プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. 非知なる神は われわれの・その人知の内部か外部かの問題では
ないんだ。

2. 《超越・超えている》という問題なんだ。

3. しかもそれは まだ 《一般絶対性》としての神のことである。



4. 経験世界を超えたところの《非経験の場》としての――非知なる
ナゾの――神は 《超えている(つまり 絶対性)》ゆえに 相対世界
である経験事象に対して カカハリを持つ。と考えざるを得ない。

5. 絶対から相対へのハタラキカケもがあるかも知れない。

6. そこで 神とわれとの《個別絶対性》というコトが起きる。



7. 相対的存在でしかない人間のひとりである《われ》が――その主
観が―― どうして絶対性にかかわるのか?

8. 非知なる神は 普遍神だからである。神は 普遍神であるしかな
い。絶対が 二つも三つもあるはずがない。または 人間が数え得るこ
とはない。

9. どんな《神 - われ 関係》であろうと非知ならば(人知を超えて
いないとダメだという意味ですが) その信仰は 一人ひとり個別に絶
対性とかかわる。と捉えざるを得ない。

10. だから 信教・良心の自由という公理がみちびかれている。



11. しかも・しかも 人知を超えたナゾとのカカハリとして その
ナゾなる神を おれは見たぞという或る主観があらわれたとしても そ
の主観の内部におさまる限りで その絶対性をみとめてやらねばならな
い。

12. 神などおれには関係ないという主観がいても その神論ないし
神観についても 非知の条件を満たすかぎり その絶対性をみとめてや
らねばならないのと 同じである。

13. そして どちらもそれぞれの主観の内面におさまるかたちとし
てのみである。



14. つまり わが主観から外に出かけて あいつの神は おれの神
と同じなんだと言っても ただの独り言でしかない。

15. 個別の主観から外に出かけてしまった場合には それはあいつ
の神について人知がおよんでいることを示している。そうなると 個別
の絶対性は 保証されない。

16. つまり 同じ神を信奉する信徒の集まりといった現象は・つま
り宗教は アウトである。



17. じんるいのすべてが 同じ普遍神と――《有る神》派と《無い
神》派とに自由に互いに対等に分かれて――それぞれ個別の絶対性とし
てのカカハリを持つ・・・というふうには言える。しかも それは 宗
教ではない。オシヘが関係ない。わが神とあなたの神とが同じであるか
どうかは分からない。



18. なお 個別絶対性について 実際の生活においてその絶対性が
――あくまで主観の内部で――あたかも現われた(神を見た)と言える
という事態は 《特殊絶対性》と呼ぶとよい。



19.《一般および個別絶対性理論》 ならびに《特殊絶対性》という
おまけについての仮説です。いかに?

質問者からの補足コメント

A 回答 (13件中1~10件)

精神病院 紹介しようか

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この回答へのお礼

この論理について行けない。ということですね。

ただ 《無限》については 数学ではふつうに一般的な知識(?)
ではあるはずですね。
(ふつうの論理を超えているという事例ですが)。

何とかそういったところから 認識を伸ばして行ってみて欲しい。
と考えます。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/06/29 13:14

最初から意味が通じていないと思いますけどね。



1.
☆2. 《超越・超えている》という問題なんだ。
であるなら、
☆1. 非知なる神は われわれの・その人知の内部か外部かの問題では
ないんだ。
というはずはないでしょう。つまり、
☆人知の外部かの問題
に決まっているのだから。

2.
あと、
《一般絶対性》
《個別絶対性》
といった造語については、その成り立ちを少し解説しないとわかりづらいと思いますよ。

3.
>15. 個別の主観から外に出かけてしまった場合には それはあいつ
の神について人知がおよんでいることを示している。そうなると 個別
の絶対性は 保証されない。

16. つまり 同じ神を信奉する信徒の集まりといった現象は・つま
り宗教は アウトである。

☆個別の主観から外に出かけて
しまわないように、それぞれ教義を定めているように思うのですが。
なので、そのこと自体の是非は別にして、
☆アウトである
根拠にはならないのでは。

4.
宗教論としては面白そうな部分もあるのですが、私のような素人にももう少しわかりやすく丁寧に解説してほしいですね。(今後の回答を約すものではありませんので悪しからず)
特に、非知という概念が浸透しているわけでもないのに、いきなり、
☆非知なる神は
とすれば、そりゃあ引かれてもやむを得ない。
そういった姿勢にも老婆心ながら苦言を呈させていただきます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

最初から意味が通じていないと思いますけどね。

§ 1.

