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夏目漱石のもたらしたもの、業績、簡潔に教えてください
表面から拝見すると、英国留学、帝国大学卒ぐらいしか
見えてきません。角度を違えてさまざまなご教授お願いします。

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A 回答 (5件)

nzdoraさん、漱石の人となりを想像できる背景をありがとうございます。

私も再考してみました。

「・・・受験には不利だという理由から、漱石は府立一中の退学を決意したそうです。しかし、両親が許さず、毎日弁当を持って家を出ても学校へ行かず遊んでいたそうです!!とても意外ですよね!?」⇒向こう気一本、一途な若き日の漱石。。何事にも若い頃に一途になった人ならばこその人間肯定思想なのか・・・と。この頃は親にとってやり難い子の方が大人になってから人間理解、肯定の視点が養われるのでしょうか。

「今度は英語学習に気乗りがせず、漢学の二松学舎に入り、漢文の面白さにのめりこんでいきます…。
⇒しかも!身を立てることで初めは文学でなく建築家を目指したそうです。でも、米山保三郎にたしなめられて、文学へ復帰できたようですね。東大予科に入学し子規とクラスメートになります。やや権威主義、既存形式的でものごとを見下すような子規が漱石のことを「漢学の素養の深さで漱石には一目おき、意見も受けます。「君は又人の善悪を簡単に論じるがこの世には完全な人間はいない。・・・人間は善悪二つを持ってこの世にあるのだから、善をほめ不善を哀れむべきで、君の見方は狭すぎる、・・」(出久根達郎著「漱石先生の手紙」)
漱石と言う号も子規が15、6歳ごろ自分で使ったものですが、「石を枕とし流れに漱ぐ」を「石に漱ぎ、流れを枕とす」と読み違えたものがなお頑固に自説を主張する故事から取ったもので、この名は自分が高慢だったことに恥じ、漱石に譲ったとしています。(同著)

やはり漢文では将来は望めないという現実を見、1年ほどで二松学舎を辞め、神田駿河台の成立学舎に入学します。⇒東大受験のためで、この時はまだ建築家を志望していた時期に思われます。

「18歳で待望の大学予備門予科に入学しました(^^)vしかし明治19年(19歳)、成績が下がっていたところで腹膜炎にかかり、進級試験が受けらませんでした。」⇒
どうも親友、子規との出会い、落語で意気投合、寄席に通った時期。。落第を機に生活を改めることを決意しその後、首席を通し、相変わらずの恵まれた?!友、子規の及第画策に先生のところを回ります。

「漱石って、波乱万丈な学生時代を過ごしていますよね。このことを知るまでエリートというイメージがありましたが、ちょっと身近に感じてしまいました」⇒
倒幕から明治維新にかけての時代、儒学と洋学とがいざない、大変多くのものごとを考える力量ある人物がたくさん出た時代でもあります。そのきっかけ、互いに切磋琢磨する気風が溢れていたのでしょうか。そのキーマンの気質が漱石に見られるのを想います。。

本当に!魅力尽きない漱石ですが、現代風の鬱気質があってのこと・・人生を子規のように甘く軽く見ず、真剣に見つめていたからこそ、現代の若者にも響き、又、学者らしい江藤淳さんのような堅物?!にも筆をとらせる人物だったのを想います。。

参考URL:http://www.ebis21.com/desk/back/ashio_v12.html
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 文学者について「業績」や「功績」という言いかたが正しいのかどうかわかりませんが、簡潔に言えば漱石の業績は大きく二つに分けられると思います。


