プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

哲学の初歩の初歩的質問をさせていただきます。

「より価値的でありたい」とは私の人生訓のようなものです。
主観的には、これをよく理解しているつもりですが、世間を見ますと
価値観は多様化しておりまして、捉えどころが無いように感じます。

「価値」というものを、できるだけ普遍的に捉えたいと思っています。

1.「価値」とは哲学的にはどのような定義になるのでしょうか?

2.カント哲学的に「真」とはどんな価値なのでしょうか?

3.カント哲学的に「善」は何故価値と言えるのでしょうか?

4.カント哲学的に「美」は何故価値と言えるのでしょうか?

5.現代哲学においてはカントなどに比べ、どのような変化があるのでしょうか?

その他何でも結構ですので、よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 前置きが長くなりましたので、一度終わりにしました。

    骰子さんのお考えは一応分かりました。
    そのうえで、カントは何故、価値を「真善美」にしたのか?何故「利」が入っていないのか?

    「真善美」の背後にカントはどのような人間像を描いていたのか?この辺りが知りたいところでは
    あります。

    また、牧口常三郎の「価値論」は「利美善」です。彼のことは以前から興味があったので書籍を
    amazonで購入しました。さっき届きました。
    このあたりの本をちょっと読んでみようと思います、読書の秋でもありますし。

    「真」よりも「利」に価値があるとすることは、特に現代人にとって納得のできる価値観だと思い
    ますが、この違いが一体なんなのか、という疑問でもあります。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/03 16:22

A 回答 (11件中1~10件)

カントの価値観に対し


牧口は価値を 美・利・善と説きました
真実は価値の基準には値しないと云う事です。
嘘と真実・誤りと正・・・
対比すればおのずと解りますが、
世の中、自然界など全てが真実では無いのです。

人それぞれ判断基準が違います。
例えば子供に「子供はどうして生まれるの?」と聞かれて、
真実を教える大人は居ません。子供には真実「事実」が
価値が無い事になります。つまり、普遍性が無いのです。

利は利益・利潤の事です。人間は本能的にも利益を求めます。
生活・仕事等あらゆる分野に得を求めます。
損を求める人は居ないでしょう。
どんなに努力を重ねても損する事ばかり
多くて不幸の方向へ向いてしまうのは反価値になります。
利益を求め追求するのは普遍性が有るのです。

「牧口常三郎」は仏法の哲学に、「美・利・善」を見いだします。
カント・・・真<善<美ですよ。美が最も価値が有ると説きました。
牧口・・・美<利<善です。善の行い・行動こそもっとも価値が有る
と説きました








ここからは余談


 人生いかに生きるべきか。どう生きることが、いちばん価値があるのか。
ずいぶん考えた

最高の価値は 幸福しかない
その条件は
第1に「充実」、
第2に「深き哲学をもつ」こと、
第3に「信念をもつ」こと、
第4に「朗らか」に生き生きと生きること、
第5に「勇気」、
第6に「包容力」です

 日本の著名な作家の言葉に
「花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき」(林芙美子)
とあった。花は、ぱっと咲いて、ぱっと散る。長く残るのは苦しきことのみである──と。
人生も事実、そのとおりかもしれない。

 ある哲学者は、一生の終わりに計算してみて
、楽しいことのほうが多かったか、それとも苦しみのほうが多かったか、
その結果によって幸・不幸を決めるしかないかもしれない、と語っている。
 どんなに地位があり、財産があっても、幸福をつかめない人は多い。
どんなにすばらしい結婚をしても、いつかは愛する人と別れなければならない。
愛別離苦は避けられない。
 どんなに有名人になっても、病気で苦しみきって死んでいく人は、たくさんいる。
美しく生まれたために、かえって、人生を不幸にする人も少なくない。

 いったい、幸福は、どこにあるのか。どうすれば幸福になれるのか。
これが人生の根本問題であり、永遠に追求すべき課題である。

 結論的にいえば、「幸福は自分自身をどう確立するか」という問題である
立派な邸宅とか、名声といった外面的な幸せは「相対的幸福」である。
揺るぎない「絶対的幸福」ではない。

どんなに幸福そうな環境にあっても、自分自身がむなしさを感じ、
苦しみを感じていれば、不幸である。
 最高に立派な家の中で、けんかばかりしている人もいる。
皆がうらやむ有名な会社に勤めていても、いつも上司から叱られ、
仕事に疲れ、味けない思いをかみしめている人もいる。

