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まず、私は仏教については、門外漢です。
先日、このカテにて、「哲学の心身問題を解決する方法はありますか?」という質問がありました。
この、回答の一つに、
<仏教に学ぶことです。>
があり、興味深く考えています。
教えてもらいたいことは、一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

A 回答 (16件中1~10件)

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。


私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違う解釈があり、それらが広まっても来たという歴史があります。
日本でも真言宗とか、臨済宗とかありますよね?。
「南無阿弥陀仏と唱えていれば往生ができる」というように、まずもとになる「仏教」があって、その解釈の繰り返しから、最終的にただ真言を唱えれば、などとなっていきました。

しかしこれは「変質」というものではないのです。
元になるべき「教え」についての解釈・深化の過程によって、生み出されてきたものです。
ともすれば「信ずるものは救われる」で、手放しで信じることが信心である、と捉えられがちですが、実際はそこに至るまでの沢山の過程があったわけです。

そこが仏教の特徴的なところだと思うのです。
「学び、問い、実践する」という要素がある。
その中で、自分が見つけ出したい「ひとこと」に出会うということもあるかもしれない。
盲目的な信仰というものを、仏教の中では好ましいとは捉えないわけです。

答えを導き出すための「ツール」として、仏教は大きな厚みのある「本」のようなものではないかと思います。
また「生活の知恵」というか、生きていくための「ノウハウ本」みたいな側面も持っています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していく>
ことがあるのですね。(一部には、まず信心が最初に来るのもありますが)
<答えを導き出すための「ツール」として、仏教>
があるのですね。脇道に逸れますが、学校教育も、信じることでなく学ぶ、ですね。

お礼日時:2017/05/01 09:15

信じる物か、学ぶものか、難しい質問ですね。


お釈迦さまがとなえた仏教は、時代とともに枝分かれしいろいろな宗派が出来上がっています。対立しあう宗派もあります。だから始めは、学んで自分の信じられる宗派を選ばないと上っ面だけの信者になりますね。そのあとに、その宗派を信じるという事になるのでしょう。
不謹慎な言い方ですが、仏教も含めて宗教は究極のマインドコントロールです(悪い意味でなく)。
だから、「学ぶもの」か「信じるかもの」の質問の答えは、信じる物だと思うのです。

少し前に、女優の清水富美加さんが「幸福の科学」に出家されました。彼女は、親の影響で子供のころから「幸福の科学」が刷り込まれていました。あの宗教の良さを理解して入信したのではく、生まれながらにマインドコントロールされていたわけです。どれくらい大川隆法さんの教えを勉強したか知りませんが、はじめから信じていた。やっぱり、「信じる物」というのが正解と思います。

因みに、清水富美加さんと幸福の科学についてブログで書かせた戴いたものがあります。よかったら読んでみてください。
http://skira.tokyo/2017/02/13
http://skira.tokyo/2017/02/15
http://skira.tokyo/2017/02/17
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<仏教も含めて宗教は究極のマインドコントロールです>
ですね。他人からのマインドコントロールもあれば、自分から進んでマインドコントロールされることに、意味を見つけている人もいるのでしょうね。宗教であれば、学んでいるばかりでなく、マインドコントロールかもしれませんが、その下において信じることが発生する・発生しなければならない、のでしょうね。

お礼日時:2017/05/17 17:25

心身問題と関係して仏教に学ぶとしたら、唯識思想の事だよ。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

こんなことを言う坊主もいる。
 厳密には、仏教とは釈迦を信仰する宗教ではない。釈迦の教え
 を実践する宗教なのである。
下のno.3の回答から知った。彼岸寺というweb上の寺に寄稿された文章から
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9752419.html?pg=1&i …
というわけで一般にはわからんのだが、浄土真宗本願寺派では仏教は釈迦の教えを実践する宗教です。学ぶものではないんだな。実践するものなんだな。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<釈迦の教えを実践する宗教>
になるのですね。仏教も、どこに力点を置くかにより、学ぶ / 信じる / 実践する、というように幅広い・豊かな宗教ですね。将来、宗教も僧侶も、ビッグデータとどのように係わってゆくか、は難しい問題になりますね。

