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最も幼稚な神は自然崇拝としての八百万の神でしょう。
これはただの野蛮人の拝む神であって、神についての一切の思想も哲学もない状態の神といえましょう。
アマテラスとその一族などがその典型と言えましょう。

次にこれよりは少しマシであるが、危険かつ劣悪な神は現人神であることは間違いないでしょう。
現人神の典型がイエス・キリストであり、それは偶像となって人々の前に姿を現すのです。
現人神は人間が神であるゆえ、必ずこの世界に争いをもたらすという意味において危険かつ劣悪な神と言えましょう。
イエス・キリストや、かつて現人神とされた昭和天皇を考えればこのことは分かりやすい。

そして最も洗練された神、人間にとって最終段階の神は宇宙の法則としての神でしょう。
最終的に神は宇宙の法則であると認識出来たとき神の概念は完結するのであり、ここに至って宗教は消滅し信仰のみが生き続けるのではないでしょうか。

A 回答 (23件中1~10件)

形而上という閉じられた箱の中で語るのであれば、どの神も同じ様なものです。



高次の神と低次の神が居るという考え方は低次元ですw
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この回答へのお礼

神は形而下にいるということですか。
金のなる木が神とか、そーゆー話ですか。

お礼日時:2017/05/15 22:26

自然崇拝、現人神、宇宙の法則、と左から順に幼稚なもの、マシなもの、最も洗練されたものと順位付けしている。

順位付けあるのかなぁ。no.1は一神教もあるぜ!って回答だな。no.2はおしつけんなって反発。no.3は他を貶めるな。no.4は因果応報ってかんじ。no.5ちょうどよい神。

宇宙=ユニバースに対して、多重宇宙=マルチバースを推したい。東大も推してるぞと学歴信仰に走るも吉。
http://www-utap.phys.s.u-tokyo.ac.jp/~suto/myres …
宇宙の法則は、水が凍った時体積が増えるように設定してあって浮く。もし、体積が減るように設定してあると氷が水より比重が重く、海の底に氷がたまって永久に循環しないで、使える水がどんどん減っちゃう。ってメカラウロコ。
いい塩梅の宇宙の法則をくじ引きで引き当てるように、ものすごくたくさん、宇宙があって、今自分がいるのは、あたりを引いた宇宙だよって。でっていう。マルチバースは普遍神がちょうど説明に良いno.1からパクる。下記の回答からもパクる。
https://okwave.jp/qa/q9301051/a25938528.html
 少なくとも、普遍普遍神と普遍普遍普遍神と普遍普遍普遍普
 神の3柱を心に抱いてみました。

レベル1マルチバース 神。レベル2マルチバース 普遍神。レベル3マルチバース 普遍普遍神。レベル4マルチバース 普遍普遍普遍神。ついでにno.5をパクって、レベル0マルチバース 人。レベル-1マルチバース 大腸菌の上のゴミ。勢い余ってレベルi(虚数)マルチバース ナイアルラ&ホテップ

レベル0の人がたくさんあるし、レベル1の神がたくさんあるし、レベル2の普遍神もたくさんあるし、レベル3の普遍普遍神もたくさんあるし、レベル4の普遍普遍普遍神もたくさんある。宇宙の法則の次の発展段階があって、多重宇宙の法則っていう段階キタコレ。八百万の神々っつーのもあながちあどれならい。失礼神々まみた。外なる神もたくさんいるよー。這い寄る混沌。這い寄る混沌。神々まみれ。東大パイセンマジパパパネェ。
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#21です。



>宇宙の法則=「自然宇宙の絶対的摂理」を人智の及ばぬものとして非思考で終わるのではなく、真理の探求によって常に追い求めるという姿勢が人間にとって大事であるということ。

人智が及ぶなら、絶対的摂理ではありませんよね。
科学の範囲で探求することは今も為されているわけですが、それとは別の問題でしょう。

>真理の探求がなければ哲学も信仰も成り立たないでしょう。

まあ、哲学に関してはそれも言えますね。
ただ、信仰に関してはどうでしょうか。こうした強迫観念があらゆる対立の元凶となっているのではないですかね。
真理とは、つまり、「真理と(わたしが)思うこと」という個人的見解にすぎないわけですから。
その妥当性について論議されるのは構いませんが、これこそが絶対的真理というものは、実は、極めて単純な概念でしょう。
すなわち、

「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
この場合、
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
よって、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