 幸福は“見かけ”のなかにはない。“見栄”のなかにはない。
自分自身が実際に何を感じているか、その生命の実感の問題である。
それを前提に申し上げれば、
幸福の第1条件は、「充実」であろう。
「本当に張りがある」「やりがいがある」「充実がある」──毎日が、
そのように感じられる人は、幸福である。
多忙であっても充実感がある人のほうが、暇でむなしさを感じている人より、幸福である。

幸せそうに見えても、朝から憂うつな気分で1日をスタートする人もいる。
朝、奥さんに叱られ「何で、こんな結婚をしちゃったんだろう」と、
ふさぎこんで1日を出発する──これでは不幸である。充実はない。

だれよりも立派に仕事し、生活を勝利しきって、
あまった時間を「人のため」「社会のため」に使っているのは幸福である

“根性曲がり”の人間が多い現在にあって、苦労しながら、
ただ相手の幸福のために、足を運び、語り、心をくだき、面倒をみる
まさに菩薩であり、これほど偉大な「哲学ある人生」はない。
最高の哲学を実践している事になる
それだけの価値ある哲学をもったということ──
それ自体が幸福である。幸福の第2の条件は、「深き哲学をもつ」ことである。

第3に、「信念をもつ」ことである。何が悪か、何が善か、わからない時代になってきた。
これは世界的傾向である。このままでは、人類は混乱と退廃に向かう以外にない。

“日本国の支配者の地位をゆずろう”というような誘惑、
“父母の頸をはねるぞ”というような脅迫にも紛動されない
何があろうと、厳然と「信念」を貫く そういう「信念」のある人が、必ず幸福になる。

 第4に、「朗らか」に、生き生きと生きることである。
「いつも文句」「いつもグチ」──それでは自分も周囲も不幸である。
いつも前向きに、はつらつと生きている。
人にも「あの人と会うと元気が出る」「気持ちが明るくなる」
と言われる朗らかさがある。その人は幸福である。皆にも希望をあたえる。

いつ会っても、つまらなそうな顔をして、喜びも感激もない。それでは、人生は暗い。
反対に、奥さんに叱られても、「何か浪花節が聞こえるな」。
子どもの成績が悪くても「将来、だんだんよくなる前兆だ」
たとえば、そういうふうに、全部、よい方向に、よい方向に、とらえていく。
その強さ、賢さ、明るさが幸福を生む。
 
すべてを善意で受けとめるといっても、愚かな、お人よしになるという意味ではない。
現実をしっかり見つめつつ、よい方向に受けとめることによって、
実際にその方向にもっていくという「賢明さ」のことである。
そういう「人格」を築き上げれば、いかなる財産よりもすばらしい人生の宝になる。
 
第5の条件は、「勇気」である。
勇気のある人は、何でも乗りきっていける。
勇気のない臆病な人は、人生を楽しめない。それでは不幸である。
 
第6の条件は、「包容力」である。包容力のある人は、皆に安心感をあたえる。
 小さなことで人を責めたり、いちいち騒ぎ立てたり、
そういう心の狭い人は、皆を疲れさせるし、怖がらせる。

 リーダーは、怖がらせてはいけない。疲れさせてはならない。
あたたかく、皆が安心して親しめる包容力がなければならない。
大海のごとく広々とした心をもつ人は、自分も幸福である。周囲も幸福である。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

牧口常三郎の価値論は、美<利<善でしたね。カントは、真<善<美。

牧口の「価値論」の冒頭にこうあります。

『使用価値交換価値、価値の概念はマルクスの経済学にとって最も基礎的な概念であり、
之を知ることなしにマルクスの経済学説は到底理解されない。しかるにこれが理解こそは
従来マルクス経済学研究に於ける最難関とされているところであって、資本論の多くの読
者は此処で先ずその前歯を折ると言われているところのものである。(中略)これは、そっ
くりそのまま創価学説に移しても妥当である』

私にとっては遠い境地ではありますが、これを念頭に置いて読み進めてゆこうと思います。

人間にとっての最高に価値は「幸福」であるということについて、同感です。
そして、幸福論を論じていただきありがとうございます。
今ここでいちいち吟味はしませんが、時間をかけて私自身の中で熟成させる必要があります。

