1. ▲ (《経験にかかわりのない認識》?) ~~~~~~~~~~~~
(あ) それだから(☆ 省略)《経験にかかわりのない認識》( a ) それ
どころか一切の感覚的印象にすらかかわりのないような認識が実際に存在する
のか
という問題は
少なくとももっと立ち入った研究を必要とし 一見して直ちに解決できるもの
ではない。
(い) かかる認識(= a )は 《ア・プリオリな認識》と呼ばれて 経験的
認識から区別せられる。
(う) 《経験的認識》( b )の源泉はア・ポステリオリである。というのは
その源泉が経験のうちにあるということである。
(I.カント:『純粋理性批判』 緒言 Ⅰ 純粋認識と経験的認識との区別
について 篠田英雄訳 1961 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2. 《ア・ポステリオリ(後天的?)な認識》( b )は ふつう一般に経験
している認識である。
3. 《ア・プリオリ(先天的?)な認識》( a )とは何か? なお分かりづ
らいというので 次に説明が成される。
4. ▲(すなわち 《ア・プリオリな認識》?) ~~~~~~~~~~~
(え) 《ア・プリオリな認識》というときには 個々の経験にかかわりのな
い認識というのではなくて 《一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識》
( a-1 )を意味するということにしよう。
(お) かかるア・プリオリな認識に対立するのが 経験的認識である。
(か) 経験的認識は ア・ポステリオリにのみ 換言すれば 経験によって
のみ可能な認識である。
(き) そしてア・プリオリな認識のうちで 経験的なものをいっさい含まな
い認識を《純粋認識》( a-2 )というのである。
(く) それだから例えば 『およそ変化はすべてその原因をもつ』という命
題( c )は ア・プリオリな命題ではあるが しかし純粋ではない。『変化』
という概念は 経験からのみ引き出され得るものだからである。
(同上・ibid. )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
5. ここからさらに詳しい説明が問い求められようとしているのだが――質
問の趣旨説明としては端折らなければならないとしつつ―― ここまでで何が
言えているのか? あるいは 何が言えていないか?
6. 【Q‐1】 《認識》とは 《われわれ人間の経験的な意志行為》では
ないのか? つまり (き)《経験的なものをいっさい含まない〈純粋認識〉》
( a-2 )は 果たしてあるのか?
7. ということは誰もが 《純粋認識ではなく しかも経験的認識と対立す
るア・プリオリな認識》( a )とは 何か? と考える。それには (く)が
こたえている。
8. つまり 予測としては 《純粋認識のほかに経験的認識をちょっぴりふ
くむ》のが ア・プリオリな認識だとなりそうだが だがしかし それはいっ
たいどういうものか? (え)の( a-1 )なる定義もある。
9. (く)《『およそ変化はすべてその原因をもつ』という命題( c )は
ア・プリオリな命題ではある》とは どういうことか? と問うことになるの
だが カントの見解の全体から言って なお問う前に考えておこう。ア・プリ
オリな《認識》ではなく 《・・・命題》だと言っている。
10. つまり (く)《『変化』という概念は 経験からのみ引き出され得
るもの》であるだけではなく 《原因や結果》もア・ポステリオリな経験認識
であるとわれわれは思っていたところ これが そうではなく 例の《認識の
形式》として ア・プリオリなカテゴリだということらしい。
11. 《因果関係》というものは ア・プリオリに(先天的に?)われわれ
認識主体たる人間にそなわっているカテゴリであるらしい。だから 人間は
《世界事実》を前にしてそこから刺激を受けこそすれ 対象たる事実の認識は
われわれが持ち合わせている《因果関係》という認識形式をそこに当てはめて
おこなうものだということらしい。逆(つまり 対象→認識)ではないらしい。
果たしてそうか? =【Q‐2】
12. ふたつの Q は 同じものであるようだが 真相をおしえて欲しい。
質問者としては 表題のごとく葬送をもくろんでいます。
A 回答 (10件)
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No.10
- 回答日時:
お礼をありがとうございます。
>経験にかかわらない認識(の形式)としての時間はあるのだ。あたかも経験的に起きている事象とはかかわらない層においては、純粋直観としての認識形式となっている。それは認識主体たる人間に備わっている。
そうであるならば、有限である私たち人間は、そこから、時空間の縛りから完全に離脱することはできません。しかし、もしかすると、信仰によって限定的に、物自体とのかかわりによって、時空間の縛りから逃れ、時間を超越し空間を移動することが可能になることがあるかもしれないと思いました。