 第一に、日本文学の歴史にとびきり面白い新作の小説をいくつも提供してくれたこと。これは細かく言うと五つほどの重要な意味を持っていたと思います。
 まず、(1)それまで文語文で書かれることが多かった小説に口語文を本格的に用い始め、それを完成させたこと。漱石は決して口語文を最初に使った作家ではありませんでしたが、彼が近代日本語の成立にあたって決定的な影響を与えたことはほとんど疑う余地はありません。
 次に(2)日本に本格的な西欧風の長篇小説を根付かせたこと。西欧風の長篇小説はなにかということになるとむつかしくなりますが、漱石先生自身が大好きだった18世紀ごろのイギリス小説のような、波乱万丈のおもしろさと登場人物のしっかりした造形、なにより作品の堅牢な構造といった面で漱石のもたらしたものは大きい。彼の志向した小説のかたちはかならずしも大正以降の日本の文壇に根付いたとはいえませんが、しかし日本文学に大きな富を与えたことは事実です。
 また(3)後期の『心』や『道草』のような作品で日本的な私小説の成立に影響を与えたことも見逃せません。漱石自身は私小説作家ではありませんが、こうした作品の細密な心理描写と極度の倫理観が後進の若い作家に有形無形の影響を与えたことは否定できないと思います。以前の私小説作家は鴎外は好かないかわりに漱石を持ちあげる人がひじょうに多かった。
 しかしそれだけでなく(4)小説がむやみにおもしろくて、みんなから愛された、ということも重要です。彼の小説を連載した朝日新聞はそれだけで部数が伸びたといいますから今では考えられないようなことですが、漱石は文学的な質と小説のおもしろさ、たのしさを両立させた優れた作家でした。彼の作品は描写のひとつひとつにいたるまで面白い。丁寧に描かれていてわかりやすいし、作中の登場人物たちがみんななぞめいていて興味をそそる。読書の楽しみを堪能させてくれます。そのことが今も昔も、漱石を国民的な作家にしているゆえんでしょう。
 そして(5)日本語が読めるんなら漱石くらいは読んでいるよね、という、文明の共有財産として彼の作品がはたした役割はひじょうに大きい。たとえば「あいつは坊ちゃんみたいなやつだ」というふうに、ひとつの人間の型を社会のなかに提供するというのは、ドンキホーテやハムレットでもおなじですが、それが文学という狭い枠を超えて人々に愛されている証拠です。われわれは彼の作品をとおして日本語を使うものとしての一体感を感じている部分があります。
 そして第二に、彼の人生は日本人に新しい知識人の生き方を教えてくれました。漢文もできて、英語も読める、時代のエリート中のエリート(司馬遼太郎は、明治の社会で出世するためのすべてのカードを持っていた、といっています)が、自分をとりまく知的問題に深刻になやんで、だれもがうらやむ立場(東大講師)を捨てて作家になった。まず、ものごとを知的に考え、しかもそれをなおざりにせず、みずからの倫理観と結びつけてつきつめるという態度、さらには権威や権力に盲従するのではなく、官の立場でなくともやれることはたくさんある、と見極めたこと、世間の価値観に遠慮することなく自分の正しいと思ったこと、やりたいと思ったことに人生を捧げる本当の意味での個人主義、そうした漱石の生き方は、決して安楽なものではなかった当時の知識人、あるいはふつうの人々の人生を勇気づけ、新たな生き方を示してくれる指標だったのではないでしょうか。たとえばイチローがそうであったように、漱石はたしかにある人々にとってそういう意味での希望を与えてくれる存在であったのではないかと思います。だからこそあれほど弟子たちに慕われたのではないでしょうか。
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 こんにちは。

ちょっと質問とは外れてしまうかもしれませんが、面白い話を知っているので回答しました。

 夏目漱石は、明治12年に東京府第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)の正則科第七級乙科に入学しました。そのころ府立一中には正則科と変則科があり、変則科では全ての授業を英語で行っていたそうです(--;凄い)一方の正則科には英語の授業がありませんでした。当時の唯一の大学であった帝国大学(現在の東京大学)への進学を前提とした教育期間である「予備門(現在の国立大付属高校みたいなもので、予科三年・本科二年)」の受験には不利だという理由から、漱石は府立一中の退学を決意したそうです。しかし、両親が許さず、毎日弁当を持って家を出ても学校へ行かず遊んでいたそうです!!とても意外ですよね!?

 さすがに両親も諦め、退学を了承したら、今度は英語学習に気乗りがせず、漢学の二松学舎に入り、漢文の面白さにのめりこんでいきます…。

 16歳になり、やはり漢文では将来は望めないという現実を見、1年ほどで二松学舎を辞め、神田駿河台の成立学舎に入学します。英語を勉強し、予備門進学に備えたそうです。

 そして、18歳で待望の大学予備門予科に入学しました(^^)vしかし明治19年(19歳)、成績が下がっていたところで腹膜炎にかかり、進級試験が受けらませんでした。しかし、これを機に生活を改めることを決意し、あえて追試を受けずに落第の道を選びます。以後は卒業まで首席を通します!!

