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このような問いかけをすると 問い求めやすいかも分かりません。


A. 神は 精神であるという勘違い。
――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
――宗教とは 一般に教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般
をけっきょくは信じるというおかしなこととなる。

C. 同じく 教義を信じるという間違い。
――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的
な能力とその行為成果であるに過ぎない。オシヘは 神秘の部分をふくむ
けれど けっきょくは経験思想であり 倫理規範である。やはり 精神主
義的な人間信仰ないし《信念の人》主義となってしまう。

D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい
る間違い。
――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像と思
考の産物である。《人間の能力》信仰となる。



ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いではないか。
 
偶像は 神本体の仮りのシルシです。正解へとみちびく補助線です。

オシヘが 偶像なのです。仮りの表現としての偶像です。神を指し示すた
めのシルシです。

人びとは 指の先を見るのではなく 指を見ている。

いかに?

質問者からの補足コメント

  • では 律法なる倫理規範――そして石打ちの刑という処罰まで持つ法律――が なぜ
    できたか? なぜいまも法律を持っているか? 

    みづみづしく生き生きとした心の自発性を なかば打っちゃってしまったがごとくわ
    れらは法治社会をどうしてえらんでいるのか。

    モーセは 自身としてはアブラハムと同じように個人の信仰に生きていましたが 単
    純に言って 社会における共生の問題としては 秩序と安全をも重んじた。そのため 
    ナラハシをそれとしてとうとび 掟や法律を活用する行き方をもえらび つけ添えた。
    という説明だ思います。

    ユダヤやムスリムの社会は いまも そのような生活の様式でしょうか。

    《殺すなかれ》は 言わずとしれた《不殺生戒》のことですから ブディズムを受け
    容れたところでは やはり理性としてはたらくような戒律が 自発心との葛藤を生ん
    でいる? いや ブッダはもう古い・・・でしょうか。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/02/21 09:10
  • A№9へ。

    ★ 人類の歴史において、権力者が大衆を支配しようとしなかったことはほとんどなかっ
    たと言っていいと思います。従って、人類は政治と宗教において最も大きな誤りを犯して
    きたわけですが、だから「宗教が悪である」という結論は、論理の一段の飛躍であると思
    います。宗教においては「聖職者」が誤りを犯したということであって、「あるべき宗教」
    が悪ではないと考えます。
    ☆ 《「あるべき宗教」》について 場をあらためて問いたいと思います。

    《B. 宗教を信じるという矛盾》は 表現の問題ですが 《C. 教義を信じるという間違
    い》は 《律法や戒律による抑圧》が無いかどうかの問題です。

    オシヘは 正解へとみちびく補助線である〔に過ぎない〕と《あるべき宗教》は言ってい
    るか? 宗教家は 果たしてそう言えるか? 言えたら 宗教は要らないのでは? 思想
    としてのオシヘ〔のみ〕があるべき姿では?

      補足日時:2017/02/21 09:27
  • よろしかったら どうぞ。

    【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9101555.html

    【Q:ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8539646.html

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/02/23 07:03
  • 非知ならば 神は無いと言う人がいても・あるいはアン‐アートマン(無霊我)
    と表現してもその言い分は 成り立つと有神論の人もみとめなければならな
    い。ここが キモです。

    信教・良心の自由は 誇張して言うならば侵すべからざる奥底なる主観――
    非思考の庭――をとうとぶという趣旨だと思われます。

    ★ 信ずべきものを正しく信じているか
    ☆ これは 問いを発することが出来ますが 答えは出ません。出せると言い
    張るのは 厚かましさの塊である宗教家だけです。

    人間の出せる答えは 《〈わたしはただしい信仰を持っている〉とたとえ言え
    るとしても それが ほかの人にふさわしいと決めることは出来ず ましてや
    信仰内容を一致させることは出来ない》です。

    なおヒラメキは:
    【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9101555.html

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/02/24 11:01
  • BAは 問い求めを引っ張ったその姿勢に対してです。

      補足日時:2017/02/27 22:15

A 回答 (22件中1~10件)