幸福というもの、人間というものを理解するために、この「価値」というものの本質を掴む
必要があるのではないかとやはり思いますね。

お礼日時:2017/09/10 07:24

DRさん、お話が途中ですみません。

考えてはいたのですが、今ひとつどのようにお返事をしようか迷ったのと、私の方の仕事が締め切りが来てしまい、しばらく手が離せない状態です。11月前に私が登場したら、サボっていると思ってください(笑)。私のカント理解とはやや違うらしいのですが、しかし私の考え方を押し付けることが何になるのだろうかと考えもしました。カントは大変難しく、一様に断定できないところがあります。そして私はA=Bのような断定する話し方を避けたいと思っています。前の話はカントのどの箇所についての理解が判断の分岐なのか、随時、考えてみます。(答えが出なくてもいずれ戻ってくるでしょう。)

「価値」一般についてですが、もしかしたらアリストテレス『弁論術』第5章「幸福」・第6章「よいもの」などが何かのご参考になるかもしれません。私はアリストテレスの考えを完全に肯定はできないのですが、一方で、ここに書いてあるようなことが普遍的に価値とされているものなのかもしれないなと思うことはあります。なぜ「普遍的」かと言えば、それが経験を排除した次元で書いてあるからではなく、古代ギリシアにおいての共通認識であったのに、現代においても頷くことができるからです。もし機会があったらまたお話ししましょう。尻切れとんぼをお詫びしつつ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

哲学初心者の私の言っていることは、思いつきも甚だしいもので、キチンとした
お話はまだできないのでしょうね。
少しづつでも勉強しておきます。

アリストテレスとかプラトンは興味がありますので、分かり易い本を探してみます。

お礼日時:2017/09/14 23:47

自分は哲学を勉強していませんが、父が大学院で哲学を専門にしていました。


その父を見ていると価値的とは幸せなのかな?と思います。

善き人であり、健康で、音楽や芸術を楽しむ心を大切にしているように見えます。
父のように書を書き、音楽や芸術を愛し、人に徳を与え、人を思いやり、運動し、そうやって生きてきた人は昔から幸せな人生を送っていたのではと感じさせられます。
時代が変化しても変わらないものが普遍的価値のあるものだと考えさせられます。
拙い感想ですみません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「価値」なんていうと、金銭的価値・合理性などが連想される現代ですが、
それは、そういう価値を現代人が追っかけているということで、人間から価
値を引き離すことはできないでしょう。

昔の哲学者たちは、そうした意味でとても構えが広いというか、スケールが
大きかったなあと思います。

お礼日時:2017/09/14 11:44

5に関して


カントの時代と比べて確実に発展している科学という土台を念頭に置いて
考えてみると
価値とは広く人類の種としての繁栄と進歩に寄与すること
くらいの言い方ができると思います。

多様な選択肢の広がりの中で
不毛なものと全か無か的に何らかの発展へのきっかけになりうるものを
慎重めなサイドから見極めようとすることが大事なんだろうと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>カントの時代と比べて確実に発展している科学という土台を念頭に置いて
考えてみると
価値とは広く人類の種としての繁栄と進歩に寄与すること

なるほど。

いずれにしても「何らかの発展」が価値ということですね?

お礼日時:2017/09/10 12:43

「普遍的な価値」は大事だと思います。



時々耳にすることですが、「戦争中は戦争が正義だった、ほとんどの国民はそれを疑っていなかった。それを「後世の価値観」=後知恵で「あの戦争は誤りだった」ということはフェアではない」という主張です。
体罰にしても、「昔は体罰を悪と考える者はいなかった。」と。

つまりその時々の価値観が絶対であり、後から取って付けた批判は無意味である、というのが価値相対主義の陥穽だと思います。

だからこそ、時代・地域を超えた絶対的な価値が必要であると思います。
例えば「汝、殺すべからず」これは時代や文化を超えた普遍的価値であるべきだと思います。

「真」や「善」という価値が、時代によって変化し、それぞれがその時々、その文化の「真」であり「善」であるとするなら、人類は永遠に進歩=過去の過ちから学ぶということは不可能だと考えます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「皆と同じでいいというのは、ファシズムである」という言葉があります。

