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1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%B …
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の先天的形式(範
疇)によって総合的に構成されたものである。

4. したがって、われわれのもっとも素朴な感覚与件でさえ、すでに空間・
時間という主観の形式を経由したものであるから、われわれは感覚を刺激する
外なるものをそのあるがままに認識することができない。

5. それをカントは物自体とよぶ。

6. のち『実践理性批判』においては、物自体の世界を自由の概念と結び付
けて、現象界に対して叡智界(えいちかい)と名づけた。

7. 物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が
集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に
始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であった
ともいえる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


8. 解説〔に依拠しその内容〕をめぐって問うといういささか邪道の質問で
すが 次のように問い求めます。


9. もし:
▲(3) ・・・世界は、従来思われてきたように物のあるがままに現れてい
るものではなくて
☆ という条件を前提するのなら すでにそこから帰結する内容は敷かれてい
るのではないか?


10. つまり 《物のあるがまま》〔の姿〕は:

(あ) 人間の能力では認識しがたい。または し得ない。――かまたは:

(い) 認識し得るのだが それは 部分的な内容とならざるを得ない。そし
て 認識そのこともあやまち得る。――さらにあるいは:

(う) 《物》は 《人間が認識しうる言わばその仮象》とそして《認識し得
ない本体》とに分かれる。

☆ といった可能性がすでに孕まれている。はずだ。

11. つまり 前項の(う)から 《物自体》を想定することがあり得たと
しても ただそれだけのことに過ぎない。のではないか?

12. つまり 物自体を想定しようがしまいが 《人間の認識能力には限界
がある》という命題を言ったまでである。と捉えなくてはならない。はずだ。


13. なんでこの物自体が《現象界に対する叡知界》のことに成るのか?

14. 叡知界たる物自体に就くならば 《実践理性》としての《自由意志》
が実現し得て ひとは自由であると成るといった議論に発展するのか?

15. 無茶である。それなら 形而上学的実体なる神を据えている議論と違
わないのではないか?

16. カントは阿呆ではないか?

A 回答 (7件)

私は今、ブラジュロンヌさんのカント感、を通してカントを見ています。


それによると、カントは真実の姿・実態?を何となくうすうすと感じ取って、そのことを物自体と表現しているように思えます。

そして今、私はカントを直接見ているのではなくて、ブラジュロンヌさんを通して見ているように、人間は客観物そのものを直接認識するのではなく、自分の心が捕らえた映像を見ているのだと思います。

心は鏡。カメラの印画紙。池の水面に映る映像のように、心は客観物を写し取り、その写し取れた映像を認識する、或いは認識出来る、のだと思います。
心が歪んでいれば、客観物はそのような映像になるのです。

ブラジュロンヌ流にいえば、人の見る客観は主観そのもの、ということになるのでしょうか。

物自体とは、真の客観物のことのように思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 私は今、ブラジュロンヌさんのカント感、を通してカントを見て
います。
☆ しっかりと相手の言おうとするところを虚心坦懐にまなび よい
ところを捉え疑問に思うところを検証しつづけるといった基礎の段階
があると思います。

ですが 端的に疑問をぶつけるという方法も あり得るのではないで
しょうか。


★ それによると、カントは真実の姿・実態?を何となくうすうすと
感じ取って、そのことを物自体と表現しているように思えます。
☆ わたしのカント観を述べます。

この認識論にかんしては 要するに世の中の《事実》というものをそ
のまま――事実そのまま――を人間は認識しているか? できるか?
と問うたときに それは あやまち得る・部分観であるはずだ。した
がって そのことを説明するために 《本体と仮象》とに事実という
対象を分けた。

つまり 物自体と認識形式とに。――それだけのことだと見ます。


★ そして今、私はカントを直接見ているのではなくて、ブラジュロ
ンヌさんを通して見ているように、人間は客観物そのものを直接認識
するのではなく、自分の心が捕らえた映像を見ているのだと思います。
☆ いいえ。

