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私は全然あると思いませんが あの世とか地獄とか輪廻転生とかあるのでしょうか?

あると思ってる人が巷には案外多いので慄きます。

みなさんはどう思いますか?

在るとしたら現実の精神界性質の世界はあると思いますが。

当方病人にて短文でお願いします。

A 回答 (25件中11~20件)

No.8 です。


実際、生々流転ですから、死んでも消えるわけではなく、ふたたび何らかの形となるのは、科学的事実です。クレオパトラの水分子の譬えにあるように。地球上に留まらず、地球と宇宙の間にも循環があります。死んで星になるという譬えは案外真を突いているかもしれません。
地球や人体を構成する物質は、太陽以外の恒星の爆発や衝突によってしか生成されないものがあり、その星の周りに文明が宿っていて、そこに住む誰かの指が、今のわたしの脳細胞である可能性とか、前世はマリー・アントワネットだった、とか、何でも可能性はあります。人の認識できる物質界さえそうなのですから、感覚で捉えられない世界にどんな共有があるかわかりません。
昔、そういった全体性に気付き、有限の自己に囚われるからこそ、病気や死や、生に苦しみが伴うのだと、悟った方がいて、自他、内外を区別しないという思想が、一般にわかりやすいように譬えられ、また悪用され、擬人化された概念が、来世や地獄なんだと思います。
元来、生死の先にあることは、人知の及ぶところではないのに、己が成し得る想像と現実を混同するのは、傲慢以外の何物でもなく、それ自体が苦しみの根源です。
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orz…慄(おのの)きますが読めんかった。

嘶(いなな)きは〜┬┬彡^・∋ ヒヒーン。



スピリチュアルケア信仰が科学万能信仰と宗教対立している。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …

目的
科学に限界は無いと信じる人を否定する事。

状況
技術革新の恩恵にあずかり日々生活しており、科学の洗脳力が強く洗脳されかけている。洗脳されかけているスピリチュアルケア信仰が苦しんでいる。洗脳されかけていることに気づいていない。科学の側はスピリチュアルケア信仰と対立している認識が無い。

要約
死後、魂が死後の世界に行く。体が無くなっても魂が残る。魂は心。死後の世界のために心身二元論を支持する。死後の世界があることの証明の実証はスピリチュアルケアがあること。死後の世界への生まれ変わりは希望であり生きがいの一つ。それがないと自律ができない。 死後の世界がないこと証明することは悪魔の証明。実証不可能だから大丈夫。

心は意識。意識のハードプロブレムが解決され、脳機能のみで意識ができていることが証明されてしまう。意識は脳。脳は物質。唯物論は死後の世界がないことを証明しようとしている。唯物論は科学。科学は進歩している。科学者が将来的に希望を打ち砕こうとしている。それが死ぬほど怖い。寿命がたくさんあるほど打ち砕かれやすい。悪魔の証明でも大丈夫じゃない。科学について学べば、科学の限界が分かり、心身二元論に安住できるかもしれないが、逆に意識のハードプロブレムが唯物論的に解決され、死後の世界がないことが分かってしまうかもしれない。また、自分がそこまで科学を理解できると期待できないししたくない。
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死んだら終わり、なら悪人も逃げ切りですね。


もし天道というものがあり、我々の知っている理を超えた仕組みがこの世にあるのであるならば、それの作用を、我々が、死後や生前に受けるであろうことは別に不思議ではありません。知っていることの方が知らないことよりも遥かに少ない人類の現況をみれば、生まれ変わり、輪廻や別世界を否定することは私にはなかなか難しいです。
人を家畜のように扱った者は、次の生で家畜のように扱われる。1000人を家畜のように虐げたなら、家畜のように虐げられる人生を1000回生きることになる。当然の報いのように思えます。
ただ、この考えは現代の考えにそぐわない問題が一つあります。それは、今、虐げられている人々は、前世で他者を虐げた人々なのだろうか?ということです。もしそうなら自業自得ということになりますが、それでは社会は進歩しません。いじめはなくなった方がいいし、自由な社会は実現した方がいいでしょう。業の報いはあるけれど、それでも世の中を進歩させるべき、そのように思っています。
 
良く生きるのもその人の意志、求めるところというのはそのとおりだと思います。
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そうそう、ルパート・シェルドレークっていう数字者(確か英国王立科学院のフェローだったと思う。

 要は素性が確かな科学者)が「生命のニューサイエンス」っていう本を書いてます。 読んで欲しいです。

個人の知識や経験はその個人の脳に記録・保持されるという「一般常識」をお持ちでしょう?

これに反証する事例を得た、大掛かりな実験とその結果が書かれます。 意味解りますか?

質問者さんや常識人に記憶について説明してもらうと、以下のような常識を語るのではないでしょうか?
①私の得た記憶は私の脳に記録されます。
②だから、他人は私の記憶を知り得ません。

ならば①②は科学的に証明されてますか?

③勿論です。 海馬(記憶中枢)を破壊すると、記憶を失うことが実験で明らかになりました。 これが①すなわち記憶が個人の脳(海馬)に記録される証明です。 ②は経験から明らかです。 誰も私の記憶を覗けません。 覗ける人は超能力者か嘘つきです。
こんな感じでしょうか?

さて、この常識に反する実験結果が出たとしたらどう思います?