☆☆ 人知の外部かの問題
★ に決まっているのだから。
☆ いいえ。違います。《人知の内部》は 人知です。《人知の外部》は 
内部に対してその《外なる領域》として認識しています。

(その中身は 知り得ていないとしても 領域を枠組みなどとしてのごと
くすでに認知しています)。

つまり 外部は 人知のおよぶ範囲に属します。神ではありません。神の
説明にはふさわしくありません。


§ 2.

★ ~~~~~
《一般絶対性》
《個別絶対性》
といった造語については、その成り立ちを少し解説しないとわかりづらい
と思いますよ。
~~~~~
☆ 追い追いやってまいります。


§  3.

☆☆ 個別の主観から外に出かけて
★ しまわないように、〔既存の宗教も〕それぞれ教義を定めているよう
に思うのですが。
☆ ひとつに《オシヘ》は 人知のおよぶ対象ですから 除外します。

ひとつに 《外に出かけてしまわないように》という意志の行為は 人知
の問題です。つまり 神とは関係ありません。

★ なので、
☆☆ アウトである
★ 根拠にはな
☆ っています。


§ 4.

★ 宗教論としては面白そうな部分もあるのですが、私のような素人にも
もう少しわかりやすく丁寧に解説してほしいですね。
☆ 何ごとも初めはむつかしい。です。


★ 特に、非知という概念が浸透しているわけでもないのに
☆ でもあたらしいワインは あたらしい革袋に入れないと ワインがふ
るい革袋を破ってしまい 台無しになります。


★ いきなり、
☆☆ 非知なる神は
★ とすれば、そりゃあ引かれてもやむを得ない。
☆ 先刻承知の助ではあります。が 助言をありがとうございます。

お礼日時:2017/06/29 19:09

なんだが分かりませんが、まとめますと質問者は神の存在を全否定をしてるわけですよね。

でしたら神を全否定している私の心に響きました。
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この回答へのお礼

違うんですけどねぇ。残念ながら。

ご回答をありがとうございます。

宗教を全否定しています。それは 神の信仰ではなく 神について
のオシヘ・つまりは 一般的に言って思想なんです。

思想としての社会運動だとか 修行についての同好の士の集まりだ
とかそういった中身でしかないと言っています。宗教はです。



(10)の信教・良心の自由にもとづき 信仰は まったく自由で
あると言っています。



ただし:
★ 神を全否定している私
☆ とおっしゃるとき その立ち場も 《無い神》派としての同じ
信仰であるとも言っています。=(17)です。

神は 普遍神なんです。無い神もありです。

どうでしょう?

お礼日時:2017/06/30 18:44

この世は物質と精神で構成されています。

もし、この世は物質のみで構成されているとしたら、私は何も感じないでしょう。

熱いとか赤いと感じている主体が私です。熱いとか赤いと言う感じは、幾ら高性能な顕微鏡で脳の中を覗いても見えません。物質が、熱いや赤いに対応する動きをしているのが見えるだけです。
その動きの刺激を受けて、精神である私が熱いとか赤いと感じているのです。
熱いや赤いは物質ではないので、それを感じている私も物質ではありません。私は、無限の感受性である精神です。

物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何と呼んだら良いでしょうか。

そして、この世の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となり更に結果を生じると言う形になります。
従って、宇宙の始まりは原因なくして結果を生じなければなりません。つまり、無から有を生じなければなりません。しかし、それは不可能です。

一方、精神は物質を動かすことが出来ます。精神である私は物質である手を動かすことが出来ます。ですから、宇宙の始まりにおいて最初に動いたものは、「原因から自由な精神」以外にはありません。

質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?

 ユダヤ教・キリスト教では、外界は神が創造したと信じます。
