いちばん失敗した人決定戦

その“認識正式”は人それぞれ、七十億人の人の“形式”があると云う事!

或る質問への回答を見て、このようなことを思いつきました。

ご意見、いただきたく思います。

宜しく!

質問者からの補足コメント

  • どうやら当初の曖昧な解釈はハズレているのかな?と思い始めています。

      補足日時:2018/09/25 16:15
  • 認識形式と云う言葉を説明する記事を見ても、形式がどんな形なのか云ってるものが無いですね。

      補足日時:2018/09/25 16:21
  • 網膜の話の続きですが、これを読んでいると形式って表現する必要は、認識には共通の“式”があるからと云うことのように思います。認識を道具としたならば、有る事柄については共通の道具を使っているとか、同じ事柄でも違う道具を使う事があるとか、また人によっては違う道具を使うとか。
    こんなイメージで受け止めていいでしょうか。

    また、認識と意識に付いては次のように考えています。
    認識は生物ならみんなしている。でもそれを意識する、又できるのは人間だけであると。
    認識は感覚的なものも含まれるが、意識は百パーセント精神作用である、とも。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/26 07:04
  • たくさんの回答(№13まで)を頂いての感想は、大変だったけど楽しかった、です。

    まだ半分も理解できてないとは思いますが、そんな中での感想はカントのやっていることは精神分析なんじゃないの?と云うものです。
    そしてその哲学的活動は、心理の根拠をつかみ取ろうとしているように思えました。

    皆様ありがとうございました。

      補足日時:2018/09/26 20:28

A 回答 (13件中11~13件)

カントに従う必要はないのではないでしょうか。



人間の認識能力には限界がある。――ただこのような事態を言い表わして
いるものと思われます。

経験世界の中に移ろいゆかざるを得ない経験存在として生きている人間で
あるからには その身体の能力(感性)にもそして精神の能力にも――記
憶・知解・意志にも――限界があると。

認識のあり方が 相対的であるということは ひとそれぞれだということ
になります。



ただし 共通の要素を見出すことが出来るはずです。

《ひと》という言葉で認識するそのもの(対象)は おおむね誰もが同じ
であると見なされています。

つまり人それぞれである主観としての認識内容について 互いにどのよう
に同じで違うかを 社会生活としては 見究めてゆきます。

共同主観(コモンセンス)が 出来上がってゆきます。――しかもそれも
時代とともに変わってゆく部分があると見られます。
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この回答へのお礼

形式、という言葉が出てきませんね。

お礼日時:2018/09/25 16:31

本質的には、それで正しいと言うか、そう考えるしかないです。

(他人の認識形式を知る事は出来ないからです)
ただし、人間の場合は、限定的ながら、言語のコミュニケーションが可能なので、全てを知る事は、不可能ですが、いくつかの類型に分ける事は可能でしょう。
ただし、クオリアと呼ばれる感覚質の存在も想定されますから、わからない部分は残りますね。(これは、言語化の限界があるからです)
同じ言語を使っても、意思の疎通が不可能な場合は、いくらでもあります。(むしろ、何故、言語での意思疎通が可能かを問題にした哲学者もいます)
哲学においても、他者をどう認識するかが、重要な論点になっていました。(他者も、認識においては、形而上と考えるしか無いと考えた哲学者もいます)
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この回答へのお礼

幾つかの類型、を教えて下さい。

お礼日時:2018/09/25 16:28

いや、認識形式は、まず人としてのそれで大別され、時代や民族、属する文化圏などによって中程度に分けられ、更に個々のバリエーションに分かれるのではないでしょうか。



例えば、巨大隕石が衝突する事を知らなかった恐竜たちは、その日が来るまで怖れることが無かったでしょう。しかしもし、これが現代人ならば、巨大隕石の接近を察知して、てんやわんやするに違いない。
世界観、認識形式の差異によって、振る舞いや生そのものまで変わってしまうという事が重要なのではないかと思いました。
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この回答へのお礼

巨大隕石の話はどの「別」になるのですか?

巨大隕石以外の例があったら、聞かせて下さい。

お礼日時:2018/09/25 16:27

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