ということ。
あまり細かく規定しようとするのは誤謬につながる。
こうしたことを大元と捉えておき、その上で各論的論議を検討するなら、多少なりとも有意な何かが得られるかもしれない。
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この回答へのお礼

>まあ、哲学に関してはそれも言えますね。
ただ、信仰に関してはどうでしょうか。こうした強迫観念があらゆる対立の元凶となっているのではないですかね。

あなたは哲学と信仰は別のものというのが基本姿勢のよーですね。
私は哲学は信仰であり、信仰は哲学でなければならないと考えます。
哲学と信仰は矛盾してはなりませぬ。
もしも信仰が哲学的に考えて矛盾するものであれば信仰としても成り立たない。
もしも哲学が信仰として成り立たないのであれば哲学としても成り立たない。
哲学と信仰は同一のものでなければならないと考えます。
なぜなら、もしそーでなければ脳内分裂を起こすからです。

お礼日時:2017/05/13 15:40

#17です。



>宇宙の法則=「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理」と考えているフシがありますね。
ただし、「人智の及ばぬ」は余計です。
宇宙の法則=「自然宇宙の絶対的摂理」、これくらいで止めておくべきです。
なぜなら宇宙の法則は人智と無縁のものではなく、われわれ人間にとっては人智があるが故に宇宙の法則の意味があるからです。
われわれ人間にとっては人智があればこそ宇宙の法則に意味がある。
だから「人智の及ばぬ」は余計なのです。

基本的には同じような考え方のようですね。
ただ、「人智の及ばぬ=不可知」という意味で必須です。
可知となる可能性はゼロですよね?
なぜなら、万一あるとすれば、人間が神になった時でしかあり得ないわけだから。
また、万一、神になることがあったとしても、その時点で「神」という概念自体が無用のものとして消滅しているわけだから。
いずれ将来的には可知になるというお考えでしょうか?
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この回答へのお礼

>いずれ将来的には可知になるというお考えでしょうか?

重要なことは結果ではなく、課程、すなわちプロセスであること。
真理の探求が重要であるということです。
真理の探求なくして哲学も信仰も有り得ない。
宇宙の法則=「自然宇宙の絶対的摂理」を人智の及ばぬものとして非思考で終わるのではなく、真理の探求によって常に追い求めるという姿勢が人間にとって大事であるということ。
真理の探求がなければ哲学も信仰も成り立たないでしょう。

お礼日時:2017/05/12 15:30

納得=思考の放棄



宇宙の本体は絶対(二つとない)の霊体である。
この世は、その霊体の意の力、意力の現れである。
この世は、人の感覚が物質の存在を捉え、その物質は理性的に変化する。

搗き立てのお餅を畳状にして、食べやすいように切る。
この畳状のお餅を宇宙に例えると、食べやすく切ったお餅が我々人間と思う事によって、神(宇宙)と我々とは同質であるとなります。

精神に於いても、宇宙の精神の分身として我々の心がある、と云う事になります。
宇宙の精神の働きである『意力・感覚・理性』が、そのまま人の心の能力として備わったと思えます。

こうした「論」に出会ったら、これが腑に落ちて納得できました。
だから、このことに付いて今は思考の放棄状態にあります。

言い換えれば、信じる事が出来たのです。
したがって、今はこうした事柄についての疑問は起きません。
心は安定しています。

※ 宇宙の法則と云う表現は、理性的働きのみが強調されてしまうのではないでしょうか。
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横入りですが:



◆ 信仰が実行されている時点では、あくまで無思考。
☆ 信じるというとき どうして思考を無くさなければならない
のでしょう?

思考をしていても休めていても それは まったく自由であり
信じるにとって なんら関係のないことです。



信仰は 非思考なのです。非感性でもあります。



感覚を止めたり働かせたりすることと 信じることとは 別の次
元のことです。

ただし 信じること――非思考の庭――から ヒラメキを得るな
ら それは 感覚ないし思考として意識することになります。

あるいは ヤマシサ反応が起きたら それは 感覚として現われ
るものです。

非思考が あたかも思考や感性として現われる。ですが あくま
で 《あたかも》です。
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この回答へのお礼

どうやら、考えること、感じること、信じることは互いに単独で成り立つことの如く勘違いしていますね。
それは有り得ないことです。
信じるとは考えることを抜きにして単独では成り立ちません。
実際のところ信じるとは考えた結果、信じることにしよーという判断に過ぎないのです。

