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夏休みの社会科の宿題で歴史上の人物や出来事をまとめるというのがあって、フランス革命を選んだので、フランス革命での、他の人が気になるような、興味を引くような事を教えてください。

A 回答 (7件)

植民地米国で、英国とフランスが対立していました。


あるとき、フランスが米国原住民と組んで、
英国と戦争になります。
これをフレンチインデアン戦争といいます。

英国が勝ったのですが、戦争で財政が苦しくなった
ため、米国に課税しようとしたのですが、反発され
米国独立戦争を誘発してしまいました。
ボストン茶会事件です。

独立軍は苦戦しましたが、フランスが援助したため
独立に成功します。
これを記念してフランスが米国に自由の女神像をプレゼント
しました。

しかし、今度は独立を援助し過ぎたフランスの財政が苦しく
なり、増税しようとしたところ、貴族や庶民が反発
して、フランス革命を誘発してしまいました。

革命が成功した後、今後の政治体制をどうしようか
議論になりました。

今まで通り、王政にしようという派が右に座り
共和制に変えようという派が左側に座り、
以降、保守を右翼、革新を左翼、と呼ぶように
なります。

その後、フランスは王政と共和制の間を行ったり来たり
して、現在は第五共和政になっています。
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ヴァレンヌ事件

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それを自力で調べるのが宿題でしょう。

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ルイ16世の趣味は錠前作り

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漫画のベルサイユのバラでも読んで、、

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フランスパンはフランス革命の時に生まれたパンで


貴族も庶民も同じものを食べるべきだということで
長さ90センチ、重さ300グラムと決められた

今ではフランスでも他においしい菓子パンがたくさんあるが
今でも売られ買われ続けているのは
そのことを忘れないようにというフランス人の思いがあるようだ
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答えたよ。

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竜安寺をご存知ですか?
あの竜安寺の石庭はなぜ何百年もあの綺麗な状態を保てているのかが聞きたいです。
ご回答宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

ごめんなさい。
回答失敗しました。
龍安寺の歌という歌がありますね。
検索してみて下さい。
https://www.google.co.jp/search?q=%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%8C&rlz=1C1CHZL_jaJP736JP736&oq=%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%8C&aqs=chrome..69i57&sourceid=chrome&ie=UTF-8

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畳は日本の文化って大嘘ですよね?

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日本の和室が出来て和室全部に畳を敷くようになったのは昭和ですよね?

Aベストアンサー

存在する最も古い畳は奈良時代の畳です。
「御床畳」(ゴショウノタタミ)という木でできた台の上に置かれたものが、
奈良東大寺の正倉院に保管されています。
安土桃山時代の茶室は畳でしたよ。
一般的になったのは江戸時代後期です。
畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業としての畳職人が
確立していき、庶民の家にも使用されるようになったようです。

Q池上彰の戦争を考えるで零戦に【爆弾をロープでぐるぐる巻にして】という言葉がでてきましたが本当にロープ

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はじめまして

もともと零戦には小型爆弾の搭載を前提としていましたので、ご指摘の通り改造して500kg爆弾を搭載したものもありましたが、荒縄でぐるぐる巻きにした機体もあったそうですよ。工場に送って改造している余裕がなかったんでしょうね。それ以外でも爆弾をハンダ付けをしたものもあったそうです。

日本海軍 三菱 A6M2 零式艦上戦闘機21型戦闘爆撃機仕様・神風特別攻撃隊
(終わり近くにその記述があります)
http://buton.sakura.ne.jp/021miyabe.html

Q江戸時代の下級武士は、2日出勤し、1日休む、という勤務体系だったそうですが、なぜ、勤務日が少なかった

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Q日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

Aベストアンサー

えーと、境界線があるような話ではなく、
それぞれの勢力の本拠地の位置関係だけです。

習ったかと思いますが、南北朝時代は後醍醐天皇と足利尊氏の争いで始まりました。
足利尊氏が京都に攻め上って占拠したため、後醍醐天皇は京都を離れて吉野(奈良)に逃亡し、そこで新たに都を作りました。
これが京都から見て南にあるので通称「南朝」と呼ばれ、逆に京都は「北朝」と呼ばれたわけです。

Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。

Q世界史古代ギリシアと古代ローマの関係です。

不勉強で申し訳ありません。
世界史古代ギリシアと古代ローマの関係について。高校の世界史ではギリシア文明とローマ文明が別々に勉強されていますが、
①時代背景としてはギリシアが先で、ローマが後ということでよろしいでしょうか?
②ギリシアはメソポタミアと融合し、ヘレニズム文明になったといいますが、ローマとは戦争の後、ギリシア文化滅んだのでしょうか?それともギリシア都市国家をローマが吸収していって、平定していったのでしょうか?

