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一人の人間において、感情、思い、つまり主観と、理性、つまり客観を仮に
戦わせてみたら、勝負にならぬほど主観が強いでしょう。

つまり、人間の中の客観というものは主観があってこそ、存在意義があると
いうものだと思います。主観がなければ「静物」に等しいとも言えるでしょう。

それなのに、主観の抜けた客観(理論)が重要視されている風潮がある気がして
います。
これは、学者であるとか大衆であるとかといった区分ではなく、社会全体に拡
散したものであると思います。

「主観」に対する何か否定的な捉え方は、とても唯物論的であり、間違ってい
ると思いますが、このあたりのこと、いかがお考えでしょうか?


※この動画はすぐ削除されます。連休中は多分大丈夫でしょう。

A 回答 (13件中11~13件)

人間には


まず生物として人間共通の普遍性の部分があってそのうえで
社会的動物として尊重し合わなければならない客観の要素
さらにはそのうえで個性に応じて自由に展開できる主観の要素がある
というように私は考えています。

個人(主観)を圧殺した社会(客観)至上は
人間存在にとって本末転倒で
社会(客観)を無視した個人(主観)至上は
わがままな、他者への人間性否定になると思います。

そして普遍性と客観と主観の部分がひずみなく
バランスがとれているのが理想の状態だと考えています。

客観の正当性を説明するための理論が
現状では今一歩普遍性を持てていないのが実態なんだろうと思います。
その土台の部分の生物としての人間性を科学のスタンスから確立することが大切だという考え方です。
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この回答へのお礼

深層心理的、重層的分析ですね。

主観と客観のバランスが重要であるという点については異論はありません。

>土台の部分の生物としての人間性を科学のスタンスから確立することが大切

これも同感ですが、これによって人間のあるいは生命の尊厳観が確立されるの
かどうかが、私としては疑問です。

お礼日時:2017/05/07 20:05

主観とか、感情というのは、属する集団に


ある程度、共通するモノがあります。
共通する範囲で、客観があります。

共通しない主観はその人個人の問題ですから
議論したり、研究したりするのに適しません。

共通する主観は、共通する範囲で普遍的ですから
他者が研究したりすることに適しています。

そういう違いであって、唯物論に侵されている
ということではないでしょう。
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この回答へのお礼

>共通しない主観はその人個人の問題ですから
議論したり、研究したりするのに適しません。

そうなんですよね。議論できないことは話題にしない。科学的に
証明できそうにないことは、考えない、避ける。

そうすると、重要なことがどんどん抜け落ちるだろうと思ってい
ます。

お礼日時:2017/05/06 21:56

量子論的に、あらゆる存在(有限な形質)は


認識されること(主観)において派生しています。
ただ、そこにおいて、網膜上の光子相互作用
パターンのみで「見えている」わけではなく、
そのパターンに対し、過去の五感の相関した
経験の蓄積により関係づけられた他の(より
生理的な)感覚が励起される(=予測)する事
によって、空間的広がり(存在)は生じている
のです。
即ち、経験の射影としての理性を伴わない
主観も、経験における個性(主観)を伴わない
理性もあり得ません。(連続的な延長を持つ)
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この回答へのお礼

ふむ、そうですか。

お礼日時:2017/05/06 21:43

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