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一人の人間において、感情、思い、つまり主観と、理性、つまり客観を仮に
戦わせてみたら、勝負にならぬほど主観が強いでしょう。

つまり、人間の中の客観というものは主観があってこそ、存在意義があると
いうものだと思います。主観がなければ「静物」に等しいとも言えるでしょう。

それなのに、主観の抜けた客観(理論)が重要視されている風潮がある気がして
います。
これは、学者であるとか大衆であるとかといった区分ではなく、社会全体に拡
散したものであると思います。

「主観」に対する何か否定的な捉え方は、とても唯物論的であり、間違ってい
ると思いますが、このあたりのこと、いかがお考えでしょうか?


※この動画はすぐ削除されます。連休中は多分大丈夫でしょう。

A 回答 (13件中1~10件)

量子論的に、あらゆる存在(有限な形質)は


認識されること(主観)において派生しています。
ただ、そこにおいて、網膜上の光子相互作用
パターンのみで「見えている」わけではなく、
そのパターンに対し、過去の五感の相関した
経験の蓄積により関係づけられた他の(より
生理的な)感覚が励起される(=予測)する事
によって、空間的広がり(存在)は生じている
のです。
即ち、経験の射影としての理性を伴わない
主観も、経験における個性(主観)を伴わない
理性もあり得ません。(連続的な延長を持つ)
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この回答へのお礼

ふむ、そうですか。

お礼日時:2017/05/06 21:43

主観とか、感情というのは、属する集団に


ある程度、共通するモノがあります。
共通する範囲で、客観があります。

共通しない主観はその人個人の問題ですから
議論したり、研究したりするのに適しません。

共通する主観は、共通する範囲で普遍的ですから
他者が研究したりすることに適しています。

そういう違いであって、唯物論に侵されている
ということではないでしょう。
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この回答へのお礼

>共通しない主観はその人個人の問題ですから
議論したり、研究したりするのに適しません。

そうなんですよね。議論できないことは話題にしない。科学的に
証明できそうにないことは、考えない、避ける。

そうすると、重要なことがどんどん抜け落ちるだろうと思ってい
ます。

お礼日時:2017/05/06 21:56

人間には


まず生物として人間共通の普遍性の部分があってそのうえで
社会的動物として尊重し合わなければならない客観の要素
さらにはそのうえで個性に応じて自由に展開できる主観の要素がある
というように私は考えています。

個人(主観)を圧殺した社会(客観)至上は
人間存在にとって本末転倒で
社会(客観)を無視した個人(主観)至上は
わがままな、他者への人間性否定になると思います。

そして普遍性と客観と主観の部分がひずみなく
バランスがとれているのが理想の状態だと考えています。

客観の正当性を説明するための理論が
現状では今一歩普遍性を持てていないのが実態なんだろうと思います。
その土台の部分の生物としての人間性を科学のスタンスから確立することが大切だという考え方です。
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この回答へのお礼

深層心理的、重層的分析ですね。

主観と客観のバランスが重要であるという点については異論はありません。

>土台の部分の生物としての人間性を科学のスタンスから確立することが大切

これも同感ですが、これによって人間のあるいは生命の尊厳観が確立されるの
かどうかが、私としては疑問です。

お礼日時:2017/05/07 20:05

人の主観と言ったものは結構似たり寄ったりしている部分があって、だから歌などがヒットして多くの人にウケたりするのだと思います。

(もし、主観がみなバラバラで粒立ちの良い個性的なものであれば、日本だけでも一億二千万の主観が存在し、思っていることも感じていることも考えていることもバラバラなら、歌なんて共感を呼ぶよすがを欠いてしまうでしょう。)

一方、客観というのは、人間の癖や陥りやすい傾向から抜け出して考えてみようじゃないか、ということの様な気がします。つまり、客観とは人間の世界を広くしてくれる、視野の盲点を明らかにしてくれるのであって、世界の枠を押し広げていくパイオニアのようなものであると思いました。
また、人は薄々自分の主観には偏りがあることに気づいておるので、客観的な見方を望んでいるように思います。自分の思いは、見解は、感じ方ははたして正しいのか、そう自問して、主観に埋没する事を避けているように思います。
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この回答へのお礼

大変に興味深いご回答ありがとうございます。

主観の中には共通の部分も大きく、その比率の組み合わせが個性なのかなとも思うのですが、
全くユニークなものが内在されていると、私は信じたいですね。

客観についてのご考察は、これを客観と呼ぶのかどうかという点について多少議論があるかも
知れませんが、確かに、日々こういう思いで生きていますね。主観に埋没しているケースもあ
るでしょうが。

お礼日時:2017/05/07 20:25

>このあたりのこと、いかがお考えでしょうか?