 ここに物が落ちたのは、ここに落ちるように、宇宙が作られているからであると考えます。そして、どうしてここに落ちたのかを追求し、 物体は外から力が加わらなければ、そのまま飛び出した方向へ等速運動を続けるが、落下距離は時間の2乗に比例する為、 放物線を描いて地上に落下し、ここに落ちたことを発見します。
 宇宙で起る全てのことは、必然であり意図されたものであると考えます。ですから、一見偶然に思える事柄に対しても、 必然であると確信し、その仕組みを解明しようとします。
 ある天才は、「神はサイコロを振らない。」と言いました。 これは、現象を確率で説明しようとする態度に対して、必然な説明をしなければならないと批判したものです。
 この様に、西洋では神が宇宙を創造したと言う確信により、自然科学は発達して来ました。

 それに比べて、東洋では仏が宇宙を作ったとは考えません。精神の中に仏が存在していると考え、内心の仏を追求します。
 宇宙は偶然出来たと考えます。物は色んな所に落ちます。物がここに落ちたのは偶然だと考えては、 落下の法則や万有引力の法則は思いつかないでしょう。
 無神論も同様です。ハッキリと必然と分ること意外は偶然であると考えたのでは、人に先駆けて新しいものを発見することは出来ません。


 神を持ち出すと、単純に非科学的であると非難する方が居られます。しかし、科学で全ての現象を説明出来るでしょうか。
 第一、物質の因果関係のみでは、宇宙の始まりを説明することは出来ません。 物質の因果関係は、原因→結果=原因→結果=原因→結果・・・と続きます。原因があり、その為に結果が生じ、 その結果が原因となり次の結果が生じると言う順番となります。
 しかし、これでは最初の原因が存在出来ません。その最初の原因は、何らかの原因により生じなければなりませんが、それがありません。 物質のみでは、宇宙の始まりを説明できないのは自明のことです。

 また、コインのゲームを考えて見ます。コインを縦に立て、倒れて表が出れば私が勝ち、裏が出れば貴方が勝ちます。 科学では、このゲームで私が勝つ確率は50%、負ける確率も50%としか言えません。 しかし、現実にはどちらかが勝ち、掛け金を全て手に入れます。それを決めるのは何でしょうか。
 これと同じことは、素粒子レベルでは無数に起っています。完全に均衡している状態で、僅かな力が加わり少しの不均衡が生じると、 不均衡が不均衡を呼び次第に大きくなり、終にはコインは倒れます。

 確率は50%ですが、ほんの僅かな力が加わることで、表が出たり裏が出たりする。その為に、ある者は人生で成功し、ある者は失敗する。 その僅かな力が精神である可能性はあります。

 精神である私は、物質である手を動かすことが出来ます。肉体は動かすか動かさないかで物的に均衡した状態にあります。 ほんの僅かな精神の力を、物的に均衡した物質(脳)に加えることにより、手は動いたり動かなかったりします。 この様に、精神は物質を動かすことが出来ます。

 単なる偶然の連続で、この宇宙は進行しているのでしょうか。それとも、何らかの意図があり、僅かな精神の力が加えられているのでしょうか。

正しい知識を得るには、全てのものを疑うことの出来ない自明なものなのか否か問いかけることが必要です。 デカルトは、この方法的懐疑により、全ての知識を自明なものか否か検証して見ました。
 その結果、自明なことは唯一つしかないことが判明しました。それは、全てのものを疑っている自分が存在することだけは 疑うことが出来ないと言うことでした。 「我思う故に我あり。」です。それ以外は、正しいと思ってはいたが、そう思っていただけであることが分りました。 これが「無知の知」です。

 しかし、自明なものしか信じないのであれば、そこまでです。そこから先は、何を信じるかによります。
 心は、その中に宇宙を作り出しています。私たちが感じている宇宙は、心の外の宇宙ではありません。心が作り出した宇宙です。 心の外を覗くことは不可能です。心の外に、宇宙があるのかどうかも分りません。
 しかし、心は外界に似せて、心の中に世界を作り出しているのです。心の中では、1+1=0でも、1でも3でも何でも構いません。 心の中に在るものは、消えたり生じたりします。従って1つと1つ在ったものが消え去り0となっても良いし、 新しく生じて3になっても良いのです。決して増えもせず減りもしないと前提して、1+1=2としなければならない必要はありません。