お礼日時:2017/05/11 19:33

#15です。



1.
>思考停止ではなく、むしろ「腑に落ちる」と考えるべきなのです。
どれほど一生懸命考えても、どれほど深く考え抜いても、これ以外には他に考えられないという領域に達したとき人はそのことについて「腑に落ちた」と納得するのです。

◎一生懸命考えて◎
◎深く考え抜いて◎
これは思考の段階。そして、
◎これ以外には他に考えられないという領域に達したとき◎
という時点に着目するなら、それは、
▼無思考▲
の状態と言えると思います。
信仰が実行されている時点では、あくまで無思考。
この点では変わらないようですね。

仮に、そこに至るまでの過程が大事だという意味でおっしゃっておられるなら、それは、すでに信仰と分類されるべき対象ではないでしょう。
思索の結果として辿り着いた境地、とでも言いましょうか。
つまり、特に信仰につながるわけではないが、
◎「腑に落ちた」◎
という状況だってあるわけですから。

2.
>神は何かと考えたとき、それは宇宙の法則であると考える以外に他に考えよーがない。

それはおっしゃるとおりです。
というより、「意志を持った神そのもの」が存在するわけがありませんよね。
まず最初に「自然宇宙の絶対的摂理」が存在するわけで、しかし、そうした摂理がどのような原因で生じたのかは「人智の及ばぬナゾ」です。
であるからこそ、そのような、
▼「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理」▲
を象徴的に(つまり、簡潔に)表現するため「神」という言葉が創造されたわけでしょう。
これが本来の「神」の定義。
なので、
◎この域に達したとき◎
と言うよりは、商売に成り下がっている、あるいは支配の遊び道具として利用されてしまっている各宗教(団体)の教義から、本来の「神」の意味(定義)を取り戻すという作業です。その作業が完了したなら、
◎神は何かという問題は完全に「腑に落ちた」と納得◎
する(気がつく)ことができることになる。
しかし、だからといって、
◎この域に達したとき、それはもー立派な信仰に行き着いていると考えてよい◎
とおっしゃるのは飛躍ではないかという気がするわけです。
むろん、いろいろ考え抜いた末、結果的に信仰に行き着く場合もあるでしょう。
しかし、考え抜いたからといって、それが信仰に必ずつながるわけではなく、逆に、考え抜くことが信仰にとって必須ではないだろう、ということ。
信仰は学問とは異なる性質の、思考というよりは、感覚、あるいは精神作用と分類するのが妥当でしょう。
そもそも、
▼「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理」▲
の存在は認識されるべきものではあっても、信仰の対象となるべき性質のものではないでしょう。
あくまで論理的に考えて認めざるを得ない対象である、というだけのことです。
まあ、信仰の対象にしたい人はすれば良いのでしょうが、しかし、たとえば「摂理教」などと言い出す人が必ず出てくるわけで、その場合は、すでに思考停止の対象になってしまう、ということだけは留意しておく必要がある。
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この回答へのお礼

宇宙の法則=「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理」と考えているフシがありますね。
ただし、「人智の及ばぬ」は余計です。
宇宙の法則=「自然宇宙の絶対的摂理」、これくらいで止めておくべきです。
なぜなら宇宙の法則は人智と無縁のものではなく、われわれ人間にとっては人智があるが故に宇宙の法則の意味があるからです。
われわれ人間にとっては人智があればこそ宇宙の法則に意味がある。
だから「人智の及ばぬ」は余計なのです。

お礼日時:2017/05/11 19:22

基本的に重要なことですので。




○ われにおける自然本性の成り立ち ~~~

【信じる】(α):非思考の庭
ーーーーーーーーーーーーーーー
【考える】(心):思考の緑野
【感じる】(身):感性の原野

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ このように人間の《身と心 + α 》なる自然本性が成っていると
みるとき 《信じる》と《考える》とは 併存・両立します。

非思考の庭は 思考の緑野とは 次元が別です。

信仰は 思考の実行や放棄 あるいは休止や中止・停止・禁欲などな
どとは かかわりがない。という事実です。
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この回答へのお礼

