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長い戦国時代 天下統一しても 天皇だけは殺せなかった。

それは 各国を敵にまわすことらしいのですが。
なら 結局 長く続いた 江戸時代も 徳川家さまさまでは無かったて事ですよね??

A 回答 (6件)

戦国時代に限らず「日本」が成立して以来、天皇を殺そうとした人はいません(ただし、自分が天皇になれる後継者争いは除く)



なぜ日本人が天皇を殺すことができないかというと「天皇を殺してしまうと、日本ではなくなってしまって自分も困る」からです。

その秘密は日本統一期に天皇が配下になった豪族たちと約束した内容にあります。
その内容は「俺(天皇)の部下になれば、お前の神も俺が一緒に祈ってやるよ」ということです。

一般的に、どこの国でも古代の戦いは民族同士の戦いで、日本でも豪族同士の戦いは民族争いと言ってもいい状態でした。
そして、民族同士の戦いで負けると「勝者の権利」によって、負けた民族は全員処刑とか奴隷商人に売られる、のが普通でそうなると自分たちの神(先祖や民族を作った英雄など)を信奉することができなくなってしまうのが普通でした。
逆を言えば「自分たちの神を奉ることや祭祀を行うことができない」というのが「その民族が滅びた」という証拠だったのです。

また、配下の民族(支配される側の民族)になっても、征服民族の神を敬うように押し付けられるので、結果として自分たちの民族の神は途絶えてしまいます。

これが「古代戦争の勝敗」のルールだったわけです。

しかし大和朝廷を起こした天皇は「全部を征服して、従わせるのはものすごく大変」と言うことに気がついてしまいました。また「武力で従わせても、こちらの力が弱ければ反乱を起こされる」とも考えました。

ではどうするか、ということで考え出されたのが「天皇の配下になれば、大和に参加して自分たちの神様も途絶えることがない」と言う方法だったのです。

日本の異名のひとつである「大和」がなぜ「大きな和」なのかというと「天皇が配下のすべての神々を一緒に祈ってすべての民族が調和する」という意味があったからです。

この大和朝廷の方法により、日本は統一され、そして現代に続く「八百万の神の国」であることが決定づけられたのです。

戦国大名なども豪族の続く家系、公家の出自だったりする人が多かったため、いわば天皇は「自分たちをまとめ上げて、しかも自分たちの神様のお世話までしてくれる、大恩のあるお方」だったわけです。

また、天皇を殺して次の天皇を立てないということは「天皇が祭祀を行っていた日本中の神々の祭祀が途絶える」ということであり、ということは「自分たちの神様も終わりになり、それなら自分の民族的出自も途絶えてしまう」ということになるわけです。

現代と違って「どこの出自であるか」というのはとても重要な時代でしたから、その出自を支える根本が途絶えてしまうのはとても困ることになったわけです。

ですから「天皇を滅ぼすということは、自分の家系と家族が死ぬことに等しい」といえ、だから天皇を殺すことは誰もできなかった、ということになりますし、だから「天下統一」のゴールは天皇を担ぎ上げるだけの能力をもって、天皇から「お前に政治を任す」と言ってもらえるだけの実力者のことだった、といえるわけです。

戦国時代の史実では、織田信長は「天下」にもっとも近い状態で弑され、秀吉は「天下」を取り天皇から関白職をもらって日本の政治を握りましたが、子供に継がせることに失敗し、家康は幕府の許可をもらったうえで、相当に準備して家系で幕府を維持できるようにしたのです。

具体的に家康がやったのは「幕府が成立した以上、各武家が天皇と直接交流することは禁止」ということです。天皇は冬至も日本の律令的領主であり、官位を授けることができました。この官位は名誉職ですが、これを与える天皇にはそれなりの権威があったわけです。

家康は官位の授与を「幕府の許可なく貰わないように」と各武家に通達することで、天皇の権威を封じ込めたのです。
これは鎌倉幕府が崩壊した後、建武の新政のような「天皇が直接政治を行う状態」にならないように、天皇の権威を可能な限り封じ込めた、からです。

でも結局徳川幕府が力を失った明治維新は「天皇の御親政」にもどったわけですから、家康の危惧はただしく、徹底的に天皇の権威を封じ込めたから250年にも及ぶ、徳川幕府時代が続いた、ということです。
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この回答へのお礼

日本で無くなる→それが最高の答えでし^_^

お礼日時:2018/02/17 13:55

天皇は神と人間を媒介する存在で


ローマ法王のようなものです。

だから、どの大名も天皇を殺そうとは
しなかったのです。

現代でも、天皇は特別な恐れ多い存在と
感じている日本人は多いです。

それが昔です。
吾妻鏡にもありますが、天皇と争うことに
なった北条家は、雷がなるつど、天皇の祟りだ
と恐れおののいた、と記録されています。

西洋でいえば「カノッサの屈辱」みたいな
ものです。

○聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していた
ローマ王ハインリヒ4世が、
1077年1月25日から3日間に及んで雪が降る中
カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続け
教皇による破門の解除を願い、
教皇から赦しを願ったことを指す。




長く続いた 江戸時代も 徳川家さまさまでは
無かったて事ですよね??
  ↑
徳川幕府の正当性を担保する装置として
天皇が必要でした。
征夷大将軍の地位は天皇が任命しました。

西洋でいえば、王権神授説です。

王様はどうして威張れるのだ。
王様の地位は神によって与えられたからだ。
神なら、仕方がない。

こういう感じです。

だから、徳川家も、表面上は、天皇に
平身低頭していました。
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どうですかね?



一権力者(大名)が、権威機関である朝廷や、自治権が認められた諸藩がある中、それを265年間も統治する権力組織を構築,維持した事例は、徳川幕府のみですので。

徳川幕府は、朝廷を崇拝する立場を取り、朝廷の権威は維持,利用しつつ、軍事権や行政権は剥奪して、朝廷の権力が及ぶ範囲は朝廷内のみに封じ込め。
諸藩に対しては、自治権は認めつつも、改易,減封,取り潰しなど、各種の強権を保有,駆使して統治。

まあ結果的には、この両方から造反されて、明治維新を迎えることにはなるのですが。
逆に言えば、「佐幕 VS 討幕」と言う武家社会の争いと、「武家政治 VS 公家政治」と言う政争の、両方を同時にやってのけるだけの権力,実力があったともいえます。
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殺すより利用したほうが得でしたから


それを最初にしたのが、織田信長
それだけのことですよ
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支配欲が強い人間は、上に登りつめる段階でいろんなことを考えます。



子どもがガキ大将やボス的な存在になる時、賢い奴は、必ずしもナンバーワンの名誉より、ナンバー2の立場でいた方が自由に人員を操ることができると気づいたりしますよね。

政治家も起業家も同じことです。代表や会長と崇めたてる存在をトップに置いておいた方が、実際のコントロールはやりやすい。

戦国時代の武将たちも馬鹿じゃない者たちは考えたんじゃないですかね。自分たちより上の存在がいた方が何かと都合が良いだろうと。
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天皇と徳川は全く別物。

超様様である。
徳川が大統領や独裁者だとしたら、天皇はバチカン法王。

天皇を殺す意味も無いし、天皇は統治者を指名することもない。
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