以前、学んだことですが、苦しい状況に私たちは置かれることがあります。その苦しみを取り除いてくださいと祈るのでなく、自分の置かれたそのありのままを受け入れて、神を讃美する時に、絶対的な神の力が働いて、ものごとが好転していくのです。これは私たちの態度を変えるということ以上のものです。神を讃美するという私たちの言葉にも何の力もありません。その状況に働く力はすべて神から来るのです。
讃美は、後にそうなると思っていること、あるいはそう願っていることに基盤を置くのではありません。これが讃美する場合に守られる絶対的な「法則」です。私たちが神を讃美するのは、自分に起こるだろうと期待していることの為ではないのです。そうではなく、今のままの状況を受け入れ、自分の立場や状態のゆえに神を讃美するのです。
もちろん、結果として何かが起こるのは事実です。遅かれ早かれ自分のうちの、あるいは周囲の変化に気づくことでしょう。その変化というのは、かつては惨めに思えたその状況のただ中で、心からの喜びを経験することかもしれません。また、その状況が変わることかもしれません。
ただ、これは讃美の結果であって、讃美の動機となってはならないのです。
信仰についての語りになってしまいました。
経験にかかわらない認識としての時間、経験的に起きている事象とはかかわらない層において、純粋直観としての認識形式。それを考えていて、以前学んだことが思い浮かびました。
ご回答をありがとうございます。
むつかしい。と同時に 次のことは分かりました。
★ 苦しみを取り除いてくださいと祈るのでなく、自分の置かれたその
ありのままを受け入れて、神を讃美する時に、絶対的な神の力が働いて、
ものごとが好転していくのです。
☆ ヨブですね。
▲ (ヨブ記 1:21 ) 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろ
う。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」
☆ 日本人ふうに言えば 《本来無一物》に通じているでしょうか。
▼ (本来無一物) ~~~~
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa08/p …
本来無一物 (本来無一物)
何処惹塵埃 (いずれの処にか塵埃を惹かん)
~~~~~
☆ 少し表現を換えますが:
▽ 自然本性たる樅の木のみ。クリスマスツリーの飾りは要らない。
☆ 他人(ひと)には ゆづる。(ユヅリアヒ)。最終判断は ゆだね
る。
☆☆ >経験にかかわらない認識(の形式)としての時間はあるのだ。
あたかも経験的に起きている事象とはかかわらない層においては、純粋
直観としての認識形式となっている。それは認識主体たる人間に備わっ
ている。
★ そうであるならば、有限である私たち人間は、そこから、時空間の
縛りから完全に離脱することはできません。しかし、もしかすると、信
仰によって限定的に、物自体とのかかわりによって、時空間の縛りから
逃れ、時間を超越し空間を移動することが可能になることがあるかもし
れないと思いました。
☆ ここが むつかしい。コメントをしようにも もうすでに書き記し
た内容にとどまります。
考え続ける・・・ということに わたしは成りそうです。
《賛美》については いまも取り上げている《エリ エリ レマ サバ
クタニ》の主題があります。
なぜ見捨てるのか? なる問いは 詩編 22 で途中から賛美に変わりま
す。
しかも 結果は そのまま見捨てられるというものでした。
ひとつの読みは 《かれらは何をしているのかが分からない》というと
きには それもが赦されることを示すためには 犠牲になることが 一
回切りのわざとして採られた手段であった。・・・
でも これも(これが) むつかしいですね。
No.9
- 回答日時:
《『およそ変化はすべてその原因を持つ』という命題(c)は、アプリオリな命題ではある》とは、どういうことか。
この「変化」にしても、原因結果という「因果関係」にしても、私たちに先天的に備わっているアプリオリだということですね。経験に由来するアポステリオリではない。「変化」「因果関係」どちらも時間とは切り離せない。
汽笛さんの言われる時空間の無意識的認識ー潜在能力、が経験を一切含まないアプリオリとして働いているか。それは興味深いところです。
ご回答をありがとうございます。
▲ 《『およそ変化はすべてその原因を持つ』という命題( c )は、アプリ
オリな命題ではある》
★ とは、どういうことか。
▲ (く) ・・・『変化』という概念は 経験からのみ引き出され得るも
のだ
☆ すなわち――ややこしいところだと思うのですが―― 《変化が原因を
持つ》という認識(または判断)は 一方で《変化》を捉えているからには
その事象も事象を認識することも 《経験にかかわっている》。
他方では 《原因》を捉えていること(つまりは 原因と結果との関係を認
識していること)は――なるほど そのいま実際の事象に即してそこからの
