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欧州史における古代・中世・近代の時代区分と、日本史における時代区分(江戸時代など)の対応を教えてください。
古代は日本でいう何時代〜何時代という風な感じでお願いします。

また、日本にも古代・中世・近代のような区分はありますか?

質問者からの補足コメント

  • 早速の回答、ありがとうございます。
    補足の質問失礼いたします。

    要するに、
    古代(ギリシャ・ローマ時代)=古代(奈良以前)
    という理解で良いのでしょうか?
    それとも、ヨーロッパ史でいう「古代」と日本史でいう「古代」は同じものではないのですか?
    おかしなことを言っていたらすみません..

      補足日時:2019/03/27 21:35

A 回答 (2件)

一例ですが。



日本では、
古代は平安時代の途中まで、
中世は平安時代の院政期から室町時代、
近世は安土桃山時代から江戸時代、
近代は幕末から昭和の戦前、
現代は戦後から。

これらは古代や中世といったものの定義や当てはめ方にもより、いろんな区分の考え方があります。
現在の教科書などでは上に書いたのが一般的だと思います。

地域ごとの比較ですが、たとえば
ヨーロッパの中世の始まりは5世紀ごろからで、日本は院政期ごろからなので11世紀ごろになります。
「中世」の意味を各地域に当てはめているため、開始時期は地域によって違います。
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ヨーロッパの場合だと


・古代:ギリシャ・ローマ時代(西ヨーロッパ滅亡までとするのが一般的)
・中世:カトリック支配下の封建時代
・近世:フランス革命以後の市民社会
となることが多いようです。

日本の場合
・古代:奈良以前
・中世:奈良、平安時代
となるようです。
・鎌倉~江戸
をどの時代区分にするかは論の分かれるところです。
というのは、日本の歴史はどうやっても
①奈良以前(記録のほとんどない時代)
②奈良、平安時代(貴族時代)
③鎌倉~江戸(武士の時代)
④明治~敗戦(明治政府)
⑤それ以後(民主国家)
に区分せざるを得ないからです。
ヨーロッパと違って単一国の歴史のため、時代区分がより明確なのです。
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このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
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辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
「朝鮮」と「和寧」のどちらが良いかを洪武帝(明の皇帝)に
選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
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ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
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価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



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 ↑
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 広い戦場で自分の名前をCMするのですから
 大きいことが要求されたのです。



当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
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>「年号」は「平成」とかのことで年そのもののことではないですよね?
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>大公は王族の王以外のものや分家の長などを指す

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ちなみに英語版だと以下のように書いてあります。
https://en.wikipedia.org/wiki/Grand_duke
>Grand duke (feminine: grand duchess) is a European hereditary title for either certain monarchs or members of certain monarchs' families. It is traditionally ranked in order of precedence below the title of emperor or king and above that of sovereign prince or sovereign duke.

英語版だと、「君主や君主の一族」の世襲称号とあります。
「~大公国」の初代君主が、どこかの王国の王族出身だったかといえば、そうではありません。どこかの王国の「大公」だった人が独立して国を作ったから「大公国」…ということではありません。その国の君主に「大公」という称号が(教皇や皇帝から)与えられたから「大公国」なのです。
例えばトスカーナ大公国は、元々は「フィレンツェ共和国」で、その実質的な君主の座にあったメディチ家が、16世紀になって、神聖ローマ皇帝から「フィレンツェ公」の称号を与えられてフィレンツェ公国となり、その後、教皇から「トスカーナ大公」の称号を与えられて「トスカーナ大公国」と国名を変えました。メディチ家はどこかの王族や分家の長ということではなく、フィレンツェとその周囲を実質支配しており、それに皇帝や教皇が君主としての称号を与えた、という形です。

「王族の王以外のものや分家の長」である「大公」は、むしろオーストリアのErzherzog(大公)の説明に近いような気がします。

>大公は王族の王以外のものや分家の長などを指す

Wikipedia日本語版の「大公」のうち「grand duke」の説明文でしょうかね。
ちなみに英語版だと以下のように書いてあります。
https://en.wikipedia.org/wiki/Grand_duke
>Grand duke (feminine: grand duchess) is a European hereditary title for either certain monarchs or members of certain monarchs' families. It is traditionally ranked in order of precedence below the title of emperor or king and above that of sovereign prince or sovereign...続きを読む

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魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
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そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
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家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
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