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1.
次の結論は 《知り得るか知り得ないかが知り得ない非知なるナゾ》
のことだと理解してよいのですか?

▲ (ヰキぺ:連続体仮説) ~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E7%B6%9A …

現在の数学で用いられる標準的な枠組みのもとでは
「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」
ということが明確に証明されている。
~~~~~~~~~~

2.
これは 大澤の次の議論をめぐって知りたいという事情です。

▼ (大澤真幸:超越的な聖は 連続体仮説に対応する!?) ~~~
われわれは 宗教の基層には 二つの体験がある と述べておいた。

〈他者〉への不可避的な関与の体験と 超越的な「聖」をめぐる体験で
ある。

集合論との対比をさらに進めれば 前者が対角線論法に 後者が連続体
仮説に それぞれ対応していると解釈することが許されるだろう。
(『現代宗教意識論』 2010 第Ⅰ部 宗教原理論 第1章 宗教の社
会論理学 6.集合論的類比 p.69)
~~~~~~~~~~~~

3.
対角線論法と言っても――トンチンカンな問いを発しますが―― 実数
の集合は 自然数で順序づけすることができるのではないですか?

あるいは 言わば垂直線論法で 対角線論法と同じようにして対角線論
法で見出したあたらしい実数を見つけ出すことができるのではないので
すか? 

そしてそれは 自然数で番号をつけることが可能ではないのですか?

4.
断片的で不案内ですが 次の議論を解説してくれませんか?

▼ (大澤:第三者の審級としての神は 連続体仮説にかかわっている)
消極的=否定的に現出している無限集合(〈他者〉)=実数の集合に
それ自体として存在しうるような 超越的で積極的な同一性〔☆ そう
いう単位体のことだと思われる〕を与えたらどうなるか。