ある隔離された集団(実験では集団を用いた)が知り得た情報は、空間的に離れた他の独立の集団に伝播する。 と言ったらどう思います?
概要をリンクしておきます。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82% …

もし、実験結果がすべて正しければ、少なくとも一部知識や経験は各人が共有する何か(空間とか)に記録されてることになります。 仮説を飛躍させれば、脳は記録媒体ではなく、通信機能(記録媒体は空間など)という推論も可能です。

要は、すべての記憶が個人の物理的肉体(脳)に記録されると信じる行為は必ずしも科学的でない。 反証事例がある。

つまり肉体の消滅(死)が個人の記憶の終焉と言い切ることは科学的でない。

意識についても(科学的とは言えないが)ユングの集団的無意識という概念がある。 

まあ、死んだらすべて終わりというのは常識ではあるけど、一部反証事例もあるにはあるということです。

それより、元気になってくださいね。
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この回答へのお礼

Thank you

集団無意識というのはあるでしょうね。

そこに天国や地獄、あの世があるのかな。と思います。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2017/06/11 09:50

死とは何でしょうか。

死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html
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悪い奴ほどよく眠る。

たしかにそうかもしれません。罪の意識がないですからね。
しかし同時に、悪果は遅れてやってくるとも言いますね。
悪行も、その報いが現れるまでは本人はへっちゃらですが、報いが来てから気がついて後悔してもときすでに遅し。
人の怨みを集めた者が、無事で済むとは思えないのも事実です。
さて、ホントのところはどうなのか。私も若い頃はないと思ってたんですがね、いくらか人生を経験すると、まかり通らないことはあるのではないかと思うようになりました。天網恢恢疎にして漏らさず、逃げおおせることはできないということです。
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この回答へのお礼

Thank you

そうですねえ。どうですかねえ。

いい人は早死とも言いますねえ。悪い奴もそのまま罰を受けずに死んでしまえば逃げ切りですねえ

普通の会社でもいじめやパワハラセクハラはあるようです

悪い上司がそのまま定年して退職金たんまり というケースも多いのでは?ないでしょうか?

良く生きるのもその人の意志ですね。ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/10 20:53

あると思うものに関して質問した方が有意義だと思うけど。

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この回答へのお礼

ありがとう

精神は存在してるでしょうね。この世には存在するものしかないです。

存在するもの パソコン 文字 光 私・・・

お礼日時:2017/06/10 20:04

在ると信じる人には有るでしょう。


その人個人のなかでは永久不変の真実ですから。
その信念を持つことで、 空疎な人生が充実し、心が満たされ、不可避で不可解な死への恐怖を脱せるのなら、信仰の存在意義があります。

自分は、死んでまで 人の定めた善悪などの価値基準、偏見に満ちた杓子定規が通用するなどとは 到底思えません。
昔、支配者が人民を統率するために、法律にある罪と罰のような、人によって造られた規定以上に、強力な絶対神の名のもとに、悪を防ぎ、善を推奨するために、作り上げた世界だと思います。

なぜ みな、与えられた生のみならず、追加の時間、自分という塊を維持したいと欲するのか、皆目理解できません。
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この回答へのお礼

Thank you

認識が高いと思います。仰る通り信仰で心満たされ幸せに思えるならそれもいいでしょうね。

夢を信じてもいいわけです。

ただ最後の行には?マークですね。死にたくない、死んでも生まれ変わりたいという人は多いですよ

だから90歳100歳になって病気をしても生きているのでしょう?

お礼日時:2017/06/10 19:38

小学生の時に担任の先生に「地獄の写真がある」と教えられ、大変な


衝撃を受け、しばらくの間信じていたことを思い出しました。

仏教では「地獄」あるいは「西方極楽浄土」を説いていますが、法華
教ではこれを説いていません。
私は「極楽湯」にはたまに行きますが、極楽浄土はないと思います。
「地獄」も地の底にそういった空間があるとは思えないです。

「因果律」が「すべての物事に原因がある」という意味であるならば
我々人間の運不運にも原因があるだろうということになり、それは前
世の存在を意味することになるでしょう。

前世が存在しないならば、先天的なものとか縁とかいったものがすべ
て「偶然」ということになってしまう。

従って、仏教で説く、「人間は生死を永遠に繰り返す」という生命観
が正しいと思います。

私はそれを信じているので、もし人生は一回きりであるということな
らば、生き方を変えなければならないので、大変に困る。
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この回答へのお礼

ありがとう

運命は偶然の部分と因果律というかDNAとか因縁に因るものとかがあるでしょう。

生死は確かに繰り返していますが、主体も意識も変わっています 別人格です。

しかし輪廻、あの世を信じるのは自由です 思想信条の自由です。

お礼日時:2017/06/10 19:28

「あの世とか地獄とか輪廻転生とかあるのでしょうか?」


⇒あの世があると思うほうが心穏やかに過せますね。

私も時々、今はなき祖母や母に心の中で話しかけます。

天国や地獄があるほうが心して生きていけます。
輪廻転生もあるほうが希望がありますし、穏やかに今の人生を閉じることができますね。
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この回答へのお礼

Thank you

生きてる内はあの世があるのでしょうね。死ぬとなくなってしまう

だから生きてるうちに亡くなった人を思い出して 心の中に生きている故人と話すのでしょう。

あると思ったほうが希望があるなら あると思ってもいいでしょうね 思想信条の自由です。

お礼日時:2017/06/10 19:13

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