この辺の兼ね合いがよくわかりません。よく調べてから質問しろよといわれそうで、恐縮ですがよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

>①時代背景としてはギリシアが先で、ローマが後ということでよろしいでしょうか?

世界史の勉強として、「国家」が栄えたのはその順でしょう。

>②ギリシアはメソポタミアと融合し、ヘレニズム文明になったといいますが、ローマとは戦争の後、ギリシア文化滅んだのでしょうか?それともギリシア都市国家をローマが吸収していって、平定していったのでしょうか?

支配者が交替しようが、国家の栄枯盛衰があろうが、その土地にはずっと人が住み、営みを続け、文化を維持継続してきました。人の移動が盛んになったのは、高々ここ100年のことではないでしょうか。それまで、人はそこで生まれ育ち、仕事をし、結婚して子供に受け継ぎ、その土地で死んでいきました。
つまり「支配者」の繁栄と、その地方の暮らしや文化といった人間の営みとは、ある意味独立なものです。国家としてのギリシャが滅んでも、そこに人がいる限りギリシャの文化は滅びません。特に、古代ローマ帝国は、「税」が徴収できれば、その地方の「自治」や「自由」をかなり認めていたようですし。
文化なので、メソポタミアとの「異文化交流」で、新しいものを生む出すことはあるでしょう。でもそれは「滅びる」というのとは違います。文化とは、一種の「流行」ですから。現代日本のアメリカの影響を大きく受けた音楽や、コミック文化、「カワイイ」文化などを考えてみれば分かるでしょう?

「支配者」や「国家」の歴史と、人や文化の歴史とは、分けて考えた方がよいです。
その文化も、「支配者の文化」(日本で言えば、朝廷文化や貴族文化)と「民衆の文化」は分けて考えた方がよいです。金をかけて立派なものを作り、後世に残るのは「支配者の文化」が多いですが。

ちっとも答えになっていませんね、すみません。

>①時代背景としてはギリシアが先で、ローマが後ということでよろしいでしょうか?

世界史の勉強として、「国家」が栄えたのはその順でしょう。

>②ギリシアはメソポタミアと融合し、ヘレニズム文明になったといいますが、ローマとは戦争の後、ギリシア文化滅んだのでしょうか?それともギリシア都市国家をローマが吸収していって、平定していったのでしょうか?

支配者が交替しようが、国家の栄枯盛衰があろうが、その土地にはずっと人が住み、営みを続け、文化を維持継続してきました。人の移動が盛んになっ...続きを読む

Q源義経 軍事的天才と呼ばれている理由

源義経が軍事的天才と呼ばれている理由はなんでしょうか?

わがままでもうしわけないのですが具体的にお願いします_(._.)_

Aベストアンサー

恐らく我が国では最初の、「大規模な奇襲作戦」を成功させたのが義経です。
「一の谷の戦い」がそれで、ほぼ無名だった義経を、一躍有名にしました。

木曾義仲に京都を追い出された平家ですが、それでも充分に兵力を温存し、巻き返しを図るべく福原(兵庫県神戸市)に万全の布陣。
その追討が源範頼(義経の兄)を総大将とする源氏ですが、この時点で源氏の6万に対し、平家は7万とも10万とも。

更に、西国に勢力を有す平氏は、どんどん陣容を増し、逆に源氏は兵糧の輸送などにも心配がある有様。
従い、源氏側としては、短期決戦したいものの、まともにぶつかっては勝てるかどうか。
そこで副将格の義経が、別働隊を率いて平家の後方を衝き、その混乱に乗じて範頼の主力軍が攻め込むと言う作戦を提案し、これが大成功と言う戦です。