つまり ――数学と類比させるならば――連続体仮説を真理として受け取
ってしまえばどうなるだろうか。

そのとき得られる 超越的な同一性を有する形象こそが 神=第三者の審
級である。神=第三者の審級を措定するということは 数学的には 連続
体仮説を 証明された真理のように扱うことである。( ibid. p.69)
~~~~~~~~~~~
☆ 非知なる神が どうして《形象》を持つのか?

〈他者〉は あたかも対角線論法であらたに見出される実数の数値のごと
くに捉えられているようです。《消極的=否定的に現出して》くるのだと。

ただし いかにそこで《無限集合》だと言いいかに濃度が高いと言っても 
その無限は 経験世界に属しています。無限集合の全体として 相対的で
有限なものです。どうして 絶対たる《超越的な神》と対応すると言うの
でしょう?

質問者からの補足コメント

  • こう考えられます。

    問題は 初めに《並べ漏れがあったのか なかったのか》だ。

    あったのなら 見つかるのは 当然。背理法の問題ではない。
    対角線論法うんぬんの問題ではない。

    なかったのなら 見つかるはずがない。並べられていない数値
    が見つかったというのはおかしい。あり得ない。

    ・・・ではないですか?

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/06 09:01
  • 《形式主義》に対して 《直観主義》というのもあるようですね。流行らない
    のかもしれませんが。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6 …

    論理――それも 形式に合わせてつくった公理系――で塗りつぶす思考の優勢
    なあり方に対してこそ バタイユやレヴィナスはそれぞれ《非‐知》をかかげ
    反対したのではないのでしょうか?

    ふたりは 経験事象と非経験との区別が あいまいでした。無限を相対世界の
    中でも捉えています。(と知りました)。

    どうもそういう問題であるようですね。数学の独立性をみとめたとしても 哲
    学の場への侵略は 勘弁して欲しいと考えます。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/09 08:38

A 回答 (17件中1~10件)

補足ですが、直観主義が、集合論におけるIZFを意味しているのであれば、それも一つの形式です。


数学的には、素朴集合論や、ZFC公理系、IZF公理系(直観主義的集合論)がありますが、これらも全て、形式です。
論理構造の制限の形式が異なると言う程度の意味分けです。
数学としては、形式化されなければ、何もできないです。(哲学では、その限りでは無いかもしれません)
哲学的に、数学を考察するとしたら、それが人間によらず成立する形式なのかが問題になるとは思いますが、それは数学者にとっては、あまり意味は無いかもしれません。
デデキントなどは、人間が考えたものだから、人間の手の中にあると考えていたようです。(つまり、人間の自由な発想であって、他の何かによって、もたらされたものでは無いので、自由にその形式の中で考える事が可能だと言う事でしょう)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

あくまでも 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》として
の《非知》 これをめぐって 問題を集中させています。

この《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》という命題を
論理演算で表わし得るか? どうなるか? という問題です。

お礼日時:2017/04/09 10:49

お礼ありがとうございます。


まず、πについてですが、これは実数として、確定した数値です。(表現はπとするしか無く、小数表示としては、無限小数となります)
したがって、この無限小数が続くのは、別に数学的には、問題ありません。
問題なのは、πのまわりには、一定の領域を設定しても、無限の実数が存在すると言う事です。(πのまわりの範囲をいくらせばめても、いくらでも実数が存在すると言う事です)
仮に、実数を数えられると考えたら、実数で数え上げるしか無いでしょう。(つまり、自然数では数え上げられないと言う事です)
それが、数学的な一対一対応と言う事です。
また、数学が非知と言う領域を扱う(それ自体を問題とすると言う意味です)事は無いです。(何故ならば、数学は解又は、数学的な形式を見つけ出すのが目的だからです)
実数が、最小単位を持たないのは、「全ての数が要素である」と言う定義から、要請される事です。(つまり、そう定義したから、そのようでなければならないと言う事です)
数学の場合は、そこで扱われる数の性質は、その定義の形式により、厳密に決められます。
したがって、その形式を逸脱した証明と言うのは、認められません。(逸脱する為には、別の形式を与える必要があります)
そういう意味では、未解決問題はあっても、非知は無いと言う事です。(非知ならば、問題として想定しません)
真・偽の判断が不可能な問題がある事は、確かですが、それは公理に依存している為ですから、非知と言うより、ある公理系が不完全であると言う事でしかありません。(適切な形式を与えれば、論理的な整合性は取れる可能性があると言う事です)
たとえば、何で割っても、変わらない数があるとしたら、どうなるかを考えるのが数学でしょう。
仮に、それが成り立ったら、自然数と実数が一対一対応するでしょうか?
これは、その形式の中で検証しなければ、いけない問題です。
無限に対応させる事が出来るのではないかと考えたら、それを証明する方法を考えるのが数学です。
そして、証明なり、形式化が出来ないと数学としては意味を成さないと言う事です。(問題解決が出来ないと言う意味です)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 仮に、実数を数えられると考えたら、実数で数え上げるし
か無いでしょう。(つまり、自然数では数え上げられないと言
う事です) それが、数学的な一対一対応と言う事です。
☆ 人間の素朴な思考においては 《数える》ということは
自然数で順番に加算していくことだと思います。

実数だと 順番の決めようがない。つまり一つの数値を取り上
げ 次の順番には何が来るかとなったとき その同じ数値につ
いて少数以下のあたいを延々とつづける嵌めになる。

0.1 というひとつの数値から始めるだけでも 順序付けがやっ
かいである。ただし 論理的には番号づけが不可能ではない。
と考えます。

★ 実数が、最小単位を持たない
☆ のではなく 0.000・・・というふうに人類の生き続ける
限り 0 を言いつづけなければならないわけですから 決めよ
うにも決められない。からでは?

★ 数学が非知と言う領域を扱う(それ自体を問題とすると言
う意味です)事は無いです。(何故ならば、数学は解又は、数
学的な形式を見つけ出すのが目的だからです)
☆ 数値で認識するという形式をどこまでも追究するのが 数
学ではないのですか?
つまり:
★ (逸脱する為には、別の形式を与える必要があります)


★ 非知は無いと言う事です。(非知ならば、問題として想定
しません)
☆ いえ。数学が非力なだけでしょう。世界の認識ないしもの
ごとの思考にとって 《可知でも不可知でもなく 非知なるナ
ゾ》は 欠かせないものです。これまで知らなかっただけです。

★ 仮に、それ〔=真無限〕が成り立ったら、自然数と実数が
一対一対応するでしょうか?
☆ 何の関係もないふたつの問題です。

★ 無限に対応させる事が出来るのではないかと考えたら、そ
れを証明する方法を考えるのが数学です。
☆ 対応させ得ないと結論づけられたことに対して それは証
明できていないではないか? と述べたまでです。

お礼日時:2017/04/09 10:44

お礼ありがとうございます。


まず、数学も人間が考えている以上、経験事象ですが、そのかわり、一定の制限をかけた形式の中で論理を展開しています。
実数が全ての数を含むと言うのは、経験事象と言うよりも、数学の形式上必要な定義です。
ですから、それが、実在するかどうかは問われないんです。
真無限と言うのを、どういう意味で使われているかは、わかりませんが、数学では、そのような概念は使いません。
また、カントールが自然数と実数に、集合としての濃度と言う概念を定義する為に、対角線論法を利用しました。