人間は 対象を捉えるというとき 対象そのものを見たり聞いたりし
て知覚し その知覚(つまり まだ感覚やイメージの状態)をいわゆ
る悟性によって概念≒言葉として把握するようになる。

このとき とうぜんのごとく人はおのれの主観によって認識する。も
のです。

もし誰かほかの人の眼をとおして認識するというのであればそれは 
その《誰かの眼》を自分の主観としていると見なすべきでしょう。で
すから 特に違いはないはずなんです。

いや 自分の眼と他人の眼とは 区別しているとするのなら いちい
ち他人の眼を持ち出す必要はありません。


★ 心は鏡。
☆ 《模写》説ですね。外形は 写真のごとく認識し得るかも知れま
せん。

★ 物自体とは、真の客観物のことのように思います。
☆ だいたいそうですよ。問題は そのような《本体》と《認識され
た内容――これが 本体の仮象だということ――》とが ほぼ絶対的
に別物だと規定していること そしてその規定が 固定的な構図とな
ってしまっていることです。

お礼日時:2018/09/24 14:29

認識された内容は本体の仮象


これが問題です。
なぜ、仮象といいたくなるのでしょうね。

認識形式、という考えが現れる、また現れたというのは、なぜでしょう。
やはり“心”というものをじっくりと見つめてみるからではないでしょうか。

私(わたくし)流にいえば、認識形式は心の形状の事。
客観物は心の形状に従って、模写される。
それ故に“事実”は事実としては認識されない。
だから仮象、といわざるを得ない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 認識された内容は本体の仮象
これが問題です。
★ なぜ、仮象といいたくなるのでしょうね。
☆ そうではなくて 《人間の認識には限界がある》ということを言う
ために 《物自体と認識形式》とのふたつに分けたのです。カントがで
す。

でもそれは 単に《本体と仮象》に区分しただけだとわたしが言ってい
ます。



★ 認識形式、という考えが現れる、また現れたというのは、なぜでし
ょう。
☆ これも いま言ったことと同じですが ただ付け加えるべきは そ
の形式がたとえば《空間と時間》だというふうにも指摘されています。

つまり 何とかしてどの人間の主観にも共通の要素が――仮象であって
も――あるのではないかと探したのだと見ます。

ただし そうは言っても 考えてみれば 《時空間》は何も対象にかん
する認識内容ではなく げんみつに言えば その認識をさだめる基礎内
容でもありません。

時空間というのは ただ認識の主体たる人間のわたしが 生まれて来て
生きているその初期条件であり 存在の座標軸を成すようなものです。

わたしという存在は その内に時空間を持つ。ということです。

つまり だからと言って この時空間が認識の際に認識形式となって
認識をみちびくというものでもない。《いま(時間)・ここ(空間)な
るわたし》という存在にすでに基礎として埋め込まれている要素でしか
ない。

だから 人の認識には限界があると言うためには 《認識し得ない物自
体 と 認識形式を介した認識された対象》と捉える必要はない。本体
と仮象だと言えばよい。


★ やはり“心”というものをじっくりと見つめてみるからではないでし
ょうか。
☆ いいえ。のちに出てくる《実践理性》つまりは《自由意志》につい
てそれは いまの《物自体》があるからこそ 成り立つのだと言います。
これは決して《心》のことが分かった内容ではないのです。

もしカントの言うとおりだとしたらそれは 単に神を据えてそれに従う
というのと違わないのです。=(13)~(15)。



★ 私(わたくし)流にいえば、認識形式は心の形状の事。
客観物は心の形状に従って、模写される。
それ故に“事実”は事実としては認識されない。
だから仮象、といわざるを得ない。
☆ 意味不明です。《心の形状》って何?