その通りだと思います。
一般大衆に普遍性を求めるという信念がなければ、「権力」に利用されます。

権力が一般大衆を支配してきたのが残念ながら歴史の柱の一つであったと思いますので
あなたのお考えには賛同します。

お礼日時:2017/09/10 07:34

>従って、人間には瞬間的にそれまでの自分の知性を「総決算」する能力が、推論を重ねて結論を出す能力とは別にあるのではないか思います。



なるほど。直感知についての考え方がまず少しズレがあるということだと思いました。

西洋の中世を考えると、直感で真に至る人は、預言者とか、司教権力の上位にいる人とか、とても特殊な人だとされていました。凡俗の人ではないのです。霊感と申しますか、信仰の力によって究極の真理の塊である神を探り当てると、本質が見えてくるというわけです。古くは、まず神を認識することがとにかく最優先事項だったのです。神を知れば、世界の全部がわかるというのがその理屈です。

私は直感知などないと言いましたが、もっと謙虚になっていうと、私は修行などしていませんので、これは無理だと思っている、ということです。自分が使えるような手法ではないということです。また他人が追体験できるようなものでもないので、共有するときは、「この偉い私が言っているんだから、あんたは納得しなさい」的な言い方しかできなくなります。これだと学術になりません。
念の為にもうしておくと、これらはB氏に当てつけているわけではなくて、いくらも似たような事例があったということです。

さてDRさんのおっしゃる定義です。確かに近代になってくるとこのような形で理解する人が出てきます。
これは結局、何を言っているのだろうかと思うのですが、まず歴史的にみると、近代化の中で宗教の権威が失墜したが、宗教が提示していた知のモデルを世俗的な次元で継承したのではないか、とも思うのです。
つまり本質を認識するためには、推論を重ねるのではなくて、光が通るように瞬間的にわからなければならない。こういう認識のモデルから脱却することができない近代人が歴史的に見て、ある一定数いた、ということではないか、とも思うのです。

しかしDRさんを含め、現代になるとどういうことなのか。私などはテスト漬けの世代です。
テストは、いい例だと思って掘り下げてみます。テストというのは直感知みたいなものを感じるにあたって、格好の例かも知れません。というのもテストは採点しないとなりませんので、諸条件が決まっています。
・必ず正解があること。
・正解は一つに決まること。
テストとは、一つを探り当てるゲームみたいなものです。しかし、これは最初からそうなっているわけではなくて、出題者が練りに練って、答えが一つになるように最初から仕組んでいるわけです。この結果、似たようなパターンを知っていると、それを当てはめて解くことができます。チャート式数学や、ドラゴン桜の東大合格法なんていうのは、そういうことを提唱していますね。

現実でもテスト的な発想を応用して動く人はいます。
・その事例は過去にあった。
・過去のケースを応用して、先々を見通そう。
判例とかを覚えている人や、ジャーナリストや、管理職だと、パッとこれがわかるわけです。無難に組織を回せます。そしておそらくなんですが、将来的にはAIがこういう判断を下していくこともできるようになるでしょう。

でも現実とテストは違うわけです。現実の問題とは次のようなものです。
・正解はないかも知れない。
・答えは一つとは限らない。
・しかし選択は必ずしないとならない。
ここら辺はテストと大きく違います。そしてもっと違うことがあるわけです。
・答えらしきものが見つかっても、それが選択肢として自分が起こせる行動であるとは限らない。
・ただし、例えば三つの答えを複合して、一つにすることもできる。
・つまり選択肢を自分で作ることができる。

結局ここら辺のズレで、革新が起きるチャンスを見落としたりするわけです。過去の事例にてらした正解を連発する。これは無難である。でも、新しい発想を退けることになってしまう。DRさんは推論と直感の二つで分けていらっしゃるが、考えるということは、もっと別の可能性があるということを言いたいわけです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

雑用に追われ、お礼が遅くなり失礼いたしました。

今読んでいる本で、ちょうどヨーロッパ哲学者の考える、人間の知的能力の区分
というところがありました。
それは「感性」「想像力」「知性」「理性」である、と。

「感性」は五感のこと。

「想像力」はほぼ言葉通りで、カントは「構想力」と呼んだ。

「知性」は規則・原則などに従って推論する能力のこと。

「理性」は規則・原理を見出す能力のこと。

そして、「大陸合理論」と「イギリス経験論」の対比から、カントが経験論者の
デイビッド・ヒュームに強く影響を受け、理性に懐疑的になってゆくという話に
なってゆくようです。