哲学の軽視、あるいは哲学不在の現状から当然の帰結と思います。

哲学にも色々ありますが、18世紀以降の西洋哲学の基本は感性と悟性を重視しています。
Ding an sichは不可知であるというのが主流でしょう。
もちろん「カントの誤解」ってのも色々と指摘されていますが、ブレンターノの「指向性」からフッサールの記述的心理学としての現象学まで、唯物論とは異なった視座を提供しています。

中島みゆきは、日本酒でもたらふく飲んで、酩酊してからじゃないと駄目。
覚醒した人間は、フッサールですよ。
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この回答へのお礼

>哲学の軽視、あるいは哲学不在の現状から当然の帰結と思います。

然り。

Ding an sich 物自体 ハイデッガーはこれを、意志・意欲・生命力とした、と。

ブレンターノの指向性、フッサール…

勉強することがたくさんあって困っちゃうけど、いやあ、哲学って本当に面白いですね。

中島みゆきが酩酊してからじゃないと駄目(しかも日本酒で)だなんて、勉強が足らないよ
うですね。

お礼日時:2017/05/07 21:18

まず主観と客観との関係から考えてみます。


客観とは、悟性と理性のことですが、これらは本当にあるんでしょうか。私は懐疑的なんですね。主観があるだけではないか。主観を相対化したものを客観と呼んでいるだけではないのか。こんな風に思います。
そしてこの見方に立てば、主観というものは、相対化するまでの間、存在しているものに過ぎないだと思えるのです。つまり主観と客観は並存するものではなく、主観はたちまち、理性や悟性に飲み込まれていってしまうと私は考えているわけです。

さて今はネットがあり、すぐに相対化ができます。
スマホで検索。自分の意見は瞬間的に相対化され、それだけに主観が存在する時間は短いのです。
客観というか、合理的なものに、自分の考えがすぐに飲み込まれていきます。

そして他人の主観=意見に対する向き合い方も変わりました。
議論もリアルではしませんね。後でネットで検索して、似たような考え方を調べて納得することが多いでしょう。
相手が本気かどうか、情熱があるか。こういうことでは判断しません。合理的かどうかでみています。
この結果、他人の主観を尊重するという場面がなくなったんですね。

結局、自分の意見を持てる瞬間は、本当によく知っている専門的な分野においてだけです。ここになると、ウィキペディアの間違いがわかり、まとめサイトの不備もわかります。自分で考えようとなります。
主観を守るのは、とても大変なことになりつつあります。

間違いかどうかというより、私はネット社会の現象だと思っております。
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この回答へのお礼

なるほど。

主観的な考え、客観的な考えということに注目すれば、仰るようなことは
言えると思います。

私は「主観」というものは、意識・意欲・思いといったものだと思うんです。
Ding an sichという言葉をMokuzoさんに教えてもらいましたが、西洋哲学で
存在というものの本質を「生命力」と捉えていたなんてことは知りませんでし
た。(というか、何にも知らないんですけど、私は、ハハハ(-_-;))

骰子さんが仰るように、要は便利になりすぎて、何というんでしょう?人間が
主観で生きるものだという事を忘れてしまっている?こんな感じでしょうか?

お礼日時:2017/05/07 21:53

客観なんて聞こえは良いけど、客観という理由付けをしたあくまで主観。


主観の否定は自己否定ですね。
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この回答へのお礼

一人の人間の中にあるものは、客観的な構えの主観、こう言ったら
いいでしょうか?

主観が薄いということは、根無し草…?

お礼日時:2017/05/08 14:06

うーむ。

物自体。No5さんの話には立ち入らないとして、確かにこれを手掛かりに、DRさんが別で感じている疑問を整理することができるかもしれません。小学館の辞書でまず定義を確認してみます。

>《〈ドイツ〉Ding an sich》カント哲学で、感官を触発して表象を生じさせることによって、われわれに現れた限りでの対象(現象)の認識を得させる起源となるが、それ自体は不可知であるもの。現象の背後にある真実在。本体。

カントによれば、物事を認識する時、人間は必ず自分の感覚器官を通過させなければなりません。
で、こういう主観の一切を排除したところにあるものが、物自体です。つまり客観だというわけです。
しかし物自体っていうのは、仮説なんです。論理的に考えていけば存在するであろうゼロの地点です。誰もみて来た人はいないし、将来にもいないであろうというところのものです。で、物自体Ding an sichの正体は何か。それは人によって考え方が違うわけです。

イデアという話もあるでしょう。形の本質がある世界ということです。
ヌーメノンのことじゃないかというお話もあるでしょう。カント自身がそういう話をしているかどうかは別で。
しかし誰も立証できない世界なんですから、口からでまかせで、なんでもいいとはならないでしょうか?
悪魔の存在証明と同じです。悪魔がいないと証明することは大変に難しい。否定も肯定もできません。