刺激を受けてその内容を把握したことに違いないが それでも―― あたか
も純粋な形式として取り出した因果の関係としては その経験以前のアプリ
オリな直観形式なのだ。
つまり 《経験にかかわらない認識〔の形式〕》として時間はあるのだと。
★ この「変化」にしても、原因結果という「因果関係」にしても、私たち
に先天的に備わっているアプリオリだということですね。
★ 経験に由来するアポステリオリではない。「変化」「因果関係」どちら
も時間とは切り離せない。
☆ 《時間》も やっかいですね。あたかも経験的に起きている事象とはか
かわらない層においては 純粋直観としての認識形式となっている。それは
認識主体たる人間にそなわっている。
《変化》というようなもろに経験事象にかかわるようなものごとの認識は
基礎の層では 時間という形式が直観的にはたらき その上で現象の層では
知覚とそれの概念化としてのアポステリオリな認識が 得られるという構造
だ。と。
★ 汽笛さんの言われる時空間の無意識的認識ー潜在能力、が経験を一切含
まないアプリオリとして働いているか。それは興味深いところです。
☆ ええ。問い求めの過程としては わたしがアンチ・カントに片向いてい
ますので バランスをとって カント擁護の側から発言してもらっているか
と思います。
いまの時点で 言語能力(具体的には 統語形式にかかわる文法能力)が生
得的な(アプリオリな)ものだという学説からの類推は 微妙に異なる要素
があるとは思います。補足欄に――雑ですが――記しました。
No.8
- 回答日時:
時空間と云うものは、無意識的認識と云えるのではないでしょうか。
これは“学ぶ”ことによって、意識するようになる。・・・と。
これも、潜在能力と云えますね。
ご回答をありがとうございます。
★ 時空間と云うものは、無意識的認識と云えるのではないでしょうか。
☆ そう言える状態にあるかも知れません。――と同時にそういう《無
意識的な認識》を すでに:
① 《対象を前にして・それとの関係において》
② 《まさしくおのれの経験行為として》
おこなっている・・・とも言えますね?
★ これは“学ぶ”ことによって、意識するようになる。・・・と。
☆ つまり繰り返しになりますが 《意識せずに経験していた認識行為
を のちに意識するようになる》というのが 実際ですね?
★ これも、潜在能力と云えますね。
☆ 潜在能力が:
▲ (き) ア・プリオリな認識のうちで 経験的なものをいっさい含
まない認識〔つまり〕《純粋認識》( a-2 )
☆ としてはたらいているか? が問い求めの課題です。
対象との関係という経験と同時にではないか? という疑問です。
意識していない場合も 対象との関係の中に位置しているなら それは
経験行為であると思います。
No.7
- 回答日時:
「言語は特別な訓練なしに・・・」 ← これは解釈ミスだと思います。
言語こそは、父母や周囲の人たちから真っ先に学ぶ知的作業、と云えるでしょう。
云わば潜在する能力の活動ですね。
☆ (脳は文法を学ぶ)、です。
たぶん、ア・プリオリとはこうした潜在能力の事かも知れません。
ご回答をありがとうございます。
▲ 「言語は特別な訓練なしに・・・」
★ ← これは解釈ミスだと思います。
☆ そうですね。そのサイト氏の言い分は 水泳やピアノのように訓練す
ることなくといった意味なのでしょう。見様見真似だけでは 出来るよう
にならないと。
★ 言語こそは、父母や周囲の人たちから真っ先に学ぶ知的作業、と云え
るでしょう。
☆ 生活する日常性の中でまなぶ〔だけで習得できる〕とも言えますね。
★ 云わば潜在する能力の活動ですね。
☆ そうだと思います。
★☆ (脳は文法を学ぶ)、です。
★ たぶん、ア・プリオリとはこうした潜在能力の事かも知れません。
☆ ということになるかも知れないので 補足欄に少し――雑ですが――
書き込みました。
No.6
- 回答日時:
“種”に何かがある。
その何か?を、ここでは“内在するもの”と云う事にします。
その種の成長があらゆる生命になります。
動物や植物、昆虫。そして人間。
人間の“種”には人となるための“内在するもの”があるはずです。
子供は成長するに伴って言葉を覚えていきますが、文法を学ぶわけではないのに、文法通りに話せるようになります。単語から始まって、「てにをは」を覚え、意思表示ができるようになり、応用も可能となります。
これを人間としての能力、と云ってしまえばそれまでですが、人として“内在するもの”、何か?があるように思うのです。
言葉の学習は、文法に於いても経験認識と云えるでしょうが、その経験を受け止める“何か”にア・プリオリという言葉を当ててみたくなりました。
ご回答をありがとうございます。
★ “種”に何かがある。
その何か?を、ここでは“内在するもの”と云う事にします。
☆ はい。
★ その種の成長があらゆる生命になります。
☆ ええっと。アマノジャク・コメントが続きますが:
○ 生命が何らかの生命体となるとき たとえば《種》となっている状態
があり その成長がある。
☆ のでは?