この辺りは骰子さんは、よくご存じのことと思いますが、私にとっては五感を知
的能力に分類することは面白いと思いましたし、想像力、創造力、構想力という
ようなものも、間違いなく人間は持っているということを改めて考察しました。

哲学者と言っても、だれもが知りたいと思うことを一生懸命に考えていたに過ぎ
ないと言えるのかなとも思い、そうするとなんか親近感が湧いてきます。

この四つの知的能力を人間が持っているということについては、疑いのないとこ
ろだと思いますが、人間が何らかの答えを出すときに、推論的(知性的)に出す場
合と、直観的(理性的)に出す場合と二通りあるとやはり思います。

そして、この直観的判断というものが何者なのかが分からなければ、プログラミ
ングのしようがないでしょうね。現在のAIの限界がここにあると思います。

この二つの相対すると思われる能力は、右脳と左脳に対応するかもしれないとも
思いますし、それはともかく、両方を上手に使うということが正解であろうとい
うことは容易に想像できます。

現代は推論的能力に偏っていて、仰るように直観的能力に対する懐疑心が強いよ
うに思います。

カントがこの後、どのように変遷してゆくのか読み進めていきたいです。

お礼日時:2017/09/09 22:06

>「本質」の部分は、直観知によって提示をし、それを実践した結果で証明を積み重ねる以外にないと考えています。

ここに、哲学・宗教の必要性があると思います。

これは賛成できないです。
・まず直感知(=悟性とかヌース)の存在について、私は懐疑的です。
・次にその個人が直感したものを立証し、他人と共有して行くことにどのような意義があるのかに懐疑的です。
懐疑的である理由は、
・あやふやなものを起点として、なんになるのか、ということが一つ。
・同時に、あやふやな直感をコンセンサスとして行くことで、差別などが歴史的に起きていたということが一つ。

こういうとご不快かもしれませんが、これはB氏の影響もあると思います。彼の言っていることは、彼がアウグスティヌスで何事か著作を書いたように、古い、宗教と哲学が未分化な状態のお話です。独自の単語を使っていますが、モデルそれ自体は、よくある話です。彼と対話する中で、どうしてもこのモデルが浸透してしまったのかもしれません。

それもあっていいと思いますよ。否定するようなこともありません(私は関われないだけ)。
しかし今日的に「哲学」と呼んでいるものは、もっと多様なものです。
できたらば、そういう新しい視野をお伝えしたかったな、と思います。まあこういう意味で、少し残念な気がしているのです。

あまり急がず、お話ししていけたらと思いました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>あまり急がず、お話ししていけたらと思いました

確かに、私はとても急いでしまうんです。なにか、「早く、早く」と急かされている
ような感覚がどこかあるのは間違いないですね。
だから、戻らなければならないこともしばしばで、効率が悪いと思います。悪い癖で
す。

「直観知」ということについては以前質問を立てたことがあって、その時にも、人そ
れぞれの定義が違っていて、すれ違いが多いなと思ったものでした。

「推論的思考によらないもの」すべて、と私は考えています。

しかしながら、「閃き」というものは一体何だろうと思います。
「推論的思考の集大成である」と言う人もいますが、私はどうもその意見には納得で
きません。

例えば、女性は直観的思考をよくします。馬鹿にするわけではないですが、女性は論
理的思考をあまりしない人が多いと思います。
また、私の子供のころのことを思い出すと、テストでわかる問題とわからない問題が
一瞬にしてわかり、わからない問題はいくら考えてもわかったためしが一度もなかっ
た、ということがありました。

従って、人間には瞬間的にそれまでの自分の知性を「総決算」する能力が、推論を重
ねて結論を出す能力とは別にあるのではないか思います。
それが直観知である、いや、直観知とはそういうことに過ぎないのではないかとも思
います。

問題はこの範疇には、まがい物が入ってくる可能性が高いということですね。

商売のためのインチキ宗教の哲学、商売のためのインチキ占い師、あるいは思い込み
哲学等。
論破できるものと、できないものとあるでしょう。

本質の問題は、私は推論的思考では捉えられないと思っています。
ですから、直感で結論を出し、そして実践して「どうなったか」に注目することが重要
だと考えているということを申し上げたかった訳です。

お礼日時:2017/09/04 08:04

>そのうえで、カントは何故、価値を「真善美」にしたのか?何故「利」が入っていないのか?