映画『マトリクス』のように、カプセルに入った人間がいる世界だという話もあるでしょう。
しまいにはサンマの頭を錯覚しているだけだと言い出してもいいでしょう。
このサイトでもいろいろありますね。ハルさんみたいに存在主義だなんて言ってもいいでしょう。あれは要するに、物自体の世界において厳然と存在するための方法論を問い、その仮説を提唱しているのだと思います。
どこかの某爺さんみたいに、非思考の庭があるとか言い出してもいいでしょう。
コメントは差し控えますが、結局、何と言っても間違いとは言えないわけです。

ただ、なんと言いますか。なんでもいいなら、そんなに大きなコストを費やして考えないでもいいのではないか、とは思うのです。『マトリクス』みたいな物自体が出てくる時点で、もう、その言葉ではアクチュアルな問題に切り込んでいけないと思うのです。

>骰子さんが仰るように、要は便利になりすぎて、何というんでしょう?人間が主観で生きるものだという事を忘れてしまっている?こんな感じでしょうか?

おっしゃる通りだと思います。噛み砕いて具体例を付け足して見ます。レストランAで昼をちょっと奮発し、ランチプレートを食べ、おいしいと思った。今日は自分へのご褒美だ、いい日だと思った。しかし口コミサイトを後で見たら、評価が散々だった。自分はうまいと思ったんだが、本当はまずかったのかもしれない。あるいは、自分は味音痴なのかもしれない。考えているうちに、気持ちが沈んできた。レストランAで食事しなければよかった。感動したのは、口コミサイトを見るまでの、20分間の間だけだった。

もっといい何かがあると相対化していけば、自分の手元にあるものから受ける感動を忘れてしまうんです。我々の日常で頻繁に起きていることではないでしょうか。もっといい友達がいるはずだ、もっといい恋人がどこかにいるはずだ。こんな親じゃなければ。
理屈ではその通りかもしれませんが、それを言って、なんになるんだ?というところではあるのです。
現代は賢さに、感情が潰されてしまった時代だと私は思います。

シュプレヒコールは、煽っているリーダーの言葉をスマホで調べ、一つ一つ吟味していたら、絶対に起きないでしょう。あ、扇動者の言ったここは間違っている。勘違いだ。いや、騙そうとしているのか。なんでえ。おもしろくねえ。
スマホ時代にあって、感動し、波に飲まれ、シュプレヒコールを自分も上げているということは、ないわけです。
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この回答へのお礼

Ding an sichはカント哲学の中心概念だということで、つまり、カントの「結論」
といっていいのではないかと思います。

現象は物自体ではなくて、現象の根源にあるものであると仮定した、という事ですが、カント哲学を
継承したハイデッガーがこれを、意志・意欲・生命力としたということも含めて、仏教哲学に近いと
思っています。

300年後の我々現代人がこれをなぞることはたやすいのだけれど、この大哲学者がどう考え、この結
論に至ったかを知りたいですね。
「不可知」という概念は、そう簡単にわからないと思います。分かりたいですね、そして、どういう
理論構造になっているかも知りたいですね。これが分かれば大したもんだと思います。

ランチのお話は、いかにも日本人らしい日本人への皮肉たっぷりの話ですね。

数値化されたデータ(客観)に支配され、自由というものがないですよね。
意志・意欲・生命力が感じられませんよね?

お礼日時:2017/05/08 15:38

お礼ありがとうございます。


主観の中にある全くユニークなものが何か、少し考えたく思います。

例えば表現者においては、ありきたりの表現をしてもそれはユニークとは言われません。誰もしたことがない表現をして初めてユニークだと言われます。
表現を鑑賞する側にとっても、ありきたりの解釈をしただけならそれはユニークとは言われません。誰もしなかったような独特の解釈をするのでユニークだと言われます。

この様にユニークとは、それが初であったり独特であったりすることに対して使う言葉です。主観がユニークであるためには、その様な観方である必要があります。
自分だけが出来た観方、その様なものを創出してやっとユニークであると言えると私は思いました。これは決して容易なことではありませんが、本当に自分らしく生きる人だけが、それを成し遂げるのだと思えます。生まれたての新知見は客観的にも主観的にもユニークであることでしょう。
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この回答へのお礼

むむっ。

日本人は人と同じことばかりしたがりますが、欧米人はこの辺りがかなり
違うと思います。
ユニークでありたいというのは人間の本然的な欲望の一つであるはずだと
思います。

文化によって、あるいは個人としての生き方によって、「魂」の傾向性が
癖が決まってくると思います。

「魂」の力強さと自由さを育むことのできる「文化」を作ることができれ
ば、人間がユニークでいられるという幸せを得られるようになるだろうと
思います。

また、「意識」というものは、例えば私の意識は私だけが感じるもので、
他の人の意識は感じることはできない。これは、すべての人が同じである
ので、このこと自体がつまり、個人の存在自体がユニークであるという事
は間違いないのでしょう。