知るということは、やはり、それ自体を取り巻く形式を知ることであって、それ自体の本質や実態を形式によらず知ることは不可能ですから、逆に言えば、わたしたちに知ることが出来るものは何か、を問うてみると、たとえば何にどう使う物だとか、どういう時にどうすることだとか、何々の条件で何々を指すものだとかいうふうに、諸関連で固めた認識であると、つまりブラジュロンヌさんがつねづね経験事象とおっしゃる事項はわたしたちにとって何かを知るということでさえない事態で、まさにそこに場を占めて、知る者である、という対照的な括りを認識上に設けることが、神の「勘違い」初めでしょう。

とはいえ、それを取り巻く形式を知ることが神学であったし、厚みのある部位であり、脂の乗った部位でもあり、旨みのある部位として売られ続けているわけでしょう。ごぶさたながら謹んで。
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この回答へのお礼

お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。

ほんとうは早く卒業したい主題なのですけれど。

★ それ自体の本質や実態を形式によらず知ることは不可能
☆ この対象(非対象?)を 《物自体》と呼ぶとしましょうか。

そうすると たしかにおっしゃるように:
★ 経験事象とおっしゃる事項はわたしたちにとって何かを知るということ
でさえない事態
☆ に――げんみつに言えば――なると思われます。

つまり 経験事象(Y)については ふつう一般にはその認識が一対一の対
応があると見立てるかたちで成ると考えられていますが つまりはまづのこ
とそれも その認識を表わし伝え得る言葉(先ほどの《形式》ですね)の表
現によってこそということでしょうね。

ということは じつはその成り立つと見なされる事象認識も その現象面に
ついてだけかも分かりません。

つまりは じっさいには〔経験事象としての〕物自体については そのよう
な一義的な対応などは果たして成り立っているのかどうかが分からない。

言いかえると 経験事象についてさえその物自体をめぐっては シルシとし
ての指(=《形式》)とその指先にあるものとは 区別される必要がある。

ましてや 非経験の場というべき神については――つまりその意味での物自
体については―― ほんとうには《指の指し示すその先》にすら何があるか
・そしてあるかどうかも 分からない。となります。

その上で:
★ とはいえ、それ(物自体ないし神)を取り巻く形式を知ることが神学で
あった
☆ ようです。二千年も大真面目に人びとのあたまと心とを悩まして来たよ
うです。

ということは:
☆☆ 人びとは 指の先を見るのではなく 指を見ている。
☆ と批判すべきかどうか? まぁ そのようなまづい傾向が なおなくな
ったわけではない。・・・と見ておくべきでしょうか。それゆえに この問
いをなお立てたわけでもありますから。

神学ないし神論の《形式》は 一般にオシヘですね。宗教関係ですね。

形而上学のほうは すでにこの問い求め選手権を棄権しているということか
も知れないですね。

その哲学の隙間を縫って・そしてわたしからすれば《人間の敵》と言いたい
宗教に戦争をいどむ小道をたどって 《不可知と見なす場合の物自体》を横
においておいて 《非知》を推し出しました。

お礼日時:2017/02/25 22:40

この世は物質と精神で構成されています。

もし、この世は物質のみで構成されているとしたら、私は何も感じないでしょう。

熱いとか赤いと感じている主体が私です。熱いとか赤いと言う感じは、幾ら高性能な顕微鏡で脳の中を覗いても見えません。物質が、熱いや赤いに対応する動きをしているのが見えるだけです。
その動きの刺激を受けて、精神である私が熱いとか赤いと感じているのです。
熱いや赤いは物質ではないので、それを感じている私も物質ではありません。私は、無限の感受性である精神です。

物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何と呼んだら良いでしょうか。

そして、この世の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となり更に結果を生じると言う形になります。
従って、宇宙の始まりは原因なくして結果を生じなければなりません。つまり、無から有を生じなければなりません。しかし、それは不可能です。

一方、精神は物質を動かすことが出来ます。精神である私は物質である手を動かすことが出来ます。ですから、宇宙の始まりにおいて最初に動いたものは、「原因から自由な精神」以外にはありません。

質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?