これは割とお応えできそうな問いです。真善美は昔から、考察のテーマだからです。その三つが一致した究極の存在が神なのです。カトリックの絶対神です。カントの時代、つまり市民革命が起きて王権が倒れた時代、王権を支えていたキリスト教に疑いの目が向いた時代、神を構成していた要素はなんだったのか、を批判的に考え始めたということです。

もう一つ、考えたことがあります。投稿しようと比較的長いものを書いたら、パソコンが落ちたので、改めて簡略的に。その方がわかりやすくて、逆にいいかもしれません。私が思うのは、学問で本質という言葉を使っていいのかどうか、ということです。本質と発言する時、いくつかの意味を同時に含意して行くことになります。

・本質と呼んでいる情報が特権的に大切である。
・その情報以外は、あまり重要ではない。=枝葉末節である。
・考察事象には、根幹となるものがあり、枝葉になるものがある。

でも、物事、なかなか難しいのです。例えば花の美しさを考えようとしたとします。花は植物ですので、源は種です。では種を考察すれば花の美しさがわかるのか。さっぱりわかりません。これは植物学と、美学が違うと言うことではあります。しかし同時に、源は考察スタイルによって、複数想定できると言うことです。つまり植物学的な「源」は種。美学的には、花弁が集まった形ということになるでしょう。(ものすごく大雑把な話ですが!)視点が変われば、本質は変わります。

ですので、こういうことを考えて行くと、「ーーが本質だ」という言い方をして、他人の考え方を排除して行くことにためらいが出てくるわけです。「諦めている」のとは違って、慎重なのです。
考察を始める以上、皆が皆、何かしら焦点を絞っています。しかし物言いが、随分と工夫されているわけです。
横暴ではない情報の共有の仕方、ということになるでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

18世紀のヨーロッパに生まれ生きたカントにとって「真善美」は当然の価値観だったと
いうことですね?

その通りだと思いますが、そこから一歩進んでみようとしてみると、

カントにとって他のものでなく、「真善美」が人間にとっての価値であるとした理由、
つまり、彼の眼に人間の本質というものがどのように見えていたのかということです。

今読んでいる本では、今「永遠平和のために」の解説のところで、「自然のメカニズム」
なんていうことが書かれていて、大変に興味深く読んでいます。
この後、私の疑問に触れる部分があるかどうかわかりませんが、読み進めてゆくことと
します。

>学問で本質という言葉を使っていいのかどうか

学問を知らない私にはこの点は正直分かりませんが、この骰子さんのお考えを聞いて考えた
ことを述べたいと思います。

自然科学では「本質」という言葉は使えないのかもしれませんが、哲学は本来は本質を追求
する学問であって、従来は本質と言うものを「こうである」と人々に提示したということで
は宗教と同じであると思います。
それが、時代によって宗教が衰退するとともに哲学も変質していったと思います。

この辺りことも、知識がなく「おそらくこうであろう」ということでものを言っている部分が
ありますが、勘弁してください。

「本質」の部分は、直観知によって提示をし、それを実践した結果で証明を積み重ねる以外に
ないと考えています。
ここに、哲学・宗教の必要性があると思います。

哲学・宗教の責任は大きく、その提示する「本質」が間違っていた場合、人々は人生を誤って
しまいかねないです。
「花」を植物の本質としたならば、それは間違いになります。種も芽も葉も花も実も、それら
すべてを含んだものが「植物」の「本質」ということになるでしょう。

それから、特に宗教は「権威化」しがちなところがありまして、その権威を盾に聖職者が「独
善的」になり、間違いに気がつかなかったり、教えを歪めたりしてきたと思います。

哲学・宗教は「取り扱い注意」な上に、時代的には厳冬と言えますね。

お礼日時:2017/09/03 22:55

価格0円はニヒリズムだろうから、


freeは自由で、無料。
自由意志は無料意志か?なんてのは冗談だとして、

自分の価値を無価値にしてしまうよりは、
他人をどんどん無価値にしていく人は、なるほど、超人なのかもしれないね。
能動的ニヒリズムというか。

とはいえ、その芸術は、
芸術は滅んでしまったか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>他人をどんどん無価値にしていく人は