最初から、「並べ漏れ」が無いと言う証明があったわけでは無いです。
背理法や、数学的帰納法は、数学の形式の上では、重要な証明方法です。
実数の連続性から、自然数と実数が一対一対応しないのは、ある意味自明とも言えますが、無限と言う以上は、数の大小では、比較できません。
したがって、実際に一対一対応するかどうかを検証する必要があると言うだけですよ。
数学的には、そのような意味しかないです。
したがって、数学の無限の概念が、哲学的な「世界」と一致するかどうかは、数学者は考えないです。(それは、哲学者が考える事でしょう)
数学が現象の理解の為に、適切に応用できる場合が多いのは、確かです。
ただ、形而上の概念に対して、何らかの意味付けを行ったのは、中世まででは、無いですか?(それは、主に幾何学的な、完全性などの概念です)
真無限と言う概念と数学は、無関係です。
ですから、真無限に対して、数がどうあるかを考えるにしても、数学者は適切な形式を与えられないかもしれません。
ただ、数にとっては、無限に加算が出来る事と、実数はその性質から、ある2点を指定しても、その間には無限の数があると言う事です。
数学的に一対一対応出来る事と、数える事が出来ると言う事の意味づけは、同じなようで、考え方が違うのではないでしょうか?
永遠に数え続けられると言う事と、一対一対応させたつもりでも、その間に、また数が無限に現れると言う事は、意味が違うような気がします。
可算濃度と言うのは、自然数のように離散していて、1+1...+1...を続けられる無限集合と言う意味です。
連続濃度とは、これが出来ないと言う意味でしかありません。(実数は、その最小単位となる数が無いので、このような操作は不可能です)
また、連続体仮説と、カントールの対角線論法は、無関係です。
連続体仮説は、集合の濃度は、可算無限濃度と連続無限濃度の2種類しかないと考えるだけで、証明はされていません。
離散と連続しか無いと考える方が自然とは、言えますが、その中間の濃度の集合が作れないとも言えないです。
証明も反証も出来ないのは、公理系内部では、その仮説を証明する事が出来ないと言う事です。(公理に依存しているので、その結論が真か偽か判断できないと言う事でしょう)
つまり、形式的にそういう事が不可能と言う事です。
哲学的に、集合論を批判する場合も、ラッセルなどは、その形式内の矛盾を突いています。
これは、意味があります。
数学の問題に関して、真無限などの、数学の形式に無い方法を使ったら、数学的に意味がありません。
何か、数学的に意味のある形式が提案できるなら、それは、数学の発展になるでしょう。
そのような適切な批判をしている人もいます。
たとえば、実無限(無限を一つの集合と考える形式)と言う概念自体に問題があると言う指摘はあり得るとは思いますが、ZFC公理系では、矛盾が起きないように、公理系で制限をかけています。(このような行為に問題があると言う意見が、真無限なる概念ですかね?)
数学の場合は、なるべく矛盾が生じない公理系や、一定の形式で、その性質を明らかにするのが、重要な目的です。
それは、観念の世界でしか無いかもしれませんが、その形式が生み出す美しさと言うものもあります。
基本的に、どのように数学の概念を使ってもかまわないと思いますが、それ自体、適切なモデル化が出来ていないと、公理以前に、対応自体が成されていない事になりかねないです。(これは、無関係な事を議論する事になると言う意味です)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 真無限
☆ というのは 二で割っても三で割っても その商が やはり元のまま
であるという数(?)です。不適切な表示のようですが 
《 ∞ ÷ 2 = ∞ 》
というかたちだと思います。《絶対》ということです。

★ 永遠に数え続けられると言う事と、一対一対応させたつもりでも、そ
の間に、また数が無限に現れると言う事は、意味が違うような気がします。
☆ ふつうの常識では 同じだと思います。《数が無限に現れる》ときそ
のつど番号づけをすれば 《永遠に数え続けられる》と ふつうは 考え
ると思います。

★ 可算濃度と言うのは、自然数のように離散していて、1+1...+1...を
続けられる無限集合と言う意味です。
☆ 自然数はそれなりに 1 を足していく(つまり 番号をつけていく)
かたちにおいて連続しています。《離散している》というのは 実数から
見ての話です。

★ 連続濃度とは、これが出来ないと言う意味でしかありません。(実数
は、その最小単位となる数が無いので、このような操作は不可能です)
☆ と初めに取り決めたということでしょうか?

つまり 実数は 真無限という意味での無限ではなく 大きく経験世界に
おける《相対性・有限性》の中におさまります。

円周率 π が 小数点以下の数値でいくら無限につづくと言っても 全体と
して 3 と 4 との間におさまるようなものではないでしょうか。


大澤の《神学》は むしろ説明いただいた数学の行き方を――かれなりの
解釈において――踏襲しているように思います。



数学は わたしの定義する《非知》を扱わないということでしょうか。


ありがとうございました。

お礼日時:2017/04/09 05:19

お礼ありがとうございます。


「並べ漏れがあった」、まさにこれが、カントールの主張する所です。
つまり、この並べ方では、必ず「並べ漏れ」がある事になります。
そして、「並べ漏れ」が無い、並べ方はありえません。
何故ならば、n番目まで、並べた時に、n桁目までに、0~9の数が全て現れるとしたら、その個数はいくつでしょうか?
これは、10のn乗個あるはずです。
これは、n<(10のn乗)なので、あり得ない事は、自明ですね。
つまり、n番目までの数の中で、n桁のすべてで、0~9の数が現れる事はありえません。
ですから、この並べ方では、必ず「並べ漏れ」が起きるんです。
つまり、実数は、自然数の要素とn番目までに、一対一対応する事は無い事になります。
最初から、無理だとわかっているのに、何故そのような並べ方をするかと言うと、一対一対応とは、それぞれの要素と要素を一個ずつ対応させるしか方法が無いからです。
そして、n桁目を一定の操作を行う事により、「並べ漏れ」が存在する事がわかります。
この原因が、どこにあると思いますか?
前提は、「自然数と(0,1)の間の実数が一対一対応する」事でした。
しかし、対角線論法では、「並べ漏れ」が生じます。
これは、n番目までに数の、n桁目までに、0~9の数が全て現れる数が並ばない事と、実数が全ての数を要素としてもっている事にあります。(新に生まれた小数は、必ず、実数の要素です)
では、同じ濃度である、自然数と、自然数の偶数は対角線論法では、一対一対応するでしょうか?
対角線を作る為に、偶数は二進数で表します。
また、順番に並べて、並べ漏れの無いようにしましょう。
桁の表し方は、左から右にします。
操作は、n桁目が1ならば0、0ならば1に変えます。
1:0
2:01
3:001
4:0001
ここまでで、対角線の数は0111なので、1000に変換されます。
これは、左右が逆ですから、実際は、0001です。
つまり、1です。
奇数ですから、この数は偶数ではありません。
この操作は、上位の桁を常に0に変えます。
したがって、永遠に1のままです。
この場合は、対角線論法では、新しい数は、偶数の要素では無い事になります。
したがって、一対一対応は、n番目まで、成り立っています。
これは、nを無限大に限りなく近づけても、成り立ちます。
したがって、自然数と自然数の偶数の集合の濃度は、等しいと考えても良さそうです。
これは、数学の形式に適合しています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

まづ 次の回答内容は 参照すべきでしょうか?

◆(回答№8) ~~~~
実数は自然数でどうやっても順序付けられない。
ZF公理系で証明できる定理です。

連続体仮説とは要するに
「自然数全体の集合の濃度と実数全体の集合の濃度の中間の濃度を
もつ集合はない」
ということです。その否定は
「自然数全体の集合の濃度と実数全体の集合の濃度の中間の濃度を
もつ集合がある」
ということです。

 ☆ 《証明も反証もできない》ということは 連続体仮説を肯定
   してさらに理論を問い求めることも出来るし ぎゃくに否定
   して同じく理論追究ができるということでしょうか。ただし 
   次のようにも聞きます。

ZF公理系上の数学において、実数の無限集合と自然数の無限集合と
のあいだには濃度の違いがあります。これは連続体仮説とは全く無
関係です。
~~~~~~~~~~

