No.31ベストアンサー
- 回答日時:
「自己が空(から)であること」
これを自我を無くすこと、と解釈しました。
生まれたての赤子にはまだ自力的”自我”と云うものはないはずです。
生命体だから生きようという肉体の意力は認められますが、自身でと云うわけではなく生まれたばかりのこの時点では、母親さえもいないも同然と思います。
だから、いつまでも母の胎内に居たかった《命の意》に反して無理やり母の胎内から産出されて、外気に触れていきなり《個》となった、そのショックがあの「産声」になったのでしょう。
でも母の暖かな胸にい抱かれて、赤子は程なく安堵します。
この段階での赤子の心を自己とすれば、おいおい育って自身で生きる力を付けてゆくことは、自我を発達させることなのでしょう。そしてこの自我は、自己を維持するための必須の力と云う訳ですね。
ただ、必須の力ではあっても、これが過ぎるとたぶん例外なく”災い”となるところが面白いです。必然、自制心が働き出します。人間、とてもよくできていると思います。
また、この自己と自我の境界はたぶん曖昧かとも思います。
こんな考えから、自覚できる目立つ自我を空(から)にすることによって、自己が前面に出て活動し、この心が他者との交感を為し、充実感を得られるのだろうと思います。
自我の満たされ感と、自己の満たされ感とでは違いがあるのではないでしょうか。
そうですね、我と自己は、この場合厳密には異なるとした方が良いですね。
仰る通り、我の満たされ感と自己の満たされ感は異なるでしょう。自分らしさを失うことなく、我心だけを、、と言うことかもしれません。
No.30
- 回答日時:
★(№27お礼欄) 心の明け、と言うものはどのような事でしょう
か?
☆ 《信じる》とは 《無条件に無根拠においてナゾの何ものかをわ
が心に受け容れる》ことと定義しますが この信じるをおこなうと
わが心に《非思考の庭》が成ります。
非思考〔の庭〕と言うからには 心が――思考や感性もが共に――閉
じられていない。これを 心の明けと呼んでいます。
信仰の問題は――ここのところ 出来るだけ そうして来たのですが
――避けて表現するとしますと:
・ 心の明けとは 心が閉じられていないこと
です。愛想のない表現ですが これでよいと思います。
もともと大道に門は無い――ですね。(《大道無門》の大道を特定の
宗教にとどまることなく一般化し 《門:入口ないし方法》をも広く
《窓や戸口や隔て》と解釈することが出来るならば)。
なるほど、微妙なニュアンスではありますが、なんとなく伝わって来ました。
心が閉じられていないということならば、思いやりにおける心の有様と合致していると感じました。
それを門はないと表現したところに、何かスッキリしたものを感じます。
No.29
- 回答日時:
遅ればせながら、私も考えて見ました。
質問のタイトルを言い換えると"充実した人生のために"となるかと思います。
"人生とは願望である"と云えないでしょうか。
"人生とは願望である"と云ってみたいです。
"人生とは願望である"と思います。
"願望"があるならば、それを叶える意力を持つこと。
そして、行動すること。
"願望"はたぶん、すべての人が持っています。
でも、
それに向かって行動する意力がなければ、叶えることが出来ません。
でも、でも。
これだけでは個人的望み。この範疇内、と云えます。
質問の趣旨(思い)とは少し、ズレているように思います。
だから、さらに考えを進めて見ました。
そうすると"他者"が現れてきました。
他者との交流にも"充実感"が得られる。これも人間ならでは。
そして、そこにあるのは"共感・共有"。
このように考えて見ました。
お答えをいただいて私が思ったのは、自己が空(から)であることによって、他者の事に純粋に耳を傾けられるようになり、その思いを汲み取れ、そのために振舞うことができるようになり、そのことによって充足するのではないか?という事でした。
ものを見る時の、色眼鏡こそが個性であるという見方もありますが、私は裸眼であることがやはりものを正しく見るのには必要なのではないかと考えました。
No.28
- 回答日時:
No.18の3回目です。
私は哲学的な人は考えるだけで行動しない人と感じていて、他の回答者の文章はみていませんでした。
改めて全文を拝見しましたが、回答とお礼文を見るとキサラギXさんの疑問も理解できます。
私は微力ながら現実世界での人の活性化を進めています。
しっかりした自分の考えを持っている回答者に現実世界での応用を実行していただきたいと思います。
大中小企業の現場では些細なことで悩み人間関係が破綻しています。
哲学では人は救えない。人を救えるのは優しさです。
人それぞれに理解できる言葉で語り活かしてあげてくださいと望んでいます。
そうでしたか。
哲学的な人に対するそう言ったマイナスなイメージを持たれていることについては、理解できるところです。