 しかし、外界では、無から有は生じませんし、有が消滅して無となることもありません。エネルギー保存の法則が成立します。 従って、1+1=2でなくてはなりません。
 心が1+1=2に制約されている事実は、心の中の世界は、外界に出来る限り似せて作られていることを証明しています。 外界に1+1=3を適用すると、その行動は誤りであり、失敗するからです。
 従って、外界には、心で感じている様な世界が存在することを前提とせざるを得ません。

 宇宙の仕組みを完全に解明した時、物質だけでは説明出来ないことが残されたら、神の存在を証明したことになります。  この様に、宗教は全く科学的な態度であると言えます。

「神の存在」について、私のホームページに纏めました。是非ご参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/syuukyouhahikagakut …
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> 神は 宗教とは何の関係もない



その「主観」には、誰も「共感」しないでしょうね。(笑)

主観を完全に共有することは不可能。
しかし共感やら共通認識で、グルーピングは可能。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

神を・つまり神という言葉あるいはその概念を 人びとが共有すること
は 可能です。

では 神そのものをあなたとわたしが 共有することが出来ましょうか?

というよりも 神を・神そのものが わたしたちに分かっているのでし
ょうか?

つまり 神と言って何らかの――すでにこの経験世界を超えたところの
――ナゾを指し示すということなのですから このナゾそのものをわた
したちは 共有することが出来るか?

答えは そのようにシルシとしても言葉で表わそうとした何ものかを共
有する。あるいは そのシルシとして指し示そうとする何かについてそ
の《想定》として互いに理解する。

こういうことであろうと考えます。

★ 主観を完全に共有することは不可能。
☆ です。


つまり・つまり 人が他人(ひと)にこれこれの神を信じなさいといっ
たふうに説くとするのならば それは ただただ人間の言うことに何の
考えも検証することもなく従うことを 求めている。に過ぎません。

つまり 宗教は どこから見ても 神とは 接点がないのです。

言葉としてのみ共通の話題であるに過ぎない。

こういう説明になります。

お礼日時:2017/07/10 16:46

> 言葉としてのみ共通の話題であるに過ぎない。



では、「神と言う言葉」「神と言う概念」を共有しているワケで。
「神と宗教は、何らか関係がある」としかならんでしょう・・。

アナタの様なことを言い出せば、あらゆる事象を人間は主観で捉えているので、別に「神」だけの話に留まらないし。
すなわち、「八百屋は野菜とは何の関係もない」でも成立しますね。
アナタと私の主観において、野菜も全く同じ認識ではないから。

そう言うことが言いたいのなら、別に「はいはい、仰る通りデス。」でも良いですが・・。

ただし、やはり「その主観には、誰も共感しない」でしょうね。
「八百屋は野菜と何らか関係がある」と同様、「宗教は神と何らか関係がある」で。
むしろ共通認識としては、「強い関係性がある」くらいが成立してるでしょう。

> 神を・神そのものが わたしたちに分かっているのでしょうか?

要はアナタも判ってないのでしょ?
判ってないアナタが、神や宗教を判った様に語るのも、おかしな話で、説得力も無いですよ。
それよりは、某宗教の「汝、みだりに神の名を口にすることなかれ」の方が賢明で、そちらを支持します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~
 > 言葉としてのみ共通の話題であるに過ぎない。

では、「神と言う言葉」「神と言う概念」を共有しているワケで。
「神と宗教は、何らか関係がある」としかならんでしょう・・。
~~~~~~~~~~
☆ 微妙ですね。つまり 《宗教〔者やその団体〕は 神という言葉
を用いている》という点だけで 《関係がある》ということです。

