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天正10年、本能寺で明智光秀は主君の織田信長を殺害しましたね。
この際、光秀の大義名文は何だったのでしょうか?
(動機が必ずしも大義名分にはなりませんよね)

A 回答 (1件)

検索してみました。






本能寺の変当日、天正十年(1582)六月二日付で光秀が美濃の
西尾光教へと送った書状に、

信長・信忠親子を討ち取ったのは、彼らの悪逆が「天下の妨げ」
になっていたからだとあります(『武家事紀』巻三十五)。

それを、「主殺し」という不義を働いた自身を正当化する言い訳だ
と言えばそれまでですが、「名分」として掲げていたことに間違いはないでしょう。

しかしながら、ただ「天下の妨げを討った。」と言われて自分に味方してくれると
光秀は思っていたのでしょうか。
やはり「名分」には「大義」が必要であったはずです。
それを窺わせるのが、続く文面の
  
其表之儀 御馳走候て大垣之城可相済候、

であり、「御馳走」という文言からは、光秀が自分より上位の存在への
馳走を求めていることが分かります。

すなわち光秀は、その人物に対しての「信長の不忠」を
唱えるべく謀反を起こしたと言えます。



ではその人物とは誰か。

将軍ではないでしょうか。
信長は将軍を利用し尽くしたあげく
ないがしろにしていたのは
天下周知の事実でしたから。



天正十年(1582年)6月9日、去る2日に本能寺の変を起した明智光秀が、
細川幽斎宛てに、最後の書状をしたためています。

•私が今回の「不慮之儀(本能寺の変)」を起したのは、
 ひとえに忠興君らを取り立ててやりたいと思たからで、
 それ以外に他意はない。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
多方面のカテで適正な回答を堤示されて活躍中のtanzou2様に、わざわざ検索までお手を煩わして、恐縮いたします。
1.名分として<彼らの悪逆が「天下の妨げ」>ということですね。
2.大儀として、おそらく将軍に対して<「信長の不忠」唱えるべく>なのですね。
3.そして、娘婿の<忠興君らを取り立ててやりたい>という思いもあったのですね。
残念ながら、大儀名分などが効果(軍勢を集める)を発揮できなかったようですね。

お礼日時:2019/09/25 02:44

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