お礼日時:2017/05/09 07:22

>ランチのお話は、いかにも日本人らしい日本人への皮肉たっぷりの話ですね。



まあなんていうのかな。私の本職は学術研究者なんですが、あまり道具立ては持たないでやる方です。雑談として書いているんですが、本当はそうではない話も結構あるんです。レストランの話は、スティグレールの『技術と時間』の一部を噛み砕いてみました。共感していただけて良かったです。『マトリクス』の話は、ボードリヤールです。

まあその他、哲学カテで書き散らしたお話の中には、いろいろとアカデミックな形で書けることもあるんだけれど、私は雑談としてやりたいわけです。だってその方が議論が進展しやすいでしょう? これはリアルの仲間と比べてみても、私の専売特許的な技能だと思っています。その分、何にも知らない人には、小馬鹿にされてしまうこともあります。そういう人に限って、知識を陳列するだけで、何にも考えていないということがよくあるんですけれど。まあこれは学術的なスタンスで、水と油だと思ってあきらめるほかありません。

私が日常的な雑談から出発する理由はもう一つあります。私は起点が大切だと思うのです。
一つの反省材料になるのは、ハイデガーです。彼が議論を開始すると一つのパターンがあります。それはギリシア語の語源を最初に議論し、鍵言葉を列挙してその相関関係を整理するということです。この結果、議論全体がどうしても、古代ギリシアの価値観の枠内に止まるのです。ギリシア思想に興味があるなら、言葉を手掛かりに、古い思想を復元した彼に拍手喝采でしょう。しかし現代は古代ギリシアではないし、それを模倣してもしょうがないと私は思っているんです。

ハイデガーが反省材料というのは、やはりナチス的な古代ギリシア礼賛と無関係ではないからです。ハイデガーの定義は正しい。論の運びも正しい。ではなぜ、まずいところに話がいくのか。それは古代ギリシアの話で、現代にどうして持ち込まないとならないのかという、最後の段階の考察が欠落しているからです。古代ギリシアは現代の基盤である。このような先入観があるからです。古代にはギリシア以外の文化があったし、今もまた、そのモデルでは理解不可能な文化がたくさんあると思っています。

もちろんハイデガーもナチスを支持しようとして、そうしたわけではないでしょう。しかし結局、学者も論理が構築するシステムから自由ではないんです。自分が何を言いたいのか、何を言うべきか。質問に引き付ければ、これを主観と言っても良いでしょう。それとは別で、自分が取得した学術的な議論の手法があります。これが客観と言っても良いでしょう。
二つが合致しないことは多々あるのです。ハイデガーは合致しませんでした。あるいはハイデガーが密かに自分の意思で合致させていたのなら、ナチスを支持していたということで、これはこれで大問題なんです。

>「不可知」という概念は、そう簡単にわからないと思います。

うーむ。どうかな。カントを読まなくても、あらかじめそれを知っていることは十分にありうると私は思っているんですけれどもね。
学術研究者にわざわざ教えてもらわないでも、潜在的に既に知っていることってたくさんあると思うんです。学術的な概念を導入すると、考えが整理されることもあるでしょうが、その時、自分が経験的に知っていたことは抑圧され、失われてしまうんです。
野生が失われてしまう、と表現してもいいでしょう。
野生は、意欲・意志・生命力と言ってもいいと思います。しかし生命力はハイデガー的な生命力(古代ギリシアに端を発し、学者に教えてもらわないと発見不可能な生命力)ではないとも言い添えておきたいです。
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この回答へのお礼

>私の本職は学術研究者なんです

フランス文献学、でしたっけ?

私は中学生までは秀才でしたが、高校生になって凡才になり、大学では落ちこぼれに
なりました。勉強しませんでしたから。興味がなかったんです。
で、本も大して読みませんでしたね。ですから、学術的な話でなく雑談風にやっても
らえると助かります。

しかし、今からでもできるだけ勉強はしたいし、論理的な対話もできるようになりたい
と思っています。

松下幸之助は学校に行っていませんし、本もほとんど読んだ経験がなかったそうです。
「野生の力」が強かったのでしょうが、彼に学問があったなら、文化的な仕事はもっと
出来たろうと思います。やはり、「学は力」だと考えます。

私は勉強しなかったから、今の自分の個性があるとは思います。しかし、勉強していたら
どうであったろうと思うし、少ないながらも読んだ本が良かった、とも言えると思います
し、なかなか難しいようです。
骰子さんだって勉強はしたけれど、野生の力はあるようですし…

経験的に分かっていることってあると思います。哲学的なことも、経済・法律・政治等
(「不可知」についてもそうですが)、本質をつかんでいる部分はあると思いますが、対話
をするにはある程度以上はまとめておく必要があるだろうと思っています。

お礼日時:2017/05/09 08:01

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