 ユダヤ教・キリスト教では、外界は神が創造したと信じます。
 ここに物が落ちたのは、ここに落ちるように、宇宙が作られているからであると考えます。そして、どうしてここに落ちたのかを追求し、 物体は外から力が加わらなければ、そのまま飛び出した方向へ等速運動を続けるが、落下距離は時間の2乗に比例する為、 放物線を描いて地上に落下し、ここに落ちたことを発見します。
 宇宙で起る全てのことは、必然であり意図されたものであると考えます。ですから、一見偶然に思える事柄に対しても、 必然であると確信し、その仕組みを解明しようとします。
 ある天才は、「神はサイコロを振らない。」と言いました。 これは、現象を確率で説明しようとする態度に対して、必然な説明をしなければならないと批判したものです。
 この様に、西洋では神が宇宙を創造したと言う確信により、自然科学は発達して来ました。

 それに比べて、東洋では仏が宇宙を作ったとは考えません。精神の中に仏が存在していると考え、内心の仏を追求します。
 宇宙は偶然出来たと考えます。物は色んな所に落ちます。物がここに落ちたのは偶然だと考えては、 落下の法則や万有引力の法則は思いつかないでしょう。
 無神論も同様です。ハッキリと必然と分ること意外は偶然であると考えたのでは、人に先駆けて新しいものを発見することは出来ません。


 神を持ち出すと、単純に非科学的であると非難する方が居られます。しかし、科学で全ての現象を説明出来るでしょうか。
 第一、物質の因果関係のみでは、宇宙の始まりを説明することは出来ません。 物質の因果関係は、原因→結果=原因→結果=原因→結果・・・と続きます。原因があり、その為に結果が生じ、 その結果が原因となり次の結果が生じると言う順番となります。
 しかし、これでは最初の原因が存在出来ません。その最初の原因は、何らかの原因により生じなければなりませんが、それがありません。 物質のみでは、宇宙の始まりを説明できないのは自明のことです。

 また、コインのゲームを考えて見ます。コインを縦に立て、倒れて表が出れば私が勝ち、裏が出れば貴方が勝ちます。 科学では、このゲームで私が勝つ確率は50%、負ける確率も50%としか言えません。 しかし、現実にはどちらかが勝ち、掛け金を全て手に入れます。それを決めるのは何でしょうか。
 これと同じことは、素粒子レベルでは無数に起っています。完全に均衡している状態で、僅かな力が加わり少しの不均衡が生じると、 不均衡が不均衡を呼び次第に大きくなり、終にはコインは倒れます。

 確率は50%ですが、ほんの僅かな力が加わることで、表が出たり裏が出たりする。その為に、ある者は人生で成功し、ある者は失敗する。 その僅かな力が精神である可能性はあります。

 精神である私は、物質である手を動かすことが出来ます。肉体は動かすか動かさないかで物的に均衡した状態にあります。 ほんの僅かな精神の力を、物的に均衡した物質(脳)に加えることにより、手は動いたり動かなかったりします。 この様に、精神は物質を動かすことが出来ます。

 単なる偶然の連続で、この宇宙は進行しているのでしょうか。それとも、何らかの意図があり、僅かな精神の力が加えられているのでしょうか。

正しい知識を得るには、全てのものを疑うことの出来ない自明なものなのか否か問いかけることが必要です。 デカルトは、この方法的懐疑により、全ての知識を自明なものか否か検証して見ました。
 その結果、自明なことは唯一つしかないことが判明しました。それは、全てのものを疑っている自分が存在することだけは 疑うことが出来ないと言うことでした。 「我思う故に我あり。」です。それ以外は、正しいと思ってはいたが、そう思っていただけであることが分りました。 これが「無知の知」です。

 しかし、自明なものしか信じないのであれば、そこまでです。そこから先は、何を信じるかによります。
 心は、その中に宇宙を作り出しています。私たちが感じている宇宙は、心の外の宇宙ではありません。心が作り出した宇宙です。 心の外を覗くことは不可能です。心の外に、宇宙があるのかどうかも分りません。
 しかし、心は外界に似せて、心の中に世界を作り出しているのです。心の中では、1+1=0でも、1でも3でも何でも構いません。 心の中に在るものは、消えたり生じたりします。従って1つと1つ在ったものが消え去り0となっても良いし、 新しく生じて3になっても良いのです。決して増えもせず減りもしないと前提して、1+1=2としなければならない必要はありません。

 しかし、外界では、無から有は生じませんし、有が消滅して無となることもありません。エネルギー保存の法則が成立します。 従って、1+1=2でなくてはなりません。
 心が1+1=2に制約されている事実は、心の中の世界は、外界に出来る限り似せて作られていることを証明しています。 外界に1+1=3を適用すると、その行動は誤りであり、失敗するからです。
 従って、外界には、心で感じている様な世界が存在することを前提とせざるを得ません。

