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最も幼稚な神は自然崇拝としての八百万の神でしょう。
これはただの野蛮人の拝む神であって、神についての一切の思想も哲学もない状態の神といえましょう。
アマテラスとその一族などがその典型と言えましょう。

次にこれよりは少しマシであるが、危険かつ劣悪な神は現人神であることは間違いないでしょう。
現人神の典型がイエス・キリストであり、それは偶像となって人々の前に姿を現すのです。
現人神は人間が神であるゆえ、必ずこの世界に争いをもたらすという意味において危険かつ劣悪な神と言えましょう。
イエス・キリストや、かつて現人神とされた昭和天皇を考えればこのことは分かりやすい。

そして最も洗練された神、人間にとって最終段階の神は宇宙の法則としての神でしょう。
最終的に神は宇宙の法則であると認識出来たとき神の概念は完結するのであり、ここに至って宗教は消滅し信仰のみが生き続けるのではないでしょうか。

A 回答 (23件中1~10件)

《隠れたる神(デウス・アブスコンディトゥス)》 あるいは



《独り神と成りまして隠れたまひき》なる神 あるいは

《ひとつの民族神であることから開かれた神》もしくは《普遍神》

を知らなければならないでしょうね。
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この回答へのお礼

神は隠れるものではありませぬ。
神は一つの民族とは関係ありませぬ。

お礼日時:2017/05/10 12:06

「そして最も洗練された神、人間にとって最終段階の神は宇宙の法則としての神でしょう」


⇒宇宙といえば、誰も文句はいえないだろうという定義は、とても幼稚な発想です。
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この回答へのお礼

人間は人間原理に基づく神々を営々と作ってきましたが、やがてこれらの神々が人間にとって役に立たない代物であることを知るときがやって来ます。

お礼日時:2017/05/10 12:10

あなたがどんな神様を、どんな摂理を信じるのかはあなたの自由です。

ですがそれは、あなたが信じない神様や教えをおとしめてていいという話ではありません。

 八百万の神は確かにまだ世界の神秘の一辺が解き明かされていない時代、神秘=神の御業と解釈したのが大きいでしょう。今の時代ではそのほとんどの神秘が科学によって解明されています。解明された神秘からは神性が抜け落ちてしまいます。当たり前ですよね。理解できるなら神秘ではないのですから。
 ですから今の時代では神様の存在を信じていない人も多いのです。

 ですが、私は「万物には神が宿っている」という八百万の神の考え方は好きです。もちろんそんなことは本当はないのかも知れない。ですが、身近な「もの」に神様が宿っていると考えることができたなら、そう思わないときより「もの」を大切にしようと思えるようになるのではないでしょうか。

 キリスト教だって同じです。イエスは人類悪を背負って一人十字架に掛けられました。彼を信じることで、その立派な功績を見習って正しくあろうと考えるなら、それは素晴らしいことではないですか。



 私は神様は「万能」であるとは思いますが、「完全」ではないと考えています。大きな力を持っていても、私たち人間と同じようにどこかが不十分なのでは、と。
 そして神様は人の心の中にもいるのではないでしょうか。人に優しくしたときに自分も嬉しくなったり、悪いことをしたときはどこかで心が痛む・・・人間の「良心」とは素晴らしい神様なのではと、私は思えてなりません。


 最初に言ったとおり、あなたが何を信じるかはあなたの自由です。ですがそれは重要ではありません。大事なのは「信じた上でどこが良し悪し、どこが見習うべきで、どこが否定するべきなのか。そして自分は「良心」と相談してどう行動するか」なのです。すべての教えの100%を信仰する必要はないと、私は思います。
 まあこんなこと言ったら邪道だとか怒られそうですがね。
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「神」という表現が可能になるのは、あくまで「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理」の象徴としてです。


「あらゆる事象をバランスさせる力」の象徴と言ってもよいかもしれない。
摂理は意志を持たない、ということが鍵です。
「神」と言う場合、どうも意志を持たせたがっている人が多いような気がします。
それで、一生懸命祈れば・・・、教義を守っていれば・・・、他の神に惑わされなければ・・・自分にとって何か良いことをしてもらえる、といった期待が、そこにはあるのではないでしょうか。
しかし、あくまで意志を持たない摂理の象徴にすぎないのですから、特定の誰かのために何かをしてくれる、といったことが起こるはずはない。
摂理は、ただひたすら、あらゆる事象をバランスさせているだけにすぎず、人間といえども、あらゆる事象をバランスさせるための一存在にすぎない、と捉えるのが論理的でしょう。
ここを理解できるなら(できないとすれば、不思議なくらいなのですが)、摂理にとっては、我と彼の区別が必要ないことも容易に理解できるはず。
結果、

「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない」

という命題が、ほぼ確信的に腑に落ちることでしょう。
このことから、現実世界を乗り切るために必須である [ 自我としてのこの我 ] という(日常的)視点だけでは不十分であり、[ 人類の一員としての我 ] という(根源的)視点が本来的に不可欠であることが再認識されやすくなる。
しかも、単なるきれいごとではなく、論理的な結論としてそうなることが理解できるため、他者に対する想像力が現実味を帯びてくることになり、たとえば、「汝の隣人を愛せよ」といったイエスの言葉でさえ、神が言ったから、という他律的な理由ではなく、あくまで自分の納得した行為として実現させることが可能になる。
同時に、教義に基づき、神が言ってるから正しいのだ、という思い込み(そもそも宗教とはそういうものではあるのですが)に陥る弊害を防ぐことにもつながる。
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>最も幼稚な神は自然崇拝としての八百万の神でしょう。



まず、我々日本人は最も幼稚な神で十分です
最低限であり、シンプル、
それを崇拝する日本では、比較的治安もよく、犯罪率も低い
比較的、モラルのある国であるといえます
それ以上を求める必要は少なくとも無いと思います。