☆ これによれば すでに:
★ 「並べ漏れ」が無い、並べ方はありえません。
☆ となるのだと響きます。

だとすると あとは その証明の仕方がどうかになります。



単純に考えてしまっていますので その考え方でなお問い返すこと
になるのですが 次の二点です。:

すでに初めに並べ漏れがどうしても出来ると分かっていると言うと
きには その《分かっている》というためには すでに証明済みで
あるはずです。それを なお証明の作業にかかるというのは おか
しい。

あるいは もしその証明作業においてやはり並べ漏れが見つかった
という場合 ならば その並べ漏れを自然数で番号づけすればよい。
並べ漏れの現われたそのつど 番号づけて行けばよい。

限りなくその番号づけはつづくでしょうが その無限は 決して絶
対としての真無限ではありません。あくまで経験事象として 大き
くは《相対性・有限性》として成り立っている出来事です。


スッポンのぶらじぇろーぬですみません。

お礼日時:2017/04/07 05:17

「超越性」という性質は、あたかも実数の濃度と自然数の濃度との間の濃度をとるような集合、すなわち濃度を比較の基準とした場合の、「中間の集合が存在しない」性質のようなものだ、



ということでしょう。この方の言いたいことは、、、。

「超越性」は、別に神に対してでなくても、ありうることです。

問題は、この「超越性」の直感が「神の」超越性に対しても言えるかどうか、、、ということなんでしょう。

神の超越性は比較不能な「絶対性」を伴うはずだと仮定すれば、連続体仮説を用いることは適切ではありません。なぜなら、連続体仮説を採用した公理系と、そうでない公理系は、比較検討できるからです。

>次の結論は 《知り得るか知り得ないかが知り得ない非知なるナゾ》
のことだと理解してよいのですか?