 (まだまだありますが、)漱石って、波乱万丈な学生時代を過ごしていますよね。このことを知るまでエリートというイメージがありましたが、ちょっと身近に感じてしまいました(失礼…!?)

 長々と書いた上に質問者さんの疑問を解消できていないと思うのですが…ごめんなさい(汗)ちょっとでもお役に立てれば嬉しいです。
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この回答へのお礼

興味深いお話ありがとうございます。

お礼日時:2004/10/18 07:00

ほんとつまらないことかもしれませんが・・・


夏目漱石の東大での授業は非常に難しくわかりにくい、教え方の下手な人だったらしく学生からの評判は最悪だったそうです。
神経衰弱にもかかり、急に怒鳴ったりするなど意外な一面もあったようです。
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抽象的になりますが


「小説家の社会的地位を向上させた」
という業績は如何でしょう。
漱石以前の物書きといえば、些か胡散臭い職業でしたが漱石のようなインテリが小説を書いたことにより、作家のイメージが上がりました。
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Q夏目漱石は森鴎外をどう思っていたか。

お世話になります。
森鴎外と夏目漱石、ともに日本を代表する作家です。
森鴎外のいくつかの小説には、夏目漱石の名前もしくは夏目漱石をモデルにしたと思われる人物が出て来て、森鴎外が夏目漱石を一目置いていた事が分かるのですが、逆に夏目漱石は森鴎外の事をどう思っていたのでしょうか?2人の間には交流はあったのでしょうか?
そのような事が分かる本などは有るのでしょうか?
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

まず、漱石と鴎外では、実際の年齢に五歳、差があります。
しかも、漱石が執筆活動に入った時期、鴎外はすでに押しも押されもせぬ大家の位置にあったことを、まず押さえておくべきでしょう。

漱石は明治二十四年、帝大の学生だった当時、正岡子規宛に以下のような内容の手紙を書いています。
--------
鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之(これなく)、是(これ)も小子嗜好の下等な故と只管慚愧致居候(ひたすらざんきいたしをりそうろう)。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄にて、全体を窺ふ事かたく候得共(そうらえども)、当世の文人中にては先づ一角ある者と存居(ぞんじおり)候ひし、試みに彼が作を評し候はんに、結構を泰西に得、思想を其学問に得、行文(こうぶん)は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸分子相聚(あつま)つて、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思はれ候。(八月二十三日付け:引用は江藤淳『漱石とその時代』第一部から)
--------

鴎外は明治二十三年一月、『舞姫』を、同年八月『うたかたの記』、明治二十四年一月に『文づかひ』を発表しています。

後の漱石、当時はまだ金之助であった彼が読んだ「二短篇」がなんであったかは明らかではありませんが、この冒頭から、二作品を読んで高く評価した漱石に対して、子規が、それはおかしい、と反論した背景があったことがうかがえます。

江藤淳は『漱石とその時代(第一部)』(新潮全書)のなかで、鴎外の作品は、前年に帝大の英文科に入学してからの漱石の状況を考えながら、この手紙を以下のように解釈しています。

-----(p.202から引用)-----
「洋書に心酔」し、しかもそれを意志的・知的に理解しようと努力するうちに、いつの間にか虐待されつづけていた金之助の感受性を覚醒させずにはおかないものであった。つまり鴎外の小説の「結構は泰西」に仰がれていたが、そこにはまごうかたなき旧い日本――金之助が英文学専攻を決意して以来置き去りにして来た「日本」があったのである。

……『舞姫』に描かれた才子佳人の恋は、舞台こそ独都ベルリンに求められていたが、ほかならぬ晋唐小説の伝統を「文明開化」の時代に復活させた恋である。金之助が鴎外の「二短篇」に見たものは、いわば崩壊しつつある旧い世界像の残照であった。その光を浴びた彼の衝撃がいかに深かったかということは、のちに金之助が英国留学から帰国して発表した小説、『幻影の盾』と『薤露行』に痕跡をとどめている。この二短篇の雅文体の背後には、ほぼ確実に『舞姫』や『文づかひ』の鴎外がいる
------

