性格いい人が優勝

朝日の投書欄に数日置いて異なる2つの意見が掲載されたのを契機に自分なりに簡単に調べてみました。

ひとつは

「個性」との言葉の持つ肯定的な意味を突破口として、それによりいわゆる心のバリアフリーを重視する考え方。


一方は

社会にある様々なバリアが障害を障害たらしめているとして、個人の属性に過ぎない「個性」には、社会的なバリアを解決する責任に言及していないとする考え方。


自分は中途障害者で、この2つの意見では後者を支持します。先天性の方だと異なる意見があるかも知れませんね。どちらが正しいとかそういう問題ではないのですが、どちらを支持する方が多いのでしょうか?

あるいは、第3の意見?

A 回答 (3件)

わたしは、障害も含めたその人、というのが個性だと思います。



うちには、先天的な障害がある子がいるのですが、その障害がわかったのが6歳なので、
それまでは、(普通なのに)できないことが多すぎる ついてこれない困った子、しつけができてない子
と言う位置でした。

いまは、接する人のほとんどが、彼は障害持ちということを知っているので、
障害があるのに頑張ってる子、ということになってます。彼自身が変わったわけではないのに、対応は変わったと思います。だから、障害ということばが彼を助けてくれてるとも思うし、それに甘えずにしなくては、というのもあるのですが…

そして、最初は、障害があるこがきたらしいということで、最初は遠慮がちに なにをしてもおまけしてもらえてたけど、
だんだん、障害は障害なんだけど、○○君はこういうヤツだ。というのが知れ渡ると、
対等とまでは行かなくても、それはいかんよとか普通に注意してもらってるし、うちのこがさきにからかうような発言をしたら、シッカリ言い返されてます。

うちのこは特殊学級にいて、普通学級にも出かけてるんですが、
逆に、特殊学級にも普通学級の子が割と自由に出入りしてるみたいで、
普通学級の子が、黙って物を借りていった!といって、障害のあるこの方が、"ありがとう はいわないの?""ちゃんと返しにきてね"とおしえてるらしい。もちろんそれもありだと思います。

障害があるから 上だとか しただとか、お世話しなくっちゃじゃなく、
障害ゆえに特別なニーズがあるときもあるんだけども
○○さんは○○さん、として あたりまえに でいいのではないかと。障害が個性なんじゃなくて、障害と言う面ももってる、でもそうじゃないめんもある○○さんの個性、というのは、別の##さんの個性と、

異質だが同価値、であってほしいと私は思っています。

視力が悪い人に、根性で見ろ!というひとはいないと思います、
めがねがあれば見える、ならば、障害もそういうもので、ちょっと環境の変化や手助けがあることですごくたすかるという現実があれば、それをやってもいいというひとがあればありがたいし、
障害を持つゆえに得意なこと 珍しい経験 があればそれを 共有してもいいとおもうし…
誰でも年をとったり、急に障害をもつようになることはありうる、ならば、取り除いてもいいものがあるなら取り除く、ほうがいいと思います。

質問の答になっていなかったらすみません。
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この回答へのお礼

個人の心の持ちようとしては全く同感です。でも、私としては今そこにあるバリアを解決してくれとの思いがあります。

物理的なバリアの解決が先か心のバリアフリーが先か、それは鶏と卵の論理だと言えるでしょうか。

私が超然的で、自分の問題は他人が理解せずとも自分が理解していればいいと思いがちなのも理由にありそうです。

お礼日時:2004/12/12 21:38

「障害は個性」という言葉はyesでもありnoでもあると思います。


人間にとって、障害の部分が、生活や考え方に支障を持つかどうかです。

車椅子の人に、アルプスの少女ハイジというアニメのクララを求めるような人がいますが、殆んどの人は立てません。
ある田舎の観光地の駅で知的障害の子供が列車を待っていました。奇声をあげていましたが、売店の人も駅員も、他の乗客も普通に対応していました。

乙武氏は「障害は個性」という意見を認めません。「障害者だから・・・」という固定観念がバリアということです。
自己紹介で「自分は障害者ですから・・・」という人もいます。しかし、これは時と場合によって必要でもあり、不要でもあると思います。

境界線をひいて「この人は障害者」ということは福祉行政としては必要です。しかし人間同士としては境界線で分けるのはおかしいです。

私は手話を習っているのですが、「聞こえない人がいて、どういうコミュニケーションをとるか」となると真剣になれます。しかし、手話を単に覚えるだけでは解決しない問題もあります。聞こえないことの不便さと、「たかが耳が悪いくらいで・・・」とさげすまれる問題もあります。
聞こえない人は、聞こえないならではのキャラの部分がある(表情が大きいとか)しかし「どういう生い立ちか」で異なります。「聞こえないこと」というのが個性、というわけではなく、どう聞こえないか、聞こえないことでどういう生活になるのか、もあります。

「普通の生活」はどこのだれも求めます。しかし「普通」については人それぞれですね。動画の携帯電話は機種本体も料金も高いです。しかし手話で会話できるという部分があるということで、ひとくくりにできない問題です。
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その2つの意見は相反していないと思いますよ。


障害者本人は、
障害を個性と認識して、
前向きに取り組んでいったほうが良いし、
行政側は、社会に存在するバリアが、
その取り組みの妨げにならないようにすべきです。
両方とも大切であり、片方だけでは、
問題の解決にはなりません。
            
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この回答へのお礼

理想的には両立すべきだと思います。しかし、前者の意見は「だから障害は個性だ」となり後者は「ゆえに障害は個性ではない」となるんです。

「障害は個性」との観点からは正反対の意見になってしまいます。難しいですね。

お礼日時:2004/12/12 21:31

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