連続体仮説はZFCからは証明も反証もできないことが「わかっている」のですから、その意味では非知ではなく知です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「超越性」という性質は、あたかも実数の濃度と自然数の濃度
との間の濃度をとるような集合、すなわち濃度を比較の基準とした
場合の、「中間の集合が存在しない」性質のようなものだ、
☆ ふうーむ。

ということは 《実数の濃度と 自然数の濃度とは 互いにかけ離
れている。互いをつなぐ橋はない》・・・でしょうか? 前者は
後者を超越している と。

★ 「超越性」は、別に神に対してでなくても、ありうることです。
☆ ん? えっ? つまり 神ではない経験世界においては ふた
つのものの間に隔たりがあっても それは 変化しうる相対的な関
係にある・・・のではないのですか?

★ 問題は、この「超越性」の直感が「神の」超越性に対しても言
えるかどうか、、、ということなんでしょう。
☆ あぁ。えぇ。そうでしょうねぇ。

★ 神の超越性は比較不能な「絶対性」を伴うはずだと仮定すれば、
連続体仮説を用いることは適切ではありません。なぜなら、連続体
仮説を採用した公理系と、そうでない公理系は、比較検討できるか
らです。
☆ ごもっとも。

★ 連続体仮説はZFCからは証明も反証もできないことが「わかっ
ている」のですから、その意味では非知ではなく知です。
☆ あっ。わたしなりに分かりました。

つまり 《証明も反証もできない》ということは 或る意味で《非
知》です。そう見えます。あるいは 似ています。

ところが 連続体仮説は あくまで経験事象を扱っている。ですか
ら 仮りに《中間の濃度が有るか無いかは 分からない》と言って
も 非経験の場(超越性)についての非知とは 別だ。

言いかえると この場合は 《〈中間の濃度が有るか無いかは 分
からない〉と証明されている》という事態が起きる。

ただし 《有るか無いかが分からない》場合には そこからの扱い
として 自由に《有る》をえらんで論理をさらにはこぶこともあれ
ば 《無い》をえらんでそうすることも可能だ。

となるときそれは あたかも《神は 非知ゆえその受け留め方が 
〈有る神〉派と〈無い神〉派とに自由に分かれ得る》と言うのと 
似ている。

有神論と無神論とは 《神とわれとの関係(つまり 信仰)》とし
ては 互いに同等である。・・・でしょうか。ありがとうございま
す。

お礼日時:2017/04/06 09:30

補足ですが、当然ながら、無理数の無限小数を一桁ずつずらしたあと、頭に0.をつけて、(0,1)の区間に納まるようにします。


なお、この無限小数は、部分的に循環していてもかまいません。(並べた無限小数は、必ず、前の無限小数と違いますし、対角線論法を使った時に生まれる小数は、n番目の無限小数のn桁目が一致しません)
蛇足ですが、カントールの対角線論法は、どのような並べ方でも、成り立ちますよ。
必要なのは、対応する実数が、重複しない事です。
つまり、重複しない並べ方さえできたら、これは成り立つと考えるのは、数学的に妥当です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 対角線論法を使った時に生まれる小数は、n 番目の無限小数
の n 桁目が一致しません
☆ という数値も 0から1までの間におさまるものであるのな
ら すでに初めの仮定において 《並べてあった》はずではない
のでしょうか?

並べ漏れがないかを しっかりとチェックしたのではないのでし
ょうか?

《 n 番目の無限小数の n 桁目が一致しない少数》が まだ並べ
てなかったと分かったのなら 並べ漏れであったと知って 並べ
ればよいだけではないでしょうか? そういう約束で証明を始め
ていたのでは?

お礼日時:2017/04/06 04:06

お礼ありがとうございます。


ちょっと意味がわからないんですが、一対一対応とは、それぞれの要素と要素がそれぞれ対応すると言う事です。
カントールの対角線論法は、自然数については、順序を考えますが、それが、自然数の順序と一致している必要はありません。
ただし、1から順番に並べた方が簡単ですし、別にそうしたらいけないというわけでは無いです。
対応する、実数の無限小数は、順序性は無くてもかまいません。
ただし、それぞれは、違う数でなければいけません。
このような数を並べる事が出来ないと言う意味でしょうか?
これは、可能だと思います。
例えば、無理数の無限小数を一けたずつずらしていけば、無限に無限小数を生むことが可能だと思いますよ。(これは、前の無限小数より、必ず一桁数が違いますから、一致しません)
つまり、並べる事が可能です。
この数は、必ず(0,1)の区間に納まり、かつ実数です。
この操作に、対角線論法を適用しても、なおかつ新しい小数(それまでの無限小数と一致しない)が生まれます。
これを無限回行っても、同じ事ですよね?
むしろ、自然数と実数が必ず、一対一対応する並べ方を決める事の方が難しいと思いますよ。
そのような操作が可能だと言う事を示さなければ、検証になりません。
単純に、並べ方が間違っていると言う主張では、批判にならないですよ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 単純に、並べ方が間違っていると言う主張では、批判になら
ないですよ。
☆ いえ。対角線論法は 《並べ方が間違っていた》ということ
を証明しただけだと言っています。

でも 背理法を用いると決めたとき はじめに《一対一対応する
かたちで 並べた》んですよね? じっさい:
★ 並べる事が可能です。
☆ ということですよね?