 宇宙の仕組みを完全に解明した時、物質だけでは説明出来ないことが残されたら、神の存在を証明したことになります。  この様に、宗教は全く科学的な態度であると言えます。

「神の存在」について、私のホームページに纏めました。是非ご参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/syuukyouhahikagakut …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何
と呼んだら良いでしょうか。
★ 質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?
☆ ヘーゲルは 《世界精神》と呼びましたが 精神という言葉は避けて《霊》
と呼ぶと区別が分かりやすいとは考えます。

○ 人なる存在――その自然本性――の成り立ち ~~~

 信じる:霊(神):非思考の庭
 _________________
 考える:心(精神):思考の緑野
 感じる:身(身体):感性の原野
~~~~~~~

この霊ないし神というのは 経験世界を超えたところ――したがって 非経験の
場――を指して言います。

したがって 経験事象としての《ものごとが有る・無い》を超えています。
《価値観としての良し悪し・聖俗など》をも超えています。
★ 「原因から自由な精神」
☆ つまり 《因果関係からも自由》です。

神は 有る無しを超えていますので 人間の言葉で《神は有る》と言ってもよい
ことになり 同時に同じ重みにおいて《神は無い》と言ってもみとめられます。

創造主として捉えることもあり得ますし 何も無いというふうにも表わしたいと
いう向きもあります。

★ 「神はサイコロを振らない。」
☆ というのは――必然か偶然かの問題・あるいは確率で決まることの問題は 
経験世界のことでしょうから その――経験事象を神は超えているということだ
と思います。

経験世界では ものごとがサイコロを振ったようなかたちで現われ得ると見られ
ます。モノの因果関係をめぐって 善悪なる価値観を添えて捉えようとする因果
応報の説は 経験事象の内容と一対一に対応していません。善因善果か悪因悪果
かで決まるわけではありません。

《サイコロを振らない神》については 分からない。分かるか分からないかが分
からないナゾなのだと捉えます。

といったふうに考えています。

ほかの主題や細かい論点など触れ得ませんでしたが それぞれをこちら(わたし)
の論旨とかみ合わせてご批判をしていただければと思います。

デカルトは いまでは評判がよくないですよ。

お礼日時:2017/02/25 06:15

何をごちゃごちゃと屁理屈捏ねているのか。


人間だけが神を持つ。
犬や猫に神は存在しない。
つまり、こんなくだらんディベートやってるのも、暇なあなたみたいな人だけ。
それにあなたの理屈なら科学も一種の宗教だよ。

もう少しマシな日本語を書けるようになりましょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 犬や猫に神は存在しない。
☆ という思考回路の持ち主なんですね。

つまり:
★ 人間だけが神を持つ。
☆ という命題の発想は 人間の側から神を考え取り扱っている。と
見られます。

つまり 犬や猫にしても 自分たちが存在するからその自分たちの存
在の側から〔だけ〕 神についてどうだこうだと考えるものなのでは
ないと分かっているはずです。

そこを人間は 自分たちの側から自由に自分たちの思うように神を想
像しまた創造し得ると言いたいのでしょうか?

どうですか?

犬や猫にしても 信じるという・神とおのれとの関係はそなわってい
ますよ。それはたぶん本能において現われて来るのでしょう。

ただし その信じるなる非思考の庭からヒラメキを得て それを思想
として表わしたり問い求めをさらに推し進めたりするといったことは 
ないのでしょうね。

そのように人間と動物との違いのことを:
★ 人間だけが神を持つ。
☆ なる命題に表わしたのだとするなら わたしの誤解だとなります
が まぁ まづそういう気遣いも要らないとは思っています。

ちなみに 動物にとって神はいっさい関係ないという言い分も 動物
と神とのかかわりについての ひとつの解釈です。

有神論も無神論も 互いに同等です。

いや そうではないと言えるのは 人間が神を自分たちの支配下に置
いたときです。

お礼日時:2017/02/24 11:20

「神=究極の実在」は人間にとって非経験事象であるから、分かるはずのないものである。


しかし、宗教では「神」「仏性」などがそれであるとして、これを信ぜよとしている。
それが、正しい「神=究極の実在」であるはずがない。間違いである。
間違ったものを信ずれば、幸せにはなれない。
だから宗教は間違いである。

簡単に言えばこういうことであると理解しました。