つまり、漱石が英文学の研究から執筆活動へと移っていったのも、鴎外の存在があったことが、理由の一つであったと考えることができます。


後年、両者はそれぞれに、当時の文壇から離れた場所で、それぞれに仕事をするようになります。

このことを中村光夫はこのように指摘しています(『中村光夫全集』第三巻)。ここで「彼等」というのは、漱石と鴎外の両者を指しています。

-----「鴎外と漱石」p.160-----
おそらく彼等が表面冷やかな無関心を装ひながら内心激しい憤怒に燃えてゐたのは当時の文壇といふやうな狭い世界ではなく、むしろこの文壇をひとつの象徴とする或る社会風潮であつた。いはば彼等の誇り高い教養と抜群の見識とは、当時の我国民が無意識のうちに徐々に陥つて行つた或る根深い精神の頽廃を鋭く直観した。そしてこの抗ひ難い社会の風潮に対して勝つ見込のない敵意を燃やしてゐた。…

では彼等がここで生涯を賭して闘つた敵は何かと云へば、それは一口に云つて、近代欧米文明の一面的な輸入の結果たる所謂文明開化の時潮であったと僕は信じてゐる。…明治大正を通じて我国が存立の必要から強ひられて来た欧州文明の物質的側面の急激な輸入と、その結果として我国民の精神の深所に徐々に食ひ入つた或る微妙な歪みを指すのである。
-------

当時のふたりがなぜ交友をもたなかったのかは、さまざまな事情があったことと思います。

なによりも、漱石が専業作家として活動したのは、わずか十年であったことを忘れてはなりません。成熟するまでに時間がかかり、一人前になってからわずかな時間しか与えられなかった漱石は、自分の生命を削り取って作品に結実させていった、といっても過言ではありません。

二葉亭四迷没後、一時期は同じ職場に籍を置きながら、実質的には交遊がなかった二葉亭に対して、『長谷川君と余』(『思い出す事など』所収 岩波文庫)のように、実に心情にあふれた追悼文を残した漱石ですから、たとえば鴎外が自分より先に亡くなってでもいたら、間違いなく、何らかの追悼文を残したでしょう。

こういう位置にあった鴎外と漱石が、たとえ表面的には交遊がなかったにせよ、互いに反目したり、あるいは嫉妬したり、排斥したりということは、非常に考えにくいと思います。
漱石の弟子宛ての書簡にも、鴎外の名は散見されます。
ともに意識のうちにあったのは、日本や日本の文化の行く末であったことを考えると、互いに深い敬意を抱いていたと理解してかまわないかと思います。

まず、漱石と鴎外では、実際の年齢に五歳、差があります。
しかも、漱石が執筆活動に入った時期、鴎外はすでに押しも押されもせぬ大家の位置にあったことを、まず押さえておくべきでしょう。

漱石は明治二十四年、帝大の学生だった当時、正岡子規宛に以下のような内容の手紙を書いています。
--------
鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之(これなく)、是(これ)も小子嗜好の下等な故と只管慚愧致居候(ひたすらざんきいたしをりそうろう)。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄に...続きを読む

Q反自然主義とは

文学で、反自然主義とは写実主義のことですか?

Aベストアンサー

要するに自然主義のアンチはすべて反自然主義です。それ自体で自立し、確立している理論ではなく、さまざまな方向からのアンチがある幅の広い概念です。

自然主義の「自然」というのは、自然科学の自然です。科学の時代といわれる19世紀は、遺伝や進化、実験医学といった新概念が一世を風靡していました。その自然科学の理論にもとづいて、人間を科学的に認識・実証しようとしたものが自然主義なのです。
その自然主義の特徴には、人間(または人間社会)の卑小性、無理想、無解決、技巧的には客観描写(観察・分析・実験)があげられます。

ヨーロッパでは、まず古典主義(昔が良かった派)の一派から反自然主義の口火が切られました。象徴主義やロマン主義です。これらは神秘、象徴、唯美などに傾倒し、やがて世紀末文芸に移行していきました。これがヨーロッパの反自然主義です。要するに物語のもつワクワク・ドキドキ、笑い、不っ思議ぃ~、まぁキレイ、などの情緒感を文芸からなくしたくなかったのです。