★ 動物や植物、昆虫。そして人間。
人間の“種”には人となるための“内在するもの”があるはずです。
☆ DNAでしょうか。そして そこにやどる(?)生命。
★ 子供は成長するに伴って言葉を覚えていきますが、文法を学ぶわけで
はないのに、文法通りに話せるようになります。単語から始まって、「て
にをは」を覚え、意思表示ができるようになり、応用も可能となります。
★ これを人間としての能力、と云ってしまえばそれまでですが、人とし
て“内在するもの”、何か?があるように思うのです。
☆ これは 生得の言語能力だと言われています。
★ 言葉の学習は、文法に於いても経験認識と云えるでしょうが、その経
験を受け止める“何か”にア・プリオリという言葉を当ててみたくなりまし
た。
▲ (脳は文法を知っている) ~~~
http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/News …
§ ● 言語がすぐにしっかり身につく謎
やはり、言語を聞きわけ自らも話すための基盤を赤ちゃんは持って生まれ
てくると考えざるをえない。
いや、だったら人間の能力なんてすべて生まれつきの身体が基盤じゃない
か、と言うことにもなる。しかし、言語をたとえば水泳やピアノと比較す
ると、そこに一線が引けそうだと気づく。
赤ちゃんを水の中に放り込んでも泳ぎはしないだろう。ピアノをひとりで
に弾きこなすこともないだろう。ところが言語だけは、ほとんどの子供が
特別な訓練なしにしかも同一の水準にまで間違いなく達する。
言語はまっさらな頭で一から学習していくのではない。言語能力のなんら
かの原型が最初から備わっているに違いない。
~~~~~~
☆ N.チョムスキーという言語学者が考えたことですが これは特にはカ
ントの説にかかわらせているとも思えないようです。或る程度の反対説も
あるようです。
No.4
- 回答日時:
知識はここで云う、経験した事として扱われますか?
経験的認識と、経験した事による認識、とは違いがありますか?
およそ変化はすべてその原因を持つ、という認識は推理認識と云えませんか?
ご回答をありがとうございます。
★ 知識はここで云う、経験した事として扱われますか?
☆ 知識ですか? 知覚し認識した内容が 知識として 記憶されていきます。
体験した場合のも・ただ言葉として知ったという場合のも 含まれます。
★ 経験的認識と、経験した事による認識、とは違いがありますか?
☆ ええ。これは 互いに別です。
《体験した》には ただ言葉として知ったという場合も 入るとも言えます。
したがって そうして記憶している知識は 《経験した事による認識》のこと
です。
《経験的認識》は 認識の仕方を問題にしています。つまりはここでカントが
《経験にかかわりなく成立するア・プリオリな認識》――これが ほんとうに
あるかどうか わたしは疑っていますが――を立てたからには それ以外の仕
方で得た認識・つまり《ふつうに経験をとおして得た認識》を 《経験的認識》
と呼んで区別しています。
★ およそ変化はすべてその原因を持つ、という認識は推理認識と云えません
か?
☆ いや これは けっきょく《因果関係における原因から結果への変化》を
言っていますから その変化について 《推理・推測する場合》もあれば《何
らかの実験をやって認識を得ようとする場合》もあるはずです。
また 推理する場合にも 或る程度の《証拠》を得ることがあり得るはずです
よね。
こんなのでよかったですか?
No.3
- 回答日時:
4.《一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識》を意味するということにしよう、と云事は経験を通して得た認識がア・プリオリに変化する場合もおあるから、それはここでは排除して考えようという事ですか?
また、頻繁に「あるらしい・ことらしい」と云った表現をしてますが、これは篠田英雄の訳によればという事ですか?
ご回答をありがとうございます。
★ 頻繁に「あるらしい・ことらしい」と云った表現をしてますが、これは
篠田英雄の訳によればという事ですか?