であるならば、次のことが言えると思います。

「直観知=ヒラメキ」によって、「神=究極の実在」を覚知してしまうことが「ない」と
言いきれないだろう、ということ。
それは、「神」は「梵我一如」で自分の中にあり、ヒラメキや良心などから「一端」にせ
よその存在を常に感じることが可能であるから、完全に「非経験事象」とは言えないと思
うからです。
また、生まれ持った資質、努力の量と質によって、自分の中にある「神」の全体像を感じ
取ることは全く可能なことに思えます。

要するに、「神」は完全な非経験事象ではないから、「分かるはずのないもの」(とお考え
ならば)とは言えない、ということです。


>オシへは言葉で表されています。ゆえに考えるものであり、信ずる(無条件で受け容れる)
ものではない。

これは、信仰の微妙で難しい点をご指摘している気もします。
信ずべきものを正しく信じているか、です。
言葉や仏像やキリストの像などの「イメージ」によって惑わされていないか?聖職者自身も
含めて。
教義というものは本来、信者を正しい信仰に導くためのものであるはずですが(だから常に
研究を怠ってはならないのですが)不勉強により、逆に教義が独り歩きしてしまうというこ
とが、残念ながら往々にしてあると思います。

長くなりましたので、今回はここまで。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

表現の問題にこだわってまいります。

★ 「神=究極の実在」は人間にとって非経験事象であるから、分かるはず
のないものである。
☆ 《究極》という表現は 経験事象におけるそれだと間違われるおそれが
あります。ゆえに 《非経験の場》という言葉をえらびます。

《実在》かどうかは 人間には非知である。分かるか分からないかが分から
ないナゾのもとにある。

ゆえに:
★ 「直観知=ヒラメキ」によって、「神=究極の実在」を覚知してしまう
ことが「ない」と言いきれないだろう
★ 自分の中にある「神」の全体像を感じ取ることは全く可能なことに思え
ます。
☆ と成ります。そして そのようにおれは神を知ったと言う発言を排除す
ることは出来ないと同時に しかも その発言をほかの人が共有することは 
かないません。

共有できたと言う場合は その《神を覚知した》と表現する言葉や意味内容
のみです。

つまり経験事象としての《感じる・考える》を共同化したのであって 《信
じる〔霊としての神〕》を共有したわけではない。確証はなく つねにナゾ
です。ナゾは 共有しています。想定です。

一切衆生悉有仏性と言うごとくアートマンやブッダターが人にやどるという
ことが 想定です。非知なるナゾゆえに あり得ます。

ただしそれは ひとりの人間の主観内面においてだけの話です。

つまり 主観内面というのは 《感じる(感性の原野)と考える(思考の緑
野)》という身と心なる(狭義の)自然本性のことでは必ずしもなく 《信
じる(非思考の庭)》においてのことです。

非知だから 霊やその神との出会い体験を共有することは むつかしい。と
同時に 非知なるナゾゆえに その神は 同一の霊であり 普遍神であると
想定できます。

非思考の庭なる信じるは 自分でも分かっていないとさえ思われる主観にか
かわり 孤独なわが固有の時間です。(非時間?)

宗教家は この主観から外に出て 《信じる》のおのづから持つつつしみを
犯した人間です。わが心の奥なるきよらかなおそれを 何するものかとうそ
ぶき打ち捨ててしまいました。

★ しかし、宗教では「神」「仏性」などがそれであるとして、これを信ぜ
よとしている。
☆ 問題は 神も仏性もアートマンも霊も やはり非知であるということで
す。つづく。

お礼日時:2017/02/24 10:53

霊的啓示=直観知=ヒラメキは、何が閃くか分からないと言えないでしょうか?


例えば、音楽家が「メロディーが降りてきちゃった」なんて言ったことを聞いた
ことがあります。
あるいは、自分の専門分野で、努力の末に「悟った」なんてことはよくあること
で、この事実は主観的なことゆえに人に説明はできないことのほうが多いもので
す。
このようにして、「究極の実在」が閃いたということがあったとしたならば、科
学的な方法で説明はできないでしょう。
同様に「非知」というもの科学的説明はできないと思うのです。ですから、あな
たの哲学の論理はどうなっているのかに興味があるのです。

あなたの哲学の中身については私の宿題とさせていただき、今は次の質問を含めて
「宗教」について少しやり取りをしたいと思います。

宗教とは、大衆の不幸を取り除き、幸せを得るために存在するものです。少なくと
も三大宗教の開祖たちは、その精神で創造したはずです。
大衆のためのものでありますから、「哲学」のある程度の説明が不可欠でしょう。
それが「教義」であり「戒め」であると言えると思います。