でしたら たとえ対角線論法であたらしい実数の値が得られたと
言っても その《見かけない》数値は 初めの仮定において も
ともとすでに《並べられていたはず》ではないのですか?

対角線論法がほんとうに《あたらしい実数の値》を見つけたとす
るなら それは 並べ漏れがあったと証明したことにしかならな
いのでは?

背理法による証明を始めたとき 初めに《並べ終えている。すべ
てを並べ切った》と仮定したのではなかったのですか?

お礼日時:2017/04/06 03:58

お礼ありがとうございます。


命題を仮定したら、それが成り立っていると考えていると言う論法は、正しいです。
ただし、その結果が、間違った結論になるならば、最初の命題が間違っていると言うのが、背理法です。
これは、一定の条件で成り立つと言うのが、数学の形式です。
したがって、それが成り立たないと言う事は、数学の形式が間違っていると言う事を述べているにすぎません。
ただ、それが成り立たないと言う事を少なくとも、数学の形式の中で述べなければ、意味がありません。
前提が成り立つ事としたらどうなるのかと考えるのが間違いと言うのは、哲学でもおかしいですよね?
仮定とは、そのような事では無いですか?(この事を認めると、仮定自体が出来なくなります)
背理法と言う形式は、哲学でも使うと思いますが?
ただし、背理法には、それがきちんと成り立つ条件があります。
したがって、一見、背理法が成り立っているように見えて、成り立っていない場合もあります。
ですから、そこを突くのは正しいのですが、何も検証しないで、それが成り立たないと言うのは、単なる懐疑心になってしまいます。
懐疑心だけでない検証が、批判です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