哲学者を弁護できる立場には私は無いのですが、社会における哲学の影響は小さく無いと思います。その思想や考え方、発見によって少なからず社会を前進せしめて来たのであり、救う救わないは別にして、その営みは意味のあるものであったでしょう。
また、考えと行いは不可分なのでは無いかと思っています。そして、行いを見ればその人が何者であるかが判ると言います。背後にある考えが空虚なものなのか実のあるものなのかは、行いによって判じられる事でしょう。
No.27
- 回答日時:
№26です。
そうですね。堂々巡りになってもいけませんから ひとまづ 見解
の相違のところもあるというかたちで おさめましょうか。
そうですね。いくらか未練がのこるとしたら つまり:
★(№26お礼欄) 無心について。 / 私は、無心と言うのは他への
思いやりのことであって、我心と対置するための心の有様であると考
えています。
☆ とおっしゃるときには――見解の相違にはなるのですが―― わ
たしは 《他への思いやり》は みづからの《心の明け》においてお
こなうものだと思っているところがあります。
つまり 思いやり(あるいは むしろ 実際に互いを活かすためとし
ては ゆづりあひのほうが ちからを持つようには思っていますが)
は 無心の状態にあって行動を起こすものだとも 思っているから
です。
違いのありかが分かったようにも思われたのですが そういった感じ
でしょうか。
ありがとうございます。助かります。
私の言ったのは、思いやりを起こす時、人は無心に近づく、と言う感じですね。
心の明け、と言うものはどのような事でしょうか?
No.26
- 回答日時:
お応えをありがとうございます。
★(№21お礼欄) 幼児は母親(母的な存在)を頼らざるには生きて
いけないですが、
☆ ほかのところでも 考えを明らかになさっているように ここは
幼児としては《頼らざるを得ない》といった知覚も認識もないのではな
いかと思うのですが。
★ なにに対しても警戒が無いと言うことも無いかなとは思います。
☆ ですから 大人(いえ ものごころが着いた少年)に警戒心がない
場合があるというのとは別であって 幼児は 無防備なうえに警戒する
・しないとは関係ない心(?)の状態にあるのではないか? とは思う
のですが。
★ 見知らぬ人が抱っこしたりするとよく泣きます。
☆ これは 確かに抱かれ心地が 違うのでしょうね 母親の場合とは。
つまり それでも やはり無心であって 抱かれるまでは 無警戒では
ないかと。
★ 幼児のそれは、「何も知らない」と言うことに属し、脱俗と言う意
味を持つ聖とは違うと私は考えます。
☆ おそらく そうでしょうね。まさか 《脱俗》を思っているという
ことはないはずです。
問題は 《無心》という状態です。幼児じしんがどう思っているかを別
として 一般にわたしたちがどう捉えるか? だと考えるのですが。
★ 知って委ねることと、無力故に委ねざるを得ない事とは違うのでは
ないでしょうか。
☆ ですから たぶん 《ゆだねざるを得ない》といった心づもりはな
いのではないでしょうか? その意味でも 大人にとっての《無心》の
原形があるように思われるのです。
だとしたら 言ってみれば 聖なる甘えなのではないかと。
★(№24お礼欄) ふむ。難しくなって来ましたが、聖がこのような
意味となると、尚更、赤子や幼児が聖なるものを抱くのは難しかなると
思います。
☆ 《〈無心〉の原形》として ものごころの着く前の幼児の段階では
それとして確立している。
われわれが 幼児を見て そう捉えるということであって 幼児じしん
が《聖なる甘え》をいだいているとは 自覚していないでしょうね。
ただし 問題は 大人になって ものごとに対して何かとウタガヒを持
つようになり 何ものか心打たれたといった体験を経ても そのナゾな
るものに対する畏れは――どこかにウタガヒを隠せないとき―― 恐れ
をも帯びている。(もしくは その神体験を忘れる。棄てる)。
★ 彼らは、経験世界のなんたるかも知らず、それ故にそれを超えたも
のなど知りようが無いだろうと思うからです。
☆ ということは 幼児に見られる《無心の原形》の《無心》を 世界
を知っている大人が なおも《おそれを抱きつつ 聖なる甘え・もしく
は きよらかなゆだね》の中に あたかも復活させつつ 活かすこと。
――これが のぞましいことではないでしょうか。
★ 彼らの甘えは、無条件というよりも、自分を保護してくれる対象に
対する甘えであり、限定的なものと言えるのではないでしょうか。
☆ 幼児は じっさい無防備です。その意味では 無条件に甘えます。
《母親だから》とか《保護してくれる人だから》というような自覚も
――それに慣れて来るまでは―― ないと思われるのです。
ただし 当然ですが 世の中を知らない。したがって 世の中を知って
いて なおそれでも もし無心でいられたなら――あたかも無条件で世
界に開かれた《心の明け》として そしてその状態が 確立されて行く
なら―― のぞましい。と考える道筋も 一本 あるのではないか?