☆ いえ。わたしは必ずしも理解し得ているか分からず 理解しているとこ
ろでは アンチ・カントの立ち場になりますので 《・・・らしい》という
ような言い方に成っています。
▲ 4.(え) ・・・《一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識》
( a-1 )を意味するということにしよう、
★ と云事は経験を通して得た認識がア・プリオリに変化する場合もある
から、それはここでは排除して考えようという事ですか?
☆ いえ。そうではありません。この( a-1 )は 次の( a-2)とほとん
ど同じだと見えるんですが つまり:
▲ 4.(き) ・・・経験的なものをいっさい含まない認識を《純粋認
識》( a-2 )という
☆ のと同じだと見えるんですが ( a-1 )は 《ア・プリオリな認識》
一般を言うことのようです。
要するに・つまり:
▲ 《一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識》( a-1 )
☆ なんていうのは いったいぜんたいこの世に あるんですかね?
だから 汽笛さんは いちど《経験的認識》となったものが《ア・プリオ
リな認識》に変化したのだろうか? と推理しようとしたわけだと思われ
ます。
おかしいですよね イマヌエルくんの思索は。
誰も言わないということは もっとおかしい。
No.2
- 回答日時:
ご見解とは、、、授業料が高すぎやしませんか?
半値ぐらいでお願いします。
まだ、聞きたい事があるはずですが、もう少し考えてみないと。
今は、使っているタブレットが電池切れ寸前なので、明日の休みにします。
よろしくお願いします。
あぁ そうすると:
★ 同時説(認識⇔対象)
☆ なのでしょうか?
おんなじなんですが。・・・
つまり カント(認識→対象)を反駁しているんですが。
ご回答をありがとうございます。
あっ。あっちの質問のほうは どうなったんですかね。
大先生の失態ですかね?
カントは:
▲ 分析的判断と総合的判断
☆ というのも おかしんですよ。
No.1
- 回答日時:
認識、に付いて。
物の存在を感覚で知る事。(生き物すべてが持つ能力)
これは感覚的認識、でいいですね?
また、先天的とか後天的と云った言葉に合わせると、同時的と云う表現でいいですか?
ちょっと違うかな?
先天的と云うのは“学ぶ”と云う経験を通さずに、元々その個体に内在した“認識しているもの”という事のようですね。
後天的というのは、“学ぶ=体験する”ことによって身に付ける認識材料のことですね?
経験的認識と云うのは、上記の体験を過去のものとした記憶の事、でいいですか?
また、経験的認識は記憶に保管された認識のみの事であって、同時的認識は含まないことになりますか?
ご回答をありがとうございます。
★ 認識、に付いて。
★ 物の存在を感覚で知る事。(生き物すべてが持つ能力)
これは感覚的認識、でいいですね?
☆ 《知覚》と〔も〕言います。(知覚は 理性による認識にも広げられる
ことがあります)。
★ また、先天的とか後天的と云った言葉に合わせると、同時的と云う表現
でいいですか?
☆ 《自然や社会をふくむ世界(これを 《対象》と呼んでいる)》と《認
識主体たる人間のわたし》との二つにかんして――わたしの考えでは――
互いに対等でどちらかが優位にあるとは思えない。その意味で 《同時》で
す。
★ 先天的と云うのは“学ぶ”と云う経験を通さずに、元々その個体に内在し
た“認識しているもの”という事のようですね。
☆ わたしは 微妙に違う定義をします。後天的に世界から・そしてその経
験から《まなぶ》とき そのハタラキまたそのチカラが 先天的に人間にそ
なわっている。《認識するチカラ》として 悟性とか知性とか 要するに大
きく理性が 生まれつきそなわっている。と捉えます。
★ 後天的というのは、“学ぶ=体験する”ことによって身に付ける認識材料
のことですね?
☆ 感性による知覚そして理性による認識 これらは 後天的に人間が行為
して獲得します。まなびます。体験します。知覚のおよび認識の内容が 後
天的に得られるものです。
★ 経験的認識と云うのは、上記の体験を過去のものとした記憶の事、でい
いですか?
☆ 記憶にしまう前に 知覚し認識したその時その場の内容(またその行為)
をもふくめてください。
★ また、経験的認識は記憶に保管された認識のみの事であって、同時的認
識は含まないことになりますか?
☆ その現在時と過去時とに分けることが出来ますが 両方ともを言うとす
るものと思います。
このあと ご見解が聞けるのですね?
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