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タトへの問題ですが 尋ねて見ます。

 
はりつけの姿が 生死あるいは因果律から自由である。か?

経験合理性といった判断の基準から自由であり それによる
認識を超える一点を成している。か?

A 回答 (1件)

特異点という見方は可能だと思います。



数直線上で 0、1、1.5 というプロットをしてみます。
普通の人が一生の間に背負うことができる負荷を1と考えて
十字架にかけられたということが
その1を超える負荷をかけられたということの象徴である
と考えていいように思います。

普通の人は一生の間死ぬまでに0から1へと
ある意味右肩上がり的な人生。
1を超える負荷を負わされた人は
1から1.5まで埋め合わせを受ける人生。

つまり1までの人と1からの人は
異なる常識のもとでの住み分けを余儀なくされる
という感覚が妥当であり
そういうことを示唆する象徴が十字架であると
解釈するのが妥当かもしれないと思っています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 特異点という見方は可能だと思います。
☆ そうですか。或る程度の確信はあるのですが でも おっかなびっくり
のような気持ちでもあります。タトへですし。



★ 数直線上で 0、1、1.5 というプロットをしてみます。
普通の人が一生の間に背負うことができる負荷を1と考えて
十字架にかけられたということが
その1を超える負荷をかけられたということの象徴である
と考えていいように思います。
☆ なるほど 《負荷》の問題ですか。

普通より大きなものだったゆえに 人びとみんなの問題につながっている。
あるいは 必ずしも《有罪》と決まったわけではないのに 死刑に処せられ
たという問題が じんるい全体の心の現実につながっている。・・・



★ 普通の人は一生の間死ぬまでに0から1へと
ある意味右肩上がり的な人生。
1を超える負荷を負わされた人は
1から1.5まで埋め合わせを受ける人生。
☆ あぁ そうしますと よく言っているように《大いなるアース役》の
問題にもなっているかも知れません。



★ つまり1までの人と1からの人は
異なる常識のもとでの住み分けを余儀なくされる
という感覚が妥当であり
そういうことを示唆する象徴が十字架であると
解釈するのが妥当かもしれないと思っています。
☆ イエスがその役目を負って果たしたからには もう二人目は 出ないで
済むとも考えられます。まいか?

お礼日時:2018/07/06 15:43

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