言い分も回答者によく理解されると思うのです
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

論理としてはそこに成果があるように感じられ 分かるようにも思うのですが 
じつははっきりと別だと思っています。

次のような表をつくりました。

視 点 :非経験の場~~~~~経験世界
____________________________
概念説明:絶対        相対
 〃  :無限(真無限)   有限(可能無限をふくむ)
 〃  :不可変性      可変性
 〃  :非知        可知(既知・未知)&不可知

神 論 :神(普遍神)    神々(分身) 
 〃  :本体        依り代
 〃  :正解        補助線

人間存在:霊         身と心(身体と精神)
 〃  :非思考の庭     感性の原野と思考の緑野
 〃  :有る神&無い神   ヒラメキ
 〃  :信じる       感じる&考える

☆ つまり 非知なる非経験の場――普遍神のことです――は じっさいには
(という意味は 現実のわれわれ人間にとってということですが) 存在する
と表現する場合と存在しないと表わす場合とがあります。

《有る神》と言っても《無い神》と言っても 《絶対》にとってはどちらもあ
り得ます。

普遍神は 有神論と無神論とを――むろん 信仰としてですが――ふくみます。
分かるか分からないかが分からない非知であるからです。

神については この世で人間やそのほかの生物が存在するとか・あるいはもの
ごとが有る無いと言う場合の《存在する・しない》とはまったく別の《存在》
であるはずなのです。

つまり 《非存在》とも言いかえても構わないナゾなのだと捉えますが どう
でしょう?

この論理に議論をかみ合わせて 反駁してくれませんか? おかしいですか?

お礼日時:2017/02/17 22:44

お礼に対する意見を書いていいのでしょうかね?



ありがとうございます^_^

すべてが神からのメールで、メールに気づかない人や、メールを読めない人もいる!! いい表現ですね・・・分かりやすいです

もっと、多くの人がメールに気づいてくれればいいのに・・・と思います

私的には、貴方じゃなくて、主に、キリスト教関係の方が、神の表現として、絶対という言葉を用いますから、それがあまり、好きではありません

確かに、神を絶対と表現することも出来ますが・・・そこに、絶対服従する対象としての思惑を感じざるをえません

絶対という表現が、それを包んでいる愛という表現を、霞ませてしまっているような気がします・・・

神は、決して、横暴でも、物事を否定する存在でもないと思いますので・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 確かに、神を絶対と表現することも出来ますが・・・そこに、絶対服従
する対象としての思惑を感じざるをえません
☆ 前回も書いておられましたが それはおそらく宗教・それも組織宗教の
中における活動〔の制約など〕のことを言うのではないでしょうか?

もし 個人の信仰において《絶対者》からの制約や服従要求といったことを
感じるとするのならば それはおそらく ご自身がそれだけ理念や信念に忠
実であるということを物語っている〔だけな〕のではないでしょうか?

というのも:
★ すべてが神からのメールで、メールに気づかない人や、メールを読めな
い人もいる!!
☆ とき そこではすでに《絶対なる神》に従ってはいないのだとは思われ
ます。つまり 《服従》するかどうかは まったく個人の自由ですから。

また 自由意志といった前提のもとに 人の思想も行動もまったく自由であ
るゆえに 《絶対なる普遍神》とわれとの関係が 成り立っているし 活き
ている。のではないか。

つまり まったくの相対性のみの世界だとすれば――絶対との関係が皆無だ
とすれば―― そもそも《自由》という概念すら無いか またはあってもほ
んとうには成り立たないと考えられるからです。

のっぺらぼうの世界では 自由とか我がままだとかの概念は 無意味になる
と思われます。


★ 絶対という表現が、それを包んでいる愛という表現を、霞ませてしまっ
ているような気がします・・・
☆ 感じとして〔組織宗教の雁字搦めに関連して〕分かるのですが でもも
し 《愛》を前面および全面に推し出して話をするだけであるなら それは
ひとを甘やかしてしまうと思うのですが どうでしょうか。

《絶対》のもとにわれわれは自由が得られているゆえに:
★ 神は、決して、横暴でも、物事を否定する存在でもないと思います
☆ と言えるのではないかと思うのです。

印象だけで捉えても 神とわれとの間には絶対のへだたりがある。ゆえに 
相対的な存在たるわれわれ人間は 自由がめぐまれている。といった風に
も考えられます。

絶対がないならば 上下関係のもとに知らないうちにズルズル引っ張られて
行って ついにはおれは支配されているのか。ということにもならないわけ
ではない。・・・

わたしが間違っているのかなぁ。

お礼日時:2017/02/17 22:16

初めまして



神は、絶対・・・という表現ほ、少し違う様な感じがします

神が絶対という表現をするのは、主にキリスト教ではないでしょうか?

そこには、人々を服従させる、思惑がありそうな気がします・・・

神とは、当然、至高の愛の存在ですから、もっと穏やかで、人々を見守る様な存在ではないでしょうか?

