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数日後には終戦記念日。
両親の祖父母から戦争体験を聞いた事はありますか?聞いたなら、どんな話を聞きましたか?

A 回答 (9件)

自分から見て祖父母は戦争体験者だけど両親の祖父母は生きてないし戦争体験は殆ど無いと思う。

あったとしても徴兵されないから送るだけただ町民として竹槍訓練や鍋を提出したり千人針したと思うよ。主さんから見たときのおじいちゃんとおばあちゃんが祖父母、両親は主さんから見たお父さんとお母さん。両親の祖父母と言ったら私も小学生低学年の時言ったら笑われたから分かるけどわからないときは無理して話さずにおじいちゃんとおばあちゃんで大丈夫だからね。無理して難しい言葉使わなくて大丈夫だよ。
私の住んでる場所では疎開先として主に東京の方から。当時の長野県は男手が足りず上からの発表では東京から働き手が来るからという発表でした。対して東京の人には勉強もできるスカートも着れると言われたそうです。
この嘘がキッカケで長野県からすると東京の人が来たらなぜもんぺじゃないの?さっさと働いて?と勉強?うちの子も学校で勉強出来ないのに?
東京の方は、勉強も出来ない。洋服着たら怒られた。何故か働かせられる。田舎怖い。東京帰りたいと逃げ出す子も多かったそうです。お寺もそういった疎開した子を受け入れてスカート履かせて勉強をさせた所もあるそうです。でも東京の人は戦後長野県の体験談は、勉強させてくれなかった。働かされた。モンペじゃ無いと怒られた。長野県からすると、働きに来るとか言いながらタダ飯食って場所もとって嫌な奴という事で戦後しばらくは都会やよそから来るものに対して警戒心が強いという事です。上から言われた事をお互い信じてお互いに行き違いがあり、もしきちんと情報があれば長野県はちゃんとおもてなししたと思います。東京の方もお世話になってる分の働きをしてお互い仲良かったんじゃないかなと思います。
学校では江戸時代まで細かくやるけど、明治大正昭和は駆け足で自分で調べるしか無いので、レイテ、ガダルカナル、満州、シベリア、で調べると良いよ。
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まぁ…聞くすれば、食生活の事から聞け良い、人間生きて行くには、食べる事からと言うので、当時の食生活は、どの様なものであったか、何故

を送る事になったかと、話を広げて行く事が出来るから、当時の生活環境が、何れだけ厳しそうか、分かり易い‼️
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とても興味深い質問ですね。



母方の曾祖父は徴兵で不合格だった。
酒豪で酒が飲みてぇと、戦争のせいで好きな酒が飲めない!ガッデム!状態で終戦しても酒が高い…曾祖母にとって戦争より曾祖父の酒飲みたいコールが辛かった。
終戦しても闇で高い酒を買って曾祖母を怒らせて困らせて。

父方の曾祖父母と祖父兄弟が渡満したがロシア人から必死に逃げた。
集団自決しようかしないかで、偉い人と色々と揉めたそうです。
幸いにも全員生きて引き揚げが出来ました。
避難中子供達と逃げ続けるのは無理かもしれん、何度も何度も、中国人に預けた方が良いかもしれん。だけど、その後の混乱で会えなくなったら?あー、どうしようと悩んでいたそう。
祖父含めた子供達が一緒に逃げようと言ってなんとか日本に帰国出来ました。

それくらいしか聞いたことがありません。
取り立てて面白いエピソードはないです。
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祖父から沖縄の話を聞きました


亡くなるまで同じ部隊の方々どのご縁を大事にしてました
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移動する場所が敵にとっては戦略上はどうでもいいところだったらしくスルーされてばかりで一度も交戦することなく終戦を迎えたそうです。


後方に引っ込んでたわけではなく、ただ運がよかったんだそうで。
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・空襲で米国人パイロットが、操縦席でニヤッと


 笑うのが見えたそうです。
 それほどすれすれだった。
 チクショウと思った。

・東京大空襲で、見渡す限り真っ黒な死体の
 山。 
 トラックで、その死体を集めるのですが
 お昼の休憩時間は、その山の中で弁当を
 使った。

・出勤するとき、死体の山の中を歩いた。
 最初は遠慮して踏まないように注意していたが
 面倒臭くなり、バリバリ踏んだ。
 帰り道は、皆白い粉になっていた。

・空中戦。
 米軍機が落ちると、キャーキャー騒いで喜んだが
 接近するや悲鳴を上げて防空壕に逃げ込んだ。

・爆撃を受け、家が倒壊。
 その中から、頭を真っ白にしたおばあちゃんが
 出た来た。
 それ依頼、おばあちゃんは宗教にはまった。

・軍隊は楽しかった。
 上官のしごきはキツかったが、若いから
 たいして堪えなかった。
 それよりも、白米が腹一杯食えたのが嬉しかった。 
 一生軍隊にいようとおもって、憲兵試験を受けることに
 したが、終戦になってしまった。

・おばあちゃん。
 あの戦争で、私は一度も死体をみたことが
 なかった。
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両親、祖父母から少し聞きましたよ


祖父は上海、イタリアと任務に付きジャワ島で終戦を迎え数年捕虜として現地で勾留されてマラリアにもなったそうです、辛かったことや泣き言は一度も言いませんでした。また国への恨みも一つも聞いたことがありませんでしたね。

父は台湾で育ち本土で終戦を迎えましが戦争の辛い体験や憎しみなど一度も話しませんでしたが戦後の朝鮮人の狼藉に付いて語っていたことを一度だけ聞いたことがあります
祖母からは原爆のピカを見たと聞かされました

母は爆弾が落ちる中を逃げ惑ったそうです
ですが、怖かったのを今でも覚えているそうですが苦痛や国に対する恨みは聞いたことないです
母方の祖母からも戦争の話は聞いたことありませんが早死した祖父が体が弱く戦争へ行けなかったのを後悔していたと聞いたことがあります。

国民は洗脳されてたとよく言われますが
今の我々の時代と同じ目線で物事を考えてはいけないということだけは確かです
その時代にはその時代の生き方があり全てが悪だとは言い切れません
もちろん現代人の私もあなた同様に戦争は反対ですよ
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両親の祖父母って曾祖父のこと?


俺が生まれた時はもういなくなってた。

祖父母でよいならうちの母方の祖父が陸軍主計少佐だった。
陸軍の経理学校を出ていないのになぜ佐官になれたか、それはわからない。
南方に行き、部隊の物資の担当をしていたが、あるとき本隊に置いてけぼりにされてしまい、しょうがないから倉庫に(豊富に)残っていた物資でみんなとこりゃこりゃしていたということ。
戦後は現地でしばらく拘留された後復員したが職業軍人の公職追放に遭い、しょうがなく炭鉱の経理に。
そこで地獄の大ナタを振るったらしい。
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実祖父母からは、戦争体験を聞いたことはなかったですね。

戦後、焼け野原で大変だった、ということをちらっと聞いたくらい。

長野県にはダムが沢山ありますが、それらを建設するとき、朝鮮から沢山労働者を連れてきて働かされていたと、地元のおじいさんに聞きました。
現場監督が相当、こき使っていたので、敗戦後、開放されると、労働者から袋叩きにあったそうです。
徴用工のことなど、事実関係はよく分かりませんが、生々しい現実があったことは確かなようです。
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