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明から清へ変わるとき、どうして日本と貿易するようになったのでしょうか?それまで解禁をして商人たちが裏で出会い貿易をする程貿易禁止だったのに、、、疑問でなりません

A 回答 (3件)

#1です。

なるほど、すみません。
調べてみましたら、明は鎖国主義をとって、自由な貿易はできなかったんですね。厳しい貿易統制が敷かれ、その中でどうしても中国と貿易したい国は、朝貢と言う形を取った。。
そのため、勘合貿易と言ってもそれはごく一部の特権階級の利益にしかならず、それに不満の日中商人が密貿易を行いようになったと。

朝鮮出兵によって、日本の朝貢が途絶えたのち密貿易が盛んになり、明末には大量の明船が日本に来るようになっていて、盛んに交易活動をしていました(非公式)。

徳川幕府になると、家康はかつての公式的な朝貢貿易の形式を復活させようとしますが、その前に明が滅亡してしまいます。

引き続き、非公式ルートで日清間の貿易は続きますが、今度は日本が鎖国政策を取るようになったので、清の商人は長崎に来航して私貿易をするようになります。

公式に清との国交が開かれるのは、明治時代に入って日清修好条規を締結してからとなります。

ですから、清の時代になって急に日本と正式的に貿易が始まった訳ではなく、なし崩し的に(?)活発になってしまった、明末の日本との非公式貿易がそのまま引き続いた感じがします。

余談ですが、一方で清の方は、交易港を1港に限定しますがそれでも対ヨーロッパ貿易が盛んになってゆきます。
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明は海賊たる倭寇取り締まりや海外貿易を国家管理に置いておくため海禁策をとっていました。

日明間では公式ルートとして勘合貿易(朝貢のスタイルを取る)がありましたが、戦国時代に窓口たる大内氏の滅亡によってそれも喪われます(ので、倭寇が跋扈→海禁策強化という循環も発生)。
 清も発生当初は海禁を敷きましたが、江戸初期頃にその規制を緩和しました。また、朝鮮の役によって交戦状態になった豊臣政権から徳川政権に変わったため、交流もし易くなったのではないでしょうか(徳川期に入って対明貿易をやったような記憶があるのですが。。)
 よって、理由は日支双方に於ける政権交代と、それまで跡絶えていたチャンネルの復活ではないでしょうか。
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日本史にはイマイチうといのですが、確か明とは勘合貿易という形で正式に貿易していたと思います。

もちろん対等な関係ではなくて、日本が明に対して朝貢するという従属的形式ではありましたが。。

質問の主旨がそれとは違うところにあるのでしょうか。
お答えにならなくてすみません。
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