私的には、絶対という表現ではなく、この世のすべてが神である・・・と認識しています!
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この回答へのお礼

初めまして。ご回答をありがとうございます。

★ 神は、絶対・・・という表現ほ、少し違う様な感じがします
☆ そうですか。《相対的な世界ではない》と言えばよいでしょうか。

つまり:
★ 至高の愛の存在
☆ というのは 《絶対》であるゆえにそのチカラが発揮されるもの
とは思われるのです。

そうでなければ われわれ人間の相対的な思いやりだったりするでし
ょうし。

★ 絶対という表現ではなく、この世のすべてが神である・・・と認
識しています!
☆ これは スピノザの《神即自然》といった見方として捉えるより
も 単純に《神とわれとの関係》のことを言っているというふうに思
われます。

つまり 《絶対 と 相対 との関係》です。
つまり 相対的な経験世界としてのわたしたちの周りの出来事という
のは 見方によれば すべてが言わば《神からのメール》である。と
いったこととしてです。

メールに気づかないこともあるでしょうし メールだと思っても中身
が読めないこともあるのでしょう。

叱りつける内容の場合も 大いにあるでしょうし。

お礼日時:2017/02/17 20:56

遠い存在と思うから、神がどうのこうの、という話になるのです。



ある日ひどい便秘に悩んでいたら、どこからともなく、非常に力強い厳かな声で「神が助けてやる」と言われたが、どこにもその姿は無い。
その後久々にお腹の調子が良くなり、嘘のように身体が軽くなったのです。
その女性は、その時聞いた声を神の声と思い、何十年経った今も神の存在を信じていますよ。

だから神は、思いがけないほど身近な存在なのかも。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

どうですかねぇ。

つまり その個別の実話について うたがいを差し挟むかどうかの
問題ではなく そうではなく 哲学としてはやはり 一般性の問題
になるのではないでしょうか?

そういった話もある。というところでしょうか。


抽象的な話にして理論化したなら 身近ではなく遠い話になるとい
う見方は あまり響かないように思います。

つまり問題は そのような身近な話として 神がその願いに答えて
くれたという場合のほかに いや だめだったという事例もあるで
しょうから やはり一般性の問題になるのではないでしょうか。

お礼日時:2017/02/17 20:43

神は人一人ずつ、自分の中にいるものだからではないかな?


自分とはなんだろう…と考えても考えても答えなど出ない。分からない。
その感覚に近いのでは?

たまたまなんとなく自分に近いかな?と感じたり自分とリンクするものが既存の宗教にあれば、人はそこに入信するのではないかなーと思います。
なければ、自分が教祖になるから新興宗教は増えていくのでしょうね!

神様に関してはこれくらいザックリな考え方でいいと思います\(^_^)/
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 神は人一人ずつ、自分の中にいるものだからではないかな?
☆ そうでしょうね。わたしはたとえば《われがわが固有の時にあること》
といったふうに表わしています。

またあくまで《神とわれとの関係》なる信仰――非思考の庭なる動態――
として成り立つものであるからには おっしゃるとおりではないかと。

★ 自分とはなんだろう…と考えても考えても答えなど出ない。分からな
い。 / その感覚に近いのでは?
☆ そうですね。わたしとは何か? たしかに《答えは出ない》のですが
ただし 《わたし》とは自同律または自己同一性として説明されるとは思
います。

《わたしはわたしである。〈わたし〉と自称するその行為主体である》。


★ ~~~~~~~~~~
たまたまなんとなく自分に近いかな? と感じたり自分とリンクするもの
が既存の宗教にあれば、・・・〔あとは省略に従います〕
~~~~~~~~~~
☆ このお考えについては じつは危険が孕まれているとは考えます。

集団としての宗教と個人の信仰とは区別が 必要です。

宗教というのは けっきょく思想なんです。あるいは 社会活動です。

一人ひとりの個人は その集団のオシヘや規則にしたがっている限りで互
いに同じ信仰を持つと――なんの根拠もなく―― 思われているだけでし
ょう。

思想が同じとは言えても 信仰が同じだとはまだ言えません。受け容れて
いる神の名前が同じだというくらいです。

神がふたりの人間のあいだで同じだと言うには 神とはこれだと言って指
し示し互いに認識が同じであると証明されなければなりません。そんなこ
とは 出来っこありません。認識を超えているのだからです。

宗教は 基本としてオシヘであって オシヘ以前の生きた生活としての信
仰において得られた《わたしであるわたし》の思いや振る舞いを 思想と
して表わしたものです。

わたしは 地道に自然なふうに生きた。これを オシヘは むさぼるなか
れといった思想とし 果てはほかの人びとと群れて互いに 倫理規範とす
る。

つまり 宗教は 信仰という生きた蝉の抜け殻なのではないでしょうか?

こういった但し書きを添えて:
★ 神様に関してはこれくらいザックリな考え方でいいと思います\(^_^)/
☆ とわたしも思います。

お礼日時:2017/02/17 15:33

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