なお食い下がります。

★★(回答№9) ~~~~~~
前提として、ある命題が成り立つと考えて、[・・・]
命題は、「実数の濃度と自然数の濃度は等しい」、したがって、
実数と自然数は一対一対応しなければいけません。
~~~~~~~~
☆ この仮定が まちがっていたと証明したと言っているよう
ですが その間違いは 仮定したことがではないようなのです。

むしろ 0から1までの実数についてその例(つまり 数値)
の列挙の仕方にこそ 間違いがあると分かったのではないので
すか?

対角線論法で検証したら まだなお列挙されていなかった数値
が見つかったと言っています。

仮定において命題が成り立つと考え 成り立つかたちに列挙し
たはずなのに そうなってはいなかった。と分かった。だけで
はないのですか?

仮定において:
★★ 実数と自然数は一対一対応しなければいけません。
☆ ということなわけですから 対応したかたちに列挙してい
なければならなかった。その例示の仕方に間違いがあった。

というだけなのでは?

お礼日時:2017/04/06 00:39

お礼ありがとうございます


バタイユの〈非ー知〉は、理性で理解できる事ではありませんから、それまでの哲学の言葉で語る事はできません。
そういう意味では、レヴィナスがデリダから批判された事と同じです。(哲学の外側から、哲学を批判していると言う事です)
ですが、バタイユの目的は、まさにそこにあるわけですから、哲学である必要性の無い思想だと言う事です。(内的体験は、言語化できませんから、個々で違うか、同じであるかも判断できません)
ですから、哲学で無いと言えば、そういう事になります。
レヴィナスは、デリダの批判に応える形で、哲学(理性で理解可能な言葉)で、その外がある事を説明しようとしました。
実数が、可付番(自然数の濃度と一対一対応する事)で無い事の、カントールの対角線論法は、実数の連続性を前提としていません。(単純に、実数が、全ての数を含むと言う事を前提としています)
したがって、仮定の段階では、可付番で無いかどうかは、確定していません。(この論法では、実数の連続性が無くても、この操作自体は可能です)
前提として、ある命題が成り立つと考えて、一般化された操作によって、命題が成り立たない場合は、前提とした命題が間違っていたと言う事です。(これは、背理法と呼ばれます)
命題は、「実数の濃度と自然数の濃度は等しい」、したがって、実数と自然数は一対一対応しなければいけません。
これを、全ての実数に対して行う事は、不可能なので、(0,1)の区間内の無限小数の濃度を自然数の濃度と比較します。(部分の濃度が、一致しなければ、全体の濃度も一致しません)
カントールが行った操作は、n番目(nは、自然数と対応する順序数)の無限小数のn桁目を変える操作です。(この操作は、一般化できる操作として、n桁目が偶数の時は、1、奇数の時は2とするなどの操作があります)
この操作に必要なのは、無限小数にn桁目が必要な事です。
これは、ある部分においては、無限操作に関わらず成り立ちます。(無限小数は無限の桁を持つからです)
そして、操作の途中では、この操作によって生まれる対角線上の数列によって、生まれる小数は、それまでの無限小数とは、n桁目で違うので、一致しません。(つまり、必ず一つは余分な小数が生まれる事になります)
有限な操作で、すでに一致していません。 これが、無限回数の操作で一致すると考える事は出来ません。(無限列の部分で相違していれば、それが一致する事はありません)
また、この操作が、実数の連続性を証明するわけでは無い事に注意してください。(並べる無限小数は、その順序は無関係だからです)
順序で関係づけられているのは、自然数と、その順番に対応する桁数だけです。
したがって、この証明は、数学的に成り立ちます。
比較しているのは、自然数と実数であり、新しく生まれる数は実数です。
ですから、これは、実数の定義と矛盾しません。
3で、いくらでも新しい数が生まれる方法があると言うのは、正しいですが、カントールの対角線論法で生まれるのは、一つの小数であり、それは、それまでの無限小数と一致しないと言う事です。(逆に言えば、この操作では、生まれた小数と一致する無限小数を見つける事が不可能と言う事です)
実数は、その定義から、全ての数を含んでいます。
したがって、間違っているのは、前提とした、「自然数の集合の濃度と実数の集合の濃度が等しい」と言う命題だと言う事です。
これを認めないと言う事は、数学自体が成り立たないと言う事になってしまいます。(一対一対応と言う基礎的な方法と背理法が無限集合に適用出来ないとなると、元々、数学で無限集合を扱えない事になりかねないです)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ バタイユの〈非ー知〉は、理性で理解できる事ではありません
から、それまでの哲学の言葉で語る事はできません。
☆ 経験合理性という物指しで理性がその帝国をつくっているとし
たら それに対するアンチテーゼであったのでしょうか。

★ レヴィナスは、デリダの批判に応える形で、哲学(理性で理解
可能な言葉)で、その外がある事を説明しようとしました。
☆ いま その成果について検証しようとしています。


★ ~~~~~
したがって、間違っているのは、前提とした、「自然数の集合の濃
度と実数の集合の濃度が等しい」と言う命題だと言う事です。
これを認めないと言う事は、数学自体が成り立たないと言う事にな
ってしまいます。(一対一対応と言う基礎的な方法と背理法が無限
集合に適用出来ないとなると、元々、数学で無限集合を扱えない事
になりかねないです)
~~~~~~
☆ 数学の前提とする約束事項があるのかも分かりません。それを
承知せず こわいもの知らずで言っています。

つまり:
★ 「自然数の集合の濃度と実数の集合の濃度が等しい」
☆ という仮定を初めに置いたのなら 0から1までの間の実数は
すべてきちんと番号づけられているはずだという物言いです。

どこに背理法を使う余地があるのか? です。おかしいですよね?

お礼日時:2017/04/05 23:51

ANo.7へのコメントについてです。



> ★ 3.は誤りです。実数は自然数でどうやっても順序付けられない。

> ☆ それは 証明抜きの公理としてしまうということでしょうか?

 いいえ。ZF公理系で証明できる定理です。



> ★ ZFC公理系に連続体仮説の否定を追加して新たな公理系を作り、
その上で数学を展開することもできる。

> ☆ 《連続体仮説の否定》というのは 《実数を自然数で順序づけ
ることができないわけではない》という意味でしょうか?

 いいえ。連続体仮説とは要するに「自然数全体の集合の濃度と実数全体の集合の濃度の中間の濃度をもつ集合はない」ということです。その否定は「自然数全体の集合の濃度と実数全体の集合の濃度の中間の濃度をもつ集合がある」ということです。



> 実数の無限集合と自然数の無限集合とのあいだに 濃度の違いがあ
る場合とない場合とがともに認められる。のでしょうか?


 いいえ。ZF公理系上の数学において、実数の無限集合と自然数の無限集合とのあいだには濃度の違いがあります。これは連続体仮説とは全く無関係です。



> ただし わたしのそんな問いには関係なく:

 むしろ、お尋ねの問いは濃度の概念や連続体仮説の意味を誤解なさっているのでしょう。

> ☆ 現実を・世界のすべてを数学という言葉で表わすというので
はないんですね?