★ ナゾなる何ものかは、自分を保護してくれる対象というものでもな
いのだから、ナゾなる何ものかと、赤子幼児にとっての母的存在とは異
なると考えた方が良いのではないでしょうか。
☆ 三つの場合が考えられますまいか。
乳飲み子は まったくの《非思考》において 母〔なる者〕に身をゆだ
ねる。
母親に甘えることに慣れて来た赤子は 出来上がって来たナラハシとし
て 甘えをおこなう。
いづれにしても 幼児の段階にあっては 一方で何もまだ知らない。他
方で それでも――または 知らないゆえにこそ―― 特に甘えの習慣
がつく前の乳飲み子の場合は すでにナゾの何ものかに導かれるかのよ
うに振る舞っている。
★ ナゾなる何ものかは、自分を保護してくれる対象というものでもな
いのだから
☆ それでも 身をゆだね甘えるというのだから 不思議です。それに
は われわれは 畏れを感じざるを得ないのではないでしょうか。
(もしくは 《無い神》派は おれの知ったことではないとか わたし
には関係ないわといった対応をするものと思われます)。
大人が赤子や幼児の有様を見て、それを様々に形容し、比喩し、解釈し、種々の見解を立てて、赤子や幼児の心を取り戻すべきであると言うのであるならば、仰る意味は理解出来ます。
私が見るところでは、赤子幼児のそれは無知ゆえのものであり、本能的なものであり、そこに聖は見出せないのですが、大人の身に付けたものを捨像する意味で赤子幼児の有様を意味づけるなら、余計なものを排すると言う効果を持たせる事はできるとも思います。
それは一種勘違いを孕んではいますが、大人がそう言う気持ちになるのは理解できるところのものです。
無心について。
私は、無心と言うのは他への思いやりのことであって、我心と対置するための心の有様であると考えています。この意味において、赤子幼児が思いやりを持てるかどうかは、その成長段階によるところであり、無心の原型が、母親に無警戒に頼るところに見られる、と言うのとは見解を異にしています。
神に身を委ねるのは赤子が母に甘えるが如くであり、また清らかな畏れであると言う考えは、説明として的を射ており、一つの信仰のあり方として無碍にはできないと思います。
同時に、その信仰の結果として何がもたらされるかは、私には分からないことです。
No.25
- 回答日時:
No.18の2回目です。
キサラギXさんは短文でも理解できる人だと思いシンプルに回答しました。
自己中で自分のために生きる人生はむなしいです。
優しい人でありたい。無償の愛が通用する世界なら幸せです。
お互いが助け合い協力し合える社会であればいうことないです。
それを目指して生きることが幸せです。
再回答ありがとうございます。
kazu0801さんは自らの経験として知って語られているのだと感じています。
やさしくあれたなら空しさを超えられると言うのは感覚として分かります。
シンプルでも、その言葉が何に由来しているものであるのかは分かるつもりです。
それが無駄の無い言葉なのか、短絡した言葉なのかの違いは聴いている者にすれば、感知されるものですから。
No.24
- 回答日時:
№21です。
おぎないます。《聖なる》とは どういうことか?