>【考える】(心):思考の緑野
 【感じる】(身):感性の原野


人の顔には目と耳と鼻と口があります。
目に見えるモノは感じたことなのでしょーか、それとも考えた結果なのでしょーか。
耳に聞こえるモノは感じたことなのでしょーか、それとも考えた結果なのでしょーか。
鼻で嗅いだモノは感じたことなのでしょーか、それとも考えた結果なのでしょーか。
口で噛んで味わったモノは感じたことなのでしょーか、それとも考えた結果なのでしょーか。
一つあなたに問いたい。
これらのモノは感じるモノなのか、考えるモノなのか区別ができるのですか?
思考を完全に停止し全く考えることなくモノを見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり出来ると思っているのですか。


>【信じる】(α):非思考の庭
 ーーーーーーーーーーーーーーー

信じるについても同様。
信じると、考えると、感じるは区別できるのですか?
思考を完全に停止し、一切の感覚を停止し、信じることは出来ると思っているのですか。
信じるは単独では成立し得ないのではありませんか。
実際のところ信じるとは考えた結果、信じることにしよーという判断なのではありませんか。

お礼日時:2017/05/11 18:03

#6です。



補足のほうにお礼をいただいたようですが、本論は#4ですので、そちらのほうにもご感想をいただければ有難い。

>思考の放棄と言っても我々はこの宇宙の中に生存しているという現実を放棄することは出来ないのではありませんか。

そうですね。(#4で記述済みですので、詳しくはそちらをご覧ください)

>そして我々はこの宇宙の中にどのよーなかたちで生存しているのかと考えたとき、宇宙の法則のもとに生存していると考える以外ないのではありませんか。

当然でしょうね。(この点についても#4で記述済み)

>もちろんこれは論理的帰結なのであります。

そのとおりです。(これも#4で記述済み)
以上の点に関して、さらに詳しくは拙プロフィール欄をご覧いただければ幸いです。
大体、質問者さんと似たようなことを言っているかもしれません。

>そのよーに考える以外ほかに考えよーがないのであればそれはもー立派な信仰に行き着いているのではないでしょーか。

『そのよーに考える以外ほかに考えよーがない』
からといって、
『それはもー立派な信仰に行き着いている』
と捉えなければならない必然性は特にないでしょう。
つまり、
▼『宇宙の法則』の場合、論理的帰結として、そうした事象の存在を認めることが可能になると思われるため、思考の放棄というスタンスは取る必要が無いでしょう。▲
と述べたのは、そういう意味です。
むろん、
◎立派な信仰に行き着いている◎
と捉えても構わないのですが、ただ、#6冒頭で申し上げましたように、「信仰」というのはあくまで「思考の放棄」という本質を伴なうものだと思います。
思考の放棄だからこそ「信仰」足り得る。
あれこれ理屈で考えているうちは、信仰とは呼べないでしょう。
これはこれで有意義な行為だとは思うのですが、また、それゆえ殊更否定するつもりはないのですが、神を宇宙の法則の象徴と捉えることができるのであれば、特に信仰という形ではなくとも、あくまで、そうした摂理の元にわたしは存在しているのだ、という認識自体が、その人にとっての安寧につながるのではないか。
これがわたしの趣旨です。
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この回答へのお礼

>「信仰」というのはあくまで「思考の放棄」という本質を伴なうものだと思います。

それは信仰に対する間違った捉え方です。
「信仰=思考の放棄」という見方には無理があるのです。
何故なら人間はカタツムリやミミズではないからです。
人間には思考するための脳ミソが備わっているのですから一瞬たりとも思考を停止することは出来ないのです。
それは寺のお坊さんとて同じで、普段はお経を読みながら思考を停止しよーと頑張っても頭の片方では常に賽銭箱の中身が気になっているはずなのです。
人間である限りどれほど頑張っても完全に思考を停止することなど誰にも出来ないのです。

思考停止ではなく、むしろ「腑に落ちる」と考えるべきなのです。
どれほど一生懸命考えても、どれほど深く考え抜いても、これ以外には他に考えられないという領域に達したとき人はそのことについて「腑に落ちた」と納得するのです。
神は何かと考えたとき、それは宇宙の法則であると考える以外に他に考えよーがない。
この域に達したとき、神は何かという問題は完全に「腑に落ちた」と納得してよいのではないでしょーか。
そしてこの域に達したとき、それはもー立派な信仰に行き着いていると考えてよいのではありませんか。

お礼日時:2017/05/11 17:18

まず初めに個人的ご利益信仰があり、次いで社会的集団信仰があり、さらに進めば個人の霊性開発につながる信仰だと思います。


私のレベルで云えば、自身のやさしさとかの好ましい心を育てようと云う"生き方"をすること。これを「信仰」としています。
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