別に平家側も油断していたワケではないのですが、まさか険しい山側から騎馬隊が攻撃してくるなどとは思ってもいなかったから、義経の狙い通りの大混乱。
これが有名な「鵯越の逆落とし」です。
おまけに義経ってば、自ら率いた逆落とし別働部隊とは別に、これも有名な武将ですが、熊谷直実に側面攻撃部隊を率いさせると言う、用意周到さです。

ちなみに、この戦で熊谷直実に討ち取られたのが、平家一門の平敦盛で、この逸話は平家物語や、能の『敦盛』や幸若舞の『敦盛』として扱われ、超有名。
織田信長がよく口にしたとされる「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」も、幸若舞『敦盛』の一節です。
この先には、那須与一が見事、弓矢で扇を射抜いた話とか、義経の八艘飛びなど、源平の戦には多くの逸話があることも、義経人気に一役買ってますね。

東西と北に敵を構えた平氏は、南側の瀬戸内海に逃げるしかありませんが、7万の軍勢が一斉に船に乗って逃げられるハズもなく、溺死者なども多く出て。
この戦で平家は大惨敗を喫し、実質、崩壊してしまいます。

追討軍の指揮は、引き続き源範頼が執るのですが。
この兄ちゃんは、ちょっと出来が悪いのか、モタモタしちゃうから、一番上の頼朝兄ちゃんが怒って、義経に「アイツはダメ。お前が討伐へ行け!」と命じ。
義経は、短気な頼朝兄ちゃんの期待に応えるべく、ちょこっとの船で、海路、平家討伐に向かい、ここでも奇策や奇襲を重ね、見事に勝利を収めます。

一方でダメ兄ちゃんの範頼も、陸路、九州あたりまで平家の残党討伐を行い・・。
平家の本体を討伐し続けた義経と合流しして、最後の決戦「壇ノ浦の戦い」で、平家を滅亡に追い込みます。

義経の軍事的な才能は、「型破り」と「スピード」でしょうか?
軍事の天才に求められるのは、「少数で大軍を撃破」みたいなエピソードかと思いますが。
義経は、それを策略などではなくて、型破りな奇襲と、それを相手どころか味方も驚く様な早さで、やってのけてます。

「やあやあ我こそは!」の時代に、思わぬところから、突如、騎馬隊が現れて、陣地に火矢を射込むなどして暴れ回ったりしたら・・。
現代で言えば、いきなり東京湾に謎の潜水艦群が浮上して、ミサイル発射・・くらいのインパクトかも知れません。

ただ義経は、危うさもあって、後白河法皇から「大将が先陣に立って戦っちゃダメ!」と叱られたりもするのですが、「コッチはハナから、死ぬ気でやってんだよ!」と逆らったりしてます。
もしかすると義経の「型破り」さは、「命懸けの強さ」とか、そんな覚悟から来る発想かも?とも感じます。

従い、後の戦国武将とかでも、上杉謙信などは義経を尊敬していましたが、武田信玄あたりは、あまり尊敬していなかったみたいで、武田家も、お家がゴタゴタしたので、最後は頼朝に殺された義経を、「出しゃばりすぎ」と見ていた様です。
しかし、謙信も信玄も、義経と同じく軍事的天才に挙げられるので、その二人に教師や反面教師とされた義経は、やはりスゴいですね。

恐らく我が国では最初の、「大規模な奇襲作戦」を成功させたのが義経です。
「一の谷の戦い」がそれで、ほぼ無名だった義経を、一躍有名にしました。

木曾義仲に京都を追い出された平家ですが、それでも充分に兵力を温存し、巻き返しを図るべく福原(兵庫県神戸市)に万全の布陣。
その追討が源範頼(義経の兄)を総大将とする源氏ですが、この時点で源氏の6万に対し、平家は7万とも10万とも。

更に、西国に勢力を有す平氏は、どんどん陣容を増し、逆に源氏は兵糧の輸送などにも心配がある有様。
従い、源氏...続きを読む

Q歴史

平氏や源氏はたくさん出てきますが、滅ぼされてるのに何でまた平氏が出てきたりするのがわかりません。藤原氏も顔だしてきたりしますがもう平安の人物がごちゃごちゃなので教えてください。

Aベストアンサー

質問の主旨は↓ですか?