この概念は 《相対的で有限なる経験世界を超えたナゾの何ものかに
――直観においてになりますが――つながった》という意味だと捉え
ます。
言いかえると 《すでに絶対性に近い形で変わらざる状態・その状態
が――むろん げんみつにはなお流動的なのですが かなりの程度に
おいて――確立された》という意味になると思います。
あと 《きよらかなおそれ》というのは 《〔ナゾの何ものかに〕お
それをいだきつつの きよらかな・または聖なる甘え》というふうに
説明できるかと思います。
そしてこの場合の《甘え》は 相手が人や組織や社会ではないので
相互の依存関係というよりは 《〔こちらが一方的にそのナゾに〕身
も心もゆだねている状態》を言うと思われます。
こういった場合の《聖なる》は いわゆる聖俗・浄穢といった価値観
を推し出そうとするよりも 《その状態が確立された》ということに
焦点を当てていると見ます。
《確立されている(サンクトス: saint )》なら:
★ 空しからざる人生
☆ に通じます。
議論――ないし術語の説明――は 尽きないように感じられますが。
これを読む前に前回答にお返事してしまいました。
改めてここにお返事書きます。
ふむ。難しくなって来ましたが、聖がこのような意味となると、尚更、赤子や幼児が聖なるものを抱くのは難しかなると思います。彼らは、経験世界のなんたるかも知らず、それ故にそれを超えたものなど知りようが無いだろうと思うからです。
彼らの甘えは、無条件というよりも、自分を保護してくれる対象に対する甘えであり、限定的なものと言えるのではないでしょうか。
ナゾなる何ものかは、自分を保護してくれる対象というものでもないのだから、ナゾなる何ものかと、赤子幼児にとっての母的存在とは異なると考えた方が良いのではないでしょうか。
No.23
- 回答日時:
現代の日本の風潮として、「無駄なことはしたくないという合理主義が強いと思います。
そして、その傾向はさらに強まってゆくでしょう。
人生の問題というものは科学の範疇外の問題ですから、人々はこの問題を考えなくなって
います。
そうした時代の中で、人生の問題を説得力を持って語るには、科学的根拠があったほうが
よいとかねてから考えております。
自分一人の幸せを考えるのであればこれは必要のないことですが、今の日本の若い世代には
教えなければならないことがたくさんあると思います。
いや、もう一歩踏み込んで言えば、自分一人の幸せなどないということです。ですから、悪
いと思うことは発言をし行動をしてゆくべきと思います。
空しからざる人生のために必要なものの一つであると考えています。
なるほど、現状を見立てた上で、敢えての科学的見方を用いると言う事なのですね。
この、人生の問題を考える上で、客観性を持つ事については同じく考えます。何が問題であるのか、それを客観的に見る事が始めだと思います。そして問題がはっきりした時には、仮に問題点を悪点と言うならば、その解決もきっと見出す事が出来ると思います。
No.22
- 回答日時:
>しかし今回は、かえって有無と言う限定を匂わせてしまったでしょう。
いや、お気を悪くしないで聴いていただけたらいいんだけれども、学術的な哲学の議論だと、問いそれ自体を掘り下げることが多いのです。議論のための議論といいますかね。誰だったか、問いそれ自体に既に答えが含まれている、と言う人もいます。実際、優れた問いは、その問いを論理的に分析していくと、「自動的に」答えを弾き出すことがあるのです。
別の問いに回答はしませんでしたが、学術的な議論をお望みのようなので、あえてそうしてみました。
この問いは良い問いだったと思います。私自身は、人間の関われる範囲は物流に限られるのかもしれないということを閃き、それはそれで有益な認識だったのです。根源をどうしようもできない、人間の無力さのようなものも感じました。
そうだったのですね。
気を悪くしたのでは無いので心配なさらないでください。
問いを掘り下げることはとても重要だと思います。人は自然状態では、自分が本当には何を知りたいのかが分かっておらず、本当の問いたるものを湧出する事が出来ないからです。
回答者さんにとっても有益な問いであれたようで、質問者としても満足しています。
根源をどうしようもできない人間の無力さ、しかしだからこそそこをどうするかという答えの形を、求められるのだとも思えます。これは超人になると言うことではなく、自分のあり方を超える事につながる姿勢だと思います。
問いを考えて下さりありがとうございます。
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皆さま、ご回答ありがとうございました。
空しい言葉や思いに憑かれていたのが、ご回答いただいて、何か初心に帰れた様な気がしています。
そろそろ質問を締め切りろうかと思いますが、あと二、三日中に回答が無ければ締め切ります。
よろしくお願いいたします。