神をまじめに思っていることとは 何の関係もありません。

★ アナタの様なことを言い出せば、あらゆる事象を人間は主観で捉
えているので、別に「神」だけの話に留まらないし。
☆ そんなことはありません。神は あくまで超経験だからです。

つまり:
★ すなわち、「八百屋は野菜とは何の関係もない」でも成立します
ね。
☆ とは これも微妙に違っています。なぜなら 野菜や八百屋とい
うのは 言葉≒概念でもあるだけではなく その意味内容が 経験的
なものごとと対応しています。野菜なら具体的な野菜 八百屋なら具
体的な人間や店屋としてのものごとに対応しています。

ところが 神は――経験世界を超えているからには―― その言葉≒
概念の内容と対応するものが 見当たらない。分からない。

ということではありませんか?


★ アナタと私の主観において、野菜も全く同じ認識ではないから。
☆ そうですが しかも基本的には 大根なら大根 ニンジンなら
ニンジンとしてその具体物を 共通に理解しています。

大根が欲しいと言われて ニンジンを渡すことはないわけです。

神の場合には そうは行きません。神は あそこにいるよとか
さっきまでそこにいたよとか 言えるわけがない。

しかも そうは行くのだ・そうは言えるのだと言わんばかりに 
宗教は暴走します。

★ やはり「その主観には、誰も共感しない」でしょう
☆ か?



★ ~~~~
 > 神を・神そのものが わたしたちに分かっているのでしょ
 うか?

要はアナタも判ってないのでしょ?
~~~~~
☆ あたかも分かったように説明しているでしょう? 同感します
か?

お礼日時:2017/07/10 19:55

一見、「主観」を尊重している様ですが・・。


結局のところ、「自分の主観」だけを尊重している様ですね。

> 同感しますか?

同感できる要素が無いです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 一見、「主観」を尊重している様ですが・・。
結局のところ、「自分の主観」だけを尊重している様ですね。
☆ もちろん――妥当だとみとめられる批判に会って 宗旨替えをする
までは―― そうですよ。

つまり:
★ 結局のところ、「自分の主観」だけを尊重している様ですね。
☆ という見方は まったくひとしく 回答者さんにも当てはまるとい
う意味です。

★ ~~~~~~~
 > 同感しますか?

同感できる要素が無いです。
~~~~~~~
☆ あいにくでした。ほかを当たってください。

お礼日時:2017/07/11 10:38

宗教哲学以前に「論理学」として破綻していますが、宗教は不条理だからそれでも良いでしょう。


基本としてマックス・ウェーバーの宗教社会論集をお読み下さい。長すぎるので有名です。
長すぎると思われたら「プロテスタンティズムと資本主義の精神」だけで充分、まだ岩波文庫にあるはず。
大学の社会学の教科書の定番です。これ一冊であなたが考えられた「神と人間の断絶」について充分書かれています。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 宗教哲学以前に「論理学」として破綻していますが、
☆ どこが・どのように? でしょう。


★ 宗教は不条理だからそれでも良いでしょう。
☆ でも ここでは 宗教はアウトだと言おうとしています。


★ 基本としてマックス・ウェーバーの宗教社会論集をお読み下さい。
長すぎるので有名です。
☆ これは 一部分を読みましたし 大塚久雄を始めとしていくらか
の研究者の著書を読みました。ほかに解説書は いやというほど 安
藤なんとか。住谷なんでしたっけ。それから 古代ユダヤ教を翻訳し
た人。何というんでしたっけ。度忘れしました。を読みました。