お礼日時:2018/09/24 18:21

人の固有の心はたぶん、一人としておなじ心の人はいないでしょう。


体は機関として同じ構造をし、同じ働きをしていると云えますが、外見だけでも目鼻立が違えば体の大きさも違うように、心の働きはほぼ共通であっても、その内容は皆違うはずです。
私が心の状態を、曇っているとか歪んでいるとか云うのは完璧、或いは完全無垢な心などないと思うからです。生まれつき傷を負ってしまっている心もあるでしょう。のちに傷つくこともあるでしょう。ただここで想定しているのは、心の本体と云ってみたいようなことに付いてです。

客観なるものを認識する心は、明鏡止水と云えるような状態、いや形体ではないと思っているのです。湖水の水面にさざ波があれば、映る影もそれなりのもの。決して真実を映し出しているのではないのです。

認識とは、自分の心を見ることに他なりません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


ですが 問いは:
☆☆ なんで《物自体》なんていうものを言いだしたのか?
☆ です。

★ 客観なるもの〔を認識する心〕
☆ で済むはずです。


★ 客観なるものを認識する心は、明鏡止水と云えるような状態、いや形体
ではないと思っているのです。湖水の水面にさざ波があれば、映る影もそれ
なりのもの。決して真実を映し出しているのではないのです。
☆ 《客観なるもの》は 心にさざ波があれば認識できないのは言うに及ば
ず 《明鏡止水と云えるような状態の心》でも認識し得ない。ということで
しょうか?

だから その客観なるものを《物自体》と呼んだということですか?



――だとすれば いちおう辻褄が合います。

それに その客観なるものを叡知界と呼んで それを体現するならば ひと
は自由に到る。というのも うべなえるかに見えます。



ただし 理論理性で認識しえなかった物自体――客観なるものについての叡
知――を 実践理性(自由意志)は 知り得るのか? または 知り得ずと
も 何らかのかたちで体現し得るというのだろうか? なぜか?

不思議です。

お礼日時:2018/09/24 20:08

カントが叡知界と云わざるを得ないのは、神のみぞ知るという気持ちがあったのではないでしょうか。

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この回答へのお礼

そうですかねぇ。ご回答をありがとうございます。

じつは この――《実践理性(≒意志)》の――話は 苦手です。

定言命法とか いかにもわたしの性に合いません。

ですけれどもですが:
★ 神のみぞ知るという気持ちがあったのではないでしょうか。
☆ という理由は どうなんですかねぇ。

▲(カント:素質としての形而上学) ~~~~
https://qlocozy.com/western-philosophy/kant-06/
(あ) カントは、理性の正当な対象である経験可能な世界を「現象界」と呼び、
一方、経験不可能ではあるが存在を否定できない「物自体」が属する世界を「英
知界」(「叡智界」)と呼んだが、

(い) それでは、人間は理性によって英知界に関わることができないのであれ
ば、どのように関わればよいのかという疑問が生じる。

(う) この疑問に答えたのが、『実践理性批判』である。

▲(カント:格率と実践的法則) ~~~~
https://qlocozy.com/western-philosophy/kant-07/
(え) カントは、理論理性が現象界の法則を把握する役割を担うのに対して、
実践理性は英知界の法則を捉える役割を担うと考えたのであり、

(お) 理論理性の力が及ばない英知界との関わりを、実践理性を通じて求めた
のである。
・・・
(か) 「実践的法則」
この「実践的法則」は、・・・客観的な原則で、・・・すべての理性的存在者に
通用する原則=「道徳法則」である。