>滅ぼされてるのに何でまた平氏が出てきたりするのがわかりません。


回答:滅びたのは「平家」であって「平氏」ではない。

以下の回答は、源氏と平氏の起源はご存じであるという前提でお話しします。
質問者様は、最近増えている調べれば簡単にわかることの説明を他人に要求する輩ほど怠惰ではないと思いますし、私も怠け者を甘やかすことを親切などとは思っていません。


「平家」ですが、
前述の「平氏」の中の、平清盛を頂点とした血縁や姻戚関係による「家族共同体」の事です。

これによれば、婚姻によって「平氏ではない平家」(例:「平氏ではない藤原氏」や【平家の天皇】)も存在しえます。
《「平家物語」が「平氏物語」ではないのは、これが理由です》

当時にこのような概念があったのは、当時は、変則的な母系社会であり、妻の実家(→天皇の母)の影響力が無視できなかったからです。
藤原氏や平清盛の権力は、これによるものです。



「源家(頼朝の一族)」という名称がないのは以下の理由に拠ります。

初期の鎌倉幕府は、平清盛のような個人による中央集権や独裁ではなく、御家人の連合政権でした。
そして当時の頼朝は流刑人であり、その力は北条氏に頼っていました。
しかし、鎌倉初期の北条氏の実力(軍事力、経済力)は、幕府内の他の勢力と比較した場合、決して強いわけではなく、その権力は「頼朝の妻の実家」という事に依存していました。

以上から、頼朝と北条氏は依存関係にあり、単独でファミリーを作れる状況ではありませんでした。



清盛や頼朝の以外「源氏」と「平氏」についてですが、
当時の彼らは全国に広まり、その地での豪族となっていました。それらの中で(同族内でも)対立関係も生まれていました。
そして、平氏にも平家を良く思わない者もいましたし、源氏にも頼朝と対立する者も出ています。
頼朝に協力した関東の武士には「平氏」も多数います。(北条氏も自称平家です)


そして、↑のような彼らは、平や源という「姓」以外の「氏」も持っていました。

当時の「姓」と「氏」と「苗字」の意味は↓のようなものです。

姓:天皇から賜った名前。(出自を表すものとしては 最も正式で由緒のあるものとされています)
天皇に「名字」がないのはこの為です。

例:名前を記すとき「源(みなもとの)」とか「平(たいらの)」や「藤原(ふじわらの)」のように【の】がつく場合が姓。


氏 :姓の一族の中で枝分かれした系統を示すもの。(朝廷文章や内部文章でも使用されます)


苗字:氏の中で更に系統が分かれて、区別が難しくなったとき、所在地(領地)で呼ぶ場合がありました。(主に私的文章や非公式文章で使用)

他には、全く中央と縁のない 源氏や平氏の使用人や武装農民の成り上がりがドサクサに紛れた適当な名前を名乗ったもの。
それらの中には、源氏や平氏を騙る者も(多分)いました。


例:織田信長の「織田」は平姓の織田氏です。
室町幕府の足利氏は源氏の一氏族。(ルーツは源義国)
忠臣蔵の吉良氏は足利の氏族
紀伊徳川氏→「紀伊殿」
徳川のルーツは得川氏(自称)(得川氏は新田氏の氏族、新田氏は源氏)
↑によれば、家の格だけなら 吉良>徳川 らしい。

↑の氏と苗字ですが、時代によって入れ替わったり、新しく名乗ったりした例もあります。

質問の主旨は↓ですか?

>滅ぼされてるのに何でまた平氏が出てきたりするのがわかりません。


回答:滅びたのは「平家」であって「平氏」ではない。

以下の回答は、源氏と平氏の起源はご存じであるという前提でお話しします。
質問者様は、最近増えている調べれば簡単にわかることの説明を他人に要求する輩ほど怠惰ではないと思いますし、私も怠け者を甘やかすことを親切などとは思っていません。


「平家」ですが、
前述の「平氏」の中の、平清盛を頂点とした血縁や姻戚関係による「家族共同体」の事です。

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Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む


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