 理論物理学が追求している究極の理論(TOE: Theory Of Everything)は、標語的に「現実を・世界のすべてを数学という言葉で表わしたい」ということです。
 しかし、TOEが完成したって私が明日ラーメンを喰いたくなるかどうかを計算するのは不可能である。なぜなら、いくらモデルを「原理的に」記述したって、あまりに迂遠すぎて計算が馬鹿馬鹿しいほど莫大になるんです。現実的計算では、水素原子1個が表現できるかどうか、あたりが限界でしょうね。この事情は、流体力学のモデル(微分方程式です)が分かっていても、解けないんで実験してみなきゃどうにもならん、というのと同じです。これはモデルなんか作っても無駄だ、ということにはなりません。これまでは知られていなかった何らかの一般的性質・法則が見通せるだろう、というところにTOEの価値があります。

ただし、そのモデル(流体力学であれ、TOEであれ)は現実の観察と突き合わせるテストに耐え続けねばなりません。観察との齟齬が生じれば、そのモデルは捨てられます。
 神秘思想のほうは、このテストを課すことができない。科学哲学で「反証不能」と呼ばれる性質です。反証不能の思想は、自己整合的(self-consistent)なら形而上学、とっちらかっていれば夢想・妄想と呼ばれるでしょう。

> とは言え:
★ 2, 4に戻りますと、連続体仮説にしても選択公理にしても、そ
れらの公理を現実の何かを記述するモデルと対応付けようとすれば、
その相手はせいぜい神秘思想(それが現実の何かのモデルであるか
どうかはさておき)ぐらいしかない。

> ☆ 《あり得る》んですね?

 数学にとってあり得るというのではなく、神秘思想にとってあり得る、ということでしょう。なぜなら、神秘思想をひとつの詩だと捉えれば、それは感情や信念やナンセンスを表現するものであり、その手段としてどんなアナロジーを使うかは詩人の勝手であるばかりか詩人の創造性の発露でもあります。
 たとえば、チョウチョの死骸がヨットに見える、と詩人が言っても、それはヨットやチョウチョのせいではないし、もちろん両者の現実の関係を示している訳でもない。

> そうしますと その神秘思想との:

 その詩が面白いかどうかは読み手の感性の問題ですし、読み手は作品から触発されてさらにいろいろ夢想をして楽しむ訳です。詩の鑑賞としてはそれで結構だと思います。が、所詮はアナロジーですから、数学とは何の関係もありません。

 余談ながら、私の印象では、この「詩」は、一時異常なブームを作ったスカタン社会学(「カル・スタ」とか呼ばれました。「ソーカル事件」で一気に終焉しましたが)や、さらに古い「ニューサイエンス」と呼ばれた神秘思想の流れの上にあるのが明らかという意味で、さほどのオリジナリティがなく凡庸だし、連想の展開もなくて詰まらんと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 〔3.〕 いいえ。ZF公理系で証明できる定理です。
☆ ということは カントールの対角線論法は要らないというこ
となんですね。あたらしい証明法が成ったのでしょうか。

★ 連続体仮説とは要するに「自然数全体の集合の濃度と実数全
体の集合の濃度の中間の濃度をもつ集合はない」ということです。
その否定は「自然数全体の集合の濃度と実数全体の集合の濃度の
中間の濃度をもつ集合がある」ということです。
☆ ええ。ヰキぺの説明で そう理解しました。

そしてこのことは 経験事象においてですが あたかも《知り得
るか知り得ないかが知り得ないナゾとしての非知》に似ていると
思いました。経験世界内でのことですので あくまで《似ている》
ということのようです。

★ 究極の理論(TOE: Theory Of Everything)
☆ について説明いただきました。

★  神秘思想のほうは、このテストを課すことができない。科
学哲学で「反証不能」と呼ばれる性質です。反証不能の思想は、
自己整合的(self-consistent)なら形而上学、とっちらかっていれ
ば夢想・妄想と呼ばれるでしょう。
☆ そうなのですが それは 演繹か帰納によって成り立つ場合
ではないでしょうか? 仮説法によって神を《非知》として想定
する場合には 経験世界としての現実との対応ないし照応がある
なら その妥当性がみとめられるはずです。

そのように経験科学たる哲学として:
★ 〔数学の公理を現実と対応づけようとすることは〕神秘思想
にとってあり得る
☆ 場合があり 信念や詩の表明ではなくその道はひらけている
と考えます。

★ 所詮はアナロジーですから、数学とは何の関係もありません。
☆ 思考の形式として類似性を捉えたという点で関係があるのだ
と思います。

★ スカタン社会学
☆ 仮説法を知らない・使わないことと 神を想定して定義する
ときに 非経験の場と経験世界とを峻別しないこと。この二点で 
ほとんどアウトなのだと考えます。

ただし 非知なる非経験の場(つまり 神)が――無限ないし絶
対である限りで―― 経験世界にヒラメキないし良心として《あ
たかも降りて来た》と見ることは 神がまったくの無であると見
なす立ち場と同等でありましょう。後者も良心を公理とします。

お礼日時:2017/04/05 22:12

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