仏陀が教団を作ったのも、その中で信者たちが切磋琢磨するのが目的であったと思
います。あくまで、個人の信仰のために。
それが本来の、また「あるべき宗教」だと思います。

ところが、祭政が一致していたときもあったし、宗教が権力と癒着していたときも
あったし、聖職者の堕落などもあり、大衆への「支配」に傾いたという事実が宗教
批判の大元であると思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

宗教の問題は: 
★ 「哲学」のある程度の説明が不可欠でしょう。
☆ そして キモはかんたんだと考えます。

☆☆ 指の先を見るのではなく 指を見よ(信じなさい)
☆ と説いているなら アウトでしょう。

オシヘは 言葉で表わされています。ゆえに 考えるものであり 信じる
(無条件で受け容れる)ものではないからです。

この批判をまぬかれる《宗教》と言えば オシヘを思想として捉え(偶像
は 偶像であり補助線であると捉え) 集まった者が学び研究する〔だけ
をおこなう〕場合です。

さらに言えば その場合にも 聖職者の権限関係から成る組織(ヒエラル
キア)があると つねに:
★ 大衆への「支配」に傾い
☆ ていると見られます。聖職者とは 地上における・神の代理人だとい
うのだからです。

それらの問題がクリアできれば 確かに思想研究会として 表現や結社の
自由のもとにあります。

ちなみに イエス・キリストなら 《神は 人びとの罪をもう覚えない・
忘れる そして 人びとが互いに神を知れということはなくなる》という
エレミヤ書31:31以降のくだりを確認し成就させたのです。ヘブル書8章
に書いてあります。

パウロが言うように《宣教という愚かな手段》を用いて ひとまづ人びと
に伝えることをおこなわせましたが。

神が普遍神であるなら そうなるはずであり 普遍神であるなら人びとに
とって信仰とは あくまで個人の内面におけるわが固有の時といった問題
であると考えられます。

主観を外に出る必要がなく 出るときは 互いに思想の問題です。

世界認識に貪欲な哲学だけは 何でもその対象としますからこうやって信
仰をも 出来るだけ思想の問題として――つまり主観の外に出して――明
らかにしようとします。

★ 宗教とは、大衆の不幸を取り除き、幸せを得るために存在するもので
す。
☆ と同時に 《指の先をのぞみみるのではなく 指を見なさい》と説く
のなら 余計なお世話だと思います。

たとえば親鸞は 《義無きをもって義とす》と言いました。自分は何でも
なく オシヘも屁でもないと言ったわけです。《自然法爾》とは言いまし
たが 信仰はそのようにして主観内面のみの問題だと指し示しました。

★ 聖職者の堕落
☆ ではなく《聖職者》なる存在が 問題だと見ます。

お礼日時:2017/02/23 06:39

のっぺらぼう。

」←なんだって良いが そのうち困るのは あなたです・・

其処を忘れない様に・・
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☆☆ 顔無し。

」←?・・意味解からん(笑)

顔があればイイのか?

IDに拘ったり 顔がどーの?に拘ったり・・

神や心が見えないのは そんな物に拘る必要が無いって事なんだが・・そんな簡単な事も理解して無いの?
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この回答へのお礼

のっぺらぼう。

お礼日時:2017/02/21 20:37

アダムよ きみは どこに( dove )いるのか?」←心配無用・・



IDに拘ってないので 何れ あなたの質問に回答する事になる・・

俺はIDなんかに興味がないので 毎回変えてる・・

あなたの質問にも 沢山回答してるので あなたが どういった人かも理解出来てる・・
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この回答へのお礼

☆☆ 顔無し。

お礼日時:2017/02/21 15:48

おしまい。

」←俺は最初から あなたなんて相手にして無かっただけだが・・ あなたも同じでしょ?
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この回答へのお礼

アダムよ きみは どこに( dove )いるのか?

声はすれども 姿は見えず。顔無し? 000。

相手にしないからと言って 顔がないとは限らない。

お礼日時:2017/02/21 13:06

冥回答 でした。

間違えました。」←で?
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この回答へのお礼

おしまい。

お礼日時:2017/02/21 12:43

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