日本では、この西洋的反自然主義の並びとして、雑誌『明星』があげられます。与謝野鉄幹や晶子たちですね。この雑誌は反自然主義の論文を数多く掲載し、まさに反自然主義の拠点ともいえるものでした。このようなロマン主義が日本では狭義の(本来の)反自然主義だと考えられます。この流れは『白樺』にも引き継がれます。武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などです。

また、日本には広義の反自然主義というものがあります。これはどちらかというと「反」というより、非自然主義というべきものです。これらには硯友社(尾崎紅葉、山田美妙など)、漱石や芥川の小説、新感覚派(川端康成、横光利一など)、新心理主義(伊藤整)などがあります。しかし、これらは世界的には反自然主義とはいえません。

さらに、日本では反リアリズム・反私小説を反自然主義というばあいがよくあります。前者はリアリズムと自然主義を混同したことにより誤りです。
私小説は、日本の自然主義が科学精神と相交わることは少なく、事実尊重と告白を特徴としたためにエッセイのようなスタイルに傾斜していった、日本独特の小説です。これに対抗する流れが起こるは当然といえば当然でしょう。「四畳半フォーク」と「はっぴいえんど」の対置と考えればわかりやすいでしょうか? (ちと古い?) 日本ではむしろ、このような文脈(反私小説)で語られることが多いと思います。

要するに自然主義のアンチはすべて反自然主義です。それ自体で自立し、確立している理論ではなく、さまざまな方向からのアンチがある幅の広い概念です。

自然主義の「自然」というのは、自然科学の自然です。科学の時代といわれる19世紀は、遺伝や進化、実験医学といった新概念が一世を風靡していました。その自然科学の理論にもとづいて、人間を科学的に認識・実証しようとしたものが自然主義なのです。
その自然主義の特徴には、人間(または人間社会)の卑小性、無理想、無解決、技巧的には客観描写(観察...続きを読む

Qエゴイズムからの脱出

夏目漱石のこころを読みました。
私たちはどうしたらエゴイズムから脱出できるのでしょうか。

Aベストアンサー

エゴイズムとエゴティズムという語を区別しなくてはならないと思います。

エゴティズムというのが今一般に言われる「あいつエゴイストだよ」という時のエゴを指します。自分のことばかり主張して他人のことを顧みない、いわゆるわがまま者ということですね。
それに対して、エゴイストは、自分のことばかりを考えたり、話したりすることです。要するに、他人のことに関心を払えないということです。

漱石の「こころ」の場合、エゴティズムというのはやむを得ない部分もあるのではないでしょうか。
なにしろ、恋愛感情というものは、そう簡単に止めようと理性では思っても止められるものではないからです。
恋愛において、自己主張をしないとどうなるかは大体のことは察しがつくと思います。
しかし、秩序というのがありまして、道徳だとか倫理だとかというものですね。それを守っていればとりあえずは大丈夫かな、と思います。
それに逆らってまで自分の利益(恋愛成就)をはかるというのは、やはりエゴティズムであるということができるでしょう。
自分の利益抜きで恋愛をする、というのは不可能だからです。

エゴイストというものは、自分の主張をするばかりですから、他人に恋することはあっても、恋愛感情がうまくいくケースが非常に少ないです。つまり相手への気配りをしなくなる、ということがいけないのだと思います。
文学でよくあるのは、自分で禁じられた恋をして、自分ひとりで悩んで、自分で死を選ぶというパターン(若きウェルテルの悩み、など)です。これがエゴイスティックなものであるとすれば、これは悲劇でもあるといえるし、喜劇でもあると言えます。
特にウェルテルでは、ウェルテルの宛てた書簡ばかりが並んでいます。まさに自分は自分は、の主張の連続です。それで挙げ句に他人の忠告を聞かずに突き進む。
これがエゴイズムというヤツです。自分にとって利益がなくても、自説を押し進めてしまうということです。