>そして最も洗練された神、人間にとって最終段階の神は
>宇宙の法則としての神でしょう。

仮に私自身を神(宇宙の法則)と例えます、
そして、私の中にある1粒の大腸菌を地球、その上に乗っかるゴミを
人間と例えます。

すると、
そのゴミが見える世界=大腸の中=見える範囲の宇宙となります

そんなゴミが(大腸の中しか知らないのに)私自身(神)を知るなん
て事は、永久に無理でしょう、 仮に私(神)の存在に気づけたとしても
理解出来るとおもえません。

神(私)は1粒の大腸菌を気にしたことはありません。 大腸菌の上の
ゴミ達も、おそらく私の意思など求めてはいないでしょう。
幸せになりますようにとか祈られても知ったこっちゃないですよね
ただし、私(神)が居なければ、大腸菌も存在しなかったと言う一方通行
な感謝はあるかもしれませんが、関係性はそれだけです


>最終的に神は宇宙の法則であると認識出来たとき神の概念は完結するの
>であり、ここに至って宗教は消滅し信仰のみが生き続けるのではないで
>しょうか。

大腸菌の上のゴミが、神(私)を認識出来た所で、なにも1ミリも変わり
ません、

宇宙の法則としての神とやらも同様で、仮に理解出来たとしてもそれは
必要性が1ミリも無いもので、オーバースペックすぎる神など必要無く、
結果、宗教が消滅する事もありません
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#4です。

再度おじゃまします。

>ここに至って宗教は消滅し信仰のみが生き続けるのではないでしょうか。

基本的には同意できますが、若干の補足を。
信仰というのは基本的に思考の放棄だと思います。
それが悪いと言ってるわけではなく、むしろ必要とさえ言えるかもしれない。
ただ、人間は弱いもので、自分だけが信仰しているのでは自信が持てなくなる。
みんなが信仰しているのだからこそ間違いのない神なのだ、と信じやすくなるわけで、そうした [ 弱さ ] を利用してほくそ笑んでいるのが、仏教・キリスト教・イスラム教などをはじめとする「商売宗教」です。
見返りを求めることができると錯覚させるために、基本的に意志を持つ人格神をかつぐのが定番。
あるいは、心理学的には、「支配欲から生起した宗教」という見方も可能でしょう。
あくまで思考放棄した状態で自らがひたすら信じることが信仰という行為の本意であり、その純粋性に立ち還る必要がある。
仮にキリスト教でも、イワシの頭でも構わないわけです。
そうした純粋性に立っているなら、神を信じることで、自分にとって都合のよいことを期待する、などといった浅ましい考えが生まれるはずがない。
自分を生かしてくれているという、ただ、それだけの事実に対してひたすら感謝する姿勢があるなら、その信仰を他人に押し付けたり、他の信仰と対立したりする必要もない。
神を信じることで、なにか自分が神に近づいたような気になってしまうところが、宗教の最大の弊害でしょうね。
ひとり静かに無心に祈る、信じる。
そうした動作自体が、その人間を豊かにし、安寧をもたらすはずです。
思考の放棄ではありますが、思考以外にも人間に必要なことはありますからね。信仰とはそうしたものではないか、と思います。
ただ、『宇宙の法則』の場合、論理的帰結として、そうした事象の存在を認めることが可能になると思われるため、思考の放棄というスタンスは取る必要が無いでしょう。
特に信仰という形ではなくとも、あくまで、そうした摂理の元にわたしは存在しているのだ、という認識自体が、その人にとっての安寧につながるのではないかという気がします。
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この回答へのお礼

思考の放棄と言っても我々はこの宇宙の中に生存しているという現実を放棄することは出来ないのではありませんか。
そして我々はこの宇宙の中にどのよーなかたちで生存しているのかと考えたとき、宇宙の法則のもとに生存していると考える以外ないのではありませんか。
もちろんこれは論理的帰結なのであります。
そのよーに考える以外ほかに考えよーがないのであればそれはもー立派な信仰に行き着いているのではないでしょーか。

お礼日時:2017/05/10 20:27

No.2です。



「人間は人間原理に基づく神々を営々と作ってきましたが、やがてこれらの神々が人間にとって役に立たない代物であることを知るときがやって来ます」
⇒その通りでしょうね。

でも、「宇宙の法則としての神」も同様です。
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八百万の神は最も古い神の形態です。

古代、あるいはもっと古くの人々が、目に見えぬこの世の法則の存在を見出そうとした結果生まれたもので、それは現代に至るまでに多くの思想や文化を吸収して成長した大きな神です。
一方、神は宇宙の法則であるという考えは、比較的とても新しい、科学の進歩のおこぼれに預かっただけのような考えであり、赤子のように未発達な考えだと思います。

八百万の神を野蛮だとか幼稚だとかいうのは西洋の差別主義であり思い上がりです。それになびく被差別側の人間がいたとしたら、彼の矮小で卑近な精神の脆弱さは一体どこからきたのでしょう。

そして、このように反論される質問者の物言いは、神を巡る争いを助長するものだということがお分かりになると思います。こういった事柄について優劣をつけてそれを判じるのは良くないということです。
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幼稚?なにが?野蛮人でも、信仰してりゃ、世界随一の先進国、技術大国なった。

神道のどこが、野蛮だ?神道の神の意思で増長していた日本人の鼻をへし折り改心させ、自然を意識させ、綺麗な国土を作らせた八百万の神が、幼稚か?宇宙の法則が、神?ワケわからん。神とは、時間の流れが、神だ!何もしないのが神。ただ気付いて行いを改めるか、否かだ!神道とは、気づきの宗教。最高難度の宗教だ。
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あんたの説明わからんし。

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