(き) ・・・カントによれば、人間は、みずからの“自由な意志”によって努力
しなければ実践的法則に従うことができないのである。

▲(カント:定言命法と仮言命法) ~~~~~~
https://qlocozy.com/western-philosophy/kant-08/

(く) 『実践理性批判』において次のように述べられている——

「君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行
為せよ。」

(け) これは、“自分の行為の原則が常に誰もが従わなければならない原則に合
うように行為しなさい”という意味である。

(こ) 道徳は、状況や条件によって左右されてはならず、無条件の命令や義務
でなければならない。
~~~~~~~~
☆ これで埒が開きますか?

お礼日時:2018/09/27 14:27

カントはついに神の心を感じる事が出来なかったか、或いは感じようとしなかった、なのでしょう。


それ故に、叡知界を無理やりに理的に解釈したのだと思います。

これでは埒は開かないと思います。

もっと素直に、私のように、人の心は宇宙の本体・霊体の心と本質は同じなんだと、受け止めるべきでした。
霊体に慈悲の涙があるからこそ、我々の心にも思いやりの涙を流せる働きがあるのだと。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ カントはついに神の心を感じる事が出来なかったか、或いは感じようと
しなかった、なのでしょう。
それ故に、叡知界を無理やりに理的に解釈したのだと思います。
☆ ああ。ええ。おそらくそうだとわたしも思います。


少々センセーショナルな議論ですが たとえば次のごとく。:
▲(近代哲学の陰謀) ~~~~
http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=../qa …

近代哲学の基本の枠組みは、カントによって編み出された。

彼は、「叡智界」と「現象界」を分け、「叡智界」について人間は科学に
よっては認識できないので、人間の確実な知識を「現象界」に限定しよう
とした。

つまり、平たく言えば、「天国や霊のことは科学では分からないから、そ
れらは宗教者にまかせて、我々は、地上のことについて考えよう」という
ことだ。
・・・
カントは、神の支配する領域と人間の支配する領域を分けたので、一見す
ると、神にも支配権が一部与えられたように見える。しかし、彼の人間中
心教は、神の領域までも侵食した。

つまり、「神が有益であるのは、人間が必要とした場合だけである」と宣
言することによって、彼は神の首をちょん切ったのだ。
~~~~~~~~~~


まことにわたくしも:
★☆ これでは埒は開かないと思います。

★ もっと素直に、私のように、人の心は宇宙の本体・霊体の心と本質は
同じなんだと、受け止めるべきでした。
☆ やや深入りし過ぎているかに思われますが たぶんそういうことだと
わたしも思います。

★ 霊体に慈悲の涙があるからこそ、我々の心にも思いやりの涙を流せる
働きがあるのだと。
☆ 文学的な表現のようですが 言わんとするところは そのようなのだ
と同感します。


互いに同じ見解に到ったでしょうか。


つまり 物自体=英知界は いったいどうなったんだあ?

お礼日時:2018/09/27 20:50

ブラジュロンヌさんが提供してくれた情報からだけですが、私のカント感がさほど狂いの無いものであったようなご返事をいただいて、ちょっと嬉しくなりました。



いつも勉強しています。
有り難うございます。

“お楽しみはこれからだ”と云うことで、どうぞよろしく。
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この回答へのお礼

こちらこそ よろしくどうぞ。
ご回答をありがとうございます。

前回 《カントが 神の首をちょん切った》といった議論を引用しました
が ちょっと片寄っているかも知れないので バランスを取って次の議論
をもかかげます。

▼(木田元 反哲学史 ) ~~~~~~
http://www8.plala.or.jp/hkino/file5-6.htm
10 物自体と現象の直観と思考のカテゴリー

カントは神・世界・不滅の霊魂といった現象として現われ得ないものは、わ
れわれの認識の対象にはなり得ないから,それを議論しても始まらないと
いった。

ハイネはこれを,「カントは神の首を切り落とした」といったが、カント
は「信仰に席を空けるために」神を理論的認識の対象として扱うことを否
定しただけであって、信仰自体を否定したのではなく,信仰を純粋に信仰
として生かすために,知識の及ぶ範囲を限定したのであった。
~~~~~~~~~~~

☆ ただ 信仰のあり方についてどう言っているかは あまりよく分かり
ません。《理性信仰》と言われてはいます。

お礼日時:2018/09/27 21:48

デカルトはカトリック


間とはルター派は上着とか福田と思ったのですがいたのですが、

聖書のアダムの創造に関して
川の衣をかみがきせたの

包皮なのでしょうかね。発送がすっかりそんな感じになって

げんぶ
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