苦し紛れに、また、感情をコントロールできずに、大いにやっているね、世間では。

>能動的ニヒリズム

面白い定義ですね。

お礼日時:2017/09/03 15:29

このお話は難しいですね。

カントは真善美を客観的に考察しただけで、それらについて価値判断をしていないです。したがって質問の前提になることが、ぱっと思いつかないです。ものすごく細かく掘り下げれば、価値判断をしていると言えるかもしれませんが、、、ちょっとそれは客観性の問題から避けたいところです。(と私は思いますが、他の方の意見を妨げるものではありません)

>「価値」というものを、できるだけ普遍的に捉えたいと思っています。

ここに絞って考えます。しかし先に結論を言うと、それは難しいと言うのが私の考えです。
価値は判断する主体があって、決まるものです。その主体が普遍的であるということは人間ではないということです。法律のようなシステムや、国家のような組織や、神のような不滅の存在を前提にしないとなりません。
前の議論で人間を重要視するというお話がありました。人間の重要視と、価値の普遍性は矛盾するのです。普遍的な価値を追求すると言うことは、どこかで人間をないがしろにし、それ以上のものを想定しないとなりません。

もし普遍的な価値があれば、それだけを勤勉に追求すれば社会的にも、経済的にも成功することになるでしょう。
しかし現状、そうなってはいません。勤勉にも一つの枠組みの中で物作りをしていった職人さんだとか、Sonyみたいなところは、何ら成功していないわけです。人間の欲求を踏まえ、多角的に考えていったAppleみたいなところが成功しています。
議論を省略しますが、つまり価値は普遍的な問題として語れないのです。変容して行くものです。

カント的に言えば、判断力であり、そこには感性というあやふやなものが絡んでいるわけです。(美に関する『判断力批判』を参照してください。カントによれば、人間は刺激があるものは何でも、美と受け取る応用力があるのです。美は普遍的なものではなく、単に刺激があり、我々を驚愕させるだけのものである可能性もあるわけです。)
この回答への補足あり
    • good
    • 0
この回答へのお礼

現代の学問は、本質というものを従来の「哲学」的に観念的に追及してゆくということを
諦めて、証明のできる物質的な法則からその本質を確かに掴んでゆこうとする方法に転換
されている、というふうに理解しています。

ですから、哲学は人気がなく、理論物理学などが人気があるのだろうと思います。

しかし、本質がわからないで、その途中から理論を組み上げていって、果たして本質に行
き着くのだろうかという疑問は変わらずにあります。
また、「本質などはどうでもいい」という風潮も強くあって、それが、現代の哲学なき、
倫理・道徳なき社会のかなり直接的原因になっていると考えています。

要するに私にとって「これはいかん」という訳です。

これが、2年ほど前に私が哲学というものに興味を持った理由です。
しかし、私は大学までは行ったものの、およそ勉強というものをしたことがなく、まして
哲学書などは読んでも分からないだろうと思って読んでいませんでしたが、このカテで薫
陶を受け(笑)どうやら、解説書くらいは読めるようになったようです。

昨日、市の図書館で分かり易そうなカントの解説書を見つけ借りてきて今読んでいます。
その「はしがき」にこうありました。

≪哲学者たちはなにをどう考えていたのだろうか。現在を理解するためにそれはどう役立つ
のだろうか。一人一人の哲学者の全体像をレベルを落とすことの無いよう、しかし初心者に
理解していただけるよう努力したつもりである≫

私は、名だたる哲学者たちが至った結論よりも、この方の言う通り、何をどのように考えて
いたかに興味があります。

「人間とは何か」という問題は、自然科学のテリトリーでないことは明らかで、哲学・宗教
の分野であると(新しいものでも構わない)思います。
これを「考えない」ということは所詮人類は欲望にエゴに流されることになる、というのが
持論であります。

日本の野球のレベルが高いのも、イギリス・イタリアのサッカーのレベルが高いのも、裾野
が広いからでしょう。

私などがこうして僅かな努力をしようというのも、少しでも裾野を広げることは無意味では
ないと思うからです。

お礼日時:2017/09/03 15:24

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!