日本人が落ち入る思考ないし論理の罠があるんです。ヱーバーをめぐ
っての自己の思想の形成ないし表現は その罠について考える材料を
提供してくれます。

ですが ヱ―バーにかんしては 煮詰めたかたちで言えば 滋養はほ
とんどありません。もうすべて身につけました。

★ 長すぎると思われたら「プロテスタンティズムと資本主義の精神」
だけで充分、まだ岩波文庫にあるはず。
☆ これは ダメ。基本として 神論に関する限り ダメです。

宗教現象の研究としてなら――それは 歴史学として―― 研究の成
果があると言えましょう。

端折った言い方をしますが このプロ倫は けっきょく《まんじゅう 
こわい》と言っていたのが まんじゅうを手にし しかも禁欲して続
けるうちに まんじゅう長者になっちゃった。おまけに 倫理もへち
まも なくなってしまった。

そして こいつらは ダメだ! とただの愚痴のようなものを――ヱ
ーバーが――吐いたというだけのもの。つまり 思想として ダメな
んです。

★ 大学の社会学の教科書の定番です。これ一冊であなたが考えられ
た「神と人間の断絶」について充分書かれています。
☆ ほおおう。どこにそんなことが書かれていましょうか。


あんた あほだろう?

お礼日時:2017/07/11 17:20

外国の生き神と呼ばれる方のお言葉からですと、



宗教は人が作ったものです。神は宗教の中にも、上にも下にも周りにもいます。神は宗教を超越します。一つの宗教の中に閉じ込められる小さな存在ではありません。宗教は人間が人を支配するために作りました。

しかし、全ての宗教は神への道を示すものであり、愛と人間性を教えるものです。どんな道を通っても同じ神のところにたどり着きます。

神については説明することは不可能です。もし誰かが神を知っていると言うなら、その人は神について何も知らないのです。

全ての人が神の元から生まれ、神の元へと帰っていきます。神を認めないものでも、いつか必ず神の方を向く日がやってくるのです。

以下、おまけの話ですが
バガヴァッド・ギータやヴェーダには、神は絶対的な存在であり、唯一神です。神は様々な姿を必要に応じて、役割に応じて異なる姿をとります。人は自分の望みを叶えるために、その願い専門の神に祈ります。例えば、結婚をする時には、この神様。商売繁盛のためにはあの神様、というように。しかし、大元である唯一神、至高の神に祈れば全てのことが祝福され、人の魂は神の元に帰れます。小さな役割を持つ神々ではそれは無理です。ちなみにインドの古代から神の生まれ変わりと言われる存在は、宗教団体を作っていません。政治もやっていません。唯一、王族に生まれたラーマのみが父親、兄弟や庶民からの願いで帝国を治めました。その前に、王位継承の時、ラーマは継母から14年もジャングルに追放されること要求されて快諾し、不自由なジャングルで本当に14年を過ごしました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(あ)★ 宗教は人が作ったものです。
(い)★ 神は宗教を超越します。
☆ このふたつの命題を考え合わせると どうなりましょう?

(う) 神は 宗教とは何の関係もない。
(え) 宗教の側から・つまりは人間の側から 言葉≒概念として何らか
のかたちで《神》とかかわるようなその宗教をつくったにすぎない。

☆ となると言ってよいでしょうか? どうなんでしょう。

(え)の《何らかのかたちでかかわる》というのは たとえば:
(お)★ 全ての宗教は神への道を示すものであり、愛と人間性を教える
ものです。
☆ と成っています。《みづから(人間およびその宗教構想力)を超えた
何ものか(神)》について 《超えているけれど カカハリがあるのだ》
と言っています。

《超えたもの》つまりは《絶対と相対との――絶対的な――へだたりがあ
るもの》について 人間が考えるに 〔その神のところに〕辿りつくこと
が出来ると 宗教は言うというわけです。:
(か)★ どんな道を通っても同じ神のところにたどり着きます。


(き)★ 神については説明することは不可能です。もし誰かが神を知っ
ていると言うなら、その人は神について何も知らないのです。
☆ と明らかにするにもかかわらず 《オシヘなる道を通って行けば神に
たどり着ける》のだと。

どうなんでしょうね。どうなっているんでしょうね。

(く)★ 全ての人が神の元から生まれ、神の元へと帰っていきます。神
を認めないものでも、いつか必ず神の方を向く日がやってくるのです。
☆ これは 気休めなのか? いわゆる預言なのか?(つまり 証明は出
来ないが そのように神のお告げを受けたらしいのか?) 単なる推理な
のか?