お礼日時:2017/05/15 12:52

★(№11お礼欄) ~~~~~~~


 <語りえぬものには沈黙せねばならない>

という一節にぶつかりました。ゴータマに味方すると、彼の言動はこの文章
に沿っているのかな、と思いました。
~~~~~~~
☆ なぜ味方するのでしょう?

つまり あなたは――あるいは あなたの信頼している誰かは――その《語
り得ぬもの》を得た・さとったということでしょうか?

あるいは そうではなく 何となくイメージとして ゴータマ氏は 立派な
人だという記憶があって 何となくそれに従ったまでだということでしょう
か?



でも ゴータマ自身が 自分の説は《大化城》――つまり まぼろし――で
あるに過ぎないとも語っています。

人びとのこの世の生活が あまりにも苦しいのを見たとして 少しでも気休
めのためにでも よいイメージのお花畑を見させてやろうと思って その大
化城なるまぼろしとしての すばらしいさとりの世界を描いて見せた。

ということらしいのです。特に身分制度の問題だった〔し いまでもそのよ
うです〕のでしょう。

いづれにしましても 哲学は 真実を追究します。

あやふやであるという真実ですとは 言うなかれ。
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この回答へのお礼

御尤も

お礼日時:2017/05/12 09:22

>仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?


 ある宗教を盲信するなら別ですが、
 100%全てについて、納得し受け入れるべき対象ではありませんから
「精査し、取捨選択する」という上で学習が必要になります。

 心身問題を考える上で仏教を1つのツールとして参考にする、
 程度で良いかと。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。
<仏教を1つのツールとして参考にする>
ためには、学習程度で良いのでしょう。しかし、人生の指針としたい、という時には、仏教は、学習ではなく、信じる
(<盲信する>かもしれませんが)
ことが必要になると思いますが。

お礼日時:2017/05/11 21:30

哲学の心身問題


西洋哲学と仏教 これ 同じ方向を向いています 結論が同じなのです

詳細はここでは書けませんが
ソクラテス・・・・(汝自身を知れ)
釈迦・・・・・・(汝自身を省みたずねるが良い)
  これ同じなのです
文学や詩人や芸術家等も キリスト教の聖書ではなく
仏教の方向をむいているのです

心身問題 
実は 仏教の方が詳細に解き明かされているのです
と言うか それがメインの教えと言ってよいのです

心身の事を(色心不二)と表し 二にして二に非ず と
又 生命の 差別化 個別化 個性化の原理  
深層の実態 表す法則 等等 深いです
ユング フロイト等も
仏教の一部を解き明かしたに過ぎないのです

詳細はここでは語れませんが
大変奥が深く 難解な 理解不能な部分だらけです
だから その教義を学ぶだけでは とうてい理解できません

釈迦が最高峰の法華経を講義した時
弟子で 知恵第一と言われた秀才でも理解できなかったのです
しかし 信ずる事で知恵が沸き 理解できたのです

5000人が理解できず 疑いを起こし 釈迦教団から去っていったのです
増上慢の人達です

信ずるだけで良いのは エセ宗教です
  道理を 理論を 妥当性を学ばせるのが 本当の釈迦仏教です
  そして実践です行動です 実験です
  なるほど と信ずる事ができます

特に最高峰の法華経です 生命の法則を解き明かしました

釈迦教団から去っていった5000人の中の入らない事を 願っています




参考
九識論  http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage8.html


十界論 http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage17.htm


仏教 キリスト http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage31.htm
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<心身問題><がメインの教え>
ですね。心理学に2000年も先立ち、阿頼耶識などを言及していますね。まずは学び、その結果、信じるに至る、が常道なのですね

お礼日時:2017/05/11 20:27

ゴータマ・ブッダは 《さとり》とは何かをめぐって その中身に


ついては いっさい説明しません。

この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず と
うとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。

法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。
しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それで
も ゴータマ氏の答えは こうです。

▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~
  http://fallibilism.web.fc2.com/130.html

 シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、
 すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のた
 めに正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその
 仕事とは、どういうことであるか。

 すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、
 そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれ
 るのである。
 如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た
 尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。
 如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを
 得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。
 如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを
 得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。
 如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさと
 りを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。

 これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのな
 すべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)
 世間にあらわれるための唯一の目的なのである。
 このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯
 一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、
 それを如来は行なわれるのである。

 (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』
 〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言
っているようです。

この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱
だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を
失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャ
ーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。
 
のではないでしょうか? 




ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。
▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~
長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。

  ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ
   ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ
   う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐れお
   ののくであろう》とゴータマが答えたので そのワケ)だ
   けでも お話しください。
    世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が幾
   百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において世
   尊によって成熟させられておりますので かれらは世尊の
   言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるでありましょう。
   ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 
☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 
ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言
ったも同然であるのではないでしょうか?
 
中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。では
ないでしょうか。

ゆえに とうといとブディストたちは言うのでしょうか?
二千年余のあいだわたしたちは マボロシを追いかけるイカレポンチであ
りつづけて来たのではないでしょうか?





あるいは さとりとは 人生や世の中が自分の思うようにならないという
《苦:ドゥッカ》からの解脱である。
《解脱》とは 苦から解放された状態である。
苦とは 解脱する前の人間の状態である。

こういう説明になっているはずです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
私は、仏教の本はほとんど読んだことがありません。
が、たまたまある本を見ていたら、
<語りえぬものには沈黙せねばならない>
という一節にぶつかりました。ゴータマに味方すると、彼の言動はこの文章
に沿っているのかな、と思いました。

お礼日時:2017/05/11 18:21

仏教に、救いを求める。

学び信じるでも、良いかと思います。
ガウダマ・シッタルタは、修行で解脱していません。
貴男は神ですか?神の使いですか?の問い掛けにも、何も答えなかったと、伝えられています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
<仏教に、救いを求める。学び信じるでも、良い>
あまり、限定することはない、のです。

お礼日時:2017/05/10 09:06

仏教は単なる信仰ではなく、生き方です。

仏教の出発点は「一切皆苦」と知るところから始まります。お釈迦様は、私たちの世界は思い通りにならないことばかりであるという真理を説かれました。この「苦」には「四苦八苦」という八つの苦しみがあります。仏教では、諸行無常、あらゆるものは一定ではなく常に変化し続けている。諸法無我、全てのものは他との関係性の中に成り立っているという真理にあると考えます。これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になる――。つまり、苦しみから解放される、とお釈迦さまは説かれています。これが、涅槃寂静、煩悩を消し去り、安らかな心をもって生きることなのです。自分の思い通りにいかないとき、自分以外のものに原因を求め、不満や怒りを抱きます。その原因となっているのが、疑い、誤ったものの見方、プライドや誇り、欲望などの「煩悩」です。生きている限り煩悩をなくすことはできませんが、心安らかな毎日を送るための智慧を学ぶことが仏教を学ぶことなのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<仏教は単なる信仰ではなく、生き方です。>
<「一切皆苦」>
を克服するための
<智慧を学ぶこと>
が、仏教なのですね。宗教と括られていますが、仏教は哲学っぽですね。

お礼日時:2017/05/08 11:11

仏教には二面性があります。

(キリスト教にも二面性があるかもしれませけど)。

つまりは、疑わずに信ずることで生の充実をもたらす宗教的側面。
それに加えて、禅宗をはじめとする高僧の著作の哲学性です。
哲学性とは「信ずる事」ではなくて「疑う事」になりますが、道元禅師などの著作は極めて哲学的な問い(たとえば時間とは何か?など)に答えているそうです。

日本の大学は哲学といっても西洋哲学ばかりのようですし、仏教系の大学といえば、Fランクの勉強しない子供たちの大学のイメージ(あくまで個人のイメージです)ですから、なかなか道元の書いた正法眼蔵を読む機会、あるいは正法眼蔵に関する解説を聴く機会が少ないです。

禅宗のお寺で墓地ビジネスをしていない寺をお尋ねになると、勉強会を実施している事がありますので、一度、お近くの禅寺(曹洞宗か臨済宗など)をお訪ねになってはいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとございました。
ご本人から承り、光栄です。
<仏教には二面性があります。>
ですね。(もっとも、全部の宗教にもあるのでしょうね。)
一面は、<疑わずに信ずることで生の充実をもたらす宗教的側面。>(この宗教とは、狭い意味ですね)
他面は、<哲学性>ですね。<哲学性とは「信ずる事」ではなくて「疑う事」になります>
ですね。広い意味での宗教において、どちらの面に力点を置くかは、悩ましい、否、自分自身に向き合った選択になりますね。

お礼日時:2017/05/02 11:49

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