宗教を持ち出すこともなく明らかなのは、自分の考えに固執しないことです。
自分が正しいと思い込む人は、意外に後で空っぽであることに気付かされるものです。
ギリシャのデルフォイの神殿(神託で有名)の入り口には「汝自身を知れ」という言葉があります。これは自分が分に応じた振る舞いをせよ、ということです。自分が絶対だと思うこと、他人は「俗人」であると思うことが、そもそもの誤りであると考えることが必要です。そのために、他人の言葉に耳を傾けるということは大事なことなのです。

こころを読まれたということで、もしかすると、国語の授業でしょうか。中高生さんだとすれば僕の書いていることは少し論がしっかりと立っていないのでわかりにくいかもしれません。ですから、最後にきわめて単純に要約します。
「【自分が絶対】、ではなく、【自分も相対、他人も相対】、として、自分の意見と他人の意見を同等の立場において判断するように心掛けることが、エゴイズムからの脱却の第1歩です」

エゴイズムとエゴティズムという語を区別しなくてはならないと思います。

エゴティズムというのが今一般に言われる「あいつエゴイストだよ」という時のエゴを指します。自分のことばかり主張して他人のことを顧みない、いわゆるわがまま者ということですね。
それに対して、エゴイストは、自分のことばかりを考えたり、話したりすることです。要するに、他人のことに関心を払えないということです。

漱石の「こころ」の場合、エゴティズムというのはやむを得ない部分もあるのではないでしょうか。
なにし...続きを読む

Q夏目漱石『こころ』はエゴイズムを描いたのか

似た質問がありますが、少し違う視点から質問しますので皆様、盆休みの間によろしくお願いします。

よく『こころ』はエゴイズムを描いた小説とされますが、何度読んでみてもどうもしっくり来ないのです。
先生のせいでKが自殺することになったのは確かです。けれど、先生はエゴをふりまくタイプではないし、もちろん自覚的なエゴイストではありません。
うまく表現できませんが、先生は何だか流されてそうなってしまった人といった印象を受けるので、普通イメージするような「エゴ」「エゴイズム」ということではくくれないような気がするのですが。
作者がエゴイズムを描いたとすると、どう解釈すればいいのでしょうか。また、他の解釈があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

『こころ』は人間の心に潜むエゴイズムを描いた小説である、と、自分の持っている文学事典にも載っていました。

この場合の“エゴイズム”は、
辞書にある“自己の利益を最優先させる態度”と取ればよいと思います。

先生は、Kの恋愛感情を知りながら、Kに自分の気持ちを告げることなく、先回りして、お嬢さんとの仲をまとめてしまった。
この行為が“エゴイズム”なんです。

いまの見方からすると、こういうことってあるよね、という感じではあるのですが。

この恋愛パターンは、中期三部作と言われる『それから』『門』にも出てきます。
『それから』では主人公代助は友人の妻である三千代に恋愛感情を持つ。
『門』での宗助は、友人の妻であった御米を妻にしている。

『こころ』でKが自殺しなかったらどうなっただろう、という仮定を、『門』の中に見ることもできます。
漱石は、宗助と御米の姦通に対して、宗助夫婦から富を奪い、健康を奪い、三人の子を奪うという、という残酷な刑罰を課しています。
漱石にとって、こうしたエゴイズムの発露は、許せないものだったんです。

当時でさえ、こうした漱石の倫理観には、反発する人もあったようで、谷崎潤一郎などは、若い頃“世の中というのは、もっとふしだらな、ルーズなものではなかったか”みたいなことを言っていたようです。

漱石は人間の心の奥深くに巣くうエゴイズムを暴こうとしました。それを白日の下に晒していけば、人々は反省し、自然で自由な世界へいくことができる。それが、後期の“則天去私”の心境とされています。
晩年の『明暗』を読むと、もっとその漱石流のエゴイズムがわかるかもしれません。

『こころ』は人間の心に潜むエゴイズムを描いた小説である、と、自分の持っている文学事典にも載っていました。

この場合の“エゴイズム”は、
辞書にある“自己の利益を最優先させる態度”と取ればよいと思います。

先生は、Kの恋愛感情を知りながら、Kに自分の気持ちを告げることなく、先回りして、お嬢さんとの仲をまとめてしまった。
この行為が“エゴイズム”なんです。

いまの見方からすると、こういうことってあるよね、という感じではあるのですが。

この恋愛パターンは、中期三部作と言われる『...続きを読む


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