★ バガヴァッド・ギータやヴェーダには、神は絶対的な存在であり、唯
一神です。神は様々な姿を必要に応じて、役割に応じて異なる姿をとりま
す。
☆ これは――想定による仮説として―― 普遍神があり あとはその分
身が見られると人びとは捉えた。といったことでしょう。

★ インドの古代から神の生まれ変わりと言われる存在は、宗教団体を作
っていません。政治もやっていません。・・・
☆ 《神の生まれ変わり》という規定が 人間のおこなったものだと言わ
ねばならないでしょうね。宗教とは関係ないとしても。

お礼日時:2017/07/12 18:28

宗教は人間が神と関わりをもたせました。

神が先に存在し、後から人間によって宗教ができました。神の教えは先にあり、宗教がそれを取り入れました。

神の性質本質について説明することは不可能です。ある程度のことは言えても完璧に表現、描写することは無理だということです。

全てのものが神の元へと帰るという話は予言ではなく、すでに今までなんども繰り返されてきたことなのです。この世のシステムなのです。私たちにとっては新しい知識かもしれませんが、インドではごく当たり前のこととして子供でも知っている子は知っています。これを真実と捉えられるかどうかは個人の問題です。バガヴァッド・ギータやヴェーダにも説明されています。

それから神は知識ではなく、体験するものです。体験するまで理論で様々なことをここで考えても、討論しても、想像しても実際に体験するまではわかりません。神の生まれ変わりのこともそうです。なんらかの方法で接したことがなければ、体験することはできません。ただの外国の神話だと思っている人にとっては、ただの人です。

著名な聖者の言葉です。神のことについて。「あなたがコーヒーを飲んだことがないとします。私がコーヒーの味をいくら詳細に説明しても、実際に飲んでみるまであなたはコーヒーの味を知ることができません」
そして、「私に神の体験をください」と真剣に祈るようにと話されていました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 宗教は人間が神と関わりをもたせました。神が先に存在し、後から
人間によって宗教ができました。神の教えは先にあり、宗教がそれを取
り入れました。
☆ おそらくここで 哲学としては腑に落ちないところは 《神の教え》
という規定でしょう。

神について知りもしないのに どうしてそのオシヘが神のものであると
言い切れるのか?

わたしの答えは 《 この経験世界を超えるナゾの何ものか》を――つま
り《絶対ないし無限》を――初めに想定しておく。というものです。

ですから:
★ 神の性質本質について説明することは不可能です。
☆ なのですが――そのとおりなのですが―― 先ほどの《想定》にも
とづくなら たとえば《絶対》なら 《真理》だといった派生命題が得
られます。

絶対を擬人化して《絶対者》とすれば その真理は 知恵となります。
あるいは 愛や慈悲と言えるようになります。

絶対者であるなら 全知全能であるとか あるいは この世界の創造主
であるとか。初めの仮説にもとづく限り 命題が派生して来ます。

★ 全てのものが神の元へと帰るという話は予言ではなく、すでに今ま
でなんども繰り返されてきたことなのです。
☆ お気持ちは分かりますが いかんせん 証明は出来ません。

★ それから神は知識ではなく、体験するものです。
☆ ぢゃあ 体験した人をつれて来てください。と言い返されます。意
地がわるいと言って 非難するようでは 哲学は進歩しませんね。

★ 著名な聖者の言葉です。・・・
☆ 哲学は 経験合理性にもとづく説明とその説得力の問題です。

そのためには 《想定》――《仮説法  アブダクション》――という手
法がよいようですよ。

